不死なる餓狼のメメントモリ

高橋邦夫

一章

 ドーマ連邦共和国ハイウェン州の北。同国北北東部の国境沿いに堂々と聳えたつオルペンヌ山脈。一際大きい主峰であるナハデム山は、その麓に常緑針葉樹の大森林を携えている。

 雄大な森林は、深く密集した大木と低木、さらには様々な種類の植物で埋め尽くされている。太い樹幹の古木が空高く伸び、その根元には若木や植物がびっしりと生え揃う。

 そこには、歴史によって織り成されてきた複雑な生態系が存在していた。しかし、鳥たちのさえずりや、小動物たちの足音も今は聞こえない。豪雨が大森林を叩きつける音が、森林の音をことごとく呑み込んでいたのだ。水滴は木の葉や枝を打ち、それらが相次いで地面に落ちる様は、暴力的なまでの騒音を生み出していた。

 その中、まだ幼さを残した少女——アリアは汗と雨でびしょ濡れになりながら、必死に森を駆け抜けていた。

 足元の腐葉土は、雨水でぬかるみ、まるで泥沼のようになっていた。何度も転びそうになりながら、急な斜面や倒木、深い水たまりを避けるようにして進んでいった。雨のせいで視界は悪く、前方がぼやけていたが、アリアは止まるわけにはいかなかった。

 稲妻の光が見えた。光に遅れて、雷の轟音が耳を打つ。異常気象から隠れるように、森林の動物たちは一切姿を見せない。

 アリアの背後。雨音に交じって、落ち葉や枯れ枝が踏み抜かれる乾いた音が聞こえる。追手が近づいてきているのだ。

「ここで、捕まる、わけには……!」

 アリアは奮起する。

 追手が何者であるのかも、なぜ自分が追われているのかも理解できない。ここに来るまでに彼女を護衛してくれていた人たちも、その理由を教えてはくれなかった。

 彼らはアリアを逃がすために、一人、また一人と追手を食い止めるための後備えとなっていった。そして今ではアリアは一人。護衛の人たちも皆無事ではいられないだろう。

 だからこそ、逃げ切らなくてはならない。ここで追手に捕まってしまえば、自分を守ろうとしてくれた人たちの心意気を無駄にしてしまうことになる。

 護衛の一人、はるか極東の国から来たという剣士は『この先にいるであろう人物を頼れ』と言っていた。向かうべき位置は、電子端末で確認済み。

 雨水の重みでしな垂れた木々の葉と枝、絡みつく蔓を振り切って、アリアは走る。長い距離を駆け続けたせいで、心臓は激しく鼓動し、どれだけ空気を吸っても足りやしない。足はもう重く、このまま倒れてしまいたい衝動に駆られるが、それでも立ち止まらない。進むべき方向だけを見据えて、必死になって森の中を突き進んでいった。

 悪い視界の中で、前方に開けた景色を確認する。茂みを抜け出した先で、アリアは歯噛みした。

 豪雨の影響で急激に増水し、荒れ狂う水流が眼前に広がっていた。とても横断できるような川ではないことは一目でわかる。轟々と押し寄せる激流は、アリアの小さな体など他愛もなく押し流してしまうだろう。呑み込まれてしまえば、生存は望み薄。

 足を止めたアリアの背後から、茂みを抜けて、三人の男が姿を現した。髭面の中年と、部下と思わしき若い男が二人。

「年貢の納め時ってやつだな、お嬢ちゃん」

 逃げ場を失ったアリアに、髭面の男が下卑た視線を向けている。

 連れの若い男が息も切れ切れに口を開く。

「たかが小娘一匹捕まえるのに、ずいぶんと苦労させられましたね……特に、あの女剣士はちょっとばかり強すぎて、ここまで来れたのは俺たち三人だけって有様。ひどいもんです」

 警戒心を露にして睨みつけるアリアに対し、髭面の男が大口を開けて笑う。

「安心しろ。取って食おうってわけじゃねえんだ。ただ、お前の宿す呪とやらに、お偉いさんが興味津々のようでな」

 髭面の男の言葉に、部下の一人が反応する。その顔には、焦りと怯えがあった。

「それって、”印付き”ってことですか? 聞いてないですよ、ドクラさん」

「間抜け。どんな呪があろうと、こんな小娘に怯えることがあるか」

 ドクラと呼ばれた男が、じりじりと距離を詰めてくる。脇を固めるように、二人の部下も左右に展開していく。

 アリアは後ろを一瞥する。大質量の怪物と化した波濤が、アリアを誘う死神のごとく、不気味な唸り声を上げていた。

 逃れるには、死神に己の身を委ねるしかない。アリアは覚悟を決めた。

「あなたたちになんか、捕まってやるもんか! この変態集団!」

 アリアは下瞼を指で引っ張り、舌をべーっと突き出した。振り向きざま、素早く駆け出す。

「なっ、正気か⁉」

 背後の声に構わず、身を投げるように激流の中に飛び込んだ。

 全身を叩くように、濁流が押し寄せてくる。荒れ狂う波濤の中では、まともに身動きもできない。焦りも相まって、息苦しさは加速度的に増していくが、水中から顔を出すことができない。

 必死にもがき、激流から抜け出そうとするも、アリアの抵抗は空しいだけだった。大雨の影響で勢いを増す水の大質量の前では、アリアという存在はあまりにもちっぽけに過ぎた。大自然の猛威に抗うことなどできず、ただ押し流されていくのみ。

 もう酸素がもたない。息苦しさは最高潮に達し、意識が薄れていく。溺死はあらゆる死因の中で最も苦しい死に方らしいが、身をもって体験させられようとしている。アリアが最後に思ったのは、自分を守ろうとしてくれた人たちへの贖罪の念。

 アリアの記憶はそこで途絶えた。

 

