1790年 ある男の生涯

 これは私が──畜生と成り果てる前の時代を生きていた記憶──……。







 憂鬱な朝がやってきた。


 薄い窓掛けに指をスッとかけると、うっすらと差し込む朝日に重い溜息を一つ。寝台から身を起こすと、私はのろのろと身支度を始める。 かめに汲んでおいた水で顔を洗い、硬いパンと冷めたスープで朝食を済ませる。まだ柔らかいパンは、妻のために置いてあるのだが、そろそろ買い出しに行かなければ食料が尽きてしまう。しかし、給金が支払われるのはあと二週間先だ。


「八時半……そろそろ出るか」


 重い腰を上げ、行きたくもない仕事へと向かう。


 仕事に行きたくない理由など皆それぞれあるだろうが、私の場合は己の職業が最大の理由であった。私とて、好きでこんな仕事をしている訳ではないのだ。しかし、転職するにも出来ぬ理由がある訳で。


「おはようサム。今日もよろしく頼むよ」

「ああ」


 好きでこのような仕事をしているわけではない。大した給金をもらっているわけでもないというのに──……この忌まわしい仕事は世襲制なのだ。父がそうであったように私もこの仕事を引き継いだ。、そして私に子があれば、その子もこの仕事を引継ぐのだ。つくづく嫌になる。


 仕事用の手袋をはめ、観衆の待つ広場へと足を進める。沼に嵌まったように足が重いのはいつものことであった。広場に集まる数千人の観衆は沈黙を知らず、好き勝手談笑に興じている。全く、人が苦しみ死んでゆく姿など見て、何が面白いというのだろうか。


 私が断頭台の足元に姿を現すと、それまで喧しくて仕方のなかった物好き共の声がぴたりと止んだ。

 断頭台に繋がる長い紐を引きながらに処刑人の足元へと移動すると、うつ伏せに固定された男の名と罪を高らかに叫ぶ。遥か頭上の大きな斜め刃を見つめると、大きく息を吸い込んだ。


「ふぅ……」


 せめてもの敬意を払い、死にゆく男の後頭部を見つめる。パッと目を離すと、断頭台の刃は勢いよく落下し、ズドンと処刑人の首を切り落とした。その瞬間湧き起こる割れんばかりの歓声に、毎度吐き気を催すのだ。



 私の仕事は死刑執行人。父からこの仕事を引き継いだのは十八の頃。兄が死に、次男の私がこの仕事を継ぐしかなく、今まで何百という人間の首を跳ねてきた、汚い汚い男である。自分の子にこのような仕事を引き継がせるなど、考えるだけで発狂してしまいそうになるのだが、幸いなことに私と妻の間に子はいない。身内の者たちは養子をもらえと口煩いが、子を養える程の余裕はなく、且つ彼らの魂胆は透けて見えるので、頑として養子は取らなかった。


 断頭台の下に落下した首を回収し、布をかける。ぷつんと切れた首から下を担架に乗せ運び、持ち帰りそれを検体として研究するところまでが私の仕事であった。毎日死刑が執行される訳ではない。が、毎度催す吐き気に、きっと私は医者としても死刑執行人としても中途半端で不出来な男なのだろうと己を卑下する日々にもうんざりし始めていた。


 早く寿命が来てほしい。そう願いながら生きたというのに、親から貰い受けたこの体は丈夫だったようで、七十近くまで生きた。それまでに私が手にかけた人数は千を優に超えていた。



 地獄に落ちると覚悟をして死を迎えた。ありがたいことに安らかな死であったが、案の定地獄の門に出迎えられサタンの裁きを受けた私は、数百年、地獄で裁きを受けた後、新たな生を受けることとなった。ありがたいことに人を殺す腕を持たぬ、畜生の姿。自由に空を飛び回れることの、なんと清々しいことか。


 それなりに苦労は多かった。天敵に食われそうになったこともあれば、飢えて死にかけたことも一度や二度ではない。しかし、人だった頃に比べれば良いものだった。ズドンと落ちる大きな刃を見ることもなければ、己の手が鮮血に染まることもないのだ。 


 この生を精一杯生きようと誓った数年後。鳥の寿命は儚く短かったようで、妻はあっという間に天に召された。子供たちは巣立っていたし、一人となった私は餌を取る以外は、人の子をのんびりと眺めて過ごす日々。


 そんな時に出会ったのがあの少女だった。誰にでも平等に優しい少女に、いつしか私は惹かれていた。前世の妻にはなかった優しさに、惹かれたのかもしれない。私に優しくしてくれる者など、いなかったのだから。


 だから……彼女が屑のような男に襲われたとき、命を賭して彼女を守りたかったのだ。私に喜びを与えてくれた、初めての人。その彼女の為にこの手を汚すのであれば、いくらでも汚そうと──小さな体の中で覚悟と決意が弾けたとき、私の中で芽生えたのは、屑に対する猛烈な殺意なのであった。

 冷たい雪の上で、一人死に果てても後悔などなかった。彼女が生き長らえ、幸せになってくれればそれで──よかったのだ。



 

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