二章

 寝起きの目に映るのは、少し見知った天井。

 首を横に回すと、そこには気持ちよさそうに寝息を立てているヤクモの顔があった。

 自分よりも一回り年上の女性だが、こういうあどけない姿を見せられると、自分の方がお姉さんのよう気がしてくるから不思議だ。

 ヤクモを起こさないようにそっと寝台を降りる。

「早起きだな」

 窓の側に腰掛け、珈琲を片手に本を読んでいるウルヴァンが声を掛けてきた。時計を見ると、まだ六時前。

「おはようございます。ウルヴァンさんこそ、朝早いんですね」

「俺も良い歳だからな」

 二〇代の見た目で言う言葉ではなかった。冗談だろうが、どう返したものかとアリアが困っていると、ウルヴァンが立ち上がり、台所に向かう。

 少しして、焼き上げた食パンと即席の珈琲を手にして、戻ってきた。芳しい香りのそれらを、アリアに差し出してくる。

「ウルヴァンさんの分は?」

「気にするな。俺はもう済ませた。成長期のアリアには足りぬかもしれぬが、許せよ」

 そう言うウルヴァンの口角はわずかに上がっていた。昨日のアリアの食べっぷりを思い出しているのだろう。

「じゅ、十分すぎます。ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げる。

 物音に振り向くと、寝ぼけまなこを擦るヤクモの姿があった。

 アリアと朝の挨拶を交わし、ヤクモの視線はウルヴァン、そしてアリアの手元の朝食に向けられた。

「拙者の分は?」

「あると思っていることに、俺は驚愕している」

 ウルヴァンがばっさりと切って捨てる。

「ヤクモさん、はい」

 食パンを一枚差し出す。

「あ、アリア殿……! いえ、武士は食わねど高楊枝。受け取るわけにはいきませぬ」

 伸びかけた手をヤクモは引っ込める。そんな様にアリアはつい笑ってしまう。

「食パン一枚で何言ってるの。ヤクモさんにはいつも助けられてるんだから」

 ヤクモの手を掴み、パンを渡す。

「拙者、アリア殿のために戦えることを誇りに思います」

「だから大げさだって」

 残った食パンを手に取り、齧る。外はカリカリ、中はふんわり。良い焼き加減のパンは、飾り気のないおいしさだった。

 半分くらい食べ進め、珈琲を飲む。苦い。

 その様子を見たウルヴァンは台所に戻り、棒状の袋に入った砂糖を持ってきてくれた。

「済まぬな。気が利かなかった」

「全くでござる」

 食パンを食べるのを止め、横からヤクモが口を挟む。

「アリア殿の歳で、そんな黒い豆を煮出した苦い汁を好む女子などおりはせぬ。ウルヴァン殿は配慮が足りぬでござるな」

「貴様には聞いていない」

「おうおう、気遣いのできない男はもてないでござるよ?」

 ウルヴァンが軽くあしらおうとするも、ヤクモが食い下がる。

 面倒くさくなったのか、窓近くの椅子に戻り、ウルヴァンは再び本を手に取る。

 アリアが朝食を取り終えたのを見計らって、ウルヴァンが今後の話を切り出した。

「アリアの身元について探るなら、役場に向かうのが通常だ」

 しかし、とウルヴァンが続ける。その顔には懸念があった。

「貴様の主が相当の無能でない限り、すでにその手の調査は実施した後だろうな」

 ヤクモは神妙に頷く。

「当然、公共機関への確認は行ったでござる。残念ながら、結果は今の状況が示す通り」

 アリアの戸籍関連の情報は何一つ出てこなかった。親族を探すにも、記憶喪失のアリアには情報が少なすぎたのだ。

「それどころか、拙者たちがアリア殿の身元を調べているのが敵に知られてしまったのは、そのときのことが原因だったようでござる」

「情報が漏れた、ということか」

「敵の素性は分かりませぬが、我等の想像以上に強大でござる。ナハデム山の逃走中も、三〇人以上が追手として差し向けられたでござる」

「それだけの数を動員できる相手か。厄介に過ぎるな」

 ウルヴァンが小さく息を吐く。

「電子端末は持っているか?」

 問いかけられたヤクモは思い出したように、懐から電子端末を二台取り出す。そのうち一台をアリアに向けて差し出してきた。

「新しい端末でござる。前のものは失くしてしまったのでござろう?」

 ヤクモの言う通り、前の端末は川で紛失してしまっていた。お礼を言い、素直に差し出されたそれを受け取る。

「ウルヴァンさんは持ってないの?」

「持っていない。使わぬものを持っていても仕方がないからな」

 それを聞いて、ヤクモがほくそ笑む。

「ははーん、さては連絡を取るような友人がいないでござるな?」

 煽りを受け、ウルヴァンがヤクモへ歩み寄る。高速でウルヴァンの右手が動き、ヤクモの額へ指を弾き当てた。

「あうっ!」

 ヤクモの体が小さくのけ反る。額に手を当て、不満を露にしていた。

「ず、図星でござるな……手ぇ出したら負けでござるよ!」

「別段否定せぬが、貴様に指摘されるのは少々業腹だ」

 二人の間で見えない火花が散っている。何というか、相性の悪い二人だ。

「はいはい、喧嘩はそこまでにしましょー。私たちでギスギスしててもしょうがないよ」

 アリアが仲裁に入ると、二人とも大人しく矛を収めた。根は良い人たちなのだが、ちょっと心配になってきた。

「それで? これがあればどうにかなるの?」

 電子端末を掲げて聞いてみる。

「ああ」

 ウルヴァンは力強く頷いた。

「この街には、良い情報屋がいる」


 ミルヘイム北東部に入り、ボヘミア通りに着いたところでタクシーが止まる。どうやら目的地に着いたようだ。

 扉を抜けた先に広がるのは、粛々とした雰囲気と神秘感が漂うバーだった。バーの内部は薄暗く、照明はぼんやりとした橙色の光に包まれている。哀愁を帯びた音楽が静かに流れ、心地よい空間を作り出していた。

