#22
車は郊外の、データ塔の影を目指して走っていく。メデューサの模様のマンホールがある、アスファルトの十字路を経由して進み続ける。先には道のない銀色の荒野がひらけている。これから返しに行く紙の体は、後部座席で帽子の隣に座らされていた。
「余計なことをするな。ただこの子を送り返せ。……とギャラリストは言ったけどね」
たいしたことない振動だって、麻酔を打ってメスを入れた手と、末端の切除には至らなかったが治癒に時間を要する、と聞いた覚えのある足には辛く響き続けた。こんなに痛いのは自分のせいだった。
「何をもって余計とするかは教えてくれなかったからね。……この寄り道はとっても大切なことなんだ。教訓めいた絵本では、悪者は報復を受けるという結末をつけなきゃいけないくらいには大切」
ドアミラーに映った街明かりが遠ざかっていく。もし街から出たら、自分はまずどこへ辿りつくのだろう。司会者は海の方へ行くと言っていた。ということは船が出ているのかもしれない。主人公が最後にさまよったダウンタウンに、海に続く川があったのだろうか。
「しかしこれを知っても、ギャラリストは……まあ、僕のやること成すこと全部がムカつくようならどうしようもないけど、そうでないのならあんまり嫌な気分にはならないと思う。君の、街との決別の意思とも捉えられるからさぁ」
記憶の終点にあるダウンタウンのことは、実はあまり知らない。遠くに住む父親が面会に来た翌日だった。主人公はこの体で無理に、歩けるところまで歩いて行った。痛み止めの効果が切れて、それでも病院に戻るのが怖くて、人の目を避けながら、とにかく遠くへ消えてしまおうとしていたのだ。
「……僕、これまで君を引きとめるようなことを言い続けていたよね。正直なところ、今は、何とも言えない。もしかすると、街から出ていく選択肢のある君が一番マシかもね」
「司会者さん」
「おや、真面目に聞いてたのかい」
「あなたはどこまでわたしを送ってくれるの?」
「……概念の海までだ。ごめんね」
「そこから先は?」
「僕には……分からない。誰かが待っているか、それか、ひとりか。……ごめん」
「そうなの。ここから出て、家に帰ってしまったら、わたし……」
「主人公ちゃん」
司会者は自分をその言葉で呼ぶ。何人かの他の住民も。だが、この街を出てしまえば、自分はもう主人公ではなくなる。人の子に憧れた雪の精霊のステップも、与えられたそのための衣装も、この手を離れていく。そうだった。父親が下宿を引き払い、主人公を連れ戻しに来ると電話してきた翌日だった。女優としての最後の思い出に、衣装を着た自分の写真を撮ってほしいと、見舞いに来た教師と妹分の子にせがんで……そのまま、病院の中を隠れながら、逃げ出したのだ。全部覚えている。見たものも、聞いたものも、感じた痛みも、どんな気持ちだったかも。あてもなく……いや、何かに誘われるように、遠くへ、遠くへ……
「司会者さん、あのね、ほんとは、もう、わたし……」
「ごめん。本当に……何にもできなくて」
肉の重たい体には、ぎっしり記憶が詰まっている。積みあげられた過去と痛みで満たされている。……大人の体はどれくらい重いのだろう、自分が大人になんてなれるのだろうか。
ヘッドライトのはるか先にある、データ塔の影を漫然と眺めていたはずだったのだが、主人公はいつの間にか、ハンドルを握る司会者の指を見つめていた。
「……クチュールの工房はもうすぐだ」
少し、車のスピードが落ちる。データ塔は通り過ぎていく。この先には工場の倉庫のような、コンクリートの大きな建物が並ぶ地帯があった。窓もない、無味乾燥なそれらは、それぞれ広い間隔を開けながら、荒涼とした銀色の土地に建っている。ピトフーイに抱かれて遠い空から見おろした時よりもずっと、その風景には寂しさを感じた。閉塞感が生じては、隙間を抜けて空に消えていくような虚しさがそこにあった。
