七章
ウルヴァンはロスバルクスの街を駆ける。全身を強化する恒常術式の効果で、その速度は自動車と遜色ない。
バクゥ一家の幹部六人相手に手間取りながらも、とうに退けていた。ヤクモの残していった鴉、カラスケの先導に従い、アリアたちの下へと急ぐ。
周囲にも気を配りながら進んで行くと、遠くにセラフの姿を見つけた。近くにはイエルゴの死体がある。
セラフィは怪我を負っているが、命に別状はない。
「何があった」
「……アリアちゃんとヤクモ君が、ガドウェントに連れていかれた」
セラフィが目の当たりにした事実を説明する。
「イエルゴを殺したのはガドウェントだ。どういう思惑があるのかは測りかねるけどね……ああ、それと変なことを言っていたな。私にはよくわからなかったけど」
「何でもいい。話せ」
ウルヴァンが続きを促す。
「ガドウェントは、雇用主はイエルゴじゃなくて他にいると言ってた。私たちを混乱させるにしても、もっとましな嘘を吐くだろうから、本当なのだろうね」
ウルヴァンは少し思案し、カラスケの方を見る。カラスケはウルヴァンを催促するように翼を羽ばたかせていた。
「ここに残していくが許せよ」
「わかってますとも。アリアちゃんたちを助けに行くんだろう? これ以上君に借りを作るわけにもいかないからね」
それに、とセラフィが続ける。
「私の部下に軟弱者はいない。今にバクゥ一家を片付けて、こちらに向かってくるさ」
セラフィは親指をぐっと立ててウルヴァンに向ける。
「ガドウェントは強いが、負けるなよ。頑張れ、男の子」
励ましのつもりらしい。ウルヴァンは立ち上がり、再び駆け出した。
ロスバルクス北部に位置するトムゲン門を抜けた先には、頂点に十字印を携えた礼拝堂。ウルヴァンが出たのは、教会の敷地だった。
「ようやく来たか。待ちくたびれたぞ」
ウルヴァンの姿を認め、ガドウェントが立ち上がる。
すぐ近くには術式で錬成された鉄格子の檻。中には、アリアと重症のヤクモが囚われていた。
遠目で見ても、ヤクモは限界まで痛めつけられているのがわかった。出血こそ止まっているが、左肩は抉れて無惨なことになっている。衰弱はしているが、咒士としての強靭な肉体を持つヤクモが死んでしまうことはないだろう。
戦士としての負傷。それはヤクモも覚悟していたことだ。今ウルヴァンが心配することではない。
それ以上に、アリアの様子が気にかかった。泣き腫らした目は虚ろで、現れたウルヴァンの姿すら映してはいない。明らかに異常だった。
「貴様、アリアに何をした」
「少々刺激的な光景は見せたが、俺自身は何もしていない。その娘が記憶の全てを取り戻しただけだ」
静かに、それでいて恫嚇するようにウルヴァンが尋ねると、淡々とガドウェントが答える。
「ようやくあんたと戦うことができる。そのためだけに、俺はこんな茶番のような仕事を引き受けた」
巌のような巨漢が、壮絶な笑みを見せた。
「貴様の行動原理には、不可解な点が多すぎる。俺と戦いたいだけなら、こんな回りくどい真似をする必要がない」
「そうでもないさ。今のあんたは怒りに燃えているのだろう? 俺には感情というものがないから、怒りで人が強くなるという感覚はいまいちわからんがな」
「そうか。貴様は、感情を奪われたのか」
そう言うガドウェントの左胸の呪印を見て、ウルヴァンが納得したように言う。
「生まれた時からずっとそうだ。どんなに美味いものを食っても、どんなに良い女を抱いても、俺の心が揺り動かされることはない。喜怒哀楽という感情を理解しないわけではないが、それに意味を見出すことができぬのだ。湧き上がる感情は他人事のようで、どこまで行っても俺の心を満たすことはない。ただ唯一、戦いの喜びを除いてはな」
ガドウェントは拳を握りしめる。丸太のような腕が隆起した。
「俺にとっては戦いだけが人生だった。第三特務分隊で幾度も熾烈な戦場を生き抜いてきたが、次第に刺激が足りなくなる。そんなとき、ふと魔が差して戦友を殺してしまった。その追手も殺すと、刺客はさらに増えていく。その全てを俺は撃破してきた。最高の日々だったよ」
ガドウェントは過去を想起し、闘争の歓喜に打ち震えていた。
「俺を殺すことは無理と悟ったのか、ある日からはたと狙われなくなってな。退屈の最中、今の雇い主が最高の闘争を用意すると俺に約束した」
