星月夜

霜原 佐月

真夜中

 ぱきっと音を立てそうに澄んだ空気で、肺が凍りつきそうに痛む。

 私は、白い息を吐きながら、足速に真夜中の町を歩いていた。

「木星、オリオン座……アルデバランがあるから牡牛座があの辺で、おおいぬ座とこいぬ座は……」

 1人で空を見上げながら歩みを進めていると、ぴゅうという音が耳元を走り抜ける。頬を刺すような冷たさに私は思わず首を縮め、「さむっ」と呟いた。リュックのベルトを握りながら、うぅと呻き声を上げる。

 街灯の青白い光に、星明かりと月明かり。

 それ以外は真っ暗な夜道に、ふっと温かい光と、食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。

 焼き芋? こんな時間に?

 腕時計を見ると、もう0時30分をまわっている。こんな時間に外を出歩くのは、それこそ不良と、超悪徳企業で働いているような人ぐらいだろう。まぁ、私はどちらにも当てはまらないけど。

 夕飯も食べたはずなのに、この寒空の元歩き続けて、自分でも気づかないうちに体力を消耗していたみたいだ。

 お腹が空いた。

 それ以上に、こんな気温の中でただひたすらに歩き続けていたら、それこそ凍え死ぬかもしれない。いや、歩きながら死ぬはないか。

 でも、と私は頭の中で自分の財布の中身を見る。

 私の今の全財産、56,000円。

 まだ出発したばかりの今、350円の焼き芋を買うのは果たして得策なのか?

 ダメだダメだ、節約しなくちゃ。

 そう己を律して、歩き出した。

 と、思ったのに。


「あざーしたー」


 あれ?