 カウンターと小さな机では、カップルや友人同士が和やかに会話と軽食を楽しんでいる。

「昼前から吞むつもりでござるか?」

 ヤクモが訝し気にウルヴァンに文句を言う。

 ウルヴァンは構わず客席の間を進み、店の奥へと向かっていく。

「邪魔するぞ」

 ウルヴァンの言葉に、カウンターの老バーテンダーが小さく会釈する。既知の仲であるようだ。

 店の奥の鉄扉を開けると、そこには地下につながる階段。

「私知ってるよ。この先には、裏社会の偉い人たちが集まる賭博場があるんだよね?」

「創作物に影響されすぎだ。そんな愉快なものはない」

 にべもなく否定される。

 階段を下りた先には、さらに薄暗い地下室。肌を撫でる冷気がうすら寒い。ソファと机、それに壁に取り付けられた液晶画面。それ以外には本当に何もない。殺風景という言葉がこれほど似合う空間もない。

「ほ、本当につまらないところだ……」

 ぽつりと独り言ちる。

 ウルヴァンに促されるままに、アリアたちはソファに座る。ウルヴァンだけは立ちっぱなしだった。

 間もなく、液晶画面に電気が灯る。映し出されたのは、道化師の仮面。

「久方ぶりだな、ミミル」

「あんたと最後に会話したのは、三年と一七日振りだったっけな。ウルヴァンの旦那」

 無機質な電子音声でミミルが話す。ウルヴァンは苦笑していた。

「相変わらず細かい男だ」

「別に意識しているわけじゃない。人並み以上に記憶力が優れてるだけでさぁ」

 ミミルが笑うのに合わせて、画面に映し出された仮面も同調するように半月の笑みを形作る。

「め、面妖な……」

 ヤクモは眉根を寄せていた。

「山にこもってるのは知っていたが、いつのまに所帯を構えたんで? そんな大きな子供まで拵えちゃって」

「冗談はよせ」

「うむ。拙者のことをウルヴァン度の伴侶と思っているのなら、とんだ心得違いでござる。というか、拙者心外」

 ウルヴァンが否定すると、重ねてヤクモが不満そうに重ねた。

「拙者を娶る者は、拙者よりも強く、気高く、そして今時のイケてる男子でなくてはならぬ。このような陰気な男は御免被る」

 ウルヴァンが煩わしそうにしているが、言葉には出さなかった。単純に面倒くさいと思っているのだろう。

「はじめての方のために、自己紹介をしようか。俺様はミミル。本日の特売品から、お子様は知っちゃいけない国家の隠し事まで。お客様のあらゆる需要に応える一流の情報屋ってね。俺様に知られたくない情報は、ケツの穴にでも隠しておくことをおすすめしますよ」

 流暢な早口でミミルは語り、まだまだその口は止まらない。

「趣味は人間観察……って言うと、そこらへんの気取った阿呆どもと一緒にされがちだが、俺様のは違うぜ。俺様ほど人間って生き物と真剣に向き合っているやつもいない。情報屋なんてやってるのもその延長だ。趣味が高じて今や——」

「油でも差したような舌の滑りは相変わらずだな。だが、こちらの話も聞いてもらおう」

「おっと、これはこれは。大切な大切なお客様を前に、大変失礼いたしました。俺様、反省」

 ミミルの語りをウルヴァンが制止すると、道化の仮面がぺろりと舌を出す。愛嬌があるどころか、単に不気味なだけだ。

「拙者の国には、類は友を呼ぶ、という諺がありまする。略して、類友でござる。変人同士、ウルヴァン殿とは引かれ合う様でござるな」

 ヤクモは神妙な顔で呟いていた。

「ヤクモさんも負けず劣らず変な人だけどね」

「アリア殿⁉」

 飼い主に見捨てられた犬のように、ヤクモが驚き慌てる。冗談だと宥めると、ほっと胸を撫でおろしていた。

「こんなところまで足を運ばなきゃならないなんて、お客さんも少ないんじゃないの?」

 何気なしにアリアが問うと、電子画面に指が表示され、ちっちっちっと振られた。

「ここは複数ある拠点の一つに過ぎないさ。俺様はあまりに有能で大人気すぎるから、顧客の数をある程度絞る必要があってね。俺様の元まで辿り着くこともできない阿呆どもは、相手にする価値もないし、つまらない」

 電子の仮面がため息を吐く。

「わざわざ旦那が動くってことは、例のロスバルクスの件ですかい?」

「関係ない。俺たちの目的はこの子に関することだ」

 ウルヴァンの視線がアリアに向かう。

「アリアという名前以外に手掛かりはないが、この子の親族・戸籍関係の調査を頼みたい」

「う~ん」

 ミミルは何やら考え込んでいたが、ややあって口を開いた。

「どうやら相当厄介なことに巻き込まれてるようですね、旦那」

「どういうことだ?」

 ウルヴァンの疑問は、アリアの疑問でもあった。

「いえね、実はお嬢さん方については別口から依頼を受けてたんですよ。その行方を追って欲しいってね」

「何⁉」

 ヤクモがソファから立ち上がり、身構える。

「落ち着いて、ヤクモさん」

「しかし、今の話が事実ならば彼奴は——」

「わかってる。それでも、まずは話を聞こうよ」

 今日の訪問は偶然だ。ミミルがアリアたちを謀る理由も必要もない。しかし、事情を知らないとはいえ、ミミルが敵に情報を渡したことで追跡されたとしたならば、仲間たちの死を呼び込んだ一因だ。

「情報に善悪はなく、俺様が保証するのはその精度までさぁ。誰かに情報を渡して、その結果何が起ころうと俺様の知ったこっちゃないんですわ。こっちも慈善事業やってるわけじゃないんでね」