ガドウェントの太い人差し指がウルヴァンに向けられる。
「それがあんただ、ウルヴァン=マックレガ」
「どういう論理の飛躍だ」
鬱陶しそうにウルヴァンが吐き捨てる。
「公式文書にこそ残されていないが、残夢の魔女を討伐した不死の咒士は第三特務分隊でも伝説として語り継がれている。まさか、本人に出会うことができるとは当時は夢にも思っていなかったが」
ガドウェントは雄弁に語る。
「俺の求める闘争の極致、あんたとならば辿り着けるだろう」
「下らぬ」
ウルヴァンはガドウェントの望みを真っ向から否定する。
檻の中にいるヤクモを見やる。その視線がヤクモの視線と重なった。
「話が違うな。アリアを守ると言っていたが」
ウルヴァンの指摘に、ヤクモが顔を伏せる。
「返す言葉もありませぬ。アリア殿の刃を名乗っておきながら、この様」
悔恨の念に苛まれているヤクモは、強く唇を噛み締めていた。
「悔しいが、拙者ではアリア殿の身も……心さえも守ることができなかった!」
気丈な東洋の剣士が嗚咽混じりに独白する。ヤクモの右手が格子を強く握っていた。
「恥を承知でお頼み申す! どうか、ガドウェントを打ち倒し、アリア殿をお救いくだされ!」
「気に病むな。アリアを守れなかったのは、俺も同じことだ」
深々と頭を下げるヤクモに対し、ウルヴァンはそう告げた。
慰めの言葉ではない。どのような過程であれ、アリアを危険に晒した己自身にこそ責任があるとウルヴァンは感じていた。だからこそ、自分自身が許せない。
「もう一つだけ聞いておきたいことがある」
「話ならもう十分かと思うが、これ以上の口上が必要か?」
「真相を抱えたまま死なれては困るだろうが」
「言ってくれるな」
「聞きたいのは、貴様の雇い主とやらについてだ」
「契約内容は口外できない。俺なりの義理というものがある」
イエルゴを陥れておいて義理も何もないが、ウルヴァンは指摘する気にはならなかった。裏社会で生きていながらまんまと寝首を掻かれたイエルゴが間抜けなのだ。
「第一、そんなものを知ったところであんたにとっては何の意味もないはずだ」
「そうでもない。この一連の騒動には、明らかに異常な何者かの意思が介在している。それが、貴様の雇い主かもしれぬと思い至っただけだ」
ウルヴァンが言うと、ガドウェントの眉がぴくりと動いた。
「どうやら、蒙昧ではないらしい。違和感には気づいているようだな。イエルゴは全くと言っていいほど気づかなかったが」
「その言葉が聞ければ十分だ」
会話は終わりとばかりに、両者は臨戦態勢に入る。
「出し惜しみは無しだ。心ゆくまで死合おうぞ!」
「死ぬのは貴様一人だ」
先に動き出したのはウルヴァンだった。颶風と化して、ガドウェントに迫る。
「金の理、鉄の叡智、鋼の魂」
五つの楔が導く式には、見覚えがある。
「我が身は総て闘争のために」
術式が発動。ガドウェントの全身を鋼鉄が覆う。鉄をも切り裂くヤクモの斬撃を無効化する強固な防御。
「希うは灼滅の炎」
ウルヴァンも術式を展開。現出した四つの楔は、ウルヴァンの高速演算によって崩壊していく。
燐光が線となり、ガドウェントの足元に到達。地面が光り出すや否や、炎の柱がガドウェントを包み込むようにして発生。第四階梯、”灼炎大柱”の術式だ。
灼熱の炎の中から、何事もなかったかのように鎧を纏ったガドウェントが現れる。
「熱で焼き殺すのも無理か。その鎧は反則に過ぎるな」
ウルヴァンの見立て通り、そもそもの術式効果が低減されている。
ならば、とウルヴァンは続けて術式を展開。発動したのは、第一階梯”錬金”。ウルヴァンの両拳が鉄で覆われている。量も質もガドウェントの鋼鉄に比べれば、お粗末に過ぎる代物だった。
ウルヴァンがガドウェントに肉薄。互いの拳が届く距離。ガドウェントの突きが唸りを上げて迫る。ウルヴァンは左拳を突き出し、ガドウェントの拳にぶつける。
金属がかち合う衝突音が響き渡る。砕けたのは、ウルヴァンの拳の方だった。
しかし、ウルヴァンは打ち合いに負けると予測していた。ウルヴァンが吠えた。裂帛の気合を込めて、右手でガドウェントの頭部を殴りつける。
超硬度の鎧に全力で叩きつけられた手甲はやはり砕けてしまうが、ウルヴァンは再度”錬金”を発動。再び鉄に覆われた拳をガドウェントに叩きつける。
