もしも私たちが、来世で出会えたなら、きっと

こうしき

1995年 ある男の生涯

 彼女はいつだって、誰にでも、平等に優しかった。赤子から老婆、草や花、畜生に至るまで。全てのものに等しく、その温かな笑みを向けた。


 もしや私を一つの「個」として認知しているのではないか、と胸を躍らせた時期もあった。しかしまあ、人の子に我々を区別することは容易ではないようで、その淡い期待は砕けて散った。

 

 散ったとしても、彼女はいつだって、私のような畜生にさえも微笑み、目が合えば手を振ってくれる。それが何年も続けば、小さな心は自然と疼き出すというもの。彼女に惹かれていると自覚したのは、出会って三年目の冬。彼女の笑みと優しさは、たかが畜生の私が、恋に落ちるには十分な理由であった。


 朝晩と、いつものように遠くから彼女を見つめていた。認知されずとも、遠くから見つめるだけでただ幸せだったというのに。欲を剥き出しにしたのがいけなかったのかもしれない。


 

(いたい いたい つめたい つめたい たすけて)



 勢い余った私は、あろうことか彼女の住処へ安易に近付いた。その結果、宿敵から逃げて、逃げて──前方不注意の果てに頭を強打。打ったのは頭だというのに、全身が重く動かない。落下した場所が良かったのか悪かったのか、ふわふわと冷たい、体を包み込むこの感覚は──雪。


 体の痛みが次第に抜けてゆき、頭だけがガンガンと痛む。視界はぐるぐると回ったままで、まだ動くことが出来ず、冷たい雪に体力を奪われてゆく。きっとこのままでは凍死するなと自嘲気味に笑ってしまいたくなるが、笑うという機能を授からなかったこの体では、それも叶わなかった。


「うそっ! 大変!」


 ガラガラと、大きな音を立てて私の目の前に現れたのは愛しい彼女。雪のように白い肌に、真っ黒な髪。彼女は私を見下ろし屈み込むと、ふわふわと温かな手で全身を包み込み、冷たい空間から私を連れ去った。


「帰ってきたら……大きな音がして何かと思ったよ。手袋、つけたままでよかった」


 私の体を抱えたまま、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。私に話し掛けているのか、それとも独り言なのか。どちらにせよ、彼女の柔らかな声は私を落ち着かせた。


「ミーちゃんが使ってた籠だけど……もういなくなっちゃって。ちょうど良かった、あなたが休んで」


 キィ、と小さな金属音の後、ふわふわな──これは覚えている──毛糸の手袋だ──と一緒に、私の体を籠の中へと入れてくれた。外から私を覗き込む彼女の瞳は黒く、大きい。


「ミーちゃんはね、先週逃げてしまったの。私が……籠も窓も開けてしまったから、私のせいなの」


 大きな瞳がゆらゆらと揺れる。覚えている、これは涙。


 彼女は語る。雀である私に向かって語る。


「人に飼われた鳥の大半は、野生では生きていけないの。だから……もう、きっと、あの子は」


 私の手が大きく、羽がなければ、彼女の涙を拭ってやれたというのに。私の舌が器用に動き、言葉を紡ぐ事ができたなから、彼女を慰める言葉の一つや二つ、伝えることができたというのに。


 きっとこれは罰なのだ。前世で人を殺め、罪を犯し、現世で畜生に堕ちた私への罰。命の恩人に感謝を伝えることすら出来ない、鳥となった私への罰。


「残念だけど、野鳥は飼ったらいけないんだ。元気になったら……お外に帰って、ね?」


 私が野鳥でなく、せめて飼鳥であったなら。短い命を彼女のために燃やし、時を共に出来たかもしれぬというのに。最早、番もおらず一匹の身。老いた体に鞭打って、好いた女に近づき過ぎた結果、この始末。死んでいたかもしれぬ、この短い命を救ってくれた美しい彼女──……。


 頭の痛みはすぐに消えた。どれだけ時間が立ったのか分からないが、せめて、もう少しだけ、彼女と一緒にいたかった。ミーちゃんとやらがいなくなり、淋しいと泣く彼女の心の隙間を私如きが埋めれるのであれば、せめて、一晩だけでも──。



 ──ピンポーン



「チュンチュンチュン!」

「ごめんね、びっくりしたね。ちょっと待ってて」


 ぱたぱたと小走りに、彼女が姿を消す。彼女の高い声とは別の、低い声がする。直後、彼女が引き連れてきたのは、背の高い男だった。


「ミズキ、なに、これ……雀?」

「うん。窓ガラスにぶつかって、ベランダに倒れてたの」

「雀は飼ったら駄目って、ネットで見たぞ?」

「飼ってるわけじゃないよ、一時保護。元気になったら外に逃がすもん」


 何だこの男は──と、見覚えのある顔に苛立ちが募る。こいつは時々、彼女と接触していた男だ。畜生であれど、嫉妬心というものは残っていたようで。威嚇をするように激しく鳴き散らせば、眉間に皺を寄せ不快な表情を張り付ける男。


「うるさくない?」

「知らない人が来たから、びっくりしてるだけだよ」

「これだけ元気なら、逃がしてもいいだろ」

「駄目だよ!」


 私の入った籠を引っ掴み、男はベランダへと足を進める。男の胴に抱きつき、阻もうとする彼女。その髪を乱暴に掴むと、男は──。



 ──パンッ!