◆◆◆


 意識を取り戻し、アリアの瞳が開かれた。視界に捉えたのは斑点を模様とする木目の天井。

 アリアは自分が寝台で寝ていることに気づいた。掛けられた毛布が、少女の体を温もりと共に包み込んでいる。

 首だけを回して横を見ると、木製の椅子に腰かけ、静かに本を読みふける男の姿があった。例えるなら、狼のような男だった。容姿から判断するに、二〇代前半くらいの年齢。闇よりもなお深く暗い瞳。室内灯の柔らかな光に照らされてなお、男は人を寄せ付けない厭世的な雰囲気、陰を纏っていた。

 男とアリアの視線が絡み合う。

「起きたか」

 男はそれだけ言い、再び視線を手元の本に戻す。

 事態を把握できないアリアは記憶を辿る。激流に呑まれた後の記憶はない。つまり、溺れて死に瀕していたところを、この男に救われたのだ。

 身を起こそうとして、自らの格好に気づく。色気のない下着だけ。とてもじゃないが、淑女にあるまじき姿。

「な、なななな、なっ……!」

 恥ずかしさで、見る間に血が巡り沸騰していく。顔が紅潮していくのがわかる。

「ずぶ濡れのまま寝かせるわけにはいかなかったのでな」

 視線を移すことなく、淡々と男が告げる。アリアの衣服を剥ぎ取ったのは自分であるという、男の自白だった。

「心配するな。私に幼女趣味はない」

「そういう問題じゃないですし、せめて幼女じゃなくて少女と言ってください! う~、恥ずかし~!」

 ぞんざいな男の物言いに、アリアは不満を漏らす。

 残念ながら、男の対応が適切であったことは、血の昇った頭でも理解できる。感情の行き場を失い、続く言葉はなかなか出てこなかった。それでも、自分が恥ずかしい思いをしているのに、男はどこまでも平静にしているものだから、釈然としないものがあった。向こうは自分よりも一回り大人であるのだから、当然と言えば当然なのだが、湧いてくる不満をうまく呑み込めなかった。

 男の後方にある暖炉の近くで、乾かされている自分の衣服に気づき、それを回収に向かう。焦りで若干手間取りながらも、着衣を済ませる。

 衣嚢の中に電子端末がないことに気づく。

「あの、私の電子端末入っていませんでしたか?」

「いや、入っていなかったな」

 どうやら川に流されている間に紛失してしまったらしい。これでは仲間への連絡が取れない。失くしてしまったものを後悔しても仕方がないと諦める。

「……ありがとうございました」

 素直に礼を言う。気恥ずかしさはあるものの、この男性が命の恩人であることに違いはない。

「俺は善意の徒ではないが、行き倒れの少女を見過ごすほど余裕がないでもない」

 男は振り返らず、片手を上げて感謝に応えた。はっとして、アリアは問いかける。

「私がここに来て、どれくらいの時間が経ってますか?」

「丸一日といったところだ」

 アリアの表情に苦いものが浮かぶ。早足で入り口に向かう。

「どこへ向かうのかは知らぬが、もう少し休んでいるといい。もう少しすれば、昼食も用意しよう」

 扉の取っ手に手をかけたところで、男が声を掛けてきた。

「助けてくれたことは本当に感謝してます。でも、私は行かなきゃいけない」

 男の漆黒の瞳が、手元の本から移り、アリアを見つめていた。

「まさかこの嵐の中で水遊びをしていたわけでもあるまい。事情を聞かせてもらえるか?」

 命の恩人であるがために、無碍にはできない。本当ならばさっさと立ち去るべきなのだろうが、アリアは話すことにした。

「私は追手から逃げて、ここまで来ました。やつらは今でも私を探しているに違いないです」

 男の表情に興味の色。

「物騒な話だ。何故追われている」

 男の問いに、アリアは言いよどむ。

「それが、わからないんです。なぜ追われているのかも、追手が何者なのかも、そもそも私が何者であるのかも」

「哲学的な論議でもないだろうから、記憶喪失か」

 得心したように、男は鷹揚に頷く。

 アリアは、自らの名前を除き、自分の素性に関する一切の記憶を忘却してしまっていた。それこそ、家名すら思い出せないという始末。他人であるこの男と変わらないくらいに、アリアは自分が何者であるかを理解していなかった。

「確かなことは、私が未だに追われているだろうということです。ここにいれば、恩人であるあなたまで巻き込むことになりかねない」

 護衛がいようと、吹き荒れる嵐の中だろうと追ってきていたのだ。今更諦めてくれるとも思えない。男の言う通り、すでに一日が経過しているのならば、いつ追手がここを突き止めるかもわからない。

「君が追われる理由には、一つだけ心当たりがある」

 男が確信めいて言う。見ず知らずの相手が、自分の事情を知るという奇妙な事態。アリアは次の言葉を待った。

「君はいわゆる”印付き”だろう。厄介事に巻き込まれるには、十分すぎる事情だ」

「……はい。お察しの通りです」

 アリアはうなだれるように肯定する。自らの背負う因果については、理解している。

「”印付き”とは呪を背負わされた者たち。人類史最大の裏切り者、背信の使徒ゼルギリウスの因子を受け継ぐ者たちのことを示す」

 男が淡々と説明する。

「”印付き”は己の何かを失うことで、世界を歪める呪を与えられる。本人の望む望まないとは関係ない。契約は強制的なもの。出自が出自であるために、”印付き”の歴史とは、そのまま迫害の——」

 男が言葉を止める。

「すまない。歳を取ると、どうにも要らぬ話が多くなる」

 青年の域を抜けない風貌の男が、決まりの悪そうに言う。アリアからすれば別段気になるようなことでもないのだが。

「その呼び名の通り、”印付き”はその身に印を宿す。必ずしもその大きさが呪の出力と比例するわけではない。しかし、君の背負う印はあまりにも大きすぎる。俺が見てきた中でも最大級だ」