しかし、ガドウェントもやられるばかりではなかった。無謀ともいえるウルヴァンの攻めに乗じて、自らの打撃を叩きこんでくる。だが、ウルヴァンは怯まない。お構いなしと言わんばかりに、鉄の拳を打ち込む。手甲が砕けるたびに”錬金”を繰り返すという強引な技でガドウェントを攻め立てる。
打ち合いが続く。手数ではウルヴァン、一撃の重さではガドウェントが上だった。しかし、強固な鎧に守られたガドウェントと違い、ウルヴァンは生身。拳打の衝撃を受けたガドウェントの身体も無傷ではないだろうが、一度完成した”剛轟錬鍛鎧”を纏うだけのガドウェントと違い、”錬金”の術式を絶え間なく発動し続けているウルヴァンの方が消耗は大きくなっていく。だが、消耗戦なら分があるのはウルヴァンの方だった。
ガドウェントがウルヴァン同様、”錬金”の術式を発動。生成した鉄の槍を、ウルヴァンの腹に突き刺した。それでも、ウルヴァンは止まらない。腹に槍が刺さったまま、全力の殴打を繰り出した。その一撃に、ガドウェントの動きがほんのわずかな間だけ止まった。鋼鉄の鎧を纏おうと俊敏なガドウェントは、ウルヴァンから距離を取るように背後に飛んだ。
「これは返すぞ」
ウルヴァンは、腹に突き刺さった槍を無造作に抜き、ガドウェントに投げる。
「まさか、俺の”剛轟錬鍛鎧”を力尽くで攻略しようとする馬鹿がこの世にいるとは思わなかった」
喜色を含んだガドウェントの声。纏う鎧が剝がれていく。術式を解除したのだ。
「いざ、闘争の極致へ征かん」
ガドウェントの呪印が紅に輝き、拡張現実が急速に塗り替えられていく。ガドウェントの呪が発動した。
巨漢の姿が超高速で移動。ウルヴァンは直感で身を屈める。先ほどまで頭があった位置に、ガドウェントの突きが放たれていた。
左に出現したガドウェントの方へ身を捻り、軸を合わせようとする。
全身に衝撃。超高速のガドウェントの連打が、ウルヴァンに叩きこまれていた。
一発一発が尋常ではない重さ。咒士の中でも強靭な肉体を持つウルヴァンだったが、踏ん張りが利かない。
ガドウェントの攻めを遮ろうと突きを繰り出すが、次の瞬間には遥か後方に逃げられてしまう。
ウルヴァンが術式を発動。使い慣れた”撞破爆”の術式を紡ぐ。鎧を纏わないガドウェント相手なら、致命傷を与えうる。
「鈍いな」
術式の楔が砕けるよりも早く、ガドウェントはウルヴァンとの距離を詰めていた。剛腕の弾幕が、ウルヴァンの全身を余すことなく穿ち続ける。
ガドウェントが強く踏み込む。巨漢の全体重を乗せた拳が、ウルヴァンの身体を吹き飛ばし、街を覆う壁へと激突させた。
「不死の二つ名は伊達ではないな」
ガドウェントが”錬金”により、拳大の鉄片を生成。宙に浮遊し、その切っ先が崩れ落ちた瓦礫の中のウルヴァンに向けられる。
「いかん!」
絶叫は、ヤクモのものだった。
閃光が迸る。強化されたウルヴァンの目にも視認できない速度で、鉄片が射出。ウルヴァンの右胸に風穴が空いていた。
「ぐ、ふっ……」
不死とはいえ、無尽蔵に活動を続けることができるわけではない。致命傷を受ければ、当然通常通りには動けなくなる。胸に空いた風穴は復元を開始しているが、完全に傷が癒えるには相応の時間を必要とする。
「本当に死なぬものだな。今ので殺せなかったのは、あんたがはじめてだ」
胸に穴が開いている惨状を見て、ガドウェントはそれでも死なないウルヴァンに感心していた。
「今の一撃で理解した」
完全には傷が塞がっていないため、掠れた声でウルヴァンが言う。
「貴様の呪は、電磁加速だ。超高速の移動と攻撃を可能にするだけでなく、電磁加速で鉄片を撃ち出せば、あらゆるものを貫く砲となる」
「呪はその構成を読み取りにくいが、これだけ見せればさすがに気づくか。我が”超電磁瞬極煕”は、最強の力だ」
ガドウェントは自らの呪の正体を肯定した。
「厄介なものだ。遠距離から術式で攻めようとすれば、電磁加速による高速移動で発動の隙を狙われる。だが、近距離に活路を見出そうとしても、貴様自身が超級の咒士であり、打ち勝つのは至難の業。そこに電磁加速による怒涛の攻めが加われば、無敵だろうな」
ウルヴァンの分析は、絶望的な事実を確認するものだった。
