六章
アリアの周囲には、ただ広大な空間が広がっていた。前後左右を振り返っても、ただ白い景色が目に映るのみ。
見上げた空すら白。青空でも夜空でもないし、雲で覆われているわけでもない。
「ここは……?」
アリアは自分がなぜこんな場所にいるのかわからない。そもそも世界にこんな一面白で広がる場所があるとは思えず、とても現実感がない。
明晰夢だろうか、と思ったところで、前に似たような体験をしていることを思い出した。あのときはドロシーがアリアの腕の中で死に絶えるという壮絶な光景を目の当たりにしたため、胸に不安がよぎる。
このままここでじっとして目が覚めるのを待つか。とはいえ、これが夢とは限らない。こんな寂しい場所で一人でいる心細さもあり、アリアはどこへともなく歩き出した。
どれだけ歩いても疲れはない。しかし、白の景色は一向に変わらず、どこかに辿り着くことも、何かを見つけることもなかった。
そうして、体感で数時間は歩き、いいかげんうんざりしてきたとき、遠く視線の先に何かを見つけた。どのようなものであろうとアリアが待ち望んだ変化に違いなく、気持ち早足でそこに向かう。
近づいていくと、それが門であることがわかった。両端の柱の上には悪魔のような男性と天使のような女性の彫像が拵えられており、その間に黒い扉が厳かに聳えている。
だが、おかしい。白一面の空間に、ただ門だけがある。道を隔てる壁もなく、これでは門の意味をなさない。
扉には大きな錠がかかっているが、今にも壊れそうなほどボロボロだった。少し頑張ればアリアにも壊せそうだった。
「アリア」
錠に触れようとしたとき、背後から懐かしさを感じさせる声。
振り返り、アリアは驚愕する。そこにいたのは紛れもなく、アリアの父、ユルゲン=エヴァージェンスだった。
わけのわからない空間に一人、寂しい思いはどこぞへと消え去り、アリアは最愛の人物に出会えた喜びでいっぱいになった。
全力で駆け出す。しかし、どうしても父に近づけない。どれだけ走ってもアリアは扉の側から離れることができなかった。
「アリア、駄目だ。その門は開けてはいけない」
悲哀に満ちた声。
「お父さん……?」
父の瞳には、生気の光がなかった。虚ろな目がアリアをじっと見つめている。
「その門は、お前から全てを奪う。お前の呪は——」
刹那、パキンと乾いた金属音。反射的に振り返ると、扉の錠が砕け落ちていた。
重々しい軋みを上げて、ひとりでに扉が開こうとする。
「いかん!」
父の声が聞こえた次の瞬間、扉の隙間から黒い手が這い出てきて、アリアの腕を掴んだ。
「ひっ!」
恐怖で叫び声を上げる。黒い手はアリアを門の中へ引きずり込もうとしていた。
「くそ!」
父は黒い手を引き剥がし、アリアを解放する。アリアが安堵する間もなく、扉の奥から更に無数の黒い手が伸びてきて、父を絡めとった。
「お父さん!」
「アリア、忘れるな。どんな絶望がお前を苛もうと、その門だけは——」
父が何かを言い切る前に、黒い手は父を門の中へ引きずり込み、閉じてしまった。
中から不気味な笑い声。それも一つではない。数十、数百、いやそれ以上の数えきれないほどの数。そこに秘められた狂気と怨嗟をアリアは感じ取ってしまった。
「いやだっ! 返して! お父さんを返してよ!」
力ずくで門を開けようとするも、びくともしない。悔しさで、鋼鉄の扉に拳を打ち付ける。
「悲しいことだ」
いつか聞いた、玲瓏な声。
そちらを見やると、前に夢で見た銀の髪の女性。残夢の魔女と呼ばれ、ウルヴァンに殺された咒士、ベアトリスがそこにいた。
「なんなの⁉ もう、わけがわかんないよ!」
頭の中の整理などできるわけもなく、ただ苛立ちをぶつけるしかアリアにはできない。
ベアトリスの黄金の瞳は憂いを帯びていた。
「もう引き返すことはできない。全てはあの男に託された」
瞬間、白の世界が歪んでいく。そして、アリアは眩い光に包まれた。
意識が覚醒。
慌てて身を起こすと、車の中にいることに気づく。ぐるりと見まわすと、左右は田畑に挟まれた閑散とした土地。向かう先には、街が見える。
「どうしました?」