 男の言う通り、アリアの背には妖艶に咲く薔薇を象ったような黒の印が刻まれている。それがどのようなものかは理解できていないが、確実にろくなものではないだろうとアリアは感じ取っていた。

「私は、私が背負った運命の意味を知るために進むだけです」

 扉の取っ手を掴む手に力を入れる。

「だとしても、ここを出てどこへ向かう? 土地勘のない君が出歩くには危険に過ぎる」

 男が戒めるように告げる。自身の身を案じての言葉だとはわかっているが、それでも巻き込むわけにはいかない。

「私たちは、ここに人を探して来ました。その過程で私を守るために命を落とした人もいる。今さら躊躇なんてしていられない」

 吐いた言葉は、自らを蝕む毒だった。胸が軋む痛み。今は後悔している暇はない。自分のためにこれ以上の犠牲は許容できない。

「こんな僻地に住んでいる数奇者は俺くらいのはずだが。いったい何者を探して、こんなところにまで来た」

 男の問いに、アリアは自分が頼るべき相手の名前を記憶から呼び起こす。

「ウルヴァンという人です」

 男の瞳が驚愕の色とともにわずかに見開かれる。手元の本を閉じ、口を開いた。

「ウルヴァン=マックレガならば、俺のことだが」

 アリアは呆けて、ぽかんと大口を開けてしまう。今度は、アリアが驚く番だった。


 芳しい香気が、アリアの鼻腔を突く。逃亡の果て、アリアの体は限界まで消耗していた。主人へ抗議を挙げる犬の鳴き声のように、お腹から大きな音が発せられる。気恥ずかしさに身を縮こませる。

 運ばれてきたのは、焼きたてのパンに乳白色の温かいスープ。おそらくスープは牛乳を基本としたものだろう。加えて、じっくりと火を通された牛肉を切り分けたものが運ばれてきた。単純な献立だが、お腹の空いたアリアにとってはこの上ないご馳走に見えた。

「人に料理を振る舞うのは久方ぶりだ。お気に召すかは保証しない」

 料理を運び終えるや否や、再びウルヴァンは椅子に座り、本の世界に戻っていく。

「いただきます」

 スープの湯気が顔を撫でる。アリアは銀匙を手に取り、スープを口に運ぶ。温もりとともに、牛乳でまろやかになった優しい旨味が口の中に広がる。アリアは思わず、ほうと息を吐いた。

 続いて、肉叉を取り、切り分けられた肉を思い切り頬張る。固さはあるが、噛み締めるほどに肉汁が湧いてくる。塩味がちょっと濃いようだったが、疲れで塩分が不足しているためか、とても美味しく感じられた。

「おいしい、です!」

 口福に、自然と声も大きくなる。

「大したものは準備できなかったが、満足してもらえたなら重畳だ」

 ウルヴァンの方を見ると、少しだけ笑っているようにも見える。表情の変化がわかりにくい人だ。アリアも笑う。

「本当においしいですよ。無限に食べられちゃいそうです」

「恐悦至極だが、それはいくらなんでも言い過ぎだろう」

 ウルヴァンは苦笑していた。

 食はどんどん進み、あっという間に皿の上の料理を平らげる。程よい満腹感と多幸感に包まれ、アリアは自分の頬が緩むのを感じる。このまま眠りにつけば、最高の気分に浸れるだろうが、残念ながらそうはいかない事情がある。

 アリアは木製の卓から立ち上がり、椅子に腰かけたままのウルヴァンと向かい合う。

「改めて自己紹介を。私はアリアといいます」

 胸に手を当て、自分の名を告げる。

「自分のことすらよくわかってはいませんが、私は何者かに追われ、私を逃がすために奮闘してくれた人たちがいた」

 自分の境遇を思い返すと、刺すような痛みに襲われる。それでも、ウルヴァンを探し当てるという目的は達成することができた。

「お願いです、ウルヴァンさん。私が何者なのかを知るために、力を貸してください」

 不躾で厚かましいにも程がある頼みとは理解しているが、それでも続ける。

「見ず知らずのあなた頼るべきではないし、危険に巻き込んでしまうのも、本当ならばあってはならないことです。それでも、私には他に頼る当てがない」

 何も持たないアリアには、誠意以外に示せるものがない。

「お礼は必ずします。いえ、こんな小娘が何を生意気なって思われるでしょうが、いずれちゃんとお金を稼いで、あなたが望むだけの——」

「もういい。十分だ」

 アリアの早口を遮ったウルヴァンの口元は、小さな笑みを湛えていた。

「礼など考えずともよい。こんな僻地にまで俺を頼ってきた者を無碍にはせぬ」

 それに、とウルヴァンが続ける。

「自ら選んだとはいえ、長すぎる退屈にも少々飽いていたところだ」

 そう口にするウルヴァンは、静かに、それでいて獰猛に笑った。頼りとする相手であるにもかかわらず、アリアは恐怖を隠せなかった。それほどに、男の纏う空気は異質。暴威を隠さぬ獣の在り方だった。

 心地の良くない沈黙。気まずさに急かされるように、アリアは食べ終わった後の食器類を片付けようと机の側に近寄る。

 静寂を裂いたのは、扉が荒々しく開かれる音。入り口から男が二人無遠慮に小屋の中へ踏み込んでくる。

 アリアは固く身を強張らせる。現れた二人の男の顔を、はっきりと覚えている。追手三人のうち、部下と思しき二人だった。

 追手たちはアリアの姿を見るや否や、薄笑いを浮かべる。

「ようやく見つけたぜ。本当に手間かせさせやがって」

 一人がずかずかとアリアに詰め寄ってくる。その手がアリアに伸ばされる前に、ウルヴァンが立ちはだかった。

「なんだ、てめぇは?」

「状況から判断するに、貴様らが追手で間違いないな」

 言い切ると同時に、ウルヴァンが動いていた。眼前の男の胸倉を掴み上げ、腕力に物を言わせて床に叩き伏せる。受け身など到底間に合うはずもない速度で床に叩きつけられた追手は、蛙が潰れるような声を上げた。