「まだだ。この程度では満たされない」
戦いの中でしか逸楽を見出せない男が告げた。
「ウルヴァン=マックレガよ。いいかげんに回復しただろう。もっと俺を興じさせろ! 貴様の輝きを見せてくれ!」
凄絶なまでの闘志が圧力となってガドウェントから放たれる。
ウルヴァンが瓦礫の中から飛び出した。再び両者が互いを打ち倒さんと迫る。
だが、戦況は圧倒的にガドウェントの有利だった。術式を発動する隙は与えず、肉弾戦では超高速の拳打でウルヴァンを制圧する。電磁加速が可能とする高速戦闘は、術式で強化されたウルヴァンの獣のごとき運動能力でも追いすがることさえできない。
突きを打ち終えたガドウェントの右腕を、ウルヴァンが両手で絡めとった。そのまま、剛力で背負い投げる。地面に山のような巨体を打ち付け、そのまま抑え込もうとするも、ガドウェントの蹴りがそれを邪魔する。即座にガドウェントが体勢を立て直したことで逃してしまう。電磁加速に頼らずとも、ガドウェントの体術は一流だった。
そして再びはじまる一方的な蹂躙。ウルヴァンが不死の呪を背負っていなければ、すでに十回は殺されているだろう。
「不死の呪があろうとこの程度か! こんなものが俺の求めた好敵手なのか⁉」
戦いの高揚でガドウェントが猛る。その叫びは、どこか祈りのようでもあった。
「見せてみろ。あの残夢の魔女を葬った、その力を!」
再びガドウェントの手の先に、鉄片が生成。ウルヴァンへと狙いを定め、電磁加速砲が放たれる。それは、ウルヴァンの顔の左目から上を消し飛ばした。
脳を損傷。平衡感覚が揺らぎ、膝をつく。全身が地に伏せる刹那、残った右目が捉えたのは。
心を閉ざすアリアと泣き叫ぶヤクモの姿。
負傷で薄れていく意識が引き戻されていき、覚醒。興奮剤などでは比較にもならない鮮明さで、ウルヴァンの意識が冴え渡る。同時に、頭部の負傷が見る間に塞がっていく。
「貴様は哀れな男だ、ガドウェント」
「なんだと?」
「貴様は戦いの中でしか生きられない。他者を慈しむことができず、そのような在り方をこの世界は受け入れてはくれない」
ウルヴァンは淡々と述べる。ガドウェントもまた、ゼルギリウスの呪によって歪められた者なのだ。
「故に、貴様は何も得ることはない。貴様が誰かを愛することのないように、貴様は誰にも愛されない」
「そうだろうな」
ガドウェントは無関心な肯定を示すのみだった。
「闘争の逸楽。それが俺という存在の全てだ。誰に理解されることがなくとも、俺はただ闘争の極致へ至るのみ」
ガドウェントは確固として揺るがなかった。
「せめて俺が引導を渡してやる。それが先達としての務めだろう」
ウルヴァンの左胸に宿る呪印が鮮血の光を放つ。それはガドウェントのそれよりも激しく、鮮烈な輝きを放っていた。
「有り得ん」
ガドウェントの顔面に驚愕が張り付いていた。
「貴様の呪は、不死の呪では——」
「違うな。不死が俺の呪の効果とは一言も言っていない。不死は、死を奪われた結果に過ぎぬ」
拡張現実が塗り替えられ、ウルヴァンの呪が顕現。全身を紅の光が覆う。
ウルヴァンの視線は、アリアとヤクモを見ていた。
「守る者がいて、倒すべき敵は明確だ。今の俺は強いぞ」
ウルヴァンが纏う紅光が輝きを増した。
「ああ、そうか」
ウルヴァンの威容に、相対するガドウェントは穏やかな笑みを浮かべていた。
「俺は、この瞬間のために生きてきたのだな」
動いたのは、全くの同時だった。
「ウルヴァン=マックレガああああああっ!」
ガドウェントが電磁加速による高速移動。ウルヴァンの左斜めから同様に加速した右突きを打ち放つ。
だが、その一撃は空を切った。返しの拳がガドウェントをまともに捉える。一撃で、頑強なガドウェントが揺らぐ。その隙に、ウルヴァンの猛打が殺到。ガドウェントが苦悶に顔を歪ませる。
ウルヴァンの身体能力は、先ほどまでとは比べ物にならない程上昇していた。
ガドウェントの超高速の攻めに反応し、的確に反撃を行う。呪によって超強化された肉体が、ガドウェントの動きに反応し、それについていくことを可能としているのだ。
ウルヴァンが死を失う代わりに手にしたのは、強く願うほどに、強く求めるほどに、高まっていく力。
しかし、それだけではウルヴァンの呪は発動しない。発動条件に、ウルヴァン自身が死を想起することが必要だった。
