第12話 アリソンの内緒話

 ピーターに子どもが産まれて「祖父」になったマシュー卿は、銀行の商用で上海に行くことになった。

 アリソンとステファニーも連れて行ってくれると言う。

 マシュー卿の取引範囲はイギリス国内と北アメリカで、せいぜいヨーロッパ大陸までなので、マシュー卿はコンスタンティノープルより東に行くのは初めて、ということだ。

 インドに上陸すればステファニーの母の消息もつかめるかも知れない。

 でも、アリソンからインドに寄ろうかと聞かれて、ステファニーは

「インド、見るとつらいから」

と首を横に振った。

 ほんとうは、つらい、ということもなかった。でも、母の失踪から三