#21
――夢を見ている。灰色に染まりながらも清々しい朝の空。
真っ白な雪。綿のような、新鮮で柔らかそうな雪に、赤黒い血が落ちる。血は雪に沈み、渓谷をつくる。もろい綿雲が熱く重い赤を吸い、形を崩していく。
ベッドから起き上がることができない。どうやら自分は何日も横になっているらしい。まるで手首と足首に枷がつけられているかのように、そこから動けない。学校の先生と、医者と、警察にぐるりと頭上を囲まれる。……夢の中ではただ、この場所は天井が高く感じるな、くらいにしか思わず、その光景をぼんやり見ている……
アジトの、金庫が置いてある部屋へとふたりは戻った。それなりには重い子どもの胴体を抱えるギャラリストの歩みはぎこちなく、のろまだった。けれどもそれは、バネの右足でも決して転んだりしないよう、最大限の慎重さで歩いていたからこその遅さだった。
古いベッドに胴体を寝かせてから、ギャラリストは金庫を開けた。暗く冷たい金属の檻から、小さな頭、藤色の絹で包まれたままの脚が取りだされる。
傍らで、主人公は何度もありがとうと伝え続けた。それに対してギャラリストは、街を出た後の約束さえ果たしてくれればいい、と言って返した。約束とは、誰かのために働ける大人になれという、あの言葉のことだった。だが幼い主人公にとっては想像しにくい話なので、返事は、どうしても自信のない声になってしまっていた。
「……心配しなくていい。誇りを捨てず、人生を諦めない。それだけで充分なんだ」
不安そうにする主人公へ、ギャラリストはそう言った。今まで聞いた彼の声で、一番優しく、穏やかなものだったかもしれない。
「そう、勘違いしてはいけない。たくさんお金を稼いだり、人の命を助けたりするならば、それはとても立派だ。しかし、そうでなくとも……身近にある、自分にできることを少しずつ積み重ねていくだけで、人は充分に人らしくいられる。ほんの少しの思いやりさえ忘れなければ大丈夫なんだ。……堕落だけは、してはいけない」
「わたしにも、できるかしら……」
埃の舞う静かな部屋で、薄茶色にあせたシーツの上へと、白い衣装を着た体が並べられていくのを主人公はじっと見ていた。首は、小さな肩にぴったり収まる。脚は、パニエをめくった下の小さな腰にあてがわれ、ごく自然に定着し、重なるフリルのスカートからすらりと伸びる。眠る自分と対面するというのは不思議な心地だった。もうすぐ、元に戻るのだ。温かい生身の体を動かしていたころの感覚は、この街に来てからもうあまり思い出せずにいた。時間なんてさほど経っていないはずだった。
「できるさ。難しく考えなくたっていい。私は、君にはとても強い意志があるのが分かるよ」
「うん……」
「……失ったものを埋めてやれないのは、不甲斐ないと思っている。だが君が、懸命に生きる中で培ってきた……心の輝きは、普遍的で、きっと君や誰かの支えになる。……現に、こうして私は君を信じている。だから、君も私を信じて、待っていてほしい」
その言葉をもっとよく聞きたかった。こんなに近くで、あふれそうな気持ちをこめてギャラリストが伝えてくれているのに、どうしてだかその声は……ラジオから聞こえる朗読か、教科書の端っこの豆知識みたいに頭の中へと入ってこない。
「本当に……本当にありがとう。ギャラリストさん」
ベッドに身を乗り出し、熱くみずみずしい生身の頬に触れながら、ギャラリストを見あげる。視界をわずかにさえぎる、とても柔らかな薄紙のかすみの先に彼の顔が見える。
「ありがとうは、もういいんだよ」
ふたりとも表情を持たない。体温もない。本当ならば自分は今、どんな顔をしているのか主人公には想像がつかずにいた。体が震えたり、目頭が熱くなったりなんかして、なかなか声すら出せずにいるのだろうか。そんな気がする。そういうことにしておく。
自分の肉体に触れているうちに、主人公はだんだんめまいを覚えてくる。意識が遊離していくようなその感覚は心地のいいまどろみにも似ていた。視界が暗くなっていく。かくり、と一瞬意識が闇に落ちるが、主人公は、起きていようとあらがってみる。けれども、そうしていられたのもつかの間だった。
