三章

 アリアは、意識の境界すら曖昧なままで、巡り移ろいゆく世界の中を流れていた。

 映し出される個々の光景が何を意味しているかは理解できない。それでも、どこか自分とは無関係ではないという不思議な感覚に陥っていた。

 ふと、世界の流れがゆっくりになる。辿り着いた先は、街の交差点。その横断歩道のすぐ側にアリアは佇んでいた。いつの間にか腕の中には、アリアと同じくらいの歳に見える少女が抱かれていた。少女の頭部に裂傷があり、亜麻色の髪が血で塗り固められている。土色の肌は生気を感じさせず、青紫色の唇からは息が一切漏れ出ていない。近くの電柱には、自動車がめり込み、ひしゃげている。注意緩慢な運転が引き起こした交通事故が、アリアの友達を巻き込んだのだ。

「ドロシー! 嫌だ、起きてよ!」

 アリアは、何が何だかわからないまま、それでも必死に腕の中の少女に向かって叫んでいた。

「悲しいことだ」

 アリアは、はっとしたように左を見やる。

 美しくたなびく銀の髪の女性。黄金の瞳が、世界の先で泣き叫ぶアリアを見つめていた。

 自らがドロシーと呼んだ少女の体が急速に朽ち果てていく。それは同時にアリアの心を蝕み、引き裂こうとする。

 アリアは悲しみのままに叫び続けるしかなかった。どうしようもない無力感に苛まれ、絶望が心を覆ったとき、背中にとてつもない熱を感じた。

 経験したことはないが、炎で焼かれたらこうなるだろうと思わせるほどの強烈な痛み。

 刹那、アリアは拡張現実を知覚した。アリアの悲しみ、絶望が質量を持ち、蟲毒の中で他者を貪り喰らい生きようとする毒虫のごとく、蠢いていた。そして、負の念は黒の球体となって現出し、静かに浮遊する。黒の球体が圧縮を繰り返し、徐々にその大きさを縮めていく。極限まで圧縮されたことで生み出された負の念の超重力が、世界に小さな穴を開けた。

穴の先に、門が見えたような気がしたが、すぐに穴は閉じてしまった。

 異変はすぐに現れた。すでに屍となったドロシーの体が時間が巻き戻るかのように修復されていく。土色の肌と薄紫の唇は、見る間に生命の色を取り戻していき、二度と開かないはずの瞳が再び見開かれた。

「どうして……? 私は」

 意識を取り戻したドロシーが口を開く。アリアは喜びとともに言葉を紡いだ。

「よかった! 本当に、生きててよかったよドロシー!」

 もう二度と離さないとばかりに、ドロシーを抱きしめるアリアの腕に力が入る。流れる涙は、喜びの涙に変わっていた。

「悲しいことだ」

 世界に、銀の女性の声が響いた。世界のどんな音よりもはっきりと聞こえ、それを無視してはならないという思いに駆られる。

「生から死へ向かう流れは不可逆。それが覆るということは、世界の根幹そのものを揺るがすことなんだ」

 銀の女性が何を言っているのか、アリアにはよくわからない。

「アリア」

 背後から自分を呼ぶ声があった。振り向くと、少し痩せこけた壮年の男がこちらを見ていた。

 優しい顔をした人だった。アリアはその人物のことを知っている。

「お父さん……?」

 記憶にもやがかかったような感覚の中、それだけは思い出すことができた。

 ただ、父が今にも泣きだしそうな顔をしていることで、アリアも悲しくなってしまう。

 どうしてみんな、ドロシーが生き返ったことを喜ばないのだろう。今この時、この空間にはいかなる悲しみも存在しないはずなのに、そんな悲しそうにしているのだろう?

「アリア、どうして……」

 ドロシーの右手が、アリアの頬に触れた。どうやら、自分が置かれている状況を理解できていないようだ。交通事故に遭って死んだはずが、奇跡が起こって生き返ったと説明しても理解できないだろう。