「なにをっ⁉」

 仲間がやられたことで、片割れの男が憤懣に顔を歪める。ウルヴァンに向けて、殴りかかろうと詰め寄っていた。

「礼儀がなっておらぬ」

 ウルヴァンは無造作に右腕を振るい、追手の腕を払いのける。そのまま右拳を槌として、追手の顔に叩きこむ。おまけに左の縦拳を追撃とばかりに打ち込んだ。重厚な一撃が、追手の体を弾き飛ばし、木の塀に激突させた。あっという間に追手を片付けたウルヴァンは、床に伏したままの男に問いかける。

「貴様らがアリアをつけ狙う理由を聞かせてもらう」

「か、関係ねぇだろ、クソが……!」

「減らず口は求めていない」

 男に話す意思はないと見たウルヴァンが、男の腹を蹴り上げる。興味を失ったかのように、茫然としているアリアに向き直った。

「追手がここを見つけた以上、悠長にはしていられまい。アリアの体調は万全ではないだろうが、ここを発つ」

 ウルヴァンが忙しく身支度を済ませていく。準備を終えたウルヴァンの後に続き、アリアは小屋の外に出た。

 頂点よりも西寄りの太陽が眩く、ナハデム山の麓の青々とした大森林を照らし出している。アリアが逃げて来たときの嵐が嘘だったかのように、晴れ渡る世界がそこにはあった。息を呑むような美しい大自然に、異物を見つける。見覚えのある髭面の中年——ドクラと呼ばれていた男が、こちらの姿を視認していた。

「なんだ、あいつらはやられちまったのか」

 ドクラは、じろじろとウルヴァンの様子を観察している。

「兄ちゃん、俺たちとしても余計な事故はないに越したことがないと思ってる。そっちのお嬢ちゃんを渡してはくれんかね?」

「論外だ。俺が従う理由がない」

 粘着く舌でドクラが提案するも、ウルヴァンは切って捨てた。

「そうかい」

 ドクラは、ぼりぼりと頭を掻き、ふけを飛ばす。

「なら、しょうがねえよな」

 それは、物質世界たる基底現実に仮想現実を重ね合わせた拡張現実。そこへドクラが介入するのをアリアは知覚する。

 宙空に三つの楔が現れた。複雑に入り組んだ迷路を攻略するように、ドクラの演算能力によって紐解かれていく。一つ目の楔が乾いた破砕音と共に消失。二つ目、三つ目と、順々に砕け散り、楔が全て抜け落ちた。ドクラが編んだ式が世界に顕現する。

 ドクラが、右手を突き出す。橙の燐光が連なり、淡い線となる。線は高速でウルヴァンに迫り、その目と鼻の先に到達。

「逃げて!」

 アリアが叫ぶも、間に合わない。

 轟音。刹那の間を置いて爆風が発生。同時に生成されていた無数の鉄片とともに、ウルヴァンを呑み込む。

 肉と脳漿の桃色、そして鮮血の赤をまき散らしながら、ウルヴァンは空しく吹き飛ばされた。

 アリアは茫然と、ウルヴァンの骸を見つめている。あっけなく命が奪われた。その原因をもたらしたのは、間違いなくアリア自身で――。

 今までも、アリアを守ろうとして失われた命は少なくない。しかし、どれだけ数を重ねようと、人の死を受け入れられるほどアリアの心は麻痺してはいなかった。

「大人しく俺たちといっしょに来ていれば、こんなことにはならなかったのにな」

 ドクラには、醜悪な笑み。アリアは湧き上がる怒りのままに、男を睨みつけた。

「許さない……!」

「おー、怖い怖い。それで、どう許さないってんだ?」

 へらへらとしたドクラの物言いが憎々しいが、事実としてアリアには戦う手段がなかった。

 己の無力さに、アリアは痛切に打ちひしがれていた。

「軍用攻性術式、それも破壊力と扱いやすさを兼ねた” 撞破爆”の術式か。なかなか筋が良い。人の枠を超えた肉体を有する咒士であろうと、まともに喰らえば、とても耐えられるものではないな」

 アリアの目が驚愕に見開かれる。ウルヴァンは何食わぬ顔で立ち上がっていた。

 ありえないものを目撃したドクラは、困惑を露にしていた。

「脳を吹っ飛ばしてやっただろうが……なんで生きてんだ?」

 ドクラと同様、アリアは何が起こっているのか理解できずにいた。事前に防いだわけではない。ウルヴァンの肉体が爆風で崩壊する瞬間を目の当たりにしている。全身に付着する赤黒い血液もその証左。

 周囲の困惑などどこ吹く風と、ウルヴァンは悠然としていた。

「かびの生えた術式ではあるが、軍用の術式を扱うとなれば、貴様は軍人崩れの咒士か」

 ウルヴァンが、敵の素性を推測する。ドクラからすれば、それどころではないらしく、困惑のままに、再び” 撞破爆”の式を紡ぎあげていく。先ほどと同様の手順を辿り、世界への干渉を行う。

 橙の燐光が線を描く。高速でウルヴァンに迫り、発動する寸前。ウルヴァンが世界に干渉するのをアリアは感じ取る。” 撞破爆”の術式が炸裂するよりも早く、ウルヴァンの式が顕現し、燐光を搔き消した。