 心底興味なさげにミミルが言い放つ。さすがにその言い方は気に障るが、彼を責めても仕方がないとアリアは唇を噛む。

「んまぁ、ウルヴァンの旦那が関わってるってんなら、話は別さぁ。俺様は旦那のことが気に入ってるんでね」

 ミミルが楽しそうに喉の奥で笑う。言葉の通りには信用できない。いくらウルヴァンの知り合いとはいえ、裏切る可能性は否定できない。隣のヤクモも難しい顔をしている。続いて、アリアはウルヴァンを見る。彼はいつもと変わらず、泰然としていた。

「俺様は公正だ。情報に一切の虚偽は入れない。だけど、誰に肩入れするかは俺様の自由だ」

「信用していいのかな? かなり胡散臭いけど」

 問いかけると、ウルヴァンは小さく笑った。

「ミミルの情報は正確だ。人格面で信用できないのは、俺も同意する」

「ひ、ひどい言われようで……」

 ミミルは苦々しい声を出す。ちょっといい気味だとアリアはほくそ笑む。

 ウルヴァンが話を本筋に戻す。

「都合が良い。貴様に接触したのは、何者だ?」

「う~ん、ええと、誰だったかな……?」

「記憶力が優れてると言っていたが、嘘ではないか」

 ミミルが考えているところに、ヤクモが指摘する。

「まあ、そう言いなさんな。ちょっと時間がかかるだけで、記憶を辿れば問題ない。つまらない人間のことは覚えていてもしょうがない」

「もしかして、ドクラって人じゃないですか?」

「そういや、そんな名前だった気もするな、うん」

 アリアが心当たりを口にすると、ミミルは思い出したようでうんうんと肯定した。

 次いで、電子画面に髭面の中年の顔が表示される。あまり思い出したくない顔のため、思わず顔を顰めてしまった。

「いざ調べてみると、このドクラって男も結構面白いですね。ドーマ連邦第一八軍の曹長を務める叩き上げの軍人でしたが、数年前妻の不倫現場を目撃し、傷害沙汰を引き起こしてます。結果、自己都合による退職に追い込まれてますね」

「見本のような転落人生だな」

 ウルヴァンがつまらなそうに吐き捨てる。アリアとしても同情の気持ちは湧いてこない。

「動機については何か聞いていないか?」

「いやぁ、そういう話は聞いてませんね。あまり興味ありませんでしたし」

 ウルヴァンの問いに、どうでもよさそうにミミルが呟く。電子画面上では、道化が小指で鼻をほじっている。

「人間観察が趣味なら、興味持てでござるよ。本当に胡散臭いでござるな」

 ヤクモがぼやいているが、ミミルは無視して鼻笛を吹いている。話が進まないので、アリアが切り出す。

「ドクラは自分の意思で私を捕まえようとしていたわけじゃなかったみたい。多分、誰かに雇われてたんだ」

「なるほど、そういう線ね」

 電子画面に膨大な文字と画像が滝のように流れていく。高速で表示される情報をミミルが切り取っていく。

 電子上でどのような処理がなされているのかは読み取れないが、何やらすごいことが行われているのはわかった。一方、ヤクモは目まぐるしく飛び交う情報の洪水に、すっかり目を回していた。

「これはいったい全体、何が起きているのでござるか?」

「街中の監視映像の中から、ドクラと思しき人物を人工知能によって特定。時系列順に並べることで、行動の足跡を追っている、というところか」

「まあ、だいたいそんな感じ。実際には、ちょっと、いやだいぶ複雑な処理をしてるんだけどね」

 ウルヴァンの解説に、ミミルが付け足す。

「それってもしかしなくても立派な犯罪なんじゃないの?」

「ゆえに、ミミルは自らの正体を明かさない。誰彼構わず、重要な情報をばらまくことも相まって、依頼人の数よりも敵の数の方が多い。嫌いな芸能人の自宅に、一〇〇枚の宅配ピザを着払いで送り付けるような真似もしている」

