2020年 ある女の生涯


 前世の記憶は残っていた。


 父が出ていった頃から頭のおかしな宗教にのめり込んだ母は、事あるごとに私を蔑んだ。精神的に追い込むことが得意だった母から逃れるため、私は花や虫、動物や空を愛でた。その過程で出会ったまさくんは、だった。いい人だと思っていた。それなのにいつからだっただろう、彼が私に暴力を振るい始めたのは。


 母から逃れるために依存してしまった男も、母同様頭のおかしな人だった。それに気が付いたのは、テレビで題材的に報じられた大きな殺人事件。その時に彼が言い放った言葉で、ああ……この人は駄目だと気がついたときには時すでに遅しであった。


 私は、母からもまさくんからも逃げられなかった。私の人生はこんなものかと諦め、惰性で生きていたというのに、小さな協力者を得て偶然巡ってきたチャンスを、私はモノにしてしまったのだ。


 ──つまり、彼を殺した。


 まさかあんな小さな雀が、私を救ってくれるだなんてにわかには信じがたい出来事だった。まさくんは事故のような死に様であったけれど、私は彼に対して殺意を持って対峙したのであるから、罪深い女である。


 母も、私を庇ってはくれなかった。


「悪魔に取り憑かれた娘ぇッ!!」


 そう叫んだ母の顔は、ありがたいことに黒く塗りつぶされ、私の記憶からは消えていた。


 どうなろうと知ったことではなかった。自分の人生だというのに、最早興味の欠片もなかった。心配だったのは、私を助けてくれたあの雀が、無事逃げおおせたかという、ただ一点だけであった。母が狂ったように「雀!雀!」と叫んでいたものだから、心配で心配で仕方がなかったのだ。


 確認のしようなどなく、私は喧しいサイレンの鳴る車に乗せられる。パトカーだったのか、救急車だったのかは、はっきりと覚えていない。車が走り出してすぐ、大きなトラックに追突された時のことは記憶には残っていた。そこからは、地獄行き。地獄でのことはあまり記憶に残っていない。記憶に残しすぎると、もしかしたらあちら様に不都合があるのかもしれない。






「お嬢様? いかがされました?」

「……何でもないわ、ごめんなさい。何の話だったかしら」

「新しいバトラーについて、お話をしていました」


 いけない、いけない。つい昔のことを思い出していた。昔といっても私の前世はたったの数十年前。前世であんな事をして散った私に、再び人としての生を与えるだなんて、神も閻魔も何を考えているのやら。おまけに記憶も残しているだなんて、どういうつもりなのか、両者を問いただしたくなる。もしかしたら両名とも、おっちょこちょいなのかもしれない。


 まあ、それはさておき。


 我が家のバトラーが高齢を理由にもう間もなく退くものだから、どのフットマンを昇格させるかという話であった。父の決めることだから、私には関係ないわとまともに話を聞いていなかったが、どうやら新しいフットマンを雇うことになっているらしい。直接的に関わることも少ないので、気にしなくてもいい話題かもしれない。


 それにしたって驚くのは、二十世紀にもなって執事から侍女まで揃った家庭があるということ。おまけに社交会がどうのこうのって、外国ってこういうものなのかしら。日本人としての記憶と知識しか持ち合わせていない私には、わからないことだらけであった。幼少より必死になって身につけた知識はツギハギだらけ。まあ、長女として婿を取る頃までには、立派なレディになれると信じて日々精進して……いく予定ではある。


「今日来るようですよ、新しいフットマン」

「そうなの」

「お顔だけでも見ませんか?」

「ここからでも見えるわよ」


 二階にある私の部屋の窓から下を見下ろせば、玄関ポーチがよく見える。新しいフットマンとやらはきっと徒歩で来るでしょうから、このままぼんやりと外を見ていれば、ちらりと姿くらいは見えるはずで。


「あっ、小鳥」

「いけませんよ」

「わかってるって」


 この体に生まれてからというもの、鳥や動物に触れようとすると注意を受ける。どうやら、人りより多少軟弱な体のようで、植物としか触れ合うことは許されなかった。もちろん、人との関わりも最小限だ。もう間もなくデビュタントだというのに、果たしてこのままでいいのだろうかとも思うけれど、深く考えると疲れてしまうのでやめておく。