車はすぐに、建ち並ぶそれらのうちの、とあるひとつの前でエンジンを止める。特に目印などは見あたらないが、司会者は迷うことなくその一戸を目指して運転していたようだった。ヘッドライトが消える。車内は一気に暗くなる。バックミラーが唯一の光源である月の輝きをきりりとはね返している。
司会者はしばらく車の中で、何もせずに座っていた。主人公もそうしていた。長いような短いような時間だった。
「……君も来るかい? 僕が返してこようか?」
「行きたい」
考えるよりも先にその言葉は出た。運転席のドアが開く。
「あんまり無理はしないようにね」
司会者は後部座席に手を伸ばし、銀色の帽子を取ってから車を出る。今になって、彼の複雑な衣装は運転するにはとても不便であったことに気づく。特に背中やわき腹にシーシャパイプが吊られているという意匠は、シートにもたれることができないし、まあ、……大変そうだな、とだけ主人公は思った。司会者は運転席のシートを倒し、後部座席に座る紙の体の手をつかみ、外へ引き出す。
「うーん。どうしよっかな。主人公ちゃん、……その足で歩ける?」
「……そうね、がんばってみるけど、あ、……待って」
彼が紙の体を持て余しているうちに、主人公は建物から誰かが出てきたのを目にする。司会者もすぐそちらを向いた。
開いた、ペンキのはげた鉄の扉の奥から光が溢れている。街灯のないこの一角では、その電光がとても眩しく感じられた。
……歩いてくる人物は、古い縫製工場の針子らしい出で立ちをしたひとりの女だった。黒いエプロンの紐をかけたその肩からは、不気味なほど細い腕が二本ずつ、計四本も生えている。まるで昆虫のようだった。主人公は特に、小さいころ標本で見た、白黒のまだら模様をしたカミキリムシに似た印象を強く感じた。
もう一歩、彼女が近づくと、その腕は歯車をむき出しにした金属のカラクリであることが分かる。ちゃちな、アルミニウムの光沢を放つ骨組みだ。
「やあ、クチュール。突然来てごめん」
「……」
少し風が吹いたらしい。クチュールの、くすんだ赤銅色の髪がたなびく。エプロンに貼りついていた何色かの紙屑が剥がれ、暗い荒野に舞って、落ちる。
「あのさ……これ、返ってきたよ」
抱きかかえていた紙の体を、司会者は彼女の方へさし出す。今にも折れそうな四本の腕で、クチュールはそれを黙って受け取る。
軽くお辞儀して、彼女は頭を上げる。表情はない。陶器の仮面のようだ。白い、年齢さえはっきりしないその顔をよく見るために、主人公は目を細める。しかし彼女の冷ややかな赤い目がどこを見ているのか、まともに察することはできなかった。
「……あの、ごめんなさい。クチュールさん」
車の中から主人公は声を出す。そうしながら、クチュールの背格好や立ち方に見覚えも感じていた。
クチュールは黙り続けていた。そうして一度、腕の中にある紙の体と、主人公の肉体とを見比べてから……建物の中へと入っていく。
「……」
扉は閉めない。入口近くで立ち止まり、陰からこちらを見ている。
「主人公ちゃん、……歓迎してくれてるみたいだけど、行くかい?」
……何を根拠に司会者はそう思ったのだろう。そして返事も聞かないまま、彼は助手席のドアを開け、主人公の体を横抱きにしようと身を乗り出してきていた。その流れで、ついでみたいに「行くわ」と答える主人公。謝ろうと思っていた相手、クチュールの招待なら受ける義理はあるので、答えは決まっていたのだが……。
だるい体を、まあまあ優秀な座り心地のシートに預け続けていたせいか、こうして他人に抱きかかえられるのも結構体力を使うものだと気づかされてしまう。せめて司会者の肩や腕をつかめたなら、もう少しは楽だっただろう。
魂の抜けた顔で待つクチュールのいる屋内へ、司会者は主人公を抱き歩いていく。ガラスをかち合わせる彼の足音は、細かな刃で何度も刺すように、主人公の体へくり返し響いた。
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