 なんと説明しようかと悩んでいたアリアは、それを見てしまった。

 ドロシーの体が、再び崩壊していく。その速度は再生していくときの比ではない。皮膚の血色が失われていき、あっという間に腐敗していく。

「どうして、私を生き返らせたの? また苦しむだけなのに」

 ドロシーが呪いの言葉を吐く。

「許さない許さない許さない許さないこんな苦しみを私に与えるあなたが許せない絶対に許さない」

 呪詛の言葉が、アリアの胸を穿っていく。思わず、ドロシーから手を離し、両耳を覆ってしまった。屍が地に落ち、ばらばらに崩れていく。

「ひっ!」

 恐怖でアリアは後ずさる。

 肉体を失ってなお、ドロシーは呪いを、怨嗟を紡ぎ続けていた。その音は脳に直接響き、アリアの逃避を認めない。

「忘れるないずれお前は」

 そこまで口にして、ドロシーの肉体は朽ち果て、骨のみとなり、その骨さえも見る間に風化していく。

 突然の事態に頭が追い付かない。ただ、胸が苦しい。思うように呼吸ができない感覚。

「————、————」

 銀の女性が何か言っているが、アリアの耳には届かない。ただ、ドロシーの猛毒の言葉が頭から離れず、何度も何度も反響していた。

 意識が、ここではないどこかに急速に引き戻されていく。温かい何かが、アリアを引き上げようとしているのだ。

 アリアはそれにすがった。果てしない恐怖の中で、その温もりにすがる他なかった。


 目覚めると同時に、跳ねるようにアリアは上半身を起こす。まだ混乱の最中にあり、息が整わない。全身から発汗し、体温が下がっているのか、寒さで体が震える。

「大丈夫でござるか?」

 主人を気遣う大型犬のように、寝台の側へヤクモが寄ってくる。

 心配をかけるまいと、アリアは荒い呼吸を抑え、笑おうとする。しかし、口元が引きつってうまく笑えない。

「大丈夫……ごめん、やっぱりちょっと大丈夫じゃないかも」

 脳裏には地獄の光景が焼き付いて消えてくれない。あれを単なる夢というには、あまりにも臨場感がありすぎた。

「悪い夢でも見た……といった軽いものではなさそうだな」

 遠間からウルヴァンの声。

「お帰り、ウルヴァンさん。どこに行ってたの?」

「何、少し挨拶するべき相手がいただけだ」

 昨日ウルヴァンから別れた後、アリアとヤクモは適当に食事を済ませ、そのまま家に帰ってきていた。ウルヴァンがどこへ行っていたかはわからないが、深夜のうちに帰ってきていたらしい。

「明晰夢……っていうやつかな? ちょっと洒落にならないくらい怖かった」

「どんな夢だったんでござる?」

 ヤクモが心配げに訊ねてくる。先ほどまで見ていた光景を整理し、口を開いた。

「ドロシーって子、私の友達。その子が事故に遭って死んじゃうんだ。だけど、なぜかドロシーが生き返って、またすぐに死んじゃう夢。それを私のお父さんと、よく知らない綺麗な銀色の女の人が見て———どうしたの、ヤクモさん?」

 ヤクモがぽかんとした顔をしているので、問いかける。

 陶器の杯を手にして、台所からウルヴァンがやってくる。

「もしや、記憶が戻っているのではないか?」

 言われて、はっとする。昨日まではドロシーのことも父のことも、自らに関することは一切思い出せていなかったのだ。

 さっそく自分の記憶を探ろうと、両の人差し指を左右のこめかみに当てて圧をかける。

「駄目だ。全然思い出せない。なんだが、記憶にもやがかかっているみたいで、変な感じ」

 何やら思い出せそうな感覚はあるのだが、その先が出てこない。どうにも気持ちが悪い感覚だった。

「父君のことは思い出せたようでござるが、そちらはどこまで思い出せるでござるか?」

「やっぱり駄目。名前とか、大事なところが思い出せないや」

「そうでござるか……」

 ヤクモが残念そうに零す。

「悲観することはない。多少なりとも記憶が戻ってきたというのは、大きな意味がある。記憶障害が脳細胞の死滅によるものであった場合、その記憶は決して戻ることはない。記憶が戻ってきたということは、今回の症例は一時的なものに過ぎず、数日から数週間で回復すると見込まれる。無論、これは楽観的な見方で、全ての記憶が戻るという保証はないが、あえて悲観的に見る必要もない」 

 ウルヴァンの指摘に、アリアは首を縦に振って首肯する。

「……あれっ?」

 不意に頬を濡らす涙に気づいた。指で拭うも、次から次へ零れてくる。

「変だな。どうしちゃったんだろう?」

「あ、ああっ……アリア殿、いかがなされた?」

 主人を気遣う犬のように、ヤクモがあたふたしている。心配かけないように笑おうとしてみても、上手く笑みを形作れない。

「無理もない。君は幼くして、多くのものを背負いすぎている」 

 ウルヴァンが諭すように、物柔らかな言葉を告げる。

「心配かけてごめんね……私、泣き言を言いたいわけじゃないのに」

「謝る理由など何一つない。むしろ、不安でいっぱいだろうに、今までよく耐えてきた」

「……うん」

 泣いた後は、少し胸が軽くなったような気がした。

「何か描くものない? 私、絵はちょっとばかり自信があるんだよね」

 同年代の女子の中では、上手い方だと思う、多分。事件の犯人やその容疑者となる人物を、似顔絵から割り出していくという手法を警察が使うという話を聞いたことがある。本職ほど上手くは描けないだろうし、どこまで役に立つかはわからないが、少しでもウルヴァンたちの誠意に報いたい。