隣に座るヤクモが心配そうにしていた。そこでようやく現状を整理できた。
アリアたちは国際咒士警吏局、つまりセラフィたちとともにロスバルクスへ向かっている最中だったが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「ううん、また変な夢見ちゃって。心配させてごめんね」
額の冷汗を拭い、ヤクモに笑いかける。
「おやおや、顔色が悪いよ。本当に大丈夫かい?」
運転席から後写鏡を見て、セラフィが問いかけてくる。
「……また夢にベアトリスって人が出てきた」
そう呟くと、助手席のウルヴァンが振り向き、渋面を作る。
「よりにもよってあの魔女の夢とは、あまり愉快な話ではないな」
「随分と穏やかじゃない名前が出てきたね」
セラフィが興味深げに言う。
「二度も残夢の魔女の夢を見る……これは単なる偶然と言って良いものでしょうか……何らかの示唆である可能性も」
「偶然だ。少ない頭脳を無駄に酷使するな」
「う~ん、それもそう……えっ? 今拙者のこと馬鹿にした?」
「それ以外に聞こえるのか?」
「こ、この男は……!」
ウルヴァンとヤクモは軽口を叩き合う。ここまで来ると、逆に息がぴったりなのではないかとさえ思えてくる。
「君たちは見ていて飽きないね」
運転席のセラフィは他人事のように楽しんでいるようだった。確かに見ている分には面白いのだが、二人を諫める立場のアリアにとってはそうもいかない。
そのまま車が進んでいくと、アリアはあることに気づいた。
「この感じ、見覚えがある……私、覚えてるよ!」
思わず声が大きくなる。全てを思い出せてはいないが、ロスバルクスの地理は鮮明に思い出せた。
「もしかしたら、昔住んでいた街を実際に来たことで記憶が呼び起こされたのかもしれない」
セラフィが分析するが、原因は何でもいい。記憶が戻ってきているということが重要なのだ。
「他にも何か思い出せたことはないか?」
「うん。かなり記憶も戻ってきてるみたい……だけど、なんだが大事なことを思い出せてないような、変な感じ」
「そうか……だが、良い傾向だ。この調子ならすべての記憶が戻るのも遠くはないだろう」
事実に脚色をしないウルヴァンが言うと、単なる励まし以上に前向きになれる。
継ぎ接ぎのパズルのように、記憶が抜け落ちている感覚はどうにも気持ち悪い。あと少しで全てを思い出せそうなのだが、そのあと少しになかなか届かない。
思い出した中でとりわけ大きなことは、アリアがいっしょに暮していた家族は父だけということだ。兄弟姉妹はおらず、身体の弱かった母はアリアが幼い頃に死んでしまっている。
「家の場所はわかるかい?」
「はい! はっきり覚えてます」
「良い返事だ」
満足そうなセラフィは、電子端末で警吏局の部下と連絡を取り合う。
「私たちはアリアちゃんの家に向かう。そこでアリアちゃんの記憶が刺激されて戻る可能性もある。それに、アリアちゃんの家族がいるならば、きっとそこだろう」
反論することなどなく、セラフィの提案に乗る。
「私たちの行先は決まった。アリアちゃん、道案内は頼むよ」
ロスバルクスを囲む城壁を越える。
そこには命が存在しなかった。街を行き交う人の姿が一切見当たらないどころか、木々や花が枯れ果てている。緑萌え生える春にも関わらず、ロスバルクスに広がるのは人工物の荒野だった。際立って異常なのは、道のそこら中に、脱ぎ捨てられて放置されたように、衣服に靴、鞄が散見されることだ。まるで、人がそのまま消えてしまったかのように。
故郷の惨状を目の当たりにすると、言い知れない負の感情がアリアを苛む。
道行く途中、半ば祈りながら、人の姿を探す。しかし、どれだけ進もうと一向に見つからない。
父がよく連れてってくれた行きつけのパン屋、お人よしの神父さんがいる教会、友達とよく遊んだ広場。思い出と一致しない空虚な光景に、心が締め付けられる。
聞こえるのは、車輪が地面を擦る音だけ。ロスバルクスは完全な静寂に支配されていた。
「先に調査を行った連邦警察の報告によると、当時はひどいものだったらしい。街のあちらこちらで事故車両が発見されていて、まるで運転手が全員消えてしまったようだとのことさ。これでもある程度は片付けた後なんだよ」