不死であるウルヴァンが死を想起することはない。少なくとも、己自身のことに関しては。
しかし、今のウルヴァンには守るべき者たちがいる。倒れゆく最中、自身が敗北することで、アリアとヤクモに死の危険が迫ると考えた。それにより、死を想起するという条件を満たしたのだ。
ウルヴァンの呪は、”生死超克ノ理”。それは、ウルヴァンの感情に呼応して際限なく効果を発揮する。
速度で言えば、今なお電磁加速を利用するガドウェントの方が速い。だが、ウルヴァンは速度、力、耐久、そして反射速度までも限界を超えて強化されていく。それに加えて、ウルヴァンの積み重ねた戦闘経験が、劣勢から互角に、いや、優勢にまで状況を覆していた。
「いいぞ! 最高だ! これが、俺の求めていたものだ!」
暴力と暴力がぶつかり合う。もはや二人の戦いは、天災同士の衝突に等しく、何者たりとも割って入ることのできない激烈なものとなっていた。
互いに己の暴威をもって相手を捻じ伏せようとする。小細工など何もない。ただ、向かい合う敵を否定するために、己の方が上だと証明するために、拳を振るう。それは、原初にして究極の戦いだった。
ガドウェントはもちろん、不死であるはずのウルヴァンも動きが鈍くなってくる。それでもなお、両者ともに回避など考えてもおらず、真っ向からぶつかり合うだけだった。
膠着する戦いの中、ガドウェントの渾身の拳がウルヴァンを殴り飛ばした。距離が出来た隙に、ガドウェントは”錬金”を発動。戦車砲弾ほどの巨大な鉄塊を生成する。最大威力の電磁加速砲が放たれた。
ウルヴァンの超反応をもってしても、電磁加速砲を回避することはできないが、身を反らすことで、被害を左腕一本に抑えることができた。
ウルヴァンは全速で駆け出す。それを迎え撃たんと、ガドウェントが左腕を無造作に振るう。ウルヴァンは残された右腕でそれをかち上げた。
ガドウェントの反対の拳が迫る。超速の一撃をウルヴァンは紙一重で回避。ガドウェントはウルヴァンの反撃をすぐさま電磁加速による瞬間移動で、ウルヴァンから距離を取る。
冴え渡る思考で、ウルヴァンは術式を展開。二つの楔が砕け、鋼の槍が両手に握られた。
ウルヴァンが咆哮するとともに、全身を纏う紅の光が強く強く輝きを増す。そして、鋼の槍を投擲した。唸りを挙げて迫るそれを、ガドウェントは瞬間移動することで回避。しかし、すでにウルヴァンは二本目の槍を生成していた。
「終わりだ」
死神の宣告。ウルヴァンが投擲した鋼の槍が、ガドウェントの腹部を貫いた。
「がっ……!」
ガドウェントの巨体が地面にどさりと落ちた。ガドウェントが倒れると、アリアたちを捕えていた鉄の檻が崩壊する。
「電磁加速の瞬間移動は脅威だが、その制御は容易ではないはず。継ぎ目のない連続使用はできないと踏んでいた」
激闘で疲弊した身体を引きずるようにして、ウルヴァンは二人の側へと向かう。
「待たせたな。大丈夫か?」
アリアが泣き腫らした赤い目でウルヴァンを見上げる。
「ウルヴァン、さん……私」
「何があったかは後で聞く。今は、帰ろう」
知らない間に、アリアを苦しめる何かがあったことはわかる。だが、ウルヴァンは自身にそれを癒すような真似はできないという諦観を抱いてもいた。だからこそ、今はただアリアを落ち着けるところに連れて行ってやりたかった。
「アリア殿、大丈夫でござる。貴方を苦しめるものは、今この場には何も存在しませぬ」
ヤクモが優しく笑い、右手をアリアに差し出す。
乾いた音。軍人であったウルヴァンにはよく聞き覚えのある音。それは銃声だった。
アリアは目の前の光景を一瞬理解できなかった。
目の前にいたヤクモが動かない。
ヤクモの口から、大量の血が零れた。そのままアリアにもたれかかるように倒れる。
「貴様……ガドウェント!」
ウルヴァンが怒号を上げる。その視線の先で、倒れ伏したまま大口径の拳銃を握るガドウェントの姿があった。
「甘い、な。高位の咒士は腹を貫かれても、即死はしない」
ガドウェントは、振り絞るように声を出す。
「咒士というのも難儀なものだよな。拡張現実への介入がなければ警戒心が薄れちまう。まあ、急所に当てねば大した意味もないのだが」
瀕死の状態にありながら、ガドウェントは笑う。