 ウルヴァンが頷き、自らの電子端末を取り出す。ウルヴァンの指が端末の上を流暢に滑り、やがて立体電子映像が空中に映し出される。そのまま、ウルヴァンが電子端末をアリアに手渡した。

「今時は便利になったものだな。勝手は知らぬが、これで問題ないか?」

「うん、ちょっと試してみるね」

 ウルヴァンが表示したのは、電子端末から使用できるお絵描き機能だった。さっそく指で立体映像に触れる。すると、画面から電子の筆記具が飛び出してきた。つまんでみると、それはアリアの手の動きに合わせて移動する。何度か試行錯誤しているうちに、ほとんど思いだお降りに動かすことができるようになる。おおむね操作方法は理解できた。

 記憶にある父の似顔絵を描こうとするが、途中途中で手が止まる。先ほどの夢を思い出そうとしても、やはり細部が思い出せない。ここでも記憶にもやがかかったように、輪郭が曖昧になるのだ。

 最後まで描きあげてはみたものの、自分でも納得のいく出来にはならなかった。同様にドロシーの似顔絵も描いてはみたが、いまいち似ているのかどうか確信が持てない。

 特徴のある部分は全て描き終え、最後に人工知能による補正機能を利用。

「描いてはみたんだけど、似てるか似てないか微妙なところ。というか、そもそも顔がはっきり思い出せない……あ、でも、あの人ならいけるかも」

 夢に出てきたあの銀の女性のことは、不思議なことに鮮明に思い出せる。驚くほどに綺麗な人だった。目鼻立ちもはっきりとした美人であったため、特徴が掴みやすい。すいすいと筆が進む。人工知能による補正を利用しつつ、特に印象的だった、銀の髪と黄金の瞳に着色して、完成。

 アリアの認識とほぼ一致した似顔絵が完成。どうだと言わんばかりに、誇らしげな顔をウルヴァンに向けた。

「馬鹿な」

 はじめて見るウルヴァンの動揺。有り得ないものを見るように、驚愕に目を見開いている。

「ど、どうしたの? 知ってる人?」

 明らかに異常な反応に、アリアは問いかける。

「いや、何でもない。旧知の人物に似ていると思っただけだ」

「本当にそれだけ? 明らかに、尋常の反応ではなかったでござるが」

 ヤクモは訝し気に確認する。

 ウルヴァンは何やら逡巡し、口を噤んでいたが、やがて重々しく口を開いた。

「他人の空似でしか有り得ない。なぜなら、そいつは俺がこの手で殺した」

 その告白に、アリアは息を呑む。これまで聞いたことがなかっただけで、ウルヴァンがその手を血に染めたことがないとは思ってはいなかった。それでも、実際に聞かされてみると、自分でも驚くほどに動揺している。ウルヴァンのことは信頼しているが、それでも胸の内には恐怖が宿る。

「先ほどの似顔絵は、ミミルに送っておく」

 アリアはウルヴァンに電子端末を手渡す。

「ねえ、ウルヴァンさん。人を生き返らせる術式、もしくは呪ってあるの?」

 あの夢の中で、ドロシーが生き返ったのは、アリアから生まれ出でた黒い球体、もしくはその先にある門が原因だったように思えた。今にして思えば、あれこそがアリアの宿す呪だったのではないか、という気がしてくる。

「個人的には有り得ない、と言いたいところだが、事実だけ告げる。宗教と神話が死後の世界を定義したその時から、人類は死者蘇生の可能性を希求してきた。そして近代理性主義が浸透して以降、医学・科学、そして咒学は目覚ましい発展を遂げた。俺たちの及びもつかないような天才たちが生涯をかけて挑み、今この時もその悲願を受け継いだ次代の才能が研鑽していることだろう」

 ウルヴァンが歴史の賢者たちを称えるように瞑目する。

「それでも、未だに死者蘇生を可能とする術式理論は存在せず、その足掛かりすら全く築けていないというのが現状だ。研究が進めば進むほど、術式は奇跡の業ではないという事実に人類は直面してきた」

