第5話 放流

「ちょ、ちょっと河童さん……、芝天狗くん苦しそうよ。それに、元の世界に帰れるって……」


 ひょうたんを手に持ったまま、芝天狗くんが入った水の塊を見つめて動かない彼におそるおそる話しかける。


 しかし、返事はない。


 彼はゆらりとこちらを向くと、ザンバラの髪を揺らし私に近づいてくる。


 河童さんが一歩進むごとに私の足は後退し、一定の距離を保つ。


 なんだかさっきまでの彼とは違い、禍々しい何かを纏っているような気がして怖かったのだ。


「河童さん……?」


「……」


 問いかけには答えず、ただ足を進める。


 私の右足がビクッと震えた。


 後ろを振り向いてみると、地面はそこで途切れていて、下には先ほど彼が紹介してくれた街並みが広がっている。


 けれど、数分前とは打って変わって邪気のようなものをまとった妖怪たちが、山の上にいる私たちの方を向いていた。


 心臓の音がどんどん大きくなる。


 背中に嫌な汗がつうっと流れる。


 胸の奥がスッと冷たくなる。


 ——逃げなければ。今すぐここから、いやこの世界から逃げなければ。


 私の脳内ではきっとそんな危険信号が出されていることだろう。


 しかし、前には様子のおかしい妖怪、後ろには崖。飛び降りようものなら落下死、もしくは下にいる妖怪たちにやられてしまう。


 まさに絶体絶命という言葉が似合う状況である。


「うーん、芝天狗にもちゃあんと言ってたのになあ。あいつは昔から正義感が強いからなあ」


「ちょっと、何する気! 元の世界に帰れるなら帰してよ!」


「それは無理だよ。だって、龍様は今いないからね」


「いない……!?」


 だからこの作戦を立てたのに。余計なことしてくれるね、芝天狗も。


 河童の後ろでごぽっと音が出る。


 苦しそうな顔で私に「逃げろ」と口パクで伝える芝天狗くんがいた。


 逃げろと言われても、私は空を飛べないしすごく足が速いわけでもないし……。


 いったいどうすればいいのだ。


「もうバレちゃったし、龍様が帰ってこないうちにさっさと終わらせようか」


「え、ちょ、ちょっと」


 彼はそう言うとさらにジリジリ距離を縮め始める。


「きみは僕ら妖怪をちょっと舐めすぎたね。昔のニンゲンは妖怪という存在を異常なほど怖がっていたというのに。今のニンゲンは怖がるどころか、僕らをまるでマスコットキャラクターかのように扱っている。そのせいでどれだけの妖怪が姿を消したか……」


 キュポン、とひょうたんの栓を開け、口元をこちらに向ける。


 ぶつぶつ呟く河童の周りにはドス黒いモヤが集まり、一歩進むごとにその濃さは増していく。


「最後にいいことを教えてあげよう。僕らがニンゲンと仲良くなるのは、物語フィクションの中だけなんだよ」


 怪しげに赤く光る瞳と私の目が交差した。


 怒りと憎しみの色、そして少しだけ寂しさを含んだ瞳だった。


 それに少しだけ目を奪われていたら、気づけば私は渦巻く水の中に囚われていて、下へ下へ落とされていく。


 このまま地面に叩きつけられるのだろうか。

 

 変に冷静な頭でぼんやりと考える。


 抗おうとはしなかった。正しく言えば、抗う暇がなかった。


 河童は古来より水を司る妖怪として知られ、いたずら心で川で遊ぶ子どもたちの足を掴み、奥底へ引きずり込む怖い妖怪。


 そのため、ひょうたんの水を操るのが非常にうまかった。


 目にも止まらぬ速さでとんできた水の塊に、私は身動きできずあっさり拘束されてしまっていたのだった。


「……っ」


 バッシャーン!


 体にずっしりまとわりつく水に落とされた先はあの黄緑色の川の中。


 高いところから勢いよく叩きつけられたが、先に水で体を覆われていたのでさほど痛みはなかった。


 彼の……河童さんの最後の優しさだろうか。


 いや、一撃で殺すよりもじわじわと苦しめたかったからこちらの方法を選んだのかもしれない。


 彼ら妖怪は私たち人間を相当恨んでいるみたいだから。


 ゴボッとまとまった空気が口を抜け出す。


 最初、水に包まれた時にほとんど酸素を吸えていなかったもんだから、今のが最後のひと呼吸分だった。



 ああ、死ぬかもしれない。



 いや、もう死ぬしかないのだろうな。この苦しみから逃れるには。


 シンと静まり返る水の中、独りで私は死んでゆく。


 こんなに死を身近に感じたのは初めてだ。


 ……本当にそうだろうか。


 前にもこんなことがあった気がする。


 ここにくる前に見た夢のような景色。


 あれも確か今のように水の中に——川の中にいた。



 そうだった。私は一度川で溺れかけたのだ。


 夏の暑い日の夕方に川遊びをしていて、浅瀬で遊んでいたはずなのにいつの間にか深い場所へ来てしまった。


 戻ろうとしたけれど水の流れは早く、当時小学生だった私はなすすべなく流される。


 ちょうどその時、仕事帰りのお父さんが気づいて助けに来てくれたので大事には至らなかった。



(……ああ、そうだ。いつだって助けてくれるのはお父さんだった)


 私の手は、体を覆う液体を必死に掴もうとするがそれは叶わない。


 液体はあざ笑うように手の指の間をするすると抜けていく。


 死にたくない、死にたくない。


 こんなところで独りで……死ぬわけにはいかない。


 誰か、誰か。


「おと、さ……」


 できうる限り手のひらを伸ばした先には黄色く輝く陽の光。


 届かないことを知りながらも伸ばす手は引っ込めない。


 指の隙間から漏れ出る温かい光を、掴もうとせずにはいられなかったのである。


 外から見ると鮮やかな色をしていたこの川も、中はただひたすらに暗闇が続く。


 奥底から何かが近づいてくる気配を感じながら、私は呼び慣れた人のことを口にしていた。



 

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