 と。彼女の頬を打った。


「ミズキ何なの? 鳥じゃん、雀だよ?」

「駄目だよ、まだ、元気じゃ……ない……!」 


 目の前で起きた出来事に、頭がついていかない。この男は、彼女に手を上げたのか? 自分よりもか細い、こんなにも可憐な女性を頬を殴ったのか?


「ミズキはいつも鳥ばっかりだ! せっかくあのインコも逃がしてやったってのに! 俺のこと、見てくれない!」

「……え?」

「水色のインコだよ! お前はあの時、自分が籠を開けていたからって勘違いしてるけど、あれ俺だから!」

「あなたが…………ミーちゃんを……殺したの? 許さないっ……!」


 彼女は男の前方に回り込み、コートの胸元を引っ掴んだ。男の手から私の入った籠が落下し、入口の戸が開く。


「許さない! 許さない! ゆ゙……っ!」



(そんな、やめろ──!!)



 馬乗りになった男は、何度も何度も彼女を殴りつける。次第に赤く、腫れぼったくなってゆく彼女の白い顔。


「そんなっ、ミズキっ、俺はミズキのことこんなに……好きなのに……お前は俺より鳥を庇うのか!」

「私……動物を傷つける人……嫌いなのっ……!」


 男の両手が彼女の首に伸びる。ギリギリと締め、苦しそうに彼女の手足が床の上で暴れる。



(この男っ──殺してやる──!!)



「ヂュンヂュンッ!!」

「うわっ! なんだこの鳥っ!」

「ヂュンッヂュンッ!!」

「イテッ……痛えッ!!」


 男の顔を思い切り突く。野生の鳥に突かれれば、一溜まりもないだろう。額や頬から血を流す男の体を、彼女が後ろから押さえつける。


「ミズキッ! お前ッ!!」

「ヂュンッ!」

「ぎゃああああぁぁぁッああ!!」


 男が彼女を振り向いた瞬間、目玉を突いてやった。反射的に瞼が閉じられたので目玉を抉ることは叶わなかったが、何度も突く内に夥しい血液が男の顔面を伝ってゆく。


「お前ッ! いい加減に……!」


 か細い彼女を振り払うことなど、この男にしてみれば簡単なことだったのだろう。すぐに振りほどかれた彼女は、再び男の拳の餌食となる。


「い゙……ぅ゙……ぅ゙っ……」

「ヂュンヂュンヂュンッ!!」

「クソ鳥が! うるさいっ!」


 男の拳が私の体を捉えた。小さな体といえど、男の顔一点を狙って突いていたのだから、叩き落とすのは簡単であったようだ。全身にずっしりと重い衝撃の後、床に叩きつけられてしまった。その上、私を踏み潰さんと迫る足。


「やめてっ!」

「黙れっ!」


 その時、床に滴った血液で足を滑らせた男が体勢を崩した。ずるりと前のめりに倒れ、ゴトン、と頭から衝突したのは固そうなガラスのテーブル。打ち所が悪かったのか、ひくひくと痙攣した後、動かなくなる体。


「……まさくん?」


 動かない男の体。失神しているのか、はたまた息絶えたのか私には判別がつかなかったが、大の男がこの程度で死ぬとは思えなかった。


「チュ……」

「大丈夫? 動けるの?」

「チュン」


 一鳴きすれば、彼女が微笑む。体は動き、問題はなさそうだ。問題があるとすれば、私の心のほうであった。畜生の身になってまで、人の子に恋をして庇うなど馬鹿げている。


 前世でたくさんの人を殺した私が、現世でこんな体になってまでも、人を傷つけた。神は、私が人を傷つけるために、自由に動く体を与えた訳ではないだろうに。



(──地獄行きだな)



 顔を腫らした彼女は、座り込んで動かなくなってしまった。男が起き上がる前にここから逃げなければ、どう考えても危ないというのに。


「あなたは逃げてね」

「チュン……! チュンチュン!」

「はは、私たち、共犯だね」


 ドタバタと、新たな人の気配。これは彼女の母親だ。惨劇に甲高い悲鳴を上げている内に、彼女はバルコニーの戸を開けて私を外へと追いやる。


「助けてくれてありがとう。また、会えるかな」

「チュン……! チュン! チュン!」


 ピシャリと閉められる戸。ハッと顔を上げると、冷たい外気が全身を包む。羽を動かし、高く、高く、飛び上がり──灰色の空を一周して──彼女の部屋のバルコニーへと戻ってきてしまった。


「チュンチュン」


 固く閉じられた窓は開かない。そのうち喧しいサイレンの音が近隣に響き渡り、日が暮れ、朝になった。


「チュン………」


 彼女にもう一度会えるのなら、私は死ぬまでここで鳴き続ける。されど、待てども待てども彼女は姿を見せてはくれなかった。


 想いを伝えられたなら、どれだけよかっただろう。せめて感謝を伝えたい、あなたに会えてよかったと。この畜生の短い生に彩りを与えてくれて、ありがとうと。

 しかしこの小さな体で出来ることなど、たかが知れている。チュンチュンと喧しく泣き喚き散らし続けても、私は彼女に会えぬまま、この生を終えることとなるのだろう。畜生が人の子に恋だなんて、やはり馬鹿げていた。のうのうと餌だけ突いて生きていれば、まだまともな人生──いや、鳥生だったかもしれないというのに、後悔ばかりだ。



 ──これはそう、きっと現世で神が私に与えた罰。


 

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