 ウルヴァンは厳格に不可能性を告げる。

「だが、不可能と言い切ることはしない。そう断言できるほど、俺は世界を理解しておらず、この世界は人の想像など遥かに越えて深遠なのだ」

 再び開かれたウルヴァンの瞳は、深い叡智を携え、どこか遠いところを見据えていた。

 アリアは迷った。ウルヴァンの話から、人が生き返ることはまずありえないということは理解した。だが、まだ気になることがある。

「呪についてはどうなの? そもそも、呪って何?」

 自分が背負わされているそれについて、アリアは何も知らなかった。というよりは、覚えていなかったという方が正確だろう。

「術式黎明期、術式の開祖にして偉大なる啓蒙者たる十三人の咒士が存在した。彼等は、”開闢の十三使徒”と呼ばれている」

「な、なんか知らないけど、かっこいー……けど、なんで歴史の話?」

「まあ聞け。彼等の編みだした術式理論は、複雑に派生した現代咒学においても深く根付いており、そこから完全に独立した術式は存在しない。しかし、その中でも異質な研究に取り組んでいたのがゼルギリウスという男だ」

 その名前は、以前ウルヴァンから聞いたことがある。確か、人類史上最大の裏切り者と言っていた人物だ。

「文献から読み取る限り、十三使徒は誰も彼も異常者揃いだったらしいが、ゼルギリウスという男は群を抜いていたと言う。術式を通して世界の深奥に至ることを望み、その研究の果て、我等のよく知る呪を生み出すに至った」

 ウルヴァンが解説を続ける。

「実は、術式と呪は分かたれたものではない。術式の一類型として呪があるに過ぎないのだ」

「えっ、そうなの?」

 意外な事実に驚く。

「術式とは、世界へ干渉し、己の望む結果を現出させるように書き換える技術。しかし、呪は己の何かを世界に差し出すことで、術式同様の効果を発動する。一般的な術式が世界を欺く技術であるのに対し、呪とは世界との契約に基づいた技術なのだ」

「それだと、呪の方が正統派ってことにならない?」

「発動手順に限れば、な」

 ウルヴァンの言葉には含みがあった。

「ゼルギリウスは、文字通り世界に呪の因子をばら撒いた。それは、人に呪の証、”呪印”を刻み込む。世界との契約とは言うが、失うものと得られるものを選択することはできない」

「うーん」

 アリアは眉を顰めて考え込む。

「自分で望んだものならともかく、そんなものを強制されるのはたまったもんじゃないね」

「その通り。それが最大の問題なのだ」

 ウルヴァンが力強く頷いて肯定する。

「形を問わず、呪は無数の悲劇を生み出してきた。”印付き”とは、ゼルギリウスの妄執に運命を歪められた被害者と言っていい」

 説得力のある言葉だ。アリア自身が、自らの背負う呪によって追われる立場であるのだから。

「どのような思惑があったかは知らぬが、ゼルギリウスの所業はとても許されるものではなかった。同志である他の使徒に討たれ、その生涯を終えることとなる」

 ウルヴァンが小さくため息を吐く。

「呪の根源たるゼルギリウスが斃れた後も、”印付き”の存在は世界各地で確認されている。それだけ奴がばら撒いた因子は世界に浸透してしまっていたということだ。はた迷惑極まりないがな」

 アリアはうんうんと頷いた後、質問する。

「過程が違うことはわかったけど、結果はどうなの? 術式でできないことは、呪でもできないってことになるのかな?」

「良い質問だ」

 ウルヴァンの賞賛に、なぜかヤクモが誇らしげにしていた。

「答えは否、だ。術式は世界を書き換える技術であるため、感覚的にせよ論理的にせよ、世界に対する理解を前提とする。矮小な我等では世界の表層にしか触れることができない。しかし、呪は違う。直接世界との契約により発動するため、時に触れてはならぬ世界の深淵に到達してしまうことがある……それでも、人を生き返らせるようなことは不可能に近いだろう」

「ふーん……そうだよね、人は生き返らないんだよね。当たり前か」

「妙なことを気にするのだな」

「あはは、ちょっとね」

 ウルヴァンは訝し気に言うので、アリアは誤魔化すように笑っておく。

 死者蘇生が可能かどうかなんて、確かに突拍子もない問いだった。アリアも冗談半分での問いだったが、死んだ人間が生き返るなど、やはりありえないことなのだ。あまりに内容が鮮明だったために心を乱されたが、夢は夢に過ぎない。気にしすぎるのも良くないだろう。

「契約の代償ってことは、私も何かを奪われてるってことになるんだよね? すっごい大事なものだったら嫌だなぁ……それこそ、記憶を失ったのが代償ならまだ良いんだけど」

「脅すわけではないが、呪の強大さと失うものの大きさは概ね比例関係にある。アリアの印の大きさからすると、知らない方が幸せかもしれぬ」

「怖いこと言うなぁ……でも、ウルヴァンさんの呪も相当すごいものなんじゃない? 前に、不死の呪って言ってたよね」

「そうだな」

 不死というのがどこまでの意味合いを持つかはわからないが、爆発術式を受けても平然と立ち上がるのだから、並大抵のものではないだろう。人が行きつく究極的の渇望は、死にたくないというという根源的な欲求。不死の呪なんて、喉から手が出るほど欲しい人間も多いはずだ。