「俺は役目を果たした。せいぜい足掻けよ、先輩。あんたが地獄に来るまで待って……ああ、いや、あんたは死なないのか。それは……少し寂しいな」
ガドウェントの言葉は、アリアの耳には入ってこなかった。
「ヤクモさん!」
声を張り上げ、呼びかける。
「アリアど、の……申し訳、な」
寄りかかるヤクモの背中の道衣が赤黒く染まっていく。それが大量の血によるものだとすぐに気づいた。ヤクモの瞳から光が消える。肌の血色も失われ、蒼白になっていく。
「あ、ああ……」
背中の呪印が、アリアの悲しみに呼応し、とてつもない熱を放つ。
駄目だ。これを使うわけにはいかない。あの絶望を再び解き放つわけにはいかない。
アリアの脳裏に、ヤクモと過ごした日々の思い出が過る。押し寄せる悲しみは、アリアの心の許容量などとうに超えていた。
「あああああああああああっ!」
絶望が口から零れ出る。アリアの呪が発動。
アリアの背後に門が出現。両端の柱の上には悪魔のような男性と天使のような女性の彫像。その間にある黒い扉が徐に開かれていく。
黒よりもなお深い闇の中から、淡い光が抜けて出る。それは、ヤクモへと向かい、その遺体を照らす。肉体の負傷が見る間に治癒されていき、死んだはずのヤクモが体を起こした。
「……な、なんだ? 拙者は——」
「呆けている場合ではない!」
ウルヴァンが目覚めたヤクモの首根っこを引っ張り、後方へ投げ捨てる。
慌てて身を起こすヤクモが文句を言おうとして、ウルヴァンの鬼気迫る表情に引っ込める。
「すぐにこの場を離れろ!」
焦燥とともにウルヴァンが命令する。
「し、しかし……!」
「貴様がいても、足手纏いにしかならぬ! 俺に任せろ!」
ウルヴァンの忠言に歯噛みしながらもヤクモは頷き、その場を素早く離れていく。
「ごめんなさいごめんなさい。私、またやっちゃった」
泣き明かしたはずのアリアが再び涙を流す。
開いた門の闇の先から、死の波濤が溢れ出した。それは唸りを上げて世界へ流出していく。あっという間に、近くのウルヴァンを吞み込んだ。
「これは……⁉」
殺到する死の波濤に押し流されたウルヴァンは、それ以上流されてしまわないように必死に耐えている。死を奪われたウルヴァンでなければ、それに呑まれた時点で命はなかった。
アリアは全てを思い出していた。
アリアの呪は、”雙王無間冥獄門”。生と死の境界を崩す力。この世の摂理すら嘲笑う呪だった。
それは、かつてドロシーを死の淵から引き上げた。そのことを知った父は、アリアに決してこの力を誰にも話してならないとアリアに厳重に言い聞かせた。
しかし、死んだはずのドロシーが生き返ったという事実は隠しきることはできず、父は間もなくロスバルクスから離れることを提案した。アリアの呪は世界を揺るがすだけの力を秘めており、それを知った者に狙われる危険がある。そうして、父は誰も知らない土地へと移動することを決意した。
そしてアリアは運命の日を迎えることになる。ロスバルクスを去ろうとするアリアたちを襲撃する者が現れた。術式研究者である父も咒士であり、襲撃者を迎え撃ったが、多数を相手に一人では勝ち目などなかった。アリアを守ると誓ってくれた父の命は、あまりにもあっさりと奪われた。
悲しみのままに、アリアは呪を発動。アリアの慟哭に共鳴するように、死の波濤はロスバルクスを覆いつくし、アリアが正気を取り戻した時には、すでに街に命は存在しなかった。
そうだ、この街に息づいていた一万の命を奪ったのは、アリアに他ならないのだ。今ならば確信できる。アリアの呪の代償は、大事な人を失うことなのだ。
「ウルヴァンさん、逃げて!」
胸が張り裂けそうになりながら、アリアは叫ぶ。
門から溢れ出るのは、死という概念そのもの。ウルヴァンには死という概念がなくとも、そんなものに触れて正気を保てるわけがない。
それでなくとも、ウルヴァンの肉体は崩壊と再生を絶え間なく繰り返している。死の波濤に身を削られる苦しみは、例え死ぬことがないにせよ、それは地獄の責め苦に違いない。
「悪いが、一人で帰るわけにはいかない。あの侍にも、任せろと言ってしまったからな」
想像を絶する苦しみを味わいながらも、ウルヴァンは波濤に抗い、退こうとはしなかった。
身を切るような悲しみが口を衝き動かす。