セラフィの言う通り、街路には事故を起こした車の残骸が散見された。
「……セラフィよ。街の住人がどうなったかはともかく、これが術式による被害だとするならば、どのような術式が使われているか心当たりはあるか?」
「あるわけがない」
ウルヴァンの質問は、即座に否定された。
「君ほどの咒士なら分かっているだろう? 破壊の跡も残さず一万人が一夜で消えるなんてことはありえない。だからこそ、私たちも混乱している」
セラフィの結論は、ウルヴァンのものと同様だった。アリア自身も術式について勉強したからこそ、そんな芸当が限りなく不可能であることを理解している。
ドロシーや家族のことを思うと、動悸がしてくる。ただ祈ることしかできない自分がもどかしい。
しばらく走行して、アリアの棲家の近くにやってきた。
「あそこ! 間違いない」
そうアリアが言うと、セラフィがすぐ側に車を止めた。急ぎ車を降り、駆け足で我が家に寄っていく。
扉を開けた先、見慣れた風景が目に入ってくる。
「お父さん、アリアだよ! 帰ってきたよ!」
声を張って呼びかけるが、返事はない。
「残念ですが、不在のようですな」
後から入ってきたヤクモが家の中を見回して言う。ウルヴァンとセラフィも屋内に入ってくる。
父が家で待っているという希望にすがっていたが、現実は甘くはなかった。アリアはがっくりと肩を落とす。
「何か手掛かりでも残っているといいのだが」
ウルヴァンが二階へ向かう。
ややあって、アリアの電子端末が鳴り響く。着信はミミルからだった。
気乗りしないが、ミミルなら何か大事な情報を持ってきてくれたかもしれないと思い直し、電話を取り出す。
即座に道化の仮面が電子映像として宙に表示された。
「ちょっとまずいことになってる。旦那は近くにいるか?」
いつもふざけた調子のミミルらしからぬ切迫した声。
「う、うん。今私の家に来てて、ウルヴァンさんは二階にいるよ」
「緊急だから、端的に言う。バクゥ一家がそっちに向かって——」
「なんだって!」
静寂を切り裂くセラフィの叫び声。アリアと同様、電子端末で誰かと会話していたようだ。
「ああ、わかった。無理はするな。無事を祈る」
セラフィが通信を切るのと同時に、騒ぎを聞きつけたウルヴァンが下に降りてくる。
「何があった?」
「別行動している私の部下が何者かの襲撃を受けてる。警吏局に喧嘩を売るなんてどこの馬鹿だ」
セラフィが不愉快そうに吐き捨てる。
「ミミル、話の続きでござるが、バクゥ一家がこのロスバルクスに向かってきている、ということで間違いないでござるな⁉」
ヤクモが確認すると、道化の仮面が激しく縦に振られる。
「そうだ。今日に限って、不自然に監視映像がつながらなくて気づくのが遅れちまった。奴さんは相当な戦力を投入してきている。幹部級も総動員してるんじゃねえかってくらいだ」
「ここで仕掛けてきたか」
ウルヴァンが素早く外に出て、それにアリアたちも続く。遠くに、こちらへ向かってくる数台の黒のバンが見えた。
「巨岩、蒼穹穿つ矛となれ」
ウルヴァンが詠唱、術式を展開する。四つの楔が解かれ、燐光が発生し、地面に落ちた。
円錐状の巨岩が連なるように前へ前へ高速生成。黒のバンへと迫っていく。円錐がバンを貫くが、その前に車内から飛び出す六つの人影が見えた。
「あれはバクゥ一家の幹部たちだな。ミミルの情報にあったため、見覚えがある」
ウルヴァンが告げるのは最悪の事実だった。武闘家集団の幹部ともなれば、それぞれが腕利きの咒士だろう。それが六人同時となると、手強いことこの上ない。
「お前たちはアリアを連れてここから去れ。奴等は俺が引き受ける」
ウルヴァンが語気強めに言い放つ。ウルヴァンを残していいものかアリアは迷ってしまう。
「ウルヴァン殿の言う通りです。ここに留まり、敵の加勢が来れば、アリア殿を守り抜くことは難しくなるでござる」
「そういうことだ。この戦場にはまだイエルゴ、そしてガドウェントが来ていない。混戦になる前にこの場を離れるべきだ」