横たえられた女の子の隣に、同じ大きさをした紙の人形が寝転がる。軽く、もろい体が硬いベッドへ倒れこむその時、ギャラリストが冷たい手でそっと触れてきた。その手は緩やかに主人公の背中をなでた。主人公は身じろぎした、ような気がする。
――夢を見ていた。体が重い。まぶたさえも言うことを聞かない。
まさか、紙の体で見知らぬ街をさまよった経験も、全て一瞬の夢だったのではないか……という思いが脳裏に浮かぶ。主人公はおそるおそる目を開けてみる。
そこは暗かった。乾いた風の流れを感じる。横になっている主人公から見える明かりは、部屋に射す外の街灯だけだった。……ガラスの割れた窓が開け放されている。またしても、ここは街へ来て最初に目覚めたギャラリストの部屋だった。柔らかい枕に頭を乗せ、古いソファーで寝ていたのだ。
「……?」
街へ迷い込んだことが夢ではないのは分かった。だが、なぜ別の部屋のベッドで眠りに落ちたのに、ここへ移動させられているのだろう。主人公は起き上がってみようとした。
「……」
すると、体のあちこちが痛んだ。肉のある、重い体を動かすカンを取り戻さなければと思っていたが、これではそれどころじゃない。特に頭と両手が酷く痛む。両足からも痺れるような痛みを感じた。
「無理に動かないで。……大丈夫。目が覚めたんだね」
声は、主人公の頭のすぐ真上から聞こえていた。ささやいていた。よく確認するまでもなく、声の主が誰なのかは分かった。主人公はその人物の膝枕で寝ていたようだ。
「……この街を出るかい? 君の、生きている本当の体を治すことができるひとなんて街にはいない。外で病院にかからないとね。僕たちにできることは、その傷を忘れさせることだけ、」
……言いかけたセリフの続きが聞こえてこない。
「司会者さん」
「……ごめんね。ここにいるのが、僕で……」
窓の端に見えていた月の輪郭が、ぼうっと、にじんだように広がる。銀色の帽子のつばと、金のスパンコールを縫いつけた蝶ネクタイが、主人公の頭のすぐ上にあった。白い肌の、顎の下あたりには、黒と赤と青の混ざった痣がついていた。
「……僕が怖いんだよね、君は。分かっている。それでもこんな、余計なことをしたくて仕方なかったんだ。ごめんね……」
司会者は何もせず、ただ主人公に膝を貸している。ぴかぴか光る眼帯よりも、赤く潤んだ右目の方が、薄暗い部屋では輝いて見えた。主人公は、こうしてじっと見おろされることが、なんとなく初めてではないような気がしていた。
「大丈夫さ、僕は、君をちゃんと送り届けるから。そうするように言われたんだ」
「誰に?」
「宣教師様にだよ。ギャラリストはこれからの仕事のために、宣教師様に連れられて行った。……もうすぐ僕はお役御免になるね。まあ、その頃には君は……もういないか」
「そうね……わたし、帰るもの……」
そう言いながら、主人公は体を起こそうとする。とてもだるい。頭痛も腹痛もするし、何より両手が焼けつくように痛い。指の断面を覆い、手首まで巻かれた包帯からは、薬と古いにかわのような臭いがしている。……主人公が何とか上体を浮かせると、司会者は背中に手を添え、すぐに倒れこみたがる重い体を支えてくれた。
「君は、そんな体でここまで来たんだよ」
「うん。もう覚えてる」
「……、」
司会者は口の中で何かをつぶやいてから、急にソファーから立つ。
「どうしたの」
それからすぐに、主人公の体を横抱きで持ち上げる。彼のわき腹に吊られているシーシャパイプが、主人公の太ももに少しぶつかり、揺れて、音をあげる。主人公の体重が、全て司会者の二本の腕にかかっている。何も言わずに司会者は主人公を見ている。
それがちょっぴりおかしかったから、主人公は笑った。
司会者は窓の方へ少し歩いた。赤い月がよく見えるようになる。さっきよりも広がった、ぼやけて霞んだ月の暈の、手を伸ばせば触れられそうな、ふわりとしたその輝きに、体から滲みだした苦痛がほんのわずかに吸われたような、不思議な心地がしたかもしれない。
