第14話 漆黒の夜の海

 アリソンが、甲板に出てみませんか、と誘ったとき、ステファニーはためらった。

 でも、少し考えてから

「そうね、ひさしぶりに、そういうのもいいかも知れない」

と腰を上げた。

 深夜のことだし、甲板から外を見ても何の明かりが見えるわけでもないので、甲板に出ている人は多くない。

 酔い覚ましに出て来た船客、騒ぎたいけれど船室ではできないので甲板に出て来て飲めや歌えやの大騒ぎをしたらしい三等船客、そして、眠れないのか、思索にふけりたいのか、一人でふなばたに手をついて暗い海を見ている青年……。

 大騒ぎをしたらしい船客たちも、いまはみんなが頭を垂れて居眠りし、ときどき顔を上に向けては大いびきをかいたりしている。

 甲板上には、だれかが飲み干した安酒の瓶が、割れもせず、船の揺れに合わせて転がっていて、耳障りな音を立てていた。

 アリソンとステファニーは一層上の甲板に上がった。

 煙突で渦巻く石炭の煙がここまで下りてきて、酸いにおいが二人の女を包む。

 海は暗いけれど、夜光やこうちゅうのせいなのか、どこかの淡い光を反射するからか、航跡だけが白く浮き上がっている。

 このフランス船は、イギリス船より高速だとうたっているだけあって、その航跡がすばやく後ろへと去って行く。

 アリソンは、甲板の外側の木の柵を両手でつかんで、海のほうを向いた。

 お嬢様のステファニーは、柵を持たずに、同じように海を見る。

 「エンプレス・オブ・ジュンガリア号に乗ったときには、お嬢様はずっと甲板で海を眺めてましたよね。嵐の日にも、ずっと甲板で空や海の様子を観察して、お父上をはらはらさせて」

とアリソンが言う。

 ステファニーはふふっと笑った。

 「そうだったよね」

 言って、ステファニーは、右手で甲板の柵をつかんだ。

 「つまり、アリソンが訊きたいのは、あのときあんなに外に出たがりだったわたしが、どうして今度の航海ではなかなか船室から出ないのか、っていうことだよね?」

 「はい」

 ためらいの間も見せず、アリソンが答える。

 「もしかして、お嬢様、日焼けを避けてる?」

 「いいや」

 ステファニーも間をあけずに答えた。

 「たしかに、インドにいたときよりは、気をつかうようにはなったけど」

 しばらく、唇を閉じたまま、口もとの微笑は消さずに、アリソンを見る。

 「そうじゃなくてね」

 ステファニーは、そこで大きく息を吸って、吐いた。

 「捨てられたんだ、こんな夜、甲板から」

 アリソンは目を丸くした。

 もしかして、ステファニー自身が甲板から海に投げ捨てられ、九死に一生を得て戻って来た、とでも解釈したのだろうか。

 それに気づいて、ステファニーは急いで言う。

 「いや、あの、人魚さんにもらった耳飾りを、ね。父上に」

 「はい?」

 アリソンはさっきにもまして驚いた。

 「だって、あの大粒の真珠、とくに、あれ、一対で揃いだから、セットで売れば、一年や二年は遊んで暮らせるだけの値段にはなるものなのに」

 あの経済的に苦しいときに、生活費の足しにもしなかったのか、という驚きらしい。

 ステファニーは小さく首を振った。

 「父上ね、わたしにあの耳飾りをもって来させて、おまえが人魚みたいな怪物に出会って、こんなものをもらってくるから、みんなが不幸になるんだ、って、投げ捨てちゃった」

 笑顔になる。

 「パナマからニューヨークを通ってダブリンに行く途中、大西洋に、ね」

 ステファニーはアリソンのほうを向いて、その目をまっすぐに見た。

 笑顔は消さない。

 アリソンは何も言わない。

 言えない、のかも知れない。

 ステファニーが言う。

 「真珠って炭酸カルシウム、つまり石灰分が薄い層を何層にも形成したものだから、長い時間が経てば海の水にも溶ける。だから、あの真珠はいまごろ海の水に戻って、銀細工の部分だけが大西洋の海底のどこかにいまも残ってるんだろうな」

 「あ、いや」

 アリソンは、何か言わなければ、と思ったのだろう。

 「わたし、お嬢様に、いやな思い出を思い出させてしまって」

 ステファニーはアリソンが続けようとするのを遮って、言う。

 「過ぎ去った痛みの思い出は心地よいジュカンダ・メモリア・エスト・プリータリトーラム・マローラム、ってね」

 「ああ」

 アリソンもわかったようだ。

 「うちの子たちに教えてたラテン語の格言だよね。ピーターはすんなりわかってくれたけど、ナサニエルは、えーっ、そんなの心地よくなるわけないじゃん、って、ずっとうるさかった」

 「そうそう」

 ステファニーも笑った。

 「それで、パトリシアお嬢ちゃんが来て、ナサニエル様の腕のところをぎゅうっとつねって、これ、あとで気もちよくなるかどうか確かめてみて、とか言って」

 「ケンカになった」

 「そうそう」

 「あーんなケンカしなくていいようなものなのにね」

 「子どもってすぐケンカするよね」

 そう言ってステファニーとアリソンは、笑った。

 向かい合って、笑った。

 笑いが収まったと思ったら、またどちらかが笑い出して、相手も笑い出し、いつまでも笑い続ける。

 その声は漆黒しっこくの夜の海へと広がっていく。

 もし、人の社会の環境に適応できない少女が海に入って海の少女マーメイドになるのなら。

 もし、その海にほんとうに人魚がいて、もう若いとはいえない二人の女がいつまでも笑っている声を聞いたら。

 孤独な人魚も、あるいは、少しは幸せな気もちになれたかも知れない。


 (終)


 * 過ぎ去った痛みの思い出は心地よい … Jucunda memoria est praeteritorum malorum. 古代ローマの哲学者(・政治家・弁論家)キケローのことば。当時のイギリスでは、現在のように古典発音で教えるのではなく、「ラテン語英語読み」で教えていたはずなので、読みを推定して書きましたが……まちがっているかも知れません、というか、まちがっているだろうなぁ。

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