ヤクモがそう告げ、ぴゅうと口笛を吹く。間もなく、空からこちらへカラスケが高速で飛んでくる。
「カラスケはどこにいようと拙者の居場所を把握しているでござる! そちらが片付いたら、ささっと駆けつけるでござるよ」
「そういうわけだ。行くよ、アリアちゃん!」
セラフィに促されるがままに車に乗り込む。ウルヴァンを除いた全員が乗り込んだところで、セラフィが手早く車を起動した。
「ウルヴァンさん!」
車の窓を開け、呼びかける。
「死なないのはわかってるけど、無事で戻ってきてね!」
一瞬不可解な面持ちになった後、ウルヴァンは男臭い笑みを返してくれた。
「心配は無用だ。アリアが言った通り、俺は死なぬ」
セラフィが車を急発進させ、見る間にその場を離れていく。
ウルヴァンとバクゥ一家との戦闘が始まるのが見えた。アリアにできるのは、ただ信じることだけ。
荒涼とした街並みを尻目に、アリアたちを乗せた車はロスバルクスの街路を疾走する。
「くそっ! あいつら、好き勝手やってくれる」
部下と通信していたセラフィが怒りを露にしていた。イエルゴたちの襲撃は、警吏局の咒士であっても全員を止めることができず、多大な被害がでているようだ。
「総力戦で来ているバクゥ一家相手は手強い。こうなると分かっていれば、もっと人を連れてきたものを……!」
セラフィが悔恨に唇を噛み締めている。部下たちに犠牲が出ているため、焦燥が窺えた。
「しかし、なぜイエルゴはこの機に仕掛けてきたのでしょうか?」
「それは私も気になっていた」
ヤクモが疑問を呈すると、セラフィが乗ってくる。
「警吏局は術式犯罪への対処を生業とする以上、戦力は十分すぎるほどに備えている。どれだけ強大だろうと、たかが一黒組織でどうにかできる存在じゃない」
「……それほどに、あのガドウェントに信を置いているのかもしれませぬ」
ヤクモの瞳には鋭い光が宿っていた。セラフィが大仰にため息を吐く。
「個人の武力で盤面をひっくり返すつもりか。やられる方としてはたまったもんじゃない」
「もう一つ気になることがあるよ」
アリアが会話を差し挟む。
「イエルゴの狙いは当然警吏局じゃなくて、私だと思う。そうすると、私たちがセラフィさんに同行することを知っていた理由がわからない」
ヤクモとセラフィが考え込む。
「情報が漏れていた、ということでござるか?」
「そう考えるのが自然だろうね」
大地が震動。車の前方に巨大な石の壁が出現。城壁のごとくアリアたちの行く手を阻む。
セラフィが制動装置を踏み、車を停止させた。
「……ここでお出ましとはね」
諦観を含んだセラフィの声。
前方には、巌のような巨漢。鋼の肉体を纏った咒士ガドウェントだった。
ガドウェントが術式を展開。燐光がアリアたちの乗る車を越え、後方へと伸びていく。それが地面に落ちた刹那、先ほどと同様に巨大な石の壁が出現。退路を断たれた形になる。
逃走手段としてはもう使えない車から降り、アリアたちはガドウェントと向かい合う。
「これは嵌められた、ってことになるのかな?」
強張った顔でセラフィが呟く。
「偶然ここで待ち構えていた、なんてことはないでしょうな」
「そうだよね……私も腕に自信はあるけど、さすがに足手まといになりそうだから、アリアちゃんといっしょに下がっててもいいかな?」
「是非に及ばず」
そう言って、ヤクモが前に出る。
「感謝するぞ、ガドウェント。拙者に雪辱の機会を与えてくれるとはな」
ヤクモが腰の日本の刀、ではなく背中に背負った大太刀に手を掛ける。三日月のごとく流麗な刀身がその身を露にした。
「そう吠えるな。お前は前座に過ぎない。あのウルヴァン=マックレガと戦り合う前のな」
眼前のヤクモには興味もないと言わんばかりのガドウェントの物言い。
「金の理、鉄の叡智、鋼の魂」
ガドウェントの詠唱によって、五つの楔が出現した。第五階梯、絶対防御の術式”剛轟錬鍛鎧”だ。
「我が身は総て闘争のために」
術式が発動。ガドウェントの全身を、鋼鉄が覆っていく。あの鎧には、ヤクモの斬撃すら通用しない。恐るべき術式を前に、ヤクモの気が鋭く研ぎ澄まされていくのを感じる。