「しょ、しょーもなさすぎる……」

 ウルヴァンの批評を聞いて、アリアは呆れるしかなかった。

「しかし、ミミルほど高い情報収集を持つ者がいないのも事実だ。電子の海でつながっている限りは、奴はどこからでも情報を拾ってくる」

「へへっ、お誉めに預かり光栄でさぁ」

 液晶の仮面がへらへらと笑う。電子画面上の情報の滝が制止し、ミミルが喉の奥で唸る。

「これはこれは……ちょっと驚きですね。ドクラに接触したのは、バクゥ一家みたいです」

「バクゥ一家?」

 何気なしに復唱する。ウルヴァンは渋面を作っていた。

「いわゆる黒組織の一角だ。イエルゴ=バクゥを首魁とし、裏社会でも武闘派集団と名高い。関わり合いになって楽しい連中でないことだけは保証する」

 アリアは思わず息を呑む。自分を狙う相手が、想像以上に大きな組織であることに驚愕を隠せない。

「表向きはバクゥ興業として不動産業を営んでいますが、裏じゃ麻薬取引、殺人、密輸に高利貸し。まあ思いつく限り全ての犯罪に手を出していますね」

 ミミルはどこか愉快そうに告げる。何が楽しいのか知らないが、アリアにしてみればたまったものではない。自分を狙うのが、最悪の相手であると告げられ、暗澹たる想いだ。

「奴らはこのミルヘイムの近辺に支社を持たない。故に、土地勘のあるドクラを雇ったというところだろう」

 ウルヴァンの目に分析の光が宿る。

「敵の正体がわかっただけでも収穫でござるな。されど、何故黒組織がアリア殿を狙うのか」

「少ない脳の容量を無駄に使うな」

「なんか拙者への当たり強くない?」

 ウルヴァンのぞんざいな言葉に、ヤクモがぷりぷりと怒っている。

「このミルヘイムにもバクゥ一家の若頭であるジェイバーが来ています。わざわざ幹部級が出向くとなると、余程嬢ちゃんたちに執着しているようですね」

ミミルが呟くと、ウルヴァンは獲物を定めた狼のごとく、獰猛な笑みを浮かべていた。

「分かりやすくなってきたではないか」

 ぞっとするような雰囲気を纏うウルヴァンは、アリアでさえも恐ろしく感じられた。

 ミミルだけが心底楽しそうに笑っている。

「いいねぇ、やっぱり旦那のこと好きだよ。あんたみたいな人間がいるからこそ、俺様は退屈しないでいられるってもんだ」

 ピピッと電子音が重なる。衣嚢から電子端末を取り出すと、画面上に通知。隣では同じくヤクモが自身の端末を道衣の懐から取り出していた。

「いつでも連絡を取れるようにしておいた。用件があるとき以外は呼ばないように。俺様が暇なときには連絡するかもしれないからよろしくね」

「えっ、本当に?」

 ミミルの言によれば、アリアたちの電子端末は不正侵入されたということになる。こうも簡単にそんな真似ができるなんて、アリアには俄かに信じ難かった。

「無駄な連絡はするなでござる。変人の話し相手を務めるなど御免被る」

 ヤクモはそう吐き捨てて、懐に電子端末を戻した。

「報酬はいつもの口座に振り込んでおく」

「あいあい。旦那は金払いが良いから助かる」

 上機嫌なミミルを尻目に、ウルヴァンはヤクモの前へ歩み寄った。そして、あろうことか、ヤクモの懐へと無造作に手を突っ込む。戻されたとき、ウルヴァンの手には電子端末が握られていた。

 呆気に取られていたヤクモの顔が、見る見るうちに紅潮していく。

「少し寄るところがあるため、端末は借りていく。お前たちは先に帰っていろ」

「この不埒者がっ!」 

 ヤクモが立ち上がり、ウルヴァンの胸倉を掴み上げる。その勢いのまま、前後にウルヴァンの体を揺すっている。

「女子の胸に触れるなど、断じて許すまじ!」

「何を怒っているのかよく分からぬ」

 激しく揺すられながらも、ウルヴァンは冷静だった。

「今のはさすがにウルヴァンさんが悪いよ」

 アリアも擁護のしようがなく、重々しく嘆息してみせる。このウルヴァンという男には紳士的な振る舞いというか、そういったものを期待してはいけないようだ。その証拠に、ウルヴァンは何が悪いのか本気で分からないと言いたげな顔をしている。傍若無人なミミルでさえも呆れを隠せていなかった。

「旦那、一般的に今の行為は警察に突き出されても文句は言えないですぜ」

「そうなのか。金床のようなものだからと、配慮が足らなかった。すまぬな」

 ウルヴァンがヤクモに謝罪する。しかし、どう見ても煽っているようにしか見えなかった。

 ヤクモのこめかみに青筋が浮かぶ。やがて、全てを悟ったような笑顔になる。ゆっくりとその右手が、腰の刀に向かおうとしていた。慌ててアリアはヤクモに抱き着いて止めようとする。

「ヤクモさん、それはまずいから! ここは我慢して!」

「後生でござる! 後生でござるから、止めてくれたもうなアリア殿!」

 アリアは必死で制止しようとするが、ヤクモの目が血走っている。非常によろしくない状態だ。

「旦那にも愉快な仲間ができたようで何よりでさぁ」

「そうだな」

 ウルヴァンが笑う。先ほどの獰猛なものとは違う、優しさを湛えた笑みだった。

 階段へと向かうウルヴァンが一度だけこちらを振り返った。その視線が、アリア、次いでヤクモへと移る。

「貴様の剣士としての腕は信頼に値する。俺がいなくとも、アリアを守ってみせろよ」

 その言葉を受け、ヤクモを覆う雰囲気が変わる。鮮烈な刃のごとき烈気が、ウルヴァンに応えるように放たれていた。

「言うに及ばず。身命を賭して、アリア殿を御守りすることこそ、我が使命なれば」

 その答えに納得したのか、ウルヴァンは振り返り、今度こそ去っていく。

 共通の知人であるウルヴァンがいなくなったためか、画面が暗く落ちる。残されたアリアとヤクモも立ち上がり、地下から離れ、外に出る。暗室にいたことで、太陽の光が眩しく、思わず目を細める。

 ウルヴァンがどこへ向かうつもりなのかはわからないが、アリアにできるのは待つことだけだ。

 自分を狙う相手の正体を知り、アリアの胸には不安が立ち込める。それでも、傍にいるヤクモ、そしてウルヴァンがいればきっと大丈夫だろうと、アリアは不思議とそう信じることができた。


 アリアたちと別れ、ウルヴァンが訪れたのは、ミルヘイム南東部側にある三階建ての一軒家。貸切型の別荘であり、大人数の宿泊が可能。即席の拠点に適した一軒家だった。

 ウルヴァンが衣嚢から電子端末を取り出すと、自動で端末が起動。道化の仮面が表示される。

 玄関の前まで近寄ったところで、衣嚢からミミルが電子の声を落とす。

「ジェイバーはここに滞在していますが、本当に乗り込むおつもりで?」

「ここまで来ておいて帰るのも間抜けだろうが」

 敵の拠点に足を運んでおきながら、ウルヴァンには一切の気負いはなかった。

「いえね、本来真っ向からバクゥ一家に喧嘩を売るなんて、余程の馬鹿か自殺志願者くらいのもんなんですよ。何より、武闘家集団の幹部を務めるジェイバーは手強いですぜ」

「ほう」

 ウルヴァンの声に興味の色が混じる。

 電子端末から立体映像が展開。裏社会で長く生きた者特有の、剣呑な瞳をした男の顔が映し出される。

「咒士は基本的に自らの手の内を明かさず、それは一流に近づけば近づくほど顕著になります。ジェイバーの使う術式も不明でさぁ。ただ、敵対した者はみんな仲良く、体に穴を開けられて死んでいるって話は有名ですね」