「嘘だろ……?」

 自らの術式が不発に終わったドクラは愕然としていた。

「術式の無効化、だと?」

「” 撞破爆”は俺の得意術式の一つだ。術式の解体は、そう難しいことではない」

 出来の悪い生徒に説明する教師のように、ウルヴァンは論じていく。

「ふざけたこと言うんじゃねえ。術式の解体なんて、そんなことできるのは一握りの高位咒士だけだろうが!」

 ドクラの顔が焦燥に歪む。ウルヴァンがやったことは単純。敵と同様に世界に干渉し、”撞破爆”の組成式を一瞬のうちに解体したのだ。

 ウルヴァンと相対するドクラは、見るからに焦燥していた。

「化け物め……脳を破壊されても死なねえし、術式の無効化なんて離れ業もこなす咒士なんて……」

 男の顔には、気づき、少し遅れて恐れの色が浮かんできた。

「まさか、お前は」

 ドクラの独白を待つことなく、ウルヴァンは世界への干渉を開始する。

 楔の数は三つ。ウルヴァンの紡ぐ式は、先ほど見たものと全く同じ。アリアはそれが” 撞破爆”の術式であることを理解する。

 先ほどと違うのは、その演算速度。桁外れの速度で式が編まれていく。間を置くことなく、楔が砕け散っていく。

 ウルヴァンの指先から橙の燐光が放たれる。すぐさまドクラは回避行動に移った。殺傷力を上げるための鉄片は混入されていない。それでも、人体を容易に破壊する爆風に晒されたことで、ドクラの体が吹き飛ばされる。

 すかさずウルヴァンは、転がるドクラに向けて駆け出した。疾走するウルヴァンは、超人的な速さでドクラとの距離を詰めていく。ドクラが体勢を整える前に、その顔面に左鉤突きが繰り出され、命中。鈍い音。ドクラの体が後ろに弾け、力なく倒れ伏した。ウルヴァンはドクラの胸倉を掴み上げる。

「さすがに頑丈だな。意識を失っていないようで安心した」

 意識が朦朧となっているドクラに、ウルヴァンが問いかける。

「余計な言葉は要らぬ。貴様らの目的だけ聞かせろ」

「お、俺らは金を積まれたからやっているだけだ……理由なんて知らねえよ」

「そうか」

 興味を失ったらしいウルヴァンが、片手でドクラの体を持ち上げる。そのまま豪快に地面に叩きつけた。

 すかさずドクラの右腕を踏み抜く。骨を砕かれた激痛で、ドクラが叫喚する。

「汚れた魂の報いだ。アリアがいたことを感謝するがいい」

 何もかも理解が追い付かないアリアは、唇を魚のように動かす他なかった。

「俺を頼るように手配したのが何者かは知らぬし、俺である必然性もないだろうが、その判断は限定的に正解だ。その意味で、君は幸運と言えるだろう」

 ウルヴァンは血肉で汚れた襯衣を力ずくで破き切る。限界まで無駄なく鍛え上げられた肉体は、一流の彫刻家が彫り上げたような像のごとき雄々しい美しさ。

 アリアが目を奪われたのは、その肉体そのものではなく、ウルヴァンの左胸。心臓のすぐ隣に、暗く燃え滾る炎の印が刻まれていた。

「ウルヴァン=マックレガは高位の咒士にして、不死の呪を背負う”印付き”だ。凡俗の咒士に後れを取ることはない」

 狼の笑みで、ウルヴァンは宣言した。

 アリアは頼もしさとともに、恐怖を感じずにはいられなかった。普通の人間であれば死に至る負傷すらも、一顧だにしていない。そのような精神性を持つウルヴァンのことが理解できなかったのだ。

 それでも、放っておいたら溺死していたはずのアリアを救ってくれたのは、紛れもなくウルヴァンだ。今も追手からアリアを守ってくれた。得体の知れない相手ではあっても、アリアにウルヴァンの善性を疑う理由はない。

「さて、嗅ぎつけられた以上はここに居座るわけにもいくまい。これからの方針を決めるか」

 ウルヴァンの言う通り、ここに留まれば際限なく追手がやってくるだろう。

「それなら」

 食い気味にアリアが答えた。

「私と共に来てくれた人たちを迎えに行きたい、です」

 声は萎んでしまっていた。ウルヴァンも渋面を作る。

「それはやめた方がいい。すでに君がここに来てから一日以上が経過している。来た道を引き返したとて、その場に残っている者がいる可能性は低い。生死を問わぬなら話は別だがな」

 冷静な指摘に、アリアは肩を落とす。

「敵と出くわす危険性も高まる。俺としても、君が危険に晒されるような真似は避けたい」

 ウルヴァンの合理性は、反論を許さなかった。

「はい……すいません」

 落ち込むアリアを窘めるように、ウルヴァンが続ける。

「彼らは己が命を投げ打ってまでも、君を守ろうとしたのだろう? その心意気を汲むならば、ただ無事であることだけを考えるべきだ」

 アリアは、迷いながらもはっきりと頷いた。

「さて、俺を外の世界へ誘うのは何者の意思か。いかなる因果が先に待ち受けるか、確かめにいくとしよう」

 ウルヴァンは空を仰ぎ見る。広がるのは、どこまでも広大な世界。

 風が吹き抜けた。雨上がりでむせかえるような土と草の匂いがアリアの鼻を突く。


◆◆◆


 後ろにアリアを携え、愛用の単車でウルヴァンは街道を進む。

 ナハデム山麓の駐車場から単車を回収し、今はミルヘイム独立市内に入っている。太陽はすでに地平線の下に沈み、暗闇の中を単車は疾走する。

 ドーマ連邦共和国ハイウェン州の州都であるミルヘイム独立市は、同国有数の大都市にして交通の要衝。人口一五〇万人強とドーマ内でも五指に入る規模を誇り、世界都市の一つにも数えられている。昼夜の寒暖差の大きな大陸性気候に属するゆえに、吹き付ける風は肌寒く、冬の名残を感じさせる。

