#23
建物の中へ入る。主人公は息をのんだ。高い天井の近くまで、広い床の隅々まで、その空間は紙細工で覆いつくされていた。
淡く甘い色合いの、薄紙の花畑をクチュールは先導する。左手側には都会の景色が、右手側には田園の景色がある。壮麗すぎない、パルプの暖かみのある味わいでもって空間はそれらを表現していた。
腕の中で主人公はそれらに見とれていた。紙細工の作品は景色だけではなく、そこに住まう人物もたくさん作られていた。実際にどこかの街で会った誰かをモデルにしたかのような、現実的な姿の人物から、童話か歴史小説、またはSFなんかの挿絵を参考にしたと思しき幻想的な格好の人物までが、紙でできた原っぱや公園や埠頭で、みんな等しく静止し、雄大な作品の一部としてたたずんでいた。
クチュールは相変わらず黙ったまま、ふたりの先を歩いている。やがてひとつの紙の古城をこえ、他とは様子の違う場所へとたどり着く。そこはひらけた、しかし雑然とした作業スペースだった。
型を抜いたあとの紙きれが散らかっている床には、何百種類もの巨大なペーパーロールをうず高く積んだ山がいくつもそびえている。その中心にある広い作業テーブルには、見たこともない形や大きさのハサミが並べられていた。
クチュールは手近な卓上に紙の体を横たえてから、その作業台を囲むように何脚も置かれている椅子のひとつに着いた。テーブルの、彼女が座ったすぐ側のあたりには、主人公と似た肌の色をした、人形のパーツたちが無造作に置かれていた。司会者も主人公を抱えて、彼女のそばに近いひとつの椅子へと腰を下ろす。
「主人公ちゃん、ここの椅子に座っていられる? ずっと僕が抱っこしていようか?」
「……お願いしようかな」
「分かった、任されるよ」
言葉だけ聞くと幼子扱いされているかのようだったが、司会者が真面目に心配しているのは伝わっていたので、気分はあまり悪くはなかった。司会者は、彼の膝の上へ主人公を座らせてくれる。今の体調で背もたれのない椅子に座り続けるのは多分辛いので、これでいい。
「……」
クチュールはまだ何も言わない。焦点のうかがい知れない目を向けてくるだけだ。だんだん薄気味悪くなってくる。
「クチュール! 魂のない君が……そうだね。こうして僕たちを招くという、意思の片鱗の氷山の一角……を見せてくれたということは、えっと、僕の勘違いでなければ嬉しいよ」
司会者の言葉に主人公はさらに不安になってくる。彼は続ける。
「……そもそもはジェミリラが来て、借りていったんだっけ」
クチュールは仕掛け人形のようにうなずく。
「まあ彼女も……ギャラリストの言う通りにしただけなんだ。それは分かってほしい。それで、だ。この子が、その体を使っていた子。まだまだ痛みも癒えていないのに、君に直接会って返したいって言って、来てくれたんだ。しっかりした子だよ!」
「……は、はい。わたしです。体、ずっと借りてました。汚したり、壊したりしたことは……ごめんなさい」
主人公は話が通じているのかも分からないクチュールにようやく話しかける。彼女はほんのわずかに首をかしげた。頬にかかっていた髪がはらりと揺れる。遠い天井で白く輝く蛍光灯が、彼女の顔を照らしあげる。しわのはっきりしない顔だが、少し枯れたような雰囲気があり、あまり若くはないことが分かる。
「あなた……」
そして、ようやく口を聞く。初めて聞いた気がしない声だった。だが、あの女のそれはさほど特徴的ではない。似ているだけだろう。
「あの絵を、気に入るたちなのね。……つらい感性ね。素敵だわ」
そして続いたのは支離滅裂なセリフだった。クチュールは笑った。主人公は怖くなって、司会者を見あげた。大丈夫だよ、と司会者は耳打ちした。
「謝ります、どうか許してくれませんか……?」
主人公の声は少し震えていた。クチュールは何も答えず、笑顔のままでテーブルにむかい、四本の骨組みの腕を器用にふるいながら、小さなハサミで切り箔の散りばめられた銀の神を切りだし始める。ハサミの音ばかりが鳴る。話す言葉が見つからない。
「謝らないでいいですよ。お嬢さんのことは、なんとも思いません」
すぐに、手袋の形に切り抜かれた紙ができあがった。それはクチュールの手を離れると、みるみるうちに立体の、複雑なペーパークラフトの作品へと変化していく。
「その体は確かに私が作った。けれども私の作品は、私の手を離れてしまいますから。心を込めれば込めるだけ、それは遠くへ行ってしまう。奪ったそれを返してくれないままで……」
――ふと主人公は、紙の作品を切りだすクチュールを見て、ある話を思い出す。
「あ、あの……」
「どうかしましたか?」
不気味なクチュールに質問するのは怖かった。それに、もしかすると場違いで失礼な質問かもしれない。でもこの機会を逃すと二度と聞くことはできないだろうと思って、勇気を出した。
「うん、あの、聞かせてほしいことができたの。……あなた、芸術家さんよね?」
「あなたがそう認めるなら、私は芸術家に違いないでしょうね」