 私の手の中には、ほくほくと優しく湯気を立てる焼き芋。

 思わず天を仰いで、盛大に溜息をついた。

 あぁ、私の愚か。

 欲に理性が勝てなかった。


 そのまま棒立ちしている訳にもいかない。自分の財布事情が厳しいことに気づいたので、なんて訳のわからない説明をして返品するのも気が引ける。食べ物だし。

 諦めて、近くのベンチに座る。

 もう買ってしまったんだし、寒いし、冷める前に頂こう。

 芋を半分に割って、ふーふーしてからそっと齧った。

「うまー」

 思わず声を上げる。

 ほくほくしていて、皮までほんのりと甘い。あちぃ、うまいと言いながら夢中で頬張っていると、ベンチの横に人の気配を感じた。

「隣いいすか?」

 声を掛けられて顔を上げると、1人の男の子が立っていた。やはり彼も湯気を立てる焼き芋を持っている。

「…どうぞ」

「あざす」

 すとんと私の隣に座った彼を、焼き芋を食べながら横目で見る。

 歳は私と同じくらいだろうか。16〜17歳ぐらい。あごのちょっと下あたりまで伸びた髪を、ハーフアップでまとめている。

「名前は」

「…へ?」

「名前。俺は維月。あんたは」

「イヅキ、さん? えと、私、せ……星來」

「せいら。星に……来る?」

「ううん。ただの来るじゃなくて、旧字体」

 空中に文字を指でなぞりながら説明すると、彼は納得したように頷いた。

「星來、か。俺は、維新の維に月で維月」

「維月。かっこいい名前」

 私がそう言うと、彼は──維月は、少し照れたように笑った。

「こんな時間に何してるの?」

「そっちこそ」

「俺はね、放浪」

「ホーロー」

「適当に彷徨い歩いてる。ひと所に留まるのあんまり好きじゃないから」

「え、今日だけ? だよね?」

「いや、ずっと」

「家は?」

「知らね」

「学校は?」

「行ってない」

「仕事は?」

「バイト」

「ふーん」

 私の質問攻めが落ち着いたところで、今度は維月が私に尋ねる。

「星來は?」

「へ」

「何してるの?」

「……なんだと思う?」

「散歩?」

「まさか」

「天体観測」

「確かに星は見てたけど」

「じゃあ、家出」

「……飛躍しすぎじゃない?」

「否定しないんだ」

「……うーん、まぁ、そうだね。なんとなく出てきた。家出だね」

「そ」

 家出、と言ったところで、引き止められるとか、交番に突き出されるとかじゃなくて、私はなんというかほっとしていた。

「じゃ、行くか」

「え?」

 立ち上がった維月は、此方を見てにっと笑った。

「どーせ行くあてないんだろ? 一緒にふらふらしようぜ」

 黒い、丈の長いコートを翻らせながら、維月が悪戯っぽく笑う。

「……うん」

「おっし、しゅっぱーつ!」

 こんなテンションで私ついていけるのかな、その前に私この子の名前しか知らないけど、なんて思い始めた私は、維月が街灯1つ分も先に行ってしまったのを見て、慌てて後を追った。


「維月って、歳幾つなの?」

「17だけど。星來は?」

「16。……嘘だ、維月私より先輩なの?」

「何月生まれ?」

「8月」

「あぁ、じゃあ俺のが1つ上だね。俺10月生まれだから」

「うわぁ年上に見えない!」

「酷い。なんだ先輩に向かって」

「別に良いじゃん、1つ違いの友達ってことで」

「さっき先輩だと言ったのはどこのどいつだよ。それにしても星來、友達認定早くね?」

「そんなぁ。初っ端から呼び捨てにしてた人に言われたくないなぁ」

「……性格上の問題だと思わないわけ?」

 賑やかに話していると、寒さも幾分か和らいでくるように思える。

 私たちは住宅街を抜けて、大きな道路に出た。

「うおー、広っ」

「歩道あるの? と言うかこれ、どこ行くの?」

「歩道はそこ。行くあてはないから別に良い」

「そっか」

 自分が足を動かせば動かすほど、私が見慣れない景色に周りが変わっていって、私はなんとも言えない快感を味わっていた。


 もう1時を過ぎているというのに、びゅんびゅんと車が通り過ぎていくのを私は驚きながら眺めていた。

「なんでこんなに車いるの? 社会って私が思ってるよりもブラックに染まっているの?」

「おいおいお嬢さん、仕事が昼間だけだと思ってはいけないよ」

「夜の仕事ってやばいやつじゃん」

「清掃業も物流業もやばい仕事なのか?」

「あ、そっか」

 はは、と維月が声をあげて笑った。

「世間知らずだなぁ星來は」

「知る機会がなかっただけだよ」

「情報なんて今の時代、どこにでも転がってるだろ。インターネットとか、テレビとか、街頭モニターとか」

「新聞とか?」

「そうそう、雑誌とか、本とかな」

 そうか。私が下を向いていただけで、教科書や参考書以外にも学びの材料はどっさりあったのか。

「そういえば、維月って今どこで働いてるの?」

「パン工場」

「ぱん!」

「働いてるからって、食べ放題じゃないぞ。廃棄はもらえることあるけど」

「そのくらい知ってるよ。てかさ、こんなとこほっつき歩いてて良いわけ? 仕事は?」

「バーカ、今日は休みなんだよ」

「だよね、良かった」

 はは、とまたも維月が声を上げて笑った。

「何」

「いや、『だよね』って言うならなんで聞くんだよと思って」

 2人で顔を見合わせて、ふっと笑った。

 一度笑い出したらいよいよ笑いが止まらなくなって、くすくすと声を上げて笑う私を、維月はまじまじと見ていた。

「今度は何?」

「いや、笑うと可愛いなぁと思って」

「笑ってない時は可愛くないと言いたいのか」

 戯けて頬を膨らませた私に、維月が優しい目を向けて言った。

「違う違う。ただ、俺、星來が笑うのを初めて見たから」

「そうだっけ」

「そうだよ」

 人との会話が楽しいと思ったのは、私にとっては久しぶりの体験だった。

「ねぇ、あっち行ってみたい」

 私が指差したのは、大きい道路から脇に伸びる道。見たところ、山の中にある公園か何かに繋がっているようだ。

「山じゃん」

「うん、山」

「まぁ良いけど」

 維月がそう言って、私たちは暗い道に足を向けた。

「なぁ、星來」

「なに?」

 緩やかな登り坂がずっと続いている。

 月明かりが照らすその坂を、私たちは息を弾ませながら歩いていた。

「お前、家出してきたんじゃないだろ」

「……え?」

 動揺を悟られないよう、ゆっくりと口を開く。

「なんで?」

「星來さ、駅に向かう気だったんじゃないの?」

 なんで、と問う声が掠れた。

「軽装すぎるなぁと思って」

 そっと顔を上げると、維月は真っ直ぐに私を見ていた。

「家出だって言う割には荷物の量少ないし、その癖行くあてないんだろって言っても否定しないし。憶測だけどさ、自分の財布に入ってるほとんどの、いや、もしかすると全部のお金使って遠くに行って、そこで」

