第7話 交流

 生臭い匂いが鼻をさす。


 体にずっしりともたれかかる何かを感じながら、ゆっくり意識が覚醒していく。


 遠くの方で犬が吠えている。


 誰かが私の名前を呼んでいる。


 お母さんかな。


 ああ、もしかしたら夕飯の準備ができたのかもしれない。それなら早く行かなくちゃ。


 しかし、母にしてはいつもより声が野太いような気もする。


 気のせいだろうか。


 寝起きで耳鳴りがひどいから聞き間違えたのかもしれない。



 ウォン! ウォン!


 ——ちゃん。ユミちゃん!


 

 どんどん声が大きくなっていく。


 私はかろうじて動く右腕を、太陽が差し込んでくる隙間に向かって伸ばした。


 理由はない。ただ体が勝手に動いたのだ。


 なんとなくそうしなければいけないと思った。


 数秒間そうしていると、人がこちらに向かって走ってくる気配を感じた。


 弱々しく挙げられた右腕は、ゆっくりゆっくり光に当てられていく。


 ここだ、ここにいる! 


 そっちの瓦礫を支えておいてくれ! まずこれからどかそう!


 キーンと音が響く耳に飛び込んできた、複数の男の人の声。


 何度も何度も私の名前を呼びながら、体にのしかかる重いものたちをすばやく慎重に取り除いていく。


 そうしていくうちに朦朧もうろうとしていた意識もだんだん戻っていく。


 ついで、それに比例するようにして、体のあちこちがズキズキと痛み始めた。



 とたん、どこまでも孤独だった暗闇から、あたたかくて明るい陽の下へ連れて行かれる。


「ユミ! ユミ!」


 救助してくれた人に、力なく抱えられる私の元へ駆け寄ってきたのは、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした母だった。


 私の顔に腫れ物を扱うように触れ、優しい手つきで頭を撫でる。


 よく見れば化粧もしていないし、それどころか髪も整えていない。


 綺麗好きな母がこうも乱れている姿は珍しい。


 一体何が起きたのかと、母に支えられながら首だけ動かす。


 そこには思わず目を逸らしてしまいたくなるほど、悲惨な光景が広がっていた。


 小学生の時によく遊んでいた公園。


 中学生の時に部活帰りでよく寄っていたコンビニ。


 そして、大好きな私の家。


 それらが全て崩壊した姿で勢いよく両目に飛び込んできた。



 ——そうだ、思い出した。なんで忘れてたんだろう。


 私はあの日……あの時。降り続く雨で氾濫した川の水によって、家ごと流されてしまったのだった。





 あれから数ヶ月の月日が流れただろうか。


 悲惨な光景を目の当たりにして気絶した私は、比較的被害の小さかった隣町の病院で目を覚ました。


 起きてそうそう、母にものすごい力で抱きしめられ、また眠ってしまうのではとヒヤヒヤしたのをよく覚えている。

 

