第6話 浮流
だんだん霞んでいく視界のはしで、一瞬なにかがきらりと光る。
そんなものを気に留めている余裕などないはずなのに、なぜか光っていた場所から目を離せない。
そうしているうちにも体は沈み、陽の光がどんどん届かなくなっていく。
肺の中の酸素ももうなくなり、口元を手で押さえるが一度でた空気は戻ってこない。
あまりの苦しさに瞳を潤ませていると、川の奥底がもう一度きらりと光る。
かと思えば次の瞬間、水の中なのに自然と呼吸ができた。
下に落ちていく感覚もなくなり、まるで浮いているかのようにその場を漂う。
理由はわからないが、今のうちに急いで吸って吐く、吸って吐くを何度か繰り返すと、白黒になっていた世界にようやく色が戻った。
しかし、安心するにはまだ早い。
私はまた呼吸ができなくなる前に、慌てて口元を手で押さえる。
ギュッと目を瞑って耐えていると、ふと何かの気配を感じた。
まさか、河童たちが痺れを切らしてやってきたのだろうか。
心臓の音が急激に大きくなるのを憶えながら、おそるおそる瞼の力を緩めていく。
「もう息はできるから手を離しても大丈夫だよ」
「きゃっ!?」
驚いて開いた瞳に飛び込んできたのは見事な碧色だった。
暗い水中で一つ一つの鱗が細やかに揺らめき輝いている。
口から漏れ出た空気が、泡になって溶けていかないことに気づかないほど、絢爛な姿に見惚れていた。
容姿を誰かに教えてもらったわけではないが、私の直感が激しく伝えてくる。
この青緑色の龍が、みんなのいう「龍様」なのだと。
「な、なんでここに……」
河童たちの言っていたことが本当ならば、龍様は今この世界にはいないはず。
まさか私の逃げる意欲をなくすために嘘をつかれたのだろうか。
目の前の龍はじっと私の瞳の奥を見つめたまま一言も喋らない。
川の底から水が揺れる音がかすかに聞こえてくる。
少し視線をずらすと、その音の正体は龍様の尾が動く音らしかった。
この龍、体長はかなり大きくようで、暗くて見えない奥まで鱗が輝いていた。
陽の光を反射しているのか、元々光っているのかわからないが、神様だからか龍様には目を惹く何かを感じる。
「さっきあちらから帰ってきたばかりだよ。ようやく収まったからね」
「え、え、あちら? 収まる?」
ぼーっと体を眺めていたので、急に始まった話に慌てて耳を傾ける。
脳に直接響くような声の龍様は、はっきり日本語を喋っているのに、私には理解できない言語を話している気がした。
きっと主語がないせいだろう。
それは決して話し方が下手くそだからなのではなく、むしろ意図的にやっているように思えた。
「前まではこっちの世界にいても操れたけれど、最近は力が衰えたからこうして直接いくしかなくなったんだ」
「へえ……」
何を操れたのか、どこに行っているのか。
いまひとつ話が見えてこないけれど、どうせ訊いても答えてくれないだろうからそのまま適当な相槌を打っておく。
話を聞く限り、龍様は神様なのでこの世界とどこかの世界への行き来ができ、あちらの世界で何かしらのお勤めをして今帰ってきたばかり、ということはわかった。
いかんせん、詳しくは教えてくれないので神様についての知識が乏しい私にはこれくらいしか予想ができなかった。
ふと、それまで優雅に揺れていた龍特有の硬そうな二本のヒゲがピクッと震えた。
龍様は惜しむように上を見上げると、
「どうやらもう時間がないみたいだ。さあほら、体につかまって」
とぐろを巻いていた尾をぎゅるりとこちらに向け、それにつかまるよう促してくる。
「うわっ! え、つかまるって……」
「さあ早く!」
「わ、わかったわよ!」
さっきまでの様子とは打って変わって、あまりの迫真さに言われるがまま跨った瞬間、ものすごい勢いでうす暗い水中から空へザバアッと飛び出した。
猛スピードで空をかけるといういきなりの出来事に、私の頭は混乱に陥る。
下をチラリと覗いてみると、先ほどみんなで登ったあの丘が小さく見え、急いで視線を光る鱗に移した。
「ね、ねえ! 時間がないってどういうことなの!?」
落ちないようにギュッと抱きつきながら、耳元で吹き荒れる風に負けじと声を張って問いかける。
龍様はスピードを上げ前を向いたまま、また脳内へ言葉を響かせた。
「ここに入れる時間は決まってるんだ。人によって変わってくるけれど、その一定時間を越えると二度とあちらの世界には繋げなくなる」
「それって……」
「もう元の世界に戻れなくなるんだ」
背筋が凍った。
淡々と告げられた事実に、突然不安が押し寄せる。
じゃあ、もし間に合わなかったら私……、一生この世界で妖怪に怯えながら生きていくの?