「北辰一刀流、ヤクモ=サカモト」
ヤクモは凛々しく名乗りを上げた。
「我が秘奥、ご覧に入れよう」
ヤクモの周囲に五つの楔が浮かび上がる。術式展開の合図だ。
「我、刃の理に帰依し奉る」
詠唱を受けて、時計回りに楔が砕けていく。そうして、残る楔は最後の一つ。
「我は世界を切り裂く者なり」
全ての楔が砕け散った。燐光が大太刀を包み込み、刃が妖しい光を纏い、放つ。
「”布都御魂剣”」
静謐にヤクモが呟いた。
「面白い……東方の剣士よ。その真価、見せてみろ!」
先に動いたのはガドウェント。全身に鎧を纏いながら、微塵もそれを感じさせない俊敏な動きでヤクモとの距離を詰めていく。
「おおおおおおおっ!」
ガドウェントの突進に合わせ、裂帛の気合とともにヤクモが刃を振るう。だが、ヤクモの刃はガドウェントの”剛轟錬鍛鎧”には通用しなかった。あの鎧には術式効果を低減させる効果もあるらしい。弾き返されてしまえば、一気にヤクモは絶体絶命に陥る。
だが、猛進するガドウェントが急停止。ヤクモの刃を避けようと全力で身を捻る。一撃目は回避に成功したが、ヤクモはさらに一歩踏み込み、返す刀を放つ。ガドウェントは地を蹴り、後方に下がろうとするが、ヤクモの斬撃がガドウェントの鎧に到達。
ガドウェントの鎧が紙のように引き裂かれていた。ヤクモの大太刀に血が滴っている。斬撃がガドウェントの肉体に届いたのだ。
距離を置こうとするガドウェントに対し、ヤクモはさらに踏み込んでいく。大太刀を自らの身体の一部のように、自在に振るう。ガドウェントは巨体らしからぬ常軌を逸した体術で、それらを躱していく。しかし、それが精一杯のようだった。
ヤクモの攻撃を捌きながら後方に下がるガドウェントだったが、ヤクモはこの好機を逃すほど甘くはなかった。鋭い踏み込みで、ガドウェントを自らの間合いから逃がさない。
ガドウェントが鎧を解除。右肩から左脇にかけて衣服が赤く染まっているのが見えた。
絶対防御が破られた以上、”剛轟錬鍛鎧”は意味がないと判断し、重量を無くすことによる俊敏性の上昇を求めたのだろう。
ヤクモの太刀が届く前に、ガドウェントは太刀を握るヤクモの手を抑えつけた。超絶の切れ味を誇る刃だろうと、手元を抑えられてしまえばどうにもならない。後は、圧倒的な体格差で潰されるだけだ。
ヤクモは大太刀を手放した。そして、ガドウェントの腹部に膝を叩きこむ。山のような巨体がわずかに揺らいだ。
「ぬんっ!」
目にも止まらぬ速さで、ヤクモの拳がガドウェントを捉える。聞こえる鈍い音が、その威力を伝えてくる。
「拙者、徒手空拳でも一流でござる」
ガドウェントが怯んだ隙に、ヤクモは足元の刃を拾い上げる。
しかし、ガドウェントの放った蹴りがヤクモの左腕を穿つ。ヤクモは衝撃に逆らわず、後方に飛ばされることで蹴りの威力を殺していた。拾った刃も手放してはいないが、その隙にガドウェントが大きく距離を取る。
「驚いたぞ……傷を負うなど、久しく記憶にない」
無表情なガドウェントが喜悦に顔を歪ませていた。ヤクモが刻んだ傷は浅くはないはず。それでも歓喜に打ち震えるガドウェントの姿に、アリアはうすら寒いものを感じる。ヤクモは蹴りつけられた左腕の様子を確認し、問題ないとばかりに頷く。
「貴殿こそ、初見でこの刃の性質を見抜くとは大したものだ」
「お前がミルヘイムで使った空間支配の術式、その応用だろう?」
ガドウェントが推察する。
「おそらくは、空間支配の効力をその大太刀に集約させることで、極限の切れ味を生む。その術式の前では、対象の硬度など問題にならない」
「推察の通りでござる」
ヤクモは正直に答えていた。
「貴殿の術式には、拙者の”虚法刃圏”は通用せぬが、”布都御魂剣”の前では全く意味をなさぬ」
勝ち誇るようにヤクモが告げる。硬度を無視して全てを切り裂くヤクモの術式は、ガドウェントにとっては最悪の相性だった。
「すごい……すごいよ、ヤクモさん!」
思わずアリアは叫んでいた。
「貴殿は拙者を前座と侮ったが、その前座に敗北する屈辱はいかなるものか」
挑発するようにヤクモが言う。どうやら前座扱いされたことを根に持っていたらしい。