「面白そうではないか」

 不敵な発言に、ミミルも愉快そうに笑い声を漏らす。

 ウルヴァンは端末をしまい、玄関扉の取っ手を掴む。回すのではなく、力任せに引っ張る。施錠された扉が軋みを上げる。ウルヴァンの腕の筋肉が隆起し、構わず引っ張り続けると、扉の軋む音が大きくなる。やがて、扉を固定する金具が限界を迎え、扉が強引に剝がされ、破砕音が周囲に響き渡る。

「うっわ、馬鹿力。いや、見えてはいないんですけどね」

 衣嚢からは呆れの電子音声。

 ウルヴァンが疾走。貸別荘の中に、高速で踏み込んでいく。居間に踏み込み、立ち止まった。そこにいた男たちの怒声が上がる。構わず、ウルヴァンが問いかけた。

「ジェイバーはどこにいる」

 最も近くにいた男がウルヴァンを明確な敵と見なし、襲い掛かってくる。しかし、ウルヴァンからしてみれば、緩慢に過ぎた。

「幸いなことに、裏社会の者に不幸な事故が起こったところで、誰も気に留めない」

 男の手首を掴み取り、握力で骨をへし折る。男が叫びを上げるが、ウルヴァンは平然と男を壁に投げ、叩きつける。

 裏社会を生きる人間は一度舐められてしまえばお終いだ。故に、彼らが法の庇護に頼ることができないことまで承知の上でウルヴァンは乗りこんできていた。

 仲間がやられたことで、周りの者もウルヴァンに飛び掛かるように迫ってくる。

 それは、戦いではなく、一方的な蹂躙だった。武闘派集団であるバクゥ一家の者が複数人で迫っても、ウルヴァンに肉薄することすらできない。ただ、ウルヴァンは膂力に任せて戦っているに過ぎないが、その膂力が圧倒的だった。ウルヴァンが拳を振るうたびに人の体が飛ぶ。象の歩みを人間が止められないのと同様に、ウルヴァンを止められる者はこの場にはいなかった。

 あっという間に全員を片付け、ウルヴァンは小さく息を吐く。

「さて、本命はどこにいる」

 上の階でパリンと小気味の良い破裂音。ウルヴァンは即座に階段へ向かい、上階へと昇っていく。

 音のした方の部屋に立ち入ると、窓硝子が割られていた。窓の側まで近寄り、外の様子を窺うと、先ほどの立体映像で見た男、ジェイバーがウルヴァンを見上げていた。

「逃げるつもりはないということか」

 後を追うようにウルヴァンが窓から飛び降りる。ジェイバーは鋭い目でウルヴァンを睨みつけていた。

「どこの手の者か知らないが、誰に喧嘩を売っているのか理解しているのか?」

「三下の問いだな。退屈に過ぎるから控えてくれ」

 ウルヴァンの挑発を受け、ジェイバーの剣呑な目つきがさらに鋭くなる。

「貴様らがアリアを狙ってきていることは分かっている。その事情を知りたくて、こうしてお邪魔しに来た」

「アリア、だと?」

 ジェイバーの顔に思慮の色が表れ、俄かに笑みを浮かべる。

「そうか、お前はあの”印付き”の関係者か」

「大人しく話す気はないだろうから、制圧した後に話を聞かせてもらうぞ」

「舐められたもんだな」

 ジェイバーが術式を展開。高速で楔が一つ砕け、灰色の燐光が地面に到達。そこから生成された槍をジェイバーが手に取る。形状自体は至って普通の槍だが、槍の柄を短い管に通しているのが特徴的だった。

「”錬金”の術式は基本術式の一つだが、大した練度だ。あのふざけた女侍にも見習わせたいものだな」

 素直にウルヴァンは賞賛した。”錬金”は鉱物に干渉し、形状を変える単純な術式。地中の鉱物を集約し、即座に武具を生成するとなると相当な練度を必要とする。

 ジェイバーが槍を構えた。槍の管と柄を握るその構えは堂に入っており、確かな研鑽を感じさせる。

 ウルヴァンが術式を紡ぐ。現れた楔は三つ。その式は、”撞破爆”。ウルヴァンが得意とし、威力・発動速度共に優れた一手。距離を置いている今は最善の術式だった。楔は瞬時に砕け散っていき、残り一つとなったところで、ジェイバーが槍を突き出す。

 疑念。ウルヴァンは術式の展開を放棄し、ジェイバーの挙動に注視する。瞬間、ウルヴァンの眼前に槍が迫ってきた。獣のごとき俊敏性でウルヴァンは穂先を躱す。回避で崩れた体勢を戻す。ジェイバーの方を見ると、すでに次の一撃が放たれていた。

 ジェイバーが槍の管を滑らせることで突きを繰り出すと、槍の穂先が急速に伸びてくる。穂先がウルヴァンの肩を捉えた。せめて槍を掴み取ろうとするも、穂先がウルヴァンの手から逃げていく。

 ウルヴァンは即座に背後に飛び退き、大きく距離を取った。次の攻撃が来る前に、術式を構築。地中から石壁を展開した。”鉱壁”の術式は、応用力では”錬金”に劣るが、発動速度に優れる。

「小賢しい!」

 石壁の反対側を穿つ音が、絶え間なく聞こえてくる。連撃で無理やり突破しようとしているのだ。すぐに石壁が砕かれた。

 視界を遮る壁が消えたことで、両者の視線がぶつかり合う。

「面白い槍だな。その管が突き出す際の摩擦を限りなく無くし、高速の突きを可能とする。そして、突き出すと同時に”錬金”を応用し、槍を超速で伸縮させるか。なるほど、ミミルの評の通り手練れだ」