 怪我も見た目ほどあまり深くはなく、私が思っていたよりもすぐに退院できた。


 母も私も五体満足。


 しかしながら、住んでいた家は流されて原型をとどめておらず、近くに親戚のいない私たちは、今は母方のおばあちゃんの家に住まわせてもらっている。


 ここは前に住んでいたところよりも自然が多く、四季折々の風景が楽しめるので、私はのびのびと充実した毎日を送っていた。


 そして、私が被災した時に見たあの不思議な光景。


 それについて母に話してみたところ、頭と精神状態の心配をされただけで、真面目に話を聞いてはくれなかった。


「ひどいよね。私、本当に見たのに」


「だって、やっと目を覚ましたかと思ったら、妖怪と会って話したとか変な色の川を見たとか言い始めるのよ、この子。そりゃあ、まず頭の心配をするでしょう」


「ひどい!」


「うふふ」


 アブラゼミの元気な声を聞きながら、母とおばあちゃんと私の三世代女子会を開催する。


 といっても、ただ三時のおやつを食べるだけなのだけど。


 たった一人の男枠のおじいちゃんは、友達と朝早くから釣りに出掛けていて今はいない。


 「明日は大量に釣れる気がする!」と昨日の夜にたけっていたが、実際のところはせいぜい二、三匹釣れるくらいだろうとおばあちゃんは言う。


 友達と喋りながら待っているので、竿が引いていることに気づかないそうだ。


 まあ、おじいちゃんらしいと言えばおじいちゃんらしいが。


「でもねえ、おばあちゃんも一回だけ見たことあるのよ、妖怪」


「ちょ、お母さんまで何言ってるの!?」


 頬杖をつきながら思い出に耽っているおばあちゃんにギョッとする母。


「あら、あんたも小さい頃言ってたじゃない、川の中に河童さんがいたって」


「えっ」


 聞き馴染みのある名前に思わず母の方を振り向く。


 まさか三世代ともども妖怪を見たことがあるなんて。


 もはや私があの場所へ迷い込んだのも運命だったと言わざるを得ない。


 しかし、母は盛大なため息をつきながら首を左右に振る。


「もう、そんなの見間違いに決まってるじゃない! 第一ねえ、妖怪だか幽霊だか知らないけど、そんなの空想上の生き物で本当はいるわけないの」


「でも私、本当に」


「はいはい、もうわかったから。てことでこの話はもうおしまい!」


 母は貰い物の饅頭をさっさとたいらげると、居間でくつろいでいた犬のポンタに絡みにいく。


 現実主義者の母は、昔からそういった類のものを嫌う節がある。


 私が小さい時、某幼女アニメのヒーローに憧れて将来はこうなるんだと母に宣言すると、真顔で「無理よ」と言われたことがあった。


 慌ててフォローに入ってきてくれた父がいなければ、きっと私は大泣きしていたことだろう。


 何もそこまで否定しなくてもと思うが、頑固な母のことだ。きっとこの先も妖怪断固否定派を貫き通すのだろう。


 呆れながら、あんこのいい香りを漂わせる饅頭にかぶりついた。


「にしても、本当に不思議なところに迷い込んだのね、ユミちゃん。そうだ、他にはどんな妖怪に出会ったの? ほら、教えて教えて」


 反対に、おばあちゃんはこういう話に興味があるらしく、饅頭を食べる手を止めて私を見つめてくる。


 親子なのにこうも違うのか。


 居間で子犬と戯れる母を横目に、そんなことを考える。


「うーん、他、他はねー……芝天狗くんとか、河童さんとか…………あっ」


「なあに?」


 咀嚼そしゃくしていた口を止める。


 私の頭の中では、ある神様が浮かんでいた。


 少し考えてからゆっくり饅頭を味わい嚥下えんげする。


「……お父さんにあった。龍の神様になったお父さんとあったの」


 おばあちゃんが口を開けたままパチパチ瞬きを繰り返す。


 やはり言うべきではなかったかもしれない。


 いくらファンタジーに興味のあるおばあちゃんでも、さすがに今の話は気味悪がるだろう。


「お父さんに、ねえ……。それも龍の姿をした……」


 神妙そうに頷くおばあちゃんをじっと見つめる。


 心当たりがあるのだろうか。何かを思い出すように考え込むおばあちゃんに、私は首を傾げる。


 壁に取り付けてある時計が、チクタク音を立てて時間を刻んでいく。


「……ああ、思い出したわ! いやね、龍の神様って言うから何かが引っ掛かってたのよー」


 最近は物忘れがひどくてやーねえ。


 数分間ほど自分の世界に入っていたおばあちゃんが、照れくさそうに自虐しながらようやく帰ってきた。


 おばあちゃんは私に向かって手招きをすると、口元に耳を近づけるよう催促する。


 何の話が聞けるのだろうか。


 少しだけワクワクしながら言われた通り席を立ち、おばあちゃんに耳を貸す。


 すると、微笑みながらまるで怪談話をする小学生のように話し始めた。


「知ってるかしら、この話。私が子どもの時から伝わる古ーいお話」


 昔々、ここの近くを流れる川が氾濫したことがあるのね。今は堤防が作られてるからそんな心配はあんまりないんだけど、当時はそんなものなかったから、氾濫が起きた時みーんな大パニックになっちゃったの。


 でもね、溢れた川の水は村まで流れてこなかった。なんでかわかる? ああ、川と村の距離が遠いからとかじゃないわよ。


 ふふ、と笑みをこぼしながら一拍おく。


 「神社で祀っていた『龍神様』が守ってくれたの。雨上がりの晴れた空に舞う龍の姿を見た人がいるんですって」


「え……それって」


 おばあちゃんは満足気に満面の笑みを浮かべる。


 それ以上は何も言わず、そそくさと居間に移動すると、母と一緒にポンタと遊び始めた。


 蝉の声が大きくなる。


 アブラゼミとミンミンゼミの大合唱。


 ふと窓の方へ目を向けると、そこにはヤモリが一匹張り付いていた。


 こちらを見たままピクリとも動かない。


 爬虫類特有の奇妙な雰囲気をまといながら、こちらをじっと見つめている。

 

 けれど、向けられるその小さな視線が、何かを見守るようなあたたかいものだと感じとったのは、きっと私の勘違いじゃない。


 


 




 

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空舞うあなたへ 明松 夏 @kon_00

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