「そうだな」
ガドウェントが恭しく頭を下げる。その様子にヤクモが、いや、観戦しているアリアにセラフィもきょとんとしていた。
「お前ほどの武芸者を前座などと侮ったこと、非礼を詫びよう。まだまだ俺も修行が足りんな」
「意外と礼節を弁えているではないか」
ヤクモは再び大太刀を構える。
「アリア殿を脅かす者を生かしてはおけぬ。貴殿はここで確実に葬る」
ヤクモの闘気が膨れ上がる。次の攻防で決めるつもりだ。
ガドウェントは体術も凄まじいが、ヤクモの剣術とて劣るものではない。そして、術式を比較すれば、ヤクモの”布都御魂剣”が圧倒的に優位に立っている。状況は圧倒的にこちらに有利なはずだ。
だが、対するガドウェントに一切焦りが見えない。
「闘争の極致、お前は至ることができるか?」
ガドウェントが切り裂かれた上着を破り、脱ぎ捨てる。
巨漢の右胸には、黒い炎の刻印。それは呪印、”印付き”の証だ。”印付き”で構成された第三特務分隊の出身であるため、ガドウェントが”印付き”であることはわかっていた。
ガドウェントの呪印が、血潮のごとき真紅に染まっていく。
それが呪の発動であることを直感で理解した。拡張現実に介入するのではない。己の何かを差し出すことで、世界と契約を結び、拡張現実を塗り替える。事前に対価を払っているため、世界の抵抗力である楔は発生しない。
ガドウェントの呪が発動した。刹那、ガドウェントの姿を見失った。ガドウェントは大太刀を構えるヤクモのすぐ左に現れていた。
ヤクモが驚異的な速度で反応するも、ガドウェントの裏拳がヤクモの顔を打つ。
一瞬怯むも、ヤクモは即座に大太刀を横薙ぎに振るう。超近接距離にいるため、ガドウェントの回避は間に合わない。
しかし、大太刀がガドウェントを捉えることはなかった。巨漢はすでにヤクモから間合いのはるか外に移動していた。
「速すぎる……瞬間移動でもしているのか?」
ガドウェントのありえない速さに、セラフィが茫然としていた。文字通り目にも止まらぬ速さは、確かに瞬間移動としか思えないほど異常だった。
ガドウェントの姿勢が前傾に。そう思った次の瞬間には、ガドウェントは再びヤクモの眼前まで肉薄していた。
丸太のような剛腕から繰り出される拳打は、鎧を脱ぎ捨てただけでは説明がつかないほど速度を上げている。それがまともにヤクモの全身を叩きつけていく。
嵐のような乱打を受け、ヤクモが口から血を吐く。振るう刃の鋭さに衰えはないが、大太刀の軌跡はガドウェントに掠りもしない。
ガドウェントは一瞬で距離を詰め、拳打を浴びせ、反撃が来れば一瞬で距離を取る。ヤクモの”布都御魂剣”は必殺の術式だが、その必殺も当たらないことには何の意味もない。
ガドウェントの猛攻に晒らさたヤクモの目から闘志が消えていない。それでも、限界は近いはずだ。息は荒く、全身が小刻みに震えている。
ガドウェントの拳がヤクモの腹部を打ち、そのまま振り抜いた。ヤクモの身体がアリアたちの方まで転がり飛ばされてくる。
ひどい痣。アリアのために良き人物であるヤクモが傷ついているという事実に胸が引き裂けそうだった。
「もうやめて! これ以上はヤクモさんが死んじゃう!」
ヤクモを庇うように前に出る。ガドウェントとアリアの視線がぶつかる。相手は、アリアなど及びもつかない咒士。相対するだけで足が震える。それでも、ここを退くわけにはいかない。
「アリア殿、お下がりを」
ヤクモがアリアの肩を掴み、力ずくで下がらせる。
「どうして……? そんなにボロボロになって……もう限界じゃん!」
今にも泣いてしまいそうな声で問う。
「それは愚問でござるよ」
優しい声でヤクモが告げた。
「拙者はアリア殿を守護せし刃。何があろうと、御身を御守りいたします」
そう笑う東方の剣士は、血まみれでありながらこの世の何よりも美しく見えた。気圧されたわけでも、納得できたわけでもない。それでも、もうアリアにはヤクモを止めることはできなかった。
「立っているだけでもやっとだろうに、衰えることなきその闘志……素晴らしいぞ、よくぞ俺の前に現れてくれた」