「だったら、何か知らないかしら。わたし、ギャラリストさんに聞いたの。この街に、見た人を殺してしまう絵があるって。……変な話だったらごめんなさい。でも、探しているの」
「……さあ。そんな絵のことは分かりません」
「そう……ううん、ありがとうございます」
「ええ、ごめんなさいね」
言葉をある程度かわしても、クチュールの瞳はどこを、何を見ているのか教えてくれない。アルミニウムの骨組みは、きりきりとした神経をかき乱す小さな音を時おり鳴らすが、それらは全く意図の感じられない雑音ばかりだった。
「あ。そうでした」
クチュールは紙とハサミをテーブルに置く。
「……ひとつ、あなたに伝えてもいいことがありましたね」
「えっ。ほんと?」
「あら、ごめんなさい。絵のことではないのですが……」
そして少し離れた場所へ置いた紙の体の方へ、そのうつろな瞳を向けた。主人公も視線を追う。それなりに見慣れたその体も、この空間ではすでにクチュールの作品の一部に戻り、主人公とはすっかり関係のないものになってしまっている気がした。
「復員兵さんがここへ来たのです。あなたが紙の体になってから、少し過ぎたころですね」
「そうなんですか? 復員兵さんってことは……わたしの頭で?」
「いいえ、あなたの頭は……その時は、使われていませんでした。自前の頭のある方が、おひとりで来られたんです。あいにく、あの双子の見分けが私にはつかないので、どちらの復員兵さんだったのかは分かりかねますが。そう、それで私に言ったのです。盗まれた人形を作り直すべきだ。できれば、あなたのお顔に近づけて。と」
「……わたしの?」
「はい。そして、あなたの頭を見せてくれました。私は、茶色い瞳をした、あなたの顔を覚えました。置いていこうか、とも言われましたけれど私は遠慮しました」
クチュールは、散らばるパーツのひとつ、丸い……まだ黒髪は貼っていない、人形の頭部を持ちあげて主人公に見せる。その顔には、光沢のある紙を切り貼りして作られた瞳があった。しかし……
「赤い目なのね」
「……そうですね。この体が必要となる場合が来るならば、最初からこうしておいた方が良いと、復員兵さんも言っていました。……あなた、彼から何か教えてもらえました?」
「何かって、どんなこと?」
「……」
うつろだったクチュールの視線が、やっと意思をもって動いた。司会者の方を見たと思う。
「ああ。僕はもうすぐ、司会者の権限を失う。気にせずに何でも話したらいい。というか君が……こんなに話すなんて思わなかった」
「私は、見知ったことをそっくり伝えているだけ。……そうですね。では、どこかの住所なんかを聞きませんでした?」
「え? 住所?」
復員兵に教えられたこととして、主人公が思い出したものは、世界の展望とか肉の檻とかいった、妙に象徴的な言葉だった。だからそんな……具体性のある話は意外でしかない。
「教えられてない……」
「あら、そうだったのですね。ならば、この話は何でもありません。気にしないでください」
「……」
もう焦点を失った、きょとんとした彼女の瞳の奥は空洞みたいで、とっくに意思は感じられなくなっていた。
「さて。ですので私は引き続き、この体を作らないとなりません」
「あの、でもわたし、もう帰るから……わたしの体を作ってくれているのなら、もう必要ないですよ」
「そうですね。しかし、私の作品から抜けたパーツを補う新品は必要ありますから。とりあえず、完成はさせないと」
「あ……そうね。ごめんなさい」
「いえ」
短い返事をしてから、クチュールはまた机に向かう。骨組みの腕は工場の機械のようにためらいなく、白い薄紙を切りだしていく。ずっと見ていられそうな作業だが、そんな気分にはとてもなれない。
「……主人公ちゃん。体は痛くないかい? 大丈夫?」
司会者はささやく。彼にはずっと膝に乗せてもらっていた。後ろから抱きしめられてもいた。体温のある体同士がくっ付きあっていた箇所には熱がこもっている。肌寒い場所なのに、そういった部分だけにはうっすらと汗がにじんでいた。
「司会者さんこそ、ずっとわたしを乗せていて、疲れなかった?」
「僕は元気が取り柄だから! 君が平気ならずっとこうしていられるけども……君はそろそろ車で休んだ方がいいかなって、思って」
「うん。そうしようかな。……失礼します。クチュールさん」
クチュールはもう相づちさえしなかった。細いハサミとアルミニウムの骨組みが、手際よく作業を進める音が聞こえるばかりだった。
再び主人公は、司会者の腕へと横抱きにされる。その視界の端に一瞬、小さなウサギの姿がちらりと映った。色とりどりの紙きれが散らばる床を、白くふわふわしたそれは逃げていく。ウサギは明るい蛍光灯の下にいるせいか、今まで街で見たウサギよりも形がはっきりとして見えた。跳ねるたび、床に伸びた黒い影もはずませて、それはペーパーロールの山の陰へと消えていった。
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