 維月が息を吸い込むのが分かった。

 私と維月の目が、ぱちりと合う。

「死ぬつもりだったんじゃないの?」

 下の方でトラックが通り過ぎるゴゥという音がした。私は顔を上げて、凛とした声を出そうとした。

「なんで分かったの?」

 でも、口から零れ出たその声は、自分でも情けなくなるくらい震えていた。


「……俺も同じだったから」

「え?」

「星來がさ、『なんとなく出てきた』って言ってたじゃん。俺も同じだったんだよね」

「今日?」

「ううん。えーと、半年ぐらい前かな。勢いで出てきたけど、行くあてなくて放浪してさ。彷徨いすぎて、そのうちそれが趣味みたいになっちゃったけど」

 寒さを防ぐために被った白いパーカーのフードの奥から、維月の寂しそうな笑みが覗いた。

「俺さ、兄貴がいるんだよね」

 私が維月の方に顔を向けると、維月も私を見て、壊れそうに笑っていた。

「兄貴は優秀でさ。俺は莫迦だから、どんなに頑張っても兄貴には追いつけなくて。親も兄貴にばっかり期待して、俺を兄貴と比べて、俺を見てくれないから。なんか、ここにいるの俺じゃなくても良いなって気づいちゃって。気が付いたら、真夜中に家を出て、電車に乗って、映画とか小説に出てくる逃避行みたいな感じで。行けるところまで行って、疲れたら死んじゃおうと思って」

「でも、今日まで来られたんだ」

「うん、そうだね。色んなところ転々として、働いて飯食って、ふらふらしてたらなんか、今日まで生きてた」

「いまも、死んじゃおうかなって思う?」

 訊くと、うーん、と考え込むように唸ってから、にっと維月が笑った。

「ここ半年、がむしゃらに生きてきたからかな。今は、あんまり思わないかも」

「そっか。じゃあ、ここで私がやっぱり死ぬって言ったらさ」

 維月が私の方に目を向ける。

「止める?維月は」

「うーん、止める止めないの前に」

「前に?」

「話を聞かせてって言うかな」

 自分の吐く息が微かに震えたのが分かった。

「……話を聞いても、維月に得はないじゃん」

「そうだね」

「なんで話聞くの?」

「誰かに聞いてほしいだろうなって思って」

「維月はさ」

「うん」

「なんで人と関わろうと思うの?」

「……寂しいじゃん」

 維月の横顔が月明かりに照らされて、物悲しげに見えた。

 息を吸い込む。

「じゃあさ」

 維月が私の方に顔を向ける。

「上まで登ったら、私の話、聞いて」

 維月の双眸が、ふっと柔らかく微笑んだのが見えた。

「わかった」

 維月が、にっこりと笑う。

「話、聞かせて」



 いつの間にか緩やかな登り坂は終わっていて、私たちは息を荒くしながら空を見上げた。

「「うわぁ……!」」

 満天の星空。

 その中に煌々と輝く、半月。

「すごいね」

「うん。星月夜だ」

「それは秋だよ」

 ふふっと笑うと、維月は「そうだっけ」と首を傾げた。

「聞いても良い?」

「うん?」

「なんで、死のうと思ったの?」

 山の上に広がる原っぱに腰を下ろして、維月が此方を見た。

 私も維月の隣に腰を下ろして、空を見上げる。

「なんていうか、ね。特にきっかけはないんだ」

「え?」

「1年ぐらい前にね、お母さんが事故で死んじゃったの」

「……そう、だったんだ」

「うん。すごく教育熱心で、私はいつもお母さんに『貴女なら出来る、頑張って』って言われて、言われるがままに勉強してたんだ」

「疲れなかった?」

「疲れたよ。風邪引いても、くたくたに疲れ果てても勉強してたなぁ。良い点取ればお母さんは喜ぶし、悪い点取るとお母さんは怒るから。いつしか私ね、お母さんの為に勉強して、お母さんの幸せの為に良い点取れますようにって、思うようになってた。私の行動全部に、『お母さんの為』って前置きが付いたの」