 今でも、窓の外で小鳥を見かけると思い出す。私を助けてくれたあの雀のことを。考えたところでどうしようもないのだけれど、前世の記憶をここまで残すくらいならば、あの子がどうなったのかを教えて欲しかった。いつかこの生が終りを迎え、神か閻魔に会えたなら、聞いてみたいとも思っている。両名が本当におっちょこちょいならば、チャンスはあるかもしれないし。


「あ、お嬢様、来ましたよ」

「どこ?」

「ほら、あそこに」


 侍女の指差す方を見ると、背の高い男が大きなトランク片手に、屋敷の前庭をゆったりと抜けてくる。柔らかそうな栗毛が、ふわっと風に揺れていた。


「──え?」

「どうかなさいました?」

「あの人……」


 会ったことなどない筈だ。なのに見覚えが──あるのは──どうしてなのか。


「……あの人の名前は?」

「名前ですか? ええと、たしか……」


 直後、ハッと顔を上げた新しいフットマンと目が合った。栗毛の髪に、黒い瞳。あちらも私と目が合った刹那、涼やかな目を大きく見開き、取り乱した様子。ピリピリと体が痺れ、形容し難い……言葉では表現できない……互いに通ずるものがあると──確信した。


「あの目…………まさか!」 

「あっ! お嬢様っ!!」


 走ってはいけません!と背後から声が降ってきたが、気にせず駆けた。部屋を飛び出し階段を下りて、玄関で出迎えをしようと待機していた父達を通り越して。


「ミレナ! 何事だ!」

「お父様! すみません! 私っ……!」


 玄関扉を開けると、ちょうど目の前に栗毛の新しいフットマン。ああ、やはり、そうなのね。姿は全く違うのに、私には彼が確信できる、言いようのない自信があった。魂が惹かれたと、そういえば納得してもらえるかしら。


「あぁ……」

「あの、すみません、私……」


 あなたのことを知っているんです、魂が惹かれたんです、だなんて初対面で言ってしまえば、頭のおかしい令嬢のいる家だと思われてしまうかもしれない。実際、目の前の彼は手に持ったトランクをドスンと地面に落として困惑気味だ。しかし彼は真っ直ぐに私を見つめ、震える唇を噛み締めて何か言いたげな様子であった。


「やっと……やっと会えましたね」

「やっぱり、そうなのね?」

「はい。一目で、わかりましたよ」


 まさか、本当に? と今度は私が困惑する番であった。やはり、彼も私を確信しているようであったが、何と説明すればいいのか、口籠ってしまっている。


「私、覚えているの、あなたのことを」

「私も、覚えているのです」

「嘘……あなた、本当にあの時の雀なの?」

「……はい」


 それ以上の言葉はいらなかった。その場で抱き合い、再会の喜びを噛み締めたいというのに、人目が多くそれは許されず。会ったばかりのフットマンと今ここで触れあえば、周りを混乱させてしまうことくらい容易に想像できた。


 父が後ろで何か言っている。適当な言い訳も思いつかず、困り果てていると、彼が父に向けて挨拶をして名乗った後、一言二言言葉を交わした。


「部屋の窓から見えたを、追いかけて降りてこられたそうです」

「そうなのか」

「ごめんなさい、お父様……」

「ミレナは本当に鳥が好きだな」

「ええ、大好きよ。私を守ってくれた、大切な存在だもの」


 不思議そうに首を傾げる父に、にこりと微笑みその場を凌ぐ。なんでもないわ、と手を振ると、父は彼を連れて屋敷へと向かう。短い再会の挨拶に物足りなさを覚えていると、落として忘れたままのトランクを取りに、彼がこちらへと向かってくる。次に話せるのはいつになるかわからないので、何か気の利いた言葉を掛けておきたい、そう思いながら顔を上げた──刹那。


「今度こそ、最期まであなたを守らせて下さい」

「は……い……」

「ありがとうございます」


 大人の余裕か、気の利く言葉をかけてくれたのはあちらであった。私は熱を持った頬を両手で包み込み、その背を見送ることしか出来ない。これから始まる新しい日々に、心が弾まなかったといえば、それはきっと嘘になる。


 まずは感謝を伝えなければならない。それから──あのあと、あなたに何が起きたのかも教えてほしい。私に何が起きたのかも、教えてあげるわ。そこまでの興味はないと言われてしまうかもしれない、それならそれで、いいと思った。

 

 まだ熱い頬をぱたぱたと両手で扇ぎ、慌てて熱を冷ます。まさか、こんな顔で屋敷に帰るわけにはいかないのだから。

 







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もしも私たちが、来世で出会えたなら、きっと こうしき @kousk111

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