「私に、守ってもらう価値なんてない。私のせいで……この呪いのせいで、ロスバルクスのみんなは……お父さんは死んじゃったんだ!」
吐いた言葉は、自らを蝕む毒だった。父の死すらも、アリアが呪を使ったことが原因となり引き起こされた。その責任は、自身にあるとアリアは疑っていなかった。
「もう嫌だ! 呪があるから……私さえいなければ! こんな悲しみは生まれなかったのに!」
いるかどうかもわからない運命を司る何者かをなじらずにはいられなかった。アリア一人のために生まれた無数の不幸は、重責となってアリアを圧し潰そうとする。
「断る」
ウルヴァンははっきりと告げた。
「文句も愚痴も後で好きなだけ聞こう。だから、今はただ君を連れて帰る」
死の波濤に押し流されそうになりながらも、ウルヴァンは少しずつ前へと進む。
「嬉しいよ、ウルヴァンさん。じゃあ、もう一つお願いしてもいいかな?」
アリアは笑いながら泣いていた。
「殺して」
「アリア!」
死の波濤が勢いを増す。ウルヴァンの再生よりも早くその身を削っていく。ウルヴァンはその場で留まるので精いっぱいのようだった。
「この門が開き続けてる限り、また多くの人が死ぬ。そんなの、私には耐えられない」
ロスバルクスを滅ぼした時も、なぜ呪が止まったのかはわかっていない。だが、今回も前と同じように門がいずれ閉じるとは限らない。死の波濤が無限に広がり続ければ、どれだけの被害が出るか想像もつかない。
ならば、それを発動するアリアが死ぬことが今は最善の対策に思えてならなかった。
「ふざけるな」
ウルヴァンが押し殺した声を発する。
「後悔するのも、贖罪の念を抱くのも君の自由だが、それは俺たちと帰ってからにしろ。今は大人しく助けられておけ!」
「じゃあどうすればいいの⁉」
アリアは感情のままに泣きわめいていた。
「もうたった一人の家族も、友達も、私の大事な人たちは私が殺しちゃったんだ! それなのに、私だけ生きていていいわけがない」
「違う。それは君の呪によるものであっても、君の意思によるものではない」
「違わないよ!」
アリアの絶望が膨れ上がり、波濤の勢いがさらに激しくなる。
「このままじゃ、いくら不死のウルヴァンさんだって、どうなるかわからないんだよ……? なら、私が死ぬしかないじゃない!」
「それでいいのか⁉」
ウルヴァンが怒号を上げた。
「呪という不条理に運命を捻じ曲げられて、最後は自分が死ねばいい、などと……そんな結末を受け入れるのか⁉」
「仕方ないでしょ! もうそうするしかないじゃんか!」
湧き上がる負の感情ごと吐き出すように叫んでいた。
なぜ自分がこんな苦しみを背負わなくてはいけないのか、答えの出ない問いが頭の中をぐるぐると無意味に回っている。
「……本当に、そう思っているのか?」
ウルヴァンが静かに問う。アリアの答えは決まっていた。自分は死ぬべきなのだ、と。
「わ、私……私は」
それでも、生への未練を断ち切る最後の言葉を口に出せない。
思い出してしまったのだ。
友人を、父を失い、ロスバルクスの全ての命を奪った。その絶望に塗れてもなお、アリアの脳裏に浮かぶのは、ウルヴァンやヤクモと過ごした日々。その温もりまで忘れることはできなかった。
「……本当は死にたくなんかない。二人といっしょにいたいよぉ」
涙が溢れ出る。堰き止めていた感情がそのまま言葉となって、口から零れてくる。
「こんな私でも願ってもいいのなら……助けて。私、まだ生きていたい」
「それでいい」
アリアの弱々しい祈りに、ウルヴァンは力強く応える。
ウルヴァンの身体を紅の光が包んでいく。それは勢いを増す死の波濤と拮抗し、ウルヴァンの身を守る。
「まずはこれを止めなくてはな」
ウルヴァンが波濤に蝕まれながらも、一歩、また一歩とアリアへと踏み出す。
「実践するのははじめてだが、やるしかないか」
ウルヴァンが拡張現実への介入を開始。中空に出現した楔の数は、七つ。神変と言われる第七階梯。
ウルヴァンの高速演算が、楔を砕いていく。五つ目の楔に到達したところで、楔が暴発。術式失敗の反動が、ウルヴァンへと襲い掛かる。
「上手くいかぬな。俺としたことが、緊張しているのかもしれぬ」
ウルヴァンは軽口を叩く。