 だが、呪は代償を必要とするはずだ。その力を手に入れるのに、ウルヴァンは何を奪われたのだろう。気にはなるが、聞いてはいけないことのような気がしたので、問いを控えることにした。

「不死の呪など聞いたことがありませぬ。人の望みの究極とも言えるその呪、羨む者も多いでござろうな」

 ヤクモの言葉に、ウルヴァンは苦い顔をする。

「こんなもの、良いとは限らん。限りある時を生きるからこそ、いずれ死を迎える前に、人は何かを成し遂げようとする。その熱こそ、人が生きる意味だと俺は思う」

 悔恨を噛み締めるようなウルヴァンの独白。アリアには及びもつかないような重み、そして寂寥の念が込められていた。触れるべきではない話題だとアリアは理解し、話題を変えることにした。

「呪ってどうやったら使えるの?」

 アリアの背中には、ウルヴァンすら畏怖するような呪が宿っている。どのような性質かはともかく、いざというときの切り札になるのではないかとアリアは思った。

「呪の使用方法は、それを宿す者にしかわからないため、アリアに分からぬならば、誰にも分らない。何より、アリアの呪印はあまりに巨大すぎる。暴走した場合の危険が大きいため、安易に使おうとすべきではない」

「こればかりはウルヴァン殿の言う通りでござるな」

 ウルヴァンの諫言にヤクモが同意する。正論なだけに耳が痛い。

 ふと、ウルヴァンの戦いを思い返す。呪が駄目となると、術式の方はどうだろうか。

「確か、こんな感じだったっけ」

 アリアは記憶を辿り、その術式の構成を思い浮かべ、世界への介入を開始。三つの楔が現れた。

 すでに何度か見ているため、方程式の解は理解している。一つ目の楔が砕けた。

「あれ、あれ?」

 奇妙な感覚だった。興奮剤を摂取したかのような鮮明な意識は、楔を解くのに没入していく。膨大な演算が、アリアの思考領域を埋め尽くす。

「待て、それは」

 ウルヴァンの声が遠く感じされる。楔は次々と砕けていき、その術式が世界に顕現した。

 橙色の燐光がアリアの指先に灯り、弱弱しく放たれた。燐光は蝶のように空中をさまよい、弾ける寸前で解体された。ウルヴァンがドクラを相手にしたときと同様に、アリアの術式を発動直前に解体したのだ。

「今のは、第三階梯の術式でござるか?」

「ああ。”撞破爆”に相違ない、のだが」

 その様子を見ていたヤクモ、そしてウルヴァンが驚愕を露にしていた。しかし、アリアの驚きはそれ以上だった。

「で、できちゃった……」

 思わず冷汗が流れる。慌てふためき、ウルヴァンたちの方に向き直る。

「ご、ごめんなさい! まさか、本当に使えるとは思わなくて」

 自分の軽率な行動を謝罪する。ウルヴァンが解体してくれなかったら、二人まで危険に巻き込むところだったのだ。

「見ただけで術式を理解し、あまつさえ再現してみせたというのか?」

 怒られるだろうと思っていたが、返ってきた反応は予想とは違った。

 恐る恐るアリアは口を開く。

「えっと、何となくできそうだからやってみたら、本当にできちゃっただけなんだけど」

 二人がなぜそんなに驚いているのか、アリアには理解できない。

 ウルヴァンが顎に手を当て考え込んでいたが、何かに思い至ったように小さく首を振った。

「今はミミルの調査の結果を待つのみ。暇を持て余すくらいなら、勉強会でもしてみるか」


 単車はミルヘイムの街から、郊外を進む。ウルヴァンの背後にアリアがしがみつき、横にはヤクモが側車に乗っている。

 ミルヘイムは世界都市の一つに数えられるほどの大都市だが、郊外まで活気があるかというとそうでもなく、進めば進むほどに閑散としていく。

「今更でござるが、どこに向かっているのでござるか?」

 ヤクモが問いかけるも、ウルヴァンは黙して語らない。

「どこに向かっているのでござるかー?」

 二度目の問いは些か大げさに発せられた。それでもウルヴァンは反応しない。

「はーっ、拙者の声が聞こえないのでござるかー? それとも、言葉の意味が分からないのでござるかなー? 頭が悪いのか、耳が悪いのかくらいはっきりしてほしいでござる」

 無視されたことで怒りが湧いたのか、ヤクモの声には怒気が混じっていた。

「ウルヴァンさん、答えてあげようよ」

「廃棄された工場に向かっている。あそこでなら誰にも迷惑はかけん」

 仕方なしにアリアが言うと、ウルヴァンは即座に答えた。それがさらにヤクモの神経を逆撫でしたようで、ヤクモは引きつった笑みを浮かべ、こめかみには青筋すら浮かんでいる。