 ウルヴァンが単車を止めたのは、いかにも年季を感じさせる雑居ビルの前。駐車場に単車を移し、ビルの中に入る。昇降機に乗り込み、三階へと向かう。昇降機から降りて廊下を進む。それぞれの部屋の前には、会社名義の表札がほとんどであり、住人はほとんどいないようだ。表札のない部屋の前でウルヴァンが足を止め、鍵を開けた。室内へ進むウルヴァンにアリアも続く。

 まるでホテル風の印象の部屋だった。古びたビルの外装からは想像もつかない現代風の景色がそこにはあった。

 生活感がないというか、清掃が完了した直後のように整然としている。寝台を中心として、広々とした部屋には机や家具がゆとりを持って置かれていた。大きな本棚に隙間がないほど本が並べられてる以外、特段印象的な物もない。

「ナハデム山の家は別荘で、普段はこっちで生活してるんですか?」

「逆だ。ミルヘイムに用事ができたときのための拠点だ」

「その割にはずいぶんと良い部屋ですね」

「お気に召してくれたようだな」

 ウルヴァンが窓際に進み、窓の下枠を指でなぞる。意地悪な小姑が、嫁をいびるときにする動きだ。

「埃どもめ。やはり油断ならんな」

 指に着いた埃を満足そうに眺め、ウルヴァンは洗面所へと向かう。戻ってきた彼が手にしていたのは、掃除用具の類だった。

「掃除するんですか? 十分綺麗に見えますけど」

 思ったままにアリアが口にすると、ウルヴァンは首を横に振った。

「閉め切った部屋であろうと、埃は溜まるものだ。稀にしか使わぬからこそ、こういう機会に掃除を欠かしてはならない」

 半月の笑みで、ウルヴァンが続ける。

「何より、塵掃除は俺の数少ない趣味だ」

 ウルヴァンは掃除に着手する。今日一日見てきた中で、最も愉快そうにしているウルヴァンは間違いなく変人だろう。邪魔するのも悪いので、アリアは手元の袋からパンを取り出す。ここに来る前に、立ち寄った店で買っておいたものだ。

 お腹も空いているので、少しがっつき気味にパンを頬張っていく。ウルヴァンがアリアに気を遣ってか、映像受信機を起動させる。画面に映し出されたのは、報道番組だった。

「——先月、テルフランメン行政管区ロスバルクス市街から住民が一夜にして姿を消した驚愕の事件。その後の状況や調査の経緯についてお伝えします。当初の報道から数日後、近隣住民からは、事件前夜何の兆候も感じられなかったことが多数報告されています。専門家からは準戦略級の術式が用いられたのではないかという声もありますが、依然として真相の解明に至っていません。消えた住民の捜索活動は続けられていますが、一向に進展はなく、家族や友人たちは彼らの帰りを静かに待ち続けています」

 報道官の流麗な声が流れてくる。報道されていたのは、一大事件だった。ロスバルクス市街を上空から撮影した映像が流れている。

「凄まじいな」

 清掃の手を止め、ウルヴァンが呟く。

 惨状だった。城塞に囲まれた市内には、報道通り人の姿は一切見えない。

 違和感はそれだけではない。街全体が死に絶えているというのが、おそらく適切な表現だろう。街は一〇〇年以上も人から忘れ去られたかのように荒廃しきっている。一か月前に事件が起こったというならば、それまでは普通に人が暮らしを営んでいた街であるはずだが、とてもそうは思えなかった。木々や花は枯れ果て、風景に存在する緑は雑草のみ。建造物に破壊の跡が見られないことが、一層異様さを醸し出している。

「この規模の街なら、人口は一万人を下るまい。いかなる術式のなせる業かは知らぬが、それだけの人数が一夜で消え去るとなると、異常な事態に過ぎる」

「い、一万って……」

 冗談のような数に、アリアは驚きを隠せない。

「巻き込まれた者たちがすでに死んでいるならば、戦争でもなく、これだけの殺害数は歴史上でもあまり例がない。言うまでもないが、大事件だな」

 ウルヴァンは淡々と告げるが、アリアの口は恐怖に突き動かされていた。

「こんなことができる術式なんて、存在するんですか?」

「難しい問いだ」

 ややあって、ウルヴァンが答える。

「一万人を殺害する、という点だけで言うなら、戦略級の術式がすでに存在する。だが、そういった術式は必ず破壊の痕跡を残す。ロスバルクスの惨状のように、命あるものだけを死滅させるような術式は俺の記憶にも存在しない」

 優れた咒士であるウルヴァンが断じたからには、きっとそれが正しいのだろう。

「これだけの事件だ。報道はしばらくこの話題で持ちきりだろうが、我等には関係がない」

 ウルヴァンが番組を切り替え、映像受信機がよくある大衆向けの娯楽番組を映した。

「しかし、よく食べる。すでに六個目か?」

 ウルヴァンが呆れ笑いしていた。

「せ、成長期ですから……!」

 アリアは頬を赤らめ、自分に言い聞かせるように言い訳をする。ウルヴァンの生暖かい眼差しが少しいたたまれなかった。

 手にしたパンをあっという間に食べ切り、いっしょに買っておいた水で流し込む。一息ついたところで、ウルヴァンが話しかけてくる。

「我等に必要なのは情報だ。今後はここを拠点として、情報収集に勤しむとしよう」

「すいません……私の記憶さえ戻れば、こんな苦労もかけないんですが」

「無駄に謝る必要はない。記憶喪失を咎める論理など存在しないのだからな」

 ウルヴァンはただ事実を述べているだけなのだろうが、アリアには苦い思いがあった。ウルヴァンの言う通り、記憶喪失はどうしようもないことであるが、現状あまりにも手掛かりがない。