先ほどの殺気立った彼らの表情を思い出し、ゾッと肌が粟立った。
龍様は青い空に溶け込むようにぐんぐん上昇していく。
「そんなに心配しなくても大丈夫。必ず間に合わせてみせるから」
思わず俯かせていた顔を上げた。
不安がる私を励まそうとくれた優しい声。
まるであの優しい父のようなあたたかい声色をしている。
「……ありがとう」
小さく呟いたそれは龍の耳に届いたのか、はたまた風の音にかき消されたのか。
無心で雲を突き破っていく姿では判断できなかった。
しばらく雲の中を進んでいくと、青色と淡い紫色の境目に出た。
そこではまるで時が止まっているのではないかと錯覚してしまうほど、無音で幻想的な空間がただ広がっている。
星がチラチラ瞬いていた。
かすかな輝きを放つその横には、決して無視できない大きさのまっしろな渦がギュルギュルと回っている。
「あの渦に飛び込むんだ」
「……落ちたりしない?」
「大丈夫。近くに行けば勝手に吸い込んでくれるよ」
「……わかったわ」
龍の背中から体を起こして、まっしろな渦巻きに向かって手を伸ばす。
まだ渦巻きからは遠い。
背中から離れるくらい思い切り手を伸ばす。
あと数メートル。
あと数センチ。
あと……。
「わっ!」
誰かに引っ張られるようにして渦の中へ飛び込んだ。
まっしろな空間は、私を待ち望んでいたかのようにグイグイ引っ張っていく。
そうだ、完全に吸い込まれる前にお礼を言わなければ。
強い力に抗いながら後ろを振り向くと、龍様はまだそこにいた。
子どもを見送る親のごとく、優しい目で私を見ている。
独り立ちを惜しむ親のごとく、嬉しさと寂しさを纏った目で私を見ている。
……ああ、やっぱりそうか。
つん、と鼻の奥が痛くなった。
押し寄せるものを塞ぐべく力強く唇を結ぶ。
震える声で、私は言葉を音にした。
「ねえ、ありがとう。助けてくれて、ここまで送ってくれて」
「うん」
「ありがとう、また逢ってくれて」
「……うん」
「ありがとう、お父さん」
滲む視界に映るのは、記憶の棚から呼び起こされた父の姿。
笑っている。父は笑顔でそこにいる。幸せそうに私の背中を見ている。
きっと一緒に渦の中には入れない、帰れない。ここをくぐれるのは生きた人間だけ。
それがわかっているからこそ、いま私の頬は濡れている。
もう半分以上の体が飲み込まれた。
後戻りはできない。
せめて、最後に触れるだけでもと思い手を伸ばすが、空を切って終わる。
父は笑顔のまま手を振った。
いつも人を助ける時のように、目尻を下げて。
だんだん視界が暗転していく。
うっすら見えたのは、自分の伸ばした腕が完全に渦に飲み込まれる瞬間だった。
まっしろな空間でふわふわ漂う。
暖かい手で私の行くべき場所を指し示してくれるような感覚に、されるがままになる。
思い瞼が完全に閉じようとしたその時、父の声がはっきり聞こえた。
凛としているのにやわらかさを感じる大好きな声。
いつからか思い出せなくなっていた父の声。
「いってらっしゃい」
堰き止めていた一粒の涙が、ちゃぽんとどこかへ落ちていった。
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