「御託は結構。さっさと終わらせるでござるよ」
ガドウェントの賞賛には取り合わず、ヤクモは口の中の血をぺっと吐き出した。
しかし、ここからヤクモが逆転する画が思い浮かばない。自棄になって振るった刃が当たるなんてことは、ガドウェント相手には期待できない。このままじわじわとなぶり殺しにされるだけだ。
「我、刃の理を紡ぐ者なり」
宙に出現した五つの楔は、第五階梯術式”虚法刃圏”のもの。
「第五階梯の二重発動か!」
ガドウェントが歓喜する。
術式の二重発動。まだアリアは教わっていないが、連続発動とは比較にならないほど咒士への負担が大きくなるらしい。それを、咒士の奥義である第五階梯で行うなど、どれほどの絶技なのかアリアには計り知れない。
だが、術式の発動には時間がかかる。そして、ガドウェントは一瞬でヤクモとの距離を無くすことができる。術式発動の隙が、今は致命的だった。
動画の途中が切り取られたかのように、ガドウェントの姿が消え、ヤクモのすぐ側に出現する。全く同時にヤクモは自らの左横に袈裟懸けの一撃を放っていた。
ガドウェントの表情には驚愕。おそらくヤクモにとっても賭けに違いないその一撃は、寸でのところで当たらない。ガドウェンが背後に超速移動したことで、躱されていた。
だが、並行して展開していた”虚法刃圏”の術式が発動。空間が変質していき、ガドウェントを取り込まんと迫る。
必中と必殺の術式の組み合わせに死角はない。ガドウェントがどれだけ速く移動できようと、もはや範囲から逃げる以外に術はないはずだ。
「見事だ」
ガドウェントが術式を発動。楔一つが砕け、ガドウェントの前に拳大の鉄片が出現する。
「お前は俺の知る中で、三指に入る戦士だった」
閃光が迸る。異変はすぐに現れた。
ヤクモの左肩が消し飛び、握っていた大太刀を手放してしまっていた。
「馬鹿な、反応すら……」
ヤクモが痛みと衝撃で虚脱状態になっていた。
「誇れ。お前はまさしく強敵だった」
ヤクモに肉薄していたガドウェントの拳が、ヤクモの頭部を殴りつけた。
肉体の損傷に加え、第五階梯の二重発動という無茶をしていたヤクモはとっくに限界を迎えていた。力なくその場に崩れ落ちる。
「ヤクモさん!」
アリアが駆け寄ろうとするより早く、セラフィがガドウェントに向けて疾走していた。腰の剣を抜き放ち、ガドウェントへ切りかかる。
咒士の強化された肉体から繰り出されるのは、鋭い剣閃。それでも、ヤクモのそれに比べればずっと劣る。ガドウェントは退屈そうにセラフィの攻撃を避けていた。
今のうちにと、ヤクモの側に駆け寄る。倒れたヤクモの身体を支えるように持ち上げる。
「ああ……申し訳ございません。このよう、な、不甲斐ない姿を」
息も絶え絶えにヤクモが唇を動かす。アリアは何を言っていいかわからず、ただ自分のために戦ってくれた剣士のために泣くしかできなかった。
「アリア殿を守ると、言っておきながらこの体たらく……あの陰険鬼畜なウルヴァン殿に見られたら、笑われてしまいますな」
ヤクモは力なく笑った。アリアを不安にさせないようにと、ボロボロになりながらも気を遣ってくれているのだ。
鈍い衝撃音。吹き飛ばされたセラフィが煉瓦の建造物に衝突させられた音だった。セラフィはそのまま地面に横たわる。
轟音。ガドウェントの生成した石壁が崩れ、その先から黒のバンが現れ、ガドウェントの近くで停止する。。
「素晴らしい! さすがはガドウェント君だ」
喜悦満面で車から降りてきたのは、イエルゴ=バクゥだった。
「いやはや、君の強さは理解していたつもりだったが、想像以上だ。君に勝てる者などこの世界のどこにもいないのではないかと思えるよ」
喜悦満面でイエルゴもこちらに近づいてくる。倒れるヤクモとそれを支えるアリアを見下ろすように、立ち塞がる。
「ああ、やっとだ。このときをどれだけ待ち望んだことか」
酩酊しているかのようにイエルゴは興奮していた。アリアはせめてもの抵抗で、術式を展開しようとする。
「無駄だ」
”撞破爆”の術式は呆気なくガドウェントによって解体される。ヤクモが勝てない相手に通用するわけはない。それでも、死力を尽くしてくれたヤクモに少しでも報いたかった。