「落ち着くのでござるよ……今此奴を斬るわけには……いや、でもちょっとくらいならいけるか……?」

「ちょっとも何もないよ。ウルヴァンさんが悪いけど、刃傷沙汰は洒落にならないって」

 何やら物騒なことを言い始めたので、ヤクモを宥めておく。

 目的地である工場に到着し、ウルヴァンが単車を止める。アリアとヤクモが降りたのを見計らって、ウルヴァンは単車を工場のすぐ側まで寄せた。

 すでに廃棄された工場であるため、入り口には封鎖の縄と、立ち入り禁止の札がかかっている。

「私、知ってるよ。こういう廃墟にも管理者がいて、勝手に入っちゃいけないんだよ」

「そうらしいな」

 アリアの指摘にも、ウルヴァンは気にした様子もなく、ずかずかと中に入っていく。

「心配は不要でござる。いざとなれば、ささっと逃げればよいのでござるよ、ささっと」

 続くように、ヤクモも入っていく。

「私は止めましたよーっと」

 この二人が頼りになるのは疑いようもないが、遵法意識はあまり期待してはいけないらしい。

 長い間、人の手が入らずに放置された工場は、荒廃と寂寥の象徴と化していた。外部からの光がわずかに差し込む、錆びついた鉄製の窓枠。工場の建物の壁は剥げ落ち、さまざまな色の落書きが無秩序に広がっていた。壁紙の一部が剥がれ、裸の煉瓦が顔を覗かせている。

 工場の床は埃と錆びた金属片で覆われ、歩くたびに足元からかすかな音が響く。古びた機械が不気味に静まり返っており、壊れた機械の一部は床に散らばり、廃棄された製品が山のように積み上がっていた。

 窓から差し込む光は、浮遊する塵や埃を浮かび上がらせ、幻想的にも見えた。時折、風が吹き抜け、床の埃を巻き上げる。

 ウルヴァンがアリアに向き直る。

「一度発動に成功しているアリアには退屈なだけかもしれぬが、術式理論について一度確認しておくとしよう」

 ウルヴァンが講師と化して、説明を開始する。

「術式とは、世界へ干渉し、己の望むように書き換える技術だ。しかし、それが誰にも使えるわけではない。大前提として、基底現実に仮想現実を重ね合わせた、拡張現実を知覚することが必要であり、それこそが咒士としての第一歩となる。術式という絵を描くのに、画布となるのがこの拡張現実というわけだ」

 アリアは集中し、ウルヴァンの話に耳を傾ける。

「基底現実下においては、物理定数は不変の原則として扱われる。しかし、この拡張現実を通じて、我々咒士は限定的ながらも物理定数への干渉を可能とする。これが術式の基本だ」

 ウルヴァンが拡張現実への干渉を開始したことを、アリアは感じ取った。

「無論、術式は魔法ではない。無制限の世界への干渉が可能となるわけではなく、いくつかの制約が存在する」

 ウルヴァンの介入を阻むように、三つの楔が現出する。アリアも発動に成功した” 撞破爆”の術式だ。

「この楔は、世界の修正力だ」

「修正力?」

 ウルヴァンの言葉を反芻すると、横からヤクモが補足する。

「術式を発動するということは、世界を改変し、欺くこと。されど、世界は本来在るべき形に戻ろうとするのでござる。それを乗り越えることができない場合、術式は発動しませぬ」

「百聞は一見に如かずだな」

 ウルヴァンが楔を紐解くべく演算を開始するが、以前アリアが見たときとは比較にならないくらい遅い。やがて、宙の楔が振動し、その振動が加速度的に大きなものとなっていく。やがて、内部から爆発。衝撃は崩壊した演算式を辿って逆流。ウルヴァンの元へと殺到する。

 異変はすぐに現れた。ウルヴァンの上半身が、槌で殴られたかのように跳ねる。目、鼻、口、耳、顔のあらゆる穴から血が零れていた。

「発動に失敗したときの代償は見ての通りだ。世界の修正力を乗り越えることができなければ、術者はその反動をその身に受けることになる。使用する術式の階梯が上がれば上がるほど、当然その反動も大きくなるということは覚えておけ」

 顔を濡らす血を拭いつつ、ウルヴァンは平然と告げる。

「いやいや、血がいっぱいで何でそんなに落ち着いてるんですか。ちょっとは慌ててくださいよ。あたふたしてる私が馬鹿みたいじゃないですか」

 不死の呪がどうのこうのという以前の問題だ。アリアはどう反応していいかわからず、呆れ顔を浮かべるしかなかった。

「ど、ドン引きでござるな……」

 流石に目の前の流血沙汰を前に、当然というかヤクモも引いていた。ヤクモも大概常人離れした感性の持ち主だが、負傷を一切鑑みないウルヴァンの感性は理解できないのだ。

「危険性を踏まえたうえで、もう一度だ」

 再び、ウルヴァンが術式を構築する。先ほどと同様だが、その速度が段違い。あっという間に楔が紐解かれていく。

 橙色の燐光が走り、” 撞破爆”が発動。強烈な爆風が空間を切り裂き、響き渡る。廃棄され、積み上がっていた機械の山が爆風の煽りを受けて崩れる。

「術者の理解度に比例して発動速度は上がる。この術式に関して言えば、俺以上に使いこなす者はそういないと自負する」

 無表情が常のウルヴァンだが、少し得意げにしているような気がする。” 撞破爆”は得意術式と言っていたので、その矜持というものがあるのだろう。

「咒士の戦闘を端的に言えば、高速・高火力の押し付け合いだ。つまり、いちいち術式の発動に時間がかかるようでは、何の意味もない」

「銃火器を持った軍人が、基準としてはわかりやすいでござるな。それ以下の戦闘力しか持たぬなら、わざわざ術式に頼る意味はなく、素直に拳銃でも使えば良いのでござる」

「そっか……それもそうだね」

 ヤクモの説明は最もで、アリアも得心した。ウルヴァンが説明を続ける。

「だが、平均的な咒士相手であってすら、一般的な拳銃では殺傷力が低すぎる。脳、あるいは心臓といった急所を的確に撃ち抜かない限りは致命傷にもならない」

「それって本当に人間なの? 銃で撃たれたら痛いし、死ぬでしょ普通」

 アリアは呆れ声を漏らす。不死の呪を持つウルヴァンでなくとも、咒士というのは恐るべき存在だ。

「己の肉体は、それ自体が外界と隔絶した一つの世界。それを自らの思うがままに操作し、その潜在能力を余すことなく引き出す。そうして極まった肉体は、常人のそれとは一線を画することになる」

 アリアは二人を眺め見る。ヤクモも、ウルヴァンさえも筋骨隆々というような体つきをしているわけではない。しかし、その肉体が秘めた超人的な力を知っている。

「ウルヴァン殿のご高説は十分でござろう。話が長いでござる」

 欠伸をしそうな顔でヤクモが言う。ウルヴァンの顔を覗き込むと、若干不愉快そうにしているのを隠せていなかった。

 先ほどの術式失敗による反動を見たため、術式の発動が躊躇されてしまう。

「心配は要らぬ。発動に失敗しそうなときは、俺が術式を解体する」

 アリアの懸念を察してか、ウルヴァンが諭すように言う。

 一度、大きく深呼吸。ウルヴァンの式を思い返し、発動する術式を選択。楔が現出したのを確認。ウルヴァンのそれよりは遅いが、確実に紐解いていく。

 全ての楔が崩壊したことで、アリアの編んだ式が世界の修正力から逃れ、顕現する。橙の燐光が迸る。ウルヴァンのそれと同様、いや、威力はずっと落ちるが、”撞破爆”の術式が発動し、爆風が吹き荒れる。

「ウルヴァンさんみたいにはいかないね」

 術式を発動したためか、軽い脱力感がやってくる。

「素晴らしい資質でござるな」

 ヤクモは感嘆の吐息を漏らしていた。

「起こそうとする現象の理解が不可欠とはいえ、拡張現実さえ知覚できているのであれ、既存の術式を発動するのはそう難しいものではござらぬ。数学における定理のようなもので、どのように成り立っているかはわからずとも、その法則が正しいことさえ理解していれば使えるのでござる。各個人の術式適性という問題はある故、そう単純ではござらぬが」

「ふんふん」

 ヤクモの言わんとしていることはわかるような、わからないような。とりあえずの生返事をしておく。

「だが、術式の理論を学び習得するのは、一朝一夕でできることではない。それどころか、アリアは、俺の術式の構成を読み取り、それをそっくりそのまま再現してみせた。そんな真似は俺やヤクモにもできぬ。実際に、俺は”撞破爆”を習得するのに二十日前後の時を要している。それくらいが平均値だろう」

「要するに、私、相当すごいってこと?」

「紛れもなく天才と称されるだけの資質と言えるだろう」

 ウルヴァンの手放しの賞賛にちょっと気恥ずかしくなる。頼れる二人にこうまで褒められるとちょっと浮足立ってしまう。

「優れた咒士というのは、この世界の在り方をより深く知る者と言ってもいい。我等は論理と感覚を以てこの世界と向き合い、術式を極めんとする。故に、咒士は年を重ねるほどにその力を増していく。まだ年若く、才気に溢れるアリアがその道を志すならば、いずれは我等を凌ぐ咒士になるであろう」

「わたしが? それは買いかぶり過ぎって気がするけど」

 褒められて悪い気はしないが、ウルヴァンやヤクモのように戦う自分の姿は今一つ想像できない。

「これだけの資質となると、どこぞで有名だったかもしれませぬな。天才美少女咒士、現る! ……といった感じで」

「いやいや、ヤクモさん、天才美少女って……いやいやいや……へへへ」

「一応ミミルに確認しておく」

 ヤクモのおだてに気が大きくしていても、対するウルヴァンは平常運転だった。

「でも不思議な感じ。なんで私にこんなことができるんだろ?」

 その答えは記憶の底に眠っているのかもしれないが、今のアリアには知りようもない。

「それを幸運と言うべきではないが、アリアの背負う呪が影響しているのは間違いない」

「えーっと、それはどういうこと?」

「先に説明した通り、呪とは術式に類するものだ。それを我等は世界との契約により、生まれたときより宿している。その段階で、すでに我等は世界の在り方に触れているのだ」

「そっか」

 ウルヴァンの説明で、アリアは理解した。

「術式は世界への理解を前提とするんだよね。その時点で、私たちは普通の人たちより優位に立ってるってことか」

「その通りだ」

 出来の良い生徒を誉める教師のように、満足げにウルヴァンは首を縦に振った。

「もっといろいろ教えてよ。術式をいろいろと覚えれば、私だって戦えるかもしれない」

 アリア自身に力があれば、アリアを守ってくれた人たちが命を失わずに済んだかもしれない。そういう後悔をすでに味わっていたからこそ、自分の無力感が歯がゆかったのだ。

 そんなところに、自分には才能があると教えられた、戦う力を手に入れられると知った。守られてるお姫様という立ち位置はまっぴらごめんだった。

「勘違いしてはならぬ。我々はアリアに戦わせるために、術式を教えているわけではない」

「自衛という意味では、それが役に立つ場面もあるのでしょう。しかし、拙者はアリア殿の剣。アリア殿を危険に晒さぬためにのみ、この身は存在するのでございまする」

 ウルヴァンとヤクモは優しくも厳しい口調で言う。

「どれだけ術式の素養があろうと、それだけで成立するほど咒士というものは単純ではない。基礎訓練を重ね、己の肉体を極めながら、ひたすら術式の研鑽を続ける。そこから実戦で十分な戦闘経験を積んで、一端の咒士となる」

 ウルヴァンが苦い顔で続ける。

「何より、君に人を傷つける覚悟は必要ない」

 アリアは押し黙ってしまう。

 戦うということは、誰かを傷つけるということに他ならない。いや、傷つけるだけで済めばまだいいのだろう。術式の強力さ、殺傷力はアリアも目の当たりにした。この力は扱い方を間違えれば、容易に人を死に至らしめる。そのとき、アリアはその事実を受け止められるだろうか。

「君がいずれ記憶を取り戻し、再び自分の道を歩み出したとき、その力が役に立つこともあるだろう。俗な話だが、優れた咒士は世界中のどこでも引く手数多で、就職にも困ることはない。君には将来があるのだから、今は背伸びせずともいい」

「背伸びって何ですか、背伸びって」

 そう噛みつくと、ウルヴァンは相好を崩した。

 再び、術式の講義が始まる。

 火を出す術式、水を出す術式、金属を操る術式、風を巻き起こす術式。多種多様な術式をウルヴァンが披露し、それをアリアが真似ていく。第三階梯までの術式に限られてはいたが、一度の失敗もなかった。

「己以上の才など飽きるほど見てきたが、これほどとなると心躍るものがあるな」

「うむ、見事なり。第三階梯までは完璧でござるな。これならば、第四階梯に手を出してみてもいいかもしれませぬ」

 ヤクモの言う通り、アリアは第三階梯までなら完璧に発動することができている。アリア自身もその先を試してみたいが、ウルヴァンは否定した。

「早急すぎる。貴様も知っての通り、第四階梯以降は難度が高くなる。アリアに手ほどきする時間は十分にあるのだから、焦る必要もない」

「それもそうでござるな」

 ヤクモが同意する。好奇心はあるが、この二人が言うなら、アリアも反論するつもりはない。

「とりあえずは、これまでの術式の反復練習としよう。地道な積み重ねが、咒士を支えるのだ」

 ウルヴァンの言に、アリアは頷く。

 二人に術式を教えてもらう時間は、とても楽しかった。息の詰まる逃亡生活の中で、一時的とはいえ手に入れた穏やかで安息の時間。いずれ終わりが来るとしても、このときのことはアリアにとってかけがえのない思い出になるのだろう。

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