愛里沙は永遠の十八歳

まさかミケ猫

愛里沙は永遠の十八歳

 何の変哲もない、土曜日の朝。


優平ゆうへいが……オジサンになってる」


 朝日の差し込むダブルベッドの上。妻の愛里沙ありさは、僕の顔をジッと覗き込んで怪訝そうな顔をする。あぁ、いつも通りの反応だな。


「おはよう、愛里沙。調子はどう?」

「どうって……意味がわからないんだけど。どうして優平がオジサンになってるの? え、何これ」

「説明はちゃんとするけど、まずは君の記憶をチェックさせてほしい。いくつか質問をするから、頭に浮かんだ答えをそのまま教えてほしいんだ」


 僕はスマホで記録用のファイルを開く。


 愛里沙は二十年前、高校三年生の時に交通事故に遭った。その後遺症として、不定期に記憶がリセットされる症状に見舞われていた。

 長ければ一ヶ月ほど記憶が続くこともあるし、短いと三日しか保たないこともある。特に規則性はないが、平均すると一週間程度で彼女の記憶は高校三年生まで巻き戻ってしまうのだ。


「愛里沙。今は西暦何年かな」

「二〇〇四年」

「残念、二〇二四年だよ」


 僕がそう言うと、愛里沙は首を傾げる。

 その仕草は高校生の時と何も変わらない。


「自分の名前は言えるかな」

「宮村愛里沙……あれ、宮村?」

「正解。僕と君は十六年前に結婚しているからね。君の今の名前は宮村で合っているんだよ」


 不思議なことに、いくつかの記憶は正しく継承されている。名前は結婚後のものを自然に名乗るようになっているし、スマホの使い方に迷うこともない。包丁の使い方が下手になることもなかった。記憶の種類によっても違うようだが、ある時ポンと忘れることもあるから、医者も正確なところは分からないらしい。

 すっかりオジサンと化した僕を彼女が一目で判別できるのだって、こういった僅かな記憶の継承があるからだと思う。寝起きに不審者扱いされることだって、年に数回しかないからね。


 いくつか質問をして、答えてもらう。

 こうして話をすると、引き継げる記憶なんてごく一部で、ほとんどは高校生の時のままなのだと分かる。リセットが起きる度に同じ質問をしているのは、医者に言われて始めたことだけれど、治療できる見通しはなかった。今はもう惰性で続けているだけだ。


「――そんなわけで、愛里沙。君はこの二十年間、記憶が巻き戻る生活をずっと送っているんだよ。信じがたいとは思うけど」

「ちょっと待って。そんなこと急に言われても」

「うん、受け止めきれないだろうね。以前の君から今の君へ、動画メッセージが残されている。まずはそれを見てくれないかな」


 そうして愛里沙にスマホの簡単な説明をしてから手渡すと、僕は部屋を出る。動画の内容は彼女自身に任せているから、そこで何が語られているのかは僕も知らなかった。

 記憶がリセットされるたび、僕らの過ごした思い出は一瞬で塗りつぶされ、全てがなかったことになる。愛里沙は永遠に十八歳のまま、僕だけが記憶を積み重ねているのだ。


 窓の外では、セミがうるさく鳴いている。


  ◆


 僕が愛里沙と出会ったのは保育園に通っていた頃だった。

 母親同士が仲良くなり、家が近かった僕らはよく遊ぶようになって、そのままズルズルと一緒に小学生になった。同性の友人と過ごすことも増えたけど、なんだかんだ一番気楽な相手が愛里沙だったから、気がつけばどちらかの家に入り浸っていた。


 そんな僕らが初めてキスをしたのは、中学一年生の時だ。


「ねぇ。私、先輩に告白されたんだけど」


 一つ年上の先輩に告白された愛里沙はそれを僕に相談してきたため、僕は嫉妬心を煽られて、勢いに任せて彼女の唇を奪った。

 後で聞いたところ、あれは愛里沙の思い描いていた通りの展開だったらしい。全ては彼女の手のひらの上だった、というわけだ。


「あーあ、ファーストキスだったんだけどなぁ……ねぇ、責任取ってくれるんでしょ、優平」

「……うん。大人になったら結婚しよう」

「ま、待って。もうちょっと手前から! 彼氏になるところからでいいから!」


 そんな風にして、僕らは付き合い始めた。

 僕らの両親はどちらも喜んでくれて、寿司まで取ってお祝いしてくれた。むしろ「まだ付き合ってなかったんだっけ」と言われたくらいだから、たぶん僕らの幼い恋心なんて大人には透けて見えていたんだろう。


 母さんが病気でこの世を去ったのは、僕らが中学三年生の時だった。

 ずっと体調が悪そうにしていたけれど、忙しさから病院にかかるのを先延ばしにしていた結果、事態が発覚した時にはもう手の施しようがない状態だったのだ。


「優平……」


 呆然としたまま涙も流せないでいる僕の隣に、愛里沙はずっと寄り添ってくれていた。

 そして、骨になった母さんを見てようやく「もう会えないんだ」と理解した僕は、彼女に縋り付いてみっともなく泣いた。次から次へと溢れ出る涙が、彼女の肩を濡らしても、彼女は僕をずっと抱きしめてくれていた。