「思い出せ~思い出せ~、私の灰色の脳細胞。今こそ若さの限りを尽くして、記憶を絞り出せ、ピピピピピ~」

「……一応聞いておくが、何をしているのだ?」

 両の人差し指を左右のこめかみに当てて考え込んでいると、ウルヴァンが眉間に皺を寄せて困惑を露にしていた。

「見ての通り、脳を刺激することで記憶を引き出そうとしているんです……あ! 今何か閃きが私の脳を過りました! もう少しで何か大事なことを思い出せそうな気がします!」

 ウルヴァンが顎に手を当てて考え込む仕草を見せる。

「君は少々、いや、だいぶ面白いな」

「へっ?」

「いや、何でもない。思い出せるといいな」

 今の一連の流れで何か面白いところがあったろうかとアリアは考える。結論として、よくわからなかった。

 頭に疑問符を浮かべているアリアに対し、ウルヴァンは柔らかな笑みで応えた。

「気にするな。それも君の美点なのだろうよ」

「よくわかりませんが、褒められてるなら悪い気はしませんね」

 アリアは相好を崩す。

 ふと眠気が押し寄せてきた。欠伸を噛み殺そうとするも、わずかに漏れ出してしまう。

「長時間の移動で疲れているだろう。今後の話は明日にして、今日はもう休むとしよう」

 そこでアリアははっとする。視線の先には大きな寝台が一つ。そう、この部屋には寝台が一つしかないのだ。

「あわわわ、これはもしかして、同衾の流れ⁉ それはいくらなんでもちょっと……! この年齢差は犯罪のそれですよ⁉」

 慌てるアリアに、ウルヴァンの冷ややかな視線が注がれる。

「何を慌てふためいているのかは知らぬが、寝具は別に用意する」

 冷静に答えるウルヴァンを見ていると、アリアは自分が馬鹿みたいに思えてきたので、さっさと寝る準備を済ませることにした。


 不躾な電子音がアリアの目覚めを覚ます。電子振鈴による呼出音だ。

 暗い室内に、照明が灯される。ウルヴァンの表情には不機嫌と警戒の色があった。時計を見れば、夜もすっかリ更け、午前二時となっていた。

「ここは普段使用していないため、深夜の来訪者などいない。それも、俺たちが来たその日の夜にとなると、まず有り得ない」

 アリアもウルヴァンの言わんとしていることを理解する。どうやってかは知らぬが、アリアたちの行方を知り、追ってきた者がいるのだ。緊張にアリアの体が硬直する。

 ウルヴァンが玄関口へと向かう。アリアは慌てて呼び止めようとした。

「危険です。出るべきじゃないです」

「逃げ道はない。ならば、素直に迎えてやるとしよう」

「いや、本当に危ないですって! 部屋を間違えたのかもしれませんし、少し様子を見ましょうよ」

 外にいる何者かに聞かれることがないように、気持ち声量を落とす。

 ウルヴァンも渋々といった様子ではあるが、アリアの言葉を聞き入れ、大人しく様子を窺っていた。

 電子音は少しの間を置いて、数度鳴らされる。やがて、振鈴が鳴らされなくなった。

 静寂が場を包み、アリアはほっと胸をなでおろす。どうやら、間違いであったようだ。

 硬質な音が静寂を破る。アルミ製の部屋の扉が四辺形に切り抜かれていた。

「凄まじい剣技だな」

 ウルヴァンが感嘆の声を落とす。

 切り抜かれた扉の穴から、何者かが部屋に入ってくる。

 湾曲した刃を手にした東洋系の女性。艶やかな黒髪に、濡羽色の瞳。鋭く研ぎ澄まされた刃のごとき、凛とした美しさを備えた女性だった。和装の上着には、桔梗紋。腰には大小の鞘、そして背中に一際大きな刀を携えていた。