そんな単純なものじゃない。ウルヴァンの呪の力が軽減しているが、死の波濤に侵食される苦しみの中で術式を発動するなんて、それ自体が困難。それで第七階梯の術式を発動しようなどと無茶にも程がある。
「アリアよ。この際だからはっきり言っておく。君がどれだけ嫌がろうと、俺は君を無事に連れ帰る。泣きたいなら泣けばいい。後悔したいならいくらでもすればいい。だが、それは俺とヤクモの前でしろ」
ウルヴァンは穏やかに告げる。
「君は全てを失ったと思っているのだろうが、俺とヤクモは君の側にいる。それでその悲しみを癒せるとは思わないが、君が一人ではないことだけは理解してほしい」
アリアの心を解きほぐすように、ウルヴァンの言葉がしみ込んでくる。
「だから、帰ろう」
ウルヴァンが再び術式を展開。先ほどと同じ、第七階梯の術式だ。
「相生相克、万物は流転し、永劫を否定する」
五つ目の楔に到達したところで、ウルヴァンが詠唱。処理が高速化し、楔が砕ける。
拡張現実が軋みを上げる。奥義たる第五階梯を越えたことで、世界の修正力が強まったのだ。
「されど、愚かさゆえに不変なるものを我等は希求する」
さらに詠唱を重ねる。ウルヴァンも限界を超えて、演算速度を最大まで上げる。六つ目の楔が、震え、やがて砕け散った。
ウルヴァンの顔中の穴という穴から血が吹きこぼれる。世界の修正力がウルヴァンを圧し潰さんとしているのだ。この先は、人に到達していい領域ではないと世界が警告していた。その負荷は人間に耐えられるものではなく、故に第七階梯は神変と呼ばれるのだとアリアは理解した。
しかし、不死の存在ならば、ウルヴァンならば、その負荷にも耐えることができる。
「希うのは、ただ一つ。総てがありのままに美しくあらんことを」
最後の楔が砕けた。ウルヴァンの手に、優しい輝き。それは命を育む太陽のごとき光だった。
「”無為無常神界解”」
術式が世界に顕現。世界が光で包まれる。
発動したのは、世界をあるべき姿に戻そうとする究極の修正力。溢れ出る光が、死の波濤を焼き去る。世界と契約して発動する呪すらも掻き消す、浄化の光だった。
門の両端にいる悪魔と天使が、怨嗟の呻きを発する。やがて、門は跡形もなく消え去った。
「あっ……」
ウルヴァンの手がアリアの頭に置かれた。
「だから、任せろと言っただろう?」
したり顔でウルヴァンが笑う。あまり見せない表情だな、と場違いなことを考えている自分に気づいた。
ウルヴァンが続ける。
「さて、帰るぞ。さすがに疲れた」
「えっ……あんなことがあったのに、それだけ⁉」
悲しみを乗り越えて驚きが漏れていた。
「アリアの苦しみは、一生をかけて付き合っていくものだ。今はまず休息を優先すべきだ」
こんなときまで論理的に言い含めるところは、やはりウルヴァンらしい。
「ねえ、ウルヴァンさん」
「何だ」
「私……本当に生きててもいいのかな?」
当然アリアは心の整理などついていないため、心にたまった泥を吐露する。
頭に軽い衝撃。ウルヴァンに軽く叩かれたのだ。
「二度とそのようなことを言うな。俺もヤクモも、いや、誰も君の死など望んではいない」
「……うん」
心から納得できるわけはない。それでも、今はウルヴァンとともにヤクモのところへ帰りたかった。
不意に、ウルヴァンの身体がぐらつき、そのまま地面に倒れてしまう。
「ど、どうしたの⁉」
アリアの胸に不安が押し寄せる。やはりアリアの呪のせいで、ウルヴァンは限界を迎えていたのかもしれない。
見た目は無事に見えても、本当に無事かどうかはわからないのだ。
「すまん、さすがに疲れすぎた。少し眠らせてくれ」
「……はい?」
アリアは首を傾げる。
「もしも敵が近づいてきたら叩き起こしてくれ。頼んだ」
言うや否や地面の上で眠り始めてしまった。ガドウェントとの戦いといい、アリアの呪を止めるために第七階梯を使うといった無理をしたことといい、体力的に限界なのは当然だった。
とりあえずアリアが心配したようなことはなさそうで、ほっと胸を撫でおろす。
「ありがとね」
もう意識のないウルヴァンにそれだけ告げる。
遠くから、聞き慣れた声。こちらに駆けてくるヤクモの姿を見つけ、アリアは笑みを零した。
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