 それから、少し時が流れて。


「良かったね、優平。同じ高校に受かって」

「うん。また三年間よろしく」


 愛里沙と同じ高校に通うのは楽しかった。少し遠めの学校だったが、二人で通学する時間は毎日がデートのようだったから。高校生活の中では色々なことがあったけど、どれもキラキラした思い出ばかりだ。

 大学はさすがに別かなぁ、なんて話しながら、お互いの志望校の中間地点あたりの物件価格を調べたこともあった。二人暮らしの妄想をしたりして……思えばあの頃が、一番楽しかった気がする。


――愛里沙が交通事故に巻き込まれ、意識不明だと連絡が入ったのは、僕が大学受験の合格通知を受け取った直後だった。


  ◆


 あれから二十年、か。

 僕は愛里沙を連れ出して、近所にある個人経営の喫茶店にやってきていた。


「デカ盛りパフェ! すご!」

「良い反応をありがとう」

「むぅ、意地悪。優平にとってはいつものことでも、私にとっては初めてなんだもん。ちょっとテンション上がっちゃうくらいは許してよ」


 そうして、長いスプーンで大きなパフェを食べ始める。


 ここの店長は愛里沙の事情を知っているため、毎度のように大興奮する彼女をそっとしておいてくれる。

 というか、長年にかけて愛里沙の様子を見ながらパフェの細部を調整してくれているので、こうして彼女の嗜好にぶっ刺さるのは当然の結果なのである。


 僕は見ているだけで胃もたれしそうだったので、ブラックコーヒーを飲みながら、ご満悦の彼女を眺めていた。


「あーあ、大学行きたかったんだけどな……あれから二十年も経ってるなんてさぁ。そういえば、優平と同棲するって話してたでしょ。あれはどうなったの?」

「あぁ……僕は一人暮らし。愛里沙は家で療養してて、週末になるといつもデートをしてたんだよ。覚えてないだろうけど」


 わざわざ伝えることではないけれど、愛里沙のご両親は看病疲れで精神がだいぶ参ってしまっていた。

 まぁ、無理もない。娘の記憶がたびたびリセットされて、どんなに手を尽くしても、いつだってゼロからやり直しになるのだから。将来のことを考えれば、暗い気持ちになるのも分かる。


「僕は就職が決まると同時に、愛里沙と結婚させて欲しいとご両親に挨拶に行ったんだけど……ご両親と一緒に愛里沙もビックリしていたよ。君には何度も話をしていたんだけどね」

「そりゃそうでしょ」

「そんなこんなで入籍して。結婚式はやれなかったから、ドレスを着て写真だけ撮ったんだ」

「あ、その写真は見たよ。動画の私から、これだけは見ておけって言われてさ。最高にお姫様してたね」


 結婚後、ご両親とは疎遠になってしまった。

 それを無責任だなんて非難はできない。愛しているからこそ耐えられないこともあるし、大切だからこそ追い詰められることがあるのだと、今の僕は知っている。この二十年、変化のない愛里沙と共に、僕も色々なことを経験してきたから。


「ねぇ……ちょっと苦しくなってきた」

「そうだろうね。十八歳の感覚でデカ盛りパフェを食べるのはオススメしないよ。食べるの手伝ってあげるから、もうちょっとだけ頑張ろうね」

「……分かってたなら止めてよぉ」


 そんな風にして、僕はいつものように、彼女がパフェを食べるのを手伝い始めた。


  ◆


 愛里沙との日々は、いつだって楽しい。

 彼女は色々なものを、初めて見たかのように驚くし、若々しいテンションで何事にも挑戦する。その姿を見て、苦しんでいたのはもう遠い過去のこと。最近は僕の心もすっかり凪いでいた。


 僕が仕事から帰ると、彼女は料理を作って待ってくれている。どうやら彼女は記憶をなくしても大丈夫なように自作のレシピ帳を作っているらしく、歴代の「愛里沙」が細々とメモを書き足した結果、なかなかの大作に仕上がっているようだった。


「おかえり、優平」

「ただいま」

「ご飯にする? お風呂にする? それとも――」


 その問いかけは、リセット毎にどこかで必ず一回は行われるものだ。


「愛里沙の作った美味しいご飯を食べたいな」

「くっ……対応が手慣れてる」


 そんな風にして、今日も愉快な時間を過ごした。


 もうすぐ週末。いつも通りのペースであれば、リセットまでの時間も残り僅かのはずだ。ベッドの中、僕の胸に頭を乗せた愛里沙が、小さく呟く。


「ありがとね、優平」

「……うん」

「優平にとってはきっと、何人もの“愛里沙”から言われてきた言葉だと思うけど……今回の私も幸せだったよ。だから、次の私も幸せにしてあげてほしい。本当は私も、優平のことを幸せにしてあげたいんだけどね。たぶん……そろそろ、さよならだから」


 涙声になる彼女の頭を、僕はそっと撫でる。


「僕も幸せだよ」

「……優平」

「ずっと忘れない。今回の愛里沙のこと」


 そうして、僕らはこの一週間のことを色々と話しながら、まるで高校生のようにクスクスと笑って眠りについた。


  ◆


 何の変哲もない、土曜日の朝。


「優平が……オジサンになってる」


 朝日の差し込むダブルベッドの上。愛里沙は僕の顔を覗き込み、いつものようにそう言った。

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