「うん」

「そうやって頑張ってきたのに、お母さん、呆気なく死んじゃうんだもん。お父さんは仕事が忙しくて私となかなか顔合わせないし、休みの日はどこか行ったりお酒飲んだりしてるから、私は私を見てもらえない」

 私の目は空をちかちかと飛んでいく飛行機を追いかけていた。あの光は、そして私は、どこに行くんだろうか。

「お母さんが死んじゃってから、なんでか分かんないけど、いくら勉強しても点が取れなくなってきちゃってさ。勉強できなかったら、私は私じゃなくても良いでしょう? だからなんとなく、あぁ、お母さんのところに行こうかなぁって」

「……なんで、お母さんのところに行こうと思ったの?」

「だって私、また誰かが居なくなる度にどんどん勉強できなくなっていっちゃって、頭悪くなっていっちゃったら嫌だから。でも人と関わらないようにすると、自分がいるのかいないのか分からなくなるからね。あ、別に私、ここにいなくてもいいなぁって。で、一番楽そうだから死ぬことにした」

「そっか」

 維月がほぅと息を吐く。

 それは白く残って、すぐに夜の闇に溶けていった。

「星來。完全なる第三者である俺の気持ちとして聞いてくれ。お前が死ぬのは、勿体無い」

 私は驚いて維月を見た。勿体無い?

「『ここにいなくてもいい』からって、死ぬのはあまりにも勿体無い。『ここ』にいなくてもいいなら、別の場所に行ってみれば良い。『勉強』しか自分の存在価値が見出せないなら、自分の好きなもの、他にも得意なものを探してみれば良い。それも知らずに死んじゃうのは、勿体無いよ。それが、半年間のらりくらりと生きてきた俺の気持ち」

「好きなものに、得意なこと? 私にあるのかな? 維月だったら何?」

「うん、きっと星來にもあるよ。俺はね、歩くのが好き。で、絵を描くのが得意だ」

 維月が続ける。

「星來はさ。家に帰りたいって思う?」

「ううん。……なんで?」

 不思議そうな顔をした私に、優しい笑顔を向けて維月が言った。

「どうやら月と星は一緒にいると映えるみたいだからさ。星來も、俺と一緒に探してみるか? 好きなもの、得意なことを、明日からも。」

「星來が良ければだけど」と、初めて会った時のようににっと笑って彼が私に手を差し伸べる。

 私は、不思議な胸の高鳴りを感じていた。


 明日。私には存在しないと思っていたそれは、思っていたよりもずっと近くで、思っていたよりもずっと眩く、輝いているものだった。

 何より、真夜中に出会って、私が諦めていた「明日」へ導いてくれたこの青年。

 彼と、維月と一緒なら、どこまでも歩いていけるような気がした。

 莫迦げている。

 本当に行き当たりばったりの、明日どうなるかも分からない、莫迦げた旅路だ。

 でも、星と月が、ずっと一緒に空で光り輝いているように。

 星來と維月も、ずっと落ちることなく、光り輝いていられるだろうか。

 怖くない、そんな訳はない。

 でも確かに私の目の前で輝きだした、希望。

 そうだ。

 行けるところまで、行ってみようではないか。

 がむしゃらに生きてやろうではないか。


「うん、そうする。探してみる」

 私は、力強く維月の手を取った。

「じゃ、これからもよろしくな、星来」

「うん。よろしく、維月」

 そう言って、顔を見合わせて、笑った。

 希望に満ちた笑顔だった。

 2人で空を見上げると、明けの明星が、東の空で力強く瞬いていた。

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星月夜 霜原 佐月 @Sathuki_Simohara

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