「ありがとね、主人公ちゃん」
「なんで?」
「笑ってくれて、ありがとう」
司会者も、ふっと笑った。
「じゃあ、行こう。お別れの場所は、この街の果てにある海だ」
「もう帰るの?」
つい、そう聞いていた。一刻も早く帰ることが、自分にとっては最善なのとは分かっている。あちこち巡ってお礼を言いたい気持ちもあるけれど、この体にはそんな元気もないし、……もう絶対に果たせない約束もあるし、おそらく二日か三日、通りすがっただけの主人公が突然いなくなったって、すぐに誰も何とも思わなくなるのは知っていた。
「ふふっ、なんだか不安そうに言ったね。……大丈夫。僕は本当に、責任を持って帰らせてあげるつもりだよ?」
「ううん。それは、分かるの。そうね、それより……そうよ、気になることもあるの」
「なんだい?」
月の窓に背を向け、開け放されていたドアの方へと、主人公を抱えた司会者は行く。
「紙の体はどうなったの?」
「ん、ああ。まだこの部屋にあるよ」
廊下に出ると司会者は、くいと顎でひとつの扉を示す。金庫のある部屋だった。その前で立ち止まってくれる。
「あれがどうかしたの?」
片足をあげて、太ももで主人公の体を支えながら扉を開けようとしたので、主人公は左手を伸ばし、そのドアノブを回すのを手伝う。
「あっ、ありがとう。大丈夫かい」
主人公はうなずく。小指と薬指のない、包帯の巻かれた手にドアノブが触れるのは痛かった。脈動がじんじんと響いていた。
ふたりは部屋に入る。奥にあるベッドの方を見る。そこには紙の女の子が眠っていた。……そのあまりに軽やかそうな作り物の体は、とても自分の意思で動きだしそうな何かのようには見えなかった。司会者はベッドの方へと主人公を連れて行ってくれる。
「君が使っていた体だよ」
「……わたしを抱いていて、重くない?」
「ん、どうしたの? 僕はまだまだ平気だよ。君、小さいし」
「そう、……わたしは、とても重く感じる。あのね、聞いていい?」
「何かな」
汚れを付着させたブーツや白い薄紙のフリル、そしてひしゃげた手袋を、司会者の腕の中から見つめている。
「この体、盗んできたものなのよね」
「そうだったね」
「……壊したり、汚したりしてしまって、本当にごめんなさい」
「あら、気にしなくていいのに。なんて、僕が言うことじゃないか。じゃあ持ち主には君がそう言ってたって伝えるね」
「それは誰?」
「クチュールっていう、……普通の、住民のひとり。まあ君ともう会う機会はないかな」
司会者は主人公を抱える腕の位置を少し整え、金庫の部屋を出る。
「じゃあ、行こうか。僕の運転で海までドライブだよ!」
そしてアジトの外へと歩く。初めての、血の通う肌で触れる街路の風の乾きの冷たさは、あまり悪い感じはしなかった。少し変わった角度から見る街。紙の体とは違い、衣類で覆われている部分とむき出しの素肌で感じる温度に違いがある。少しだけ寒かった。
「待って」
アジトを出てすぐの街灯の近くに、あまり大きくない自動車……水色のビートルが停まっていて、司会者はそちらへと歩いて行こうとしている。
「んん? 大丈夫だよ、僕、これでも運転結構できるから」
「車で行くのね? ……そしたら、どこにでも寄っていける?」
「なんだい? あいさつ回りでもしていきたいの?」
「あ、あのね。それもあるし、その……」
司会者は、抱えている主人公の体を車によりかからせ、器用に重みを分散させて助手席のドアを開ける。シートは埃っぽく、機械油を薄めたような独特のにおいがした。主人公はそこに座らせられる。さっきまで使っていたぼろぼろのソファーよりは座り心地がいい。
「わたし、あの体、返しに行きたいって、思ったの。……いいかな」
バックミラーには月明かりの欠片と、白くてふわふわした小さなものが路面を横切っていく様が映っていた。司会者は閉じた口の左端を、くっと上げて……主人公の髪をなでた。それから大きな帽子を脱ぎ、後部座席に置いた。
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