「そう言うお前は得体が知れないな。せっかく抉ってやった肩がもう塞がってるじゃないか」

 ジェイバーは眉間を寄せて吐き捨てる。ジェイバーの言う通り、ウルヴァンの傷はすでに癒えていた。

 ウルヴァンはジェイバーの技を分析する。距離を置いている今追撃してこないということは、槍は際限なく伸びてくるわけではない。しかし、一撃一撃が高速、かつ管槍が可能とする連撃は中距離の間合いを完全に支配する。遠距離から術式を紡ごうとすれば、即座に間合いを詰め、術式を発動される前に畳みかけるつもり算段なのだろう。

 高位術式を使えることだけが高位咒士の条件ではない。基本的な術式であっても、その練度を限りなく高めた者もまた、高位の咒士に名を連ねるのだ。その意味で、ジェイバーは紛れもなくそこに含まれる男だ。

「あの”印付き”につながる手掛かりが自分からやってくるとは、願ってもない。手元が狂って殺さないようにするのが少々面倒だけどな」

 ジェイバーが優越の笑みを浮かべる。捕食者は自分であるという自信に塗れた表情だった。

「貴様は優れた咒士であることは認めよう。だが、それだけだ」

 ウルヴァンはそう断じた。屈みこみ、地面に拳を打ち付ける。楔が一つ砕け、”錬金”の術式が展開。鉄の装甲がウルヴァンの拳を纏っていく。

 地を砕かんほどの勢いで、ウルヴァンが駆け出す。射程距離に入ったことを確認し、ジェイバーが槍を突き出した。ウルヴァンは最小の動作で穂先を躱す。ジェイバーが槍を引くと同時に、槍が瞬時に収縮する。一撃を逃れたとしても、ジェイバーの攻撃は絶え間なく続く。

 ウルヴァンは構わず前進する。ジェイバーの機関銃のごとき連撃だが、ウルヴァンを捉えることができない。時には躱し、時には装甲を纏った拳で弾くことで、槍をいなしていく。ジェイバーは焦りからか、背後に下がりながら槍を繰り出していくが、詰めるウルヴァンの方が速い。

「ちっ!」

 ジェイバーは突きの連射を止め、仮想現実への介入を開始。虚空に四つの楔が現れる。

「深淵、胎動する地母神の憤懣、大地より蒼穹を穿つ」

 ジェイバーの詠唱により、術式の展開速度が上昇。

 術式を発動するのに、本来詠唱は必要ではない。しかし、言語による定常処理を挟むことで術式の補助とする手法はまま見られる手段だ。特に、発動速度は低位術式に劣るも、威力は段違いである中位以上の術式では有効だった。

「そう来るか。ならば」

 呼応するように、ウルヴァンも術式を展開。

「巨岩、蒼穹穿つ矛となれ」

 展開する術式は、ジェイバーと同様のもの。

 先に詠唱を開始したジェイバーの式が完成。橙の燐光が地面に落ちた。刹那、地面が隆起し、円錐状の巨岩となる。それは前方へ連なって発生し、ウルヴァンへと急速に迫っていく。第四階梯術式、”地斬烈衝”だ。

 遅れて、ウルヴァンの術式、同じく”地斬烈衝”が発動。巨岩の槍がぶつかり合い、砕け散る。大地の中で、術式によって生み出された力が拮抗。打ち勝ったのは、ウルヴァンの方だった。

 ジェイバーの生成した巨岩を呑み込み、ジェイバーへと迫る。自らの術式が後出し、しかも同じ術式で破られたことでジェイバーの顔には驚愕が張り付いていた。ジェイバーは横に身を投げ出すことで迫りくる巨岩を回避する。

 追撃として、ウルヴァンは術式を展開。生じた三つの楔が崩れ落ちていき、黄色の燐光が発生と同時に消失。次の瞬間、電光が迸った。

 第三階梯術式“電蛇牙”。電磁の蛇が超高速でジェイバーへと襲い掛かる。

 ジェイバーは間一髪のところで、回避に成功。しかし、すでに両者は近距離の間合い。

ジェイバーが槍を横薙ぎに振るう。直線的な攻撃に慣らされたところには効果的だが、ウルヴァンは難なく槍を掴み取り、剛力のままに槍を引く。

 鈍い音。ジェイバーが前のめりになったところを、ウルヴァンの拳が腹部を撃ち抜いた。振り切るのではなく、あくまで置きに行った拳だが、ジェイバーの体がくの字に折れる。歯を食いしばりながら、ジェイバーががむしゃらに拳を振るう。だが、近接戦闘はウルヴァンが上手だった。ジェイバーの攻撃は当たらず、ウルヴァンの拳が的確にジェイバーを捉える。たまらず、ジェイバーは退き、それと同時に術式を紡いでいた。二つの楔が砕け、術式が顕現。左右の地面が盛り上がり、二本の鉄槍となってウルヴァンに迫る。

 だが、ウルヴァンは左の槍を回避、右から来る槍は拳を打ち付けることで破壊。間を置かず、ジェイバーへと肉薄した。鋼鉄の拳を再び腹部に突き入れる。ジェイバーが悶絶し、崩れ落ちる。追い打ちをかけるように、肘撃ちをジェイバーの背中に入れ、地に叩き伏せた。

「貴様程度の咒士は、これまでに何度も相対してきた。今更後れは取らん」

 ウルヴァンの声には、失望の響きがあった。身を屈め、ジェイバーを抑え込みながら問い詰める。

「俺に拷問の趣味はない。聞かれたことに、即座に、端的に答えろ」

「馬鹿が、誰が——」

 小気味の良い破砕音。ジェイバーの右小指を折ったのだ。叫びこそ上げなかったものの、ジェイバーが苦悶の声を漏らす。

「アリアを狙う理由は?」

 ジェイバーは押し黙るが、ウルヴァンはそれを許さず、今度は右薬指をへし折った。ジェイバーの額を脂汗が流れる。

「早めに答えることをおすすめするぜ。ウルヴァンの旦那が指で済ませているうちは優しい方だ。いやマジで」

「ふざけやがって……言えるわけがないだろうが!」

 電子端末からのミミルがどうでもよさそうに言うと、ジェイバーが怒りを示す。

「もし口を割れば、イエルゴさんに殺されちまう! あの人にだけは逆らうわけにはいかない!」

「今死ぬか、後で死ぬか。どちらを選ぶかは貴様次第だ」

 骨の砕ける音。三本目は右中指だった。くぐもったジェイバーの声が漏れる。

「もう一度聞く。アリアを狙う理由は?」

 ウルヴァンが問う。余程イエルゴが恐ろしいのか、それでもジェイバーは答えようとしない。

「面倒になってきたな。長居する気もないから、手荒にいくぞ」

 ウルヴァンは億劫そうにそう呟くと、ジェイバーの右肘に拳を振り下ろした。構造上有り得ない方向に、右腕が折れ曲がる。

「ぎ、ぐわあああぁあっ!」

 耐えきれず、ジェイバーが絶叫。懐ではミミルが「言わんこっちゃない」とこぼしていた。

「もう質問を繰り返す必要はないな?」

 ウルヴァンが問うと、観念したようにジェイバーが項垂れる。

「お、俺だって詳しい事情なんか聞いていない……! ただ、イエルゴさんにあの”印付き”を捕まえてくるよう命令されただけだ」

 痛みで息も絶え絶えに、ジェイバーは答えた。

「貴様らの狙いが、アリアの宿す呪にあることは分かっている。であれば、その正体も知っているはずだ」

「そんなことは、知らん」

「そうか。残念だ」

 ウルヴァンの拳が今度はジェイバーの左腕に当てられる。ジェイバーは見る間に取り乱していた。

「嘘じゃない! 俺も聞いてはみたが、イエルゴさんは教えてくれなかった」

「役に立たぬな。幹部という割に、走り使いと変わらぬではないか」

「余計なお世話だ……あの人に取っちゃ、俺だって替えの利く駒に過ぎねえ」

 ウルヴァンの皮肉に、ジェイバーが不愉快気に吐き捨てる。

「旦那ぁ、この調子じゃ本当に知らないんじゃないですかね?」

「かもしれぬな。もう少し有意義な話ができると思っていたが、当てが外れたか」

 ミミルが暢気な口調で言うと、ウルヴァンは肯定した。

「だが、俺の目的はそれだけではない」

 低く強い声で呟くと同時に、ウルヴァンの拳がジェイバーの左腕を撃ち抜いた。

「がああああっ!」

 絶叫。右腕同様、見るも無惨にジェイバーの左腕が砕けていた。

「な、なぜっ……⁉ 俺は嘘なんて吐いちゃいない!」

 懇願するようにジェイバーが言うも、ウルヴァンの冷ややかな視線が迎える。

「イエルゴ=バクゥに伝えておけ。アリアを狙うならば、貴様もただでは済まないとな」

「正気じゃねえ……イエルゴさんに歯向かうやつは、全員漏れなく墓の下にいる。今までに一つの例外もねえんだ!」

「そういう手合いを、これまで幾度となく葬ってきた。これから先も同じことだ」

 バクゥ一家という巨大組織相手にも、ウルヴァンの餓狼のごとき眼差しには一切の逡巡がない。

 ウルヴァンはジェイバーの拘束を解き、何事もなかったかのように、帰路への歩みを進める。

「ミミル。早速だが、調べてもらいたいことがある」

「はいはい、イエルゴについて、ですね?」

「話が早いな。身辺調査を頼む」

「ジェイバーは何も知らないようでしたが、少なくともイエルゴから直々に命令を受けていることは分かりましたからね」

「裏社会の首魁が、不確かな情報で動くことはないだろう。おそらくイエルゴはアリアの呪について知っている。そこに、アリアの失われた記憶につながる何かがあるはずだ」

「本気でバクゥ一家を敵に回すつもりですか。俺様なら、生涯遊んで暮らせる大金積まれてもお断りしますがね」

「俺に与するお前も立場的には危うくなるな。我が身可愛さに俺を裏切るか?」

「ご冗談を。旦那を敵に回すなら、人生三回分でも割に合いませんや。そもそも、俺様の尻尾を掴めるやつなんて大陸中探して何人見つかるかって話ですよ」

 ミミルが愉快そうに笑い声を上げる。

 去っていくウルヴァンは、一度だけ背後を振り返った。屋内にいたバクゥ一家の面々がジェイバーに駆け寄っていた。彼等はウルヴァンの姿を認め、怒声を上げるが、誰も近づこうとはしない。

 頭目であるジェイバーの痛ましい姿を見て、萎縮してしまっているのだ。

「退屈、だな」

「はい? どうかしましたか?」

「いや、何でもない。取るに足らぬ独り言だ」

 その呟きには、重い寂寥が込められていた。


 ミルヘイム南東部ケアフィンガー通りからノイオン通りへと移動する。陽は西の空にゆっくりと傾き、その光は街全体を温く染め、街の輪郭が美しく浮かび上がらせた。

 街路を往く人々は、それそれの目的地に向かって忙しなく歩を進める。ウルヴァンもその中に紛れていた。つなげておくと何かとやかましいため、ミミルとの連絡は切っていた。

 ウルヴァンが向かう先は、総合量販店。昨日は出来合いのもので済ませたが、今後はしっかりとした物をアリアに食べさせるため、食材を調達しに向かっていた。

「少しよろしいかな?」

 献立を考えながら歩いていくと、不意に横から声を掛けられた。

 視線を向けた先にいたのは、小麦色の肌をした妙齢の女性。最上の織物を思わせる艶やかな金の髪。見る者を魅了するように妖しく輝る緋色の瞳。神秘性を纏ったその女性は、名工が手掛けた彫像のごとく、全ての要素が理想的な比率で構成された美しさを備えていた。彼女が身に着ける衣装は男物の礼服であり、男女問わず羨んでしまうような、一つの美の到達点であった。

「ああ、いや失礼。怪しい者ではないんだ」

「押し売りならば、時間の無駄だ。他を当たれ」

「いやいや、そういうのではなくてね。ちょっと困ってるんだよ。困ってる美人さんを放っておかないのが、男の甲斐性というものではないかい?」

 女性が困ったように笑う。どうやら観光客のようだが、自分のことを美人と言い切る性根は大したものだ。

「話は聞こう。俺も暇ではないから、手短にな」

 さっさと解決してしまった方が早いと判断し、ウルヴァンは仕方ないとばかりに言う。

「あれを見てくれ」

 女性が指し示す方向には、露店があった。豚肉の腸詰と麦酒を売っている、言ってしまえばどこにでもあるような店だ。

「ドーマ連邦と言えば、腸詰と麦酒の黄金の組み合わせだろう? さっそく買おうとしたんだけど、誤算があった」

 女性が一枚の紙幣を取り出すと、ウルヴァンは興味深そうにそれを眺める。

「旧国立銀行券、それも一〇〇年以上も前の代物か」

「法律上、未だに効力を持つはずなのだがね。あそこの店主には、断られてしまった。今時電子決済に対応していないなんて時代錯誤に過ぎるよ」

 女性が小さく息を吐く。偽札と疑われたわけではないだろうが、店主は余計な面倒を避けようとしたのだろう。

「それは取っておけ。今となっては貴重なものだから、額面以上の価値がある」

 そう言って、ウルヴァンは代わりと言わんばかりに自分の財布から紙幣を取り出した。

「もしかして、奢ってくれるのかい?」

「良いものを見せてもらった礼だ」

「ありがとう。やはり美人は得するね」

「そういう意図はないのだが」

 ウルヴァンの答えに対し、女性がちろりと舌を出す。いい歳した大人がする動作ではないが、ウルヴァンは口には出さなかった。

 女性が露店に向かったのを確認し、ウルヴァンは再び歩みを進める。

「いやいや、ちょっと君。そこは待っていてくれたまえよ」

 ややあって、背後から早足で女性が追いかけてきた。手には腸詰の串と、麦酒の缶。すでに腸詰は数口齧られた跡がある。

「用件は済んだのだろうが、なぜ追いかけてくる」

「自己紹介が遅れたね。私はセラフィ。よろしく頼むよ」

 セラフィが手を差し出してくる。握手のつもりなのだろうが、ウルヴァンは応えなかった。セラフィは「つれないなぁ」と苦笑していた。

「ほら、一口どうぞ。奢ってもらうだけというのもさすがに申し訳ないから」

「要らぬ。そういうことは自分が手を付ける前に申し出るものだと思うが」

「おかしいな。美人の食べかけは、通常時と比較して三倍の価値があると聞かされていたんだけどね」

「特定の嗜好を持つ人間ならばそうだろうが、俺はそうではない。変態どもの括りに俺を入れるな」

 本気で疑問顔のセラフィに、ウルヴァンは呆れ顔で応えた。ウルヴァンの横に並び、セラフィがついてくる。ウルヴァンは気にしないようにしている一方、セラフィは腸詰を美味しそうに頬張り、缶の麦酒を呷っていた。

 飲食を終え、満足そうにしていたセラフィにウルヴァンが問いかける。

「貴様は観光客なのだろうが、なぜこの国の古い紙幣など所持している?」

「昔住んでたからね、そのときのものさ。そもそも、私は観光客じゃなくて、こちらには仕事で来ている」

「そうか」

 ぶっきらぼうにウルヴァンが返し、会話が途切れる。

「いや、会話が終わってしまったじゃないか」

「何か問題があるのか?」

「問題はない。ないけど、こんな謎めいた美女について何も気にならないなんてことがあるのかい?」

「一つ気になることはある」

 ウルヴァンは抱いていた疑念をぶつけることにする。それは、はじめて相対したその時から感じていたものだ。

「貴様とはどこかで出会ったことがあるような、奇妙な感覚がある。何か心当たりがあるか?」

 ウルヴァンの問いかけに、セラフィは一瞬驚愕の表情を浮かべ、すぐ笑顔になる。

「おやおや、軟派の手口にしてはだいぶ古臭いね。個人的には嫌いではないけど」

「話しかけてきたのは貴様の方からだろうが」

「言われてみればそうだった気もするね」

 ふふんとセラフィはほくそ笑む。

「真面目に答えると、君が覚えていないのならば、きっと私たちは初対面なのだろう」

「そのはずなのだが……いや、いい。妙なことを聞いて済まぬな」

 奇妙な感覚は拭えないが、ウルヴァンはそれを無視することにした。

「セラフィ様!」

 街路の先から、セラフィを呼ぶ声があった。複数人の男がこちらに駆け足で近寄ってくる。

「探しましたよ。急に姿を消すのはおやめください。ああ、また知らない人に迷惑をかけて」

 その内の一人が咎める口調で言うも、セラフィは愉快気に笑っていた。

「はっはっは、まあそう言うな。堅苦しいお前たちと一緒では、気軽に楽しむこともままならないからね」

 ウルヴァンは内心で同情しておいた。他人事に過ぎないから、口に出しはしないが。

「世話になったね。いずれこのお礼はさせてもらうよ」

「それは、再び会う機会があればの話だろう」

「どうやら、私たちは相性が良いらしい。きっとまた巡り会うさ。私たちは、そういう因果の元にいる。君もそんな気がしないか?」

「占い師めいたことを言うものだな。売れない部類だが」

「ははは、違いない」

 あっけらかんと言うセラフィに、ウルヴァンは苦笑する。

 ウルヴァンとセラフィは分かれ、互いの目的地に向かう。夕暮れの赤は深みを増し、ミルヘイムの街を呑み込んでいく。


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