「夜分に失礼。拙者はヤクモ=サカモトと申します」

 刃を鞘に納め、ヤクモが恭しくウルヴァンに一礼する。

「日ノ本の侍か」

 ウルヴァンが興味深そうに呟く。

 ヤクモの視線が部屋の中に向けられ、ウルヴァンの背後にいるアリアの視線とぶつかった。

「アリア殿!」

 主人を見つけた犬のように、ヤクモが駆け出すも、ウルヴァンに首根っこを掴まれ、止められていた。

 首が締まったことで、ヤクモは苦しそうにむせた後、ウルヴァンを睨みつけた。

「何をするでござるか⁉」

「こっちの台詞だ」

 ヤクモが威嚇すると、ウルヴァンも不愉快そうに睨み返していた。

 ウルヴァンは、ヤクモがアリアに危害を加える可能性を考慮したのだろう。だが、その心配はないのだ。

「あの、ウルヴァンさん、大丈夫です。その人は私の仲間です」

 アリアが告げると、ウルヴァンの瞳にはわずかな逡巡。ややあって、ヤクモの首元から手を放した。

 解き放たれた大型犬のごとく、ヤクモはアリアの元へ飛び込んできた。

「ああ、アリア殿! 一人にして申し訳ございませぬ! 拙者、どれだけ心配したことか……」

 アリアに抱き着き、よよよと泣きじゃくる。

「ウルヴァンさんが助けてくれたからね……他の人たちは?」

 抱き着いてくるヤクモの手の力が弱まった。

「生き残ったのは拙者だけでござる。されど、彼らは使命に殉じたに過ぎませぬ。アリア殿が気に病むことはないでござるよ」

「……そっか」

 アリアの口から、寂しい音が零れた。多勢に無勢故に、心のどこかでこうなるだろうことは理解していた。それでも、心を突き刺す痛みからは逃げられなかった。

「アリア殿をお守りいただき、誠にありがとうございます!」

 ヤクモはアリアから離れ、床に膝をつき深々と頭を下げた。対するウルヴァンの表情には怪訝の色があった。

「頭を上げろ。貴様には聞きたいことがある」

 ヤクモが頭を上げたところで、ウルヴァンが続ける。

「どうやってここを突き止めた? 尾行されてはいなかったはずだが」

 川に流される中で電子端末は紛失してしまっていたため、ヤクモへと連絡できずにいた。互いに互いの場所を知る手段はないはずなのだ。

「ああ、それなら」

 ヤクモが立ち上がり、窓の側へと移動。窓を開け、ぴゅうと指笛を鳴らす。

 窓の先の闇から現れたのは、ヤクモの瞳と同じ、濡羽色の鴉だった。

「このカラスケのおかげでござるよ」

 女侍の手が、優しく鴉の頭部を撫でる。カラスケという名前らしい鴉は、気持ちよさそうにその身を委ねていた。

「なるほど、使役術式か。大したものだ」

「それほどでもあったりするでござる」

 ウルヴァンが感心の声を漏らすと、ヤクモは誇らしげにしていた。

 自らに向けられたアリアの視線に気づき、ウルヴァンが口を開く。

「この手の術式は難度が高いのだ」

 ウルヴァンが続けようとして、止める。

「長い話になるため、割愛する。ともかく、俺たちの位置を把握している理由は分かった。アリアは記憶喪失ゆえに、自らの置かれている状況を把握できていない。貴様の知る限りの情報を教えてくれ」

 ヤクモはこくりと頷き、話始める。

「拙者が主君より受けた命は、アリア殿の剣となり、守護すること。そして、ウルヴァン殿の協力を取り付けることでござる。ウルヴァン殿の元へたどり着く前に、敵の奇襲を受けた拙者と仲間たちは、アリア殿を逃がすために戦い申した。しかし、追手の全てを引き留めることができませんでした」

 後悔のために、ヤクモは先を言い淀む。その瞳には、強い決意の炎があった。

「もう二度とあのような無様を晒しませぬ」

「決意は立派なことだ。しかし、俺が聞きたいのはそういうことではない」

「そう言われると難しいでござるな」

 ウルヴァンが促すも、ヤクモは考え込み、続く言葉が出てこない。

 その様子を見て、ウルヴァンは眉間に皺を寄せ、難色を示す。

「ならば、質問形式だ。貴様の雇い主は何者だ。いかなる縁でアリアを助けようとする」

「それは答えられないでござる。我が主君に口止めされておりますが故」

 左手を翳し、きっぱりとヤクモが答える。

「えーっと、何か事情があるんだよね?」

 アリアが問いかけると、ヤクモが申し訳なさそうに口を開いた。

「我が主君の深慮は、拙者ごときには図りかねます。されど、我が主君の命は絶対。申し訳ありませぬが、答えることはできないのでござるよ」

「訳が分からぬ」

 ウルヴァンが不満を吐露する。 

「貴様らのことはもういい。アリアに関することを話せ」

「残念ながら、それもできませぬ。拙者はただ、アリア殿を守るという使命を与えられたのみ。その素性については何一つ伝え聞いてないのでござる」

 ヤクモの答えは、変わらず否定だった。

「つまり、貴様は何一つ有益な情報を渡さぬ無能であるとわざわざ喧伝しに来たということか?」

 ウルヴァンの辛辣な言葉に、ヤクモは唇を引き結ぶ。

「ウルヴァンさん、そこまで。ヤクモさんは命を懸けて私を守ろうとしてくれた。ヤクモさんたちがいなかったら、こうして私は無事ではいられなかった」

 アリアは毅然と言い放つ。情報を秘匿するヤクモとその主に対するウルヴァンの疑念。アリアも理解できないわけではない。それでも、ヤクモは行動を以て誠意を示してくれたのだから、責めていい理由などありはしない。

「アリア殿ぉ……」

 ヤクモが潤んだ目で見つめてくる。それも一瞬のことで、すぐに顔を引き締め、ヤクモらしい武人の表情となる。

「拙者は、アリア殿の剣。身命を賭して、御身を御守りいたします」

 騎士の誓いのごとく、東方の武人は傅いてみせた。

 ウルヴァンはこれ見よがしに溜め息を吐く。

「もう追及はせぬが、残された問題がある」

 ウルヴァンの視線は、玄関先に向けられていた。そこには、切り抜かれたままの扉。

「緊急だった故、致し方なく」

 ヤクモは仕方がなかったと頷いていた。

「し、仕方がなかろう! 拙者に夜中ずっと外で待てというのでござるか⁉」

 ウルヴァンの弾劾の目に耐えかねてか、ヤクモが捲し立てる。

「何か問題があるのか? この駄犬が」

「あーっ! 言いやがったでござるな。完全に一線超えたでござるよ!」

 ウルヴァンの物言いに、ヤクモがぎゃあのぎゃあのと騒ぎ立てる。

「来訪者が敵か味方か判断する術はなかった。貴様は俺にアリアを危険に晒せとでも言うのか?」

「ぐっ……そ、それは」

 痛いところを疲れたように、ヤクモが言いよどむ。

「でも、ウルヴァンさんも出ようと——むぐっ」

 アリアの口を、ウルヴァンの手がふさぐ。自分のことは棚に上げようという魂胆らしい。何とも大人げない。

 ウルヴァンが玄関口に向かい、切り抜かれたアルミ材を拾い上げる。それを扉に当て、術式を発動する。

 切断面が見る見るうちに接合されていき、元通りの扉の姿に戻った。

「見事なものでござるな」

 ヤクモが感心そうに見ていた。アリアも同じ思いだった。

「こうも簡単に直せるのであれば、拙者を責める必要はなかったのでは?」

「さて、もうひと眠りするとしよう」

 ウルヴァンが素知らぬ顔で床に敷かれた布団に寝転がる。

「アリア殿! 拙者、あいつ嫌いでござる!」

「あ、あはは……」

 騒がしいヤクモを前に、アリアは困った顔を浮かべるしかなかった。

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