部下と思しき男たちが、バンの後部から棺を運び出してきた。
イエルゴが棺の蓋を外す。そこに納められていたのは、おそらくイエルゴの娘であるメーテラの遺体。化学、あるいは術式による防腐処理をされているとはいえ、死後半年経過しているため、たまたま人の形を保っているだけの土気色の肉塊にしか見えない。生理的嫌悪感により、アリアは吐き出してしまった。
「君がいれば、メーテラは蘇る。僕は唯一の光を、あの幸福な日々を取り戻す」
イエルゴの瞳は、眼前のアリアに向けられながら、アリアでないものを見ていた。娘を生き返らせるためにアリアの呪を求める姿は、狂気に満ちていた。
哄笑するイエルゴに異変。
「……あっ?」
見開かれた目はガドウェントに向けられていた。イエルゴの腹に突き刺さるのは、ガドウェントの貫手だった。
「あ、あれ? どうなってるんだ? 僕はこれから、アリア君の呪でメーテラを」
ガドウェント以外の誰一人として状況を理解できていない。腹部を貫かれているイエルゴの困惑は一層だろうが、凄惨な光景だった。
「腹を貫かれてもすぐには死なないか。あんたも立派な咒士だ」
ガドウェントは他人事のように呟いた。
「なぜだ、貴様」
「哀れだな。最期まであんたは気づくことはなかった」
「が、ガドウェントおおおおおおっ!」
イエルゴがガドウェントの裏切りに哮り立つ。
「やかましい」
ガドウェントの拳が、イエルゴの頭蓋を打ち砕いた。凄まじい生命力を見せたイエルゴだったが、脳を破壊されては即死は免れない。
次いで、ガドウェントは混乱の最中にあるイエルゴの部下たちに詰め寄る。その剛腕が振るわれるたびに、人体が枯れ木のように破壊されていく。一切の抵抗を許さず、ガドウェントはイエルゴの部下たちを瞬時に殺害してみせた。
「待ち望んだのは俺の方だ。至高の戦いのために、こんな長々と茶番に付き合わされているのだからな」
先ほどまでイエルゴだったものに、ガドウェントは恨めしそうに吐き捨てた。
困惑に驚愕、そして恐怖。アリアの胸中で様々な感情が入り乱れ、ぐちゃぐちゃになる。
「あなたは、なんでこんなこと……」
口から出る問いも、要領を得ない。
「最初から俺の雇い主はこの男ではなかった。それだけのことだ」
ガドウェントの言っていることの意味が分からない。
「俺が求めるのは、ただ強者との闘争のみ。それ以外は等しく塵芥のようなものだ」
「戦うためだけに⁉ そんなの馬鹿げてるよ」
「理解できぬのも当然だ」
ガドウェントがわずかに哀愁を宿した。
巨漢の手がアリアに伸びる。逃げてもすぐに追いつかれるし、何よりヤクモを置いて逃げるわけにはいかない。
「アリア殿に、触れるな」
アリアの腕の中のヤクモが立ち上がろうとする。
「もういいの、ヤクモさん。もう、いいから……」
止めるアリアの手を振りほどき、ヤクモは立ち上がった。
「お前もその娘も殺すつもりはない。大人しく倒れておけ」
「はいそうですか……というわけにはいかねえのでござるよ」
ヤクモは断然として退かず、ガドウェントと相対していた。アリアの方に振り返り、ヤクモは優しく笑った。
「大丈夫でござるよ、アリア殿。拙者が、必ずお守りしますから」
『大丈夫だ、アリア。絶対に、お前は守ってみせるから』
ヤクモの姿に重なるのは、父の姿。
記憶の蓋がこじ開けられる感覚。抜け落ちていたパズルの空白が埋まっていく。
アリアは全てを思い出した。思い出してしまった。
「あ、あああ……っ!」
アリアを狙って家に襲撃してきた集団。倒れる父の姿。そして、父を生き返らせようとアリアは呪を使い……。
「そんな、私が」
茫然自失となり、か細い声が口から零れた。
「アリア殿、気を確かに!」
「思い出したか」
聞こえるヤクモとガドウェントの声も遠いように感じる。
「そうだ。このロスバルクスに存在した命、その全ては」
判決を下す裁判官のごとく、ガドウェントが告げる。
「お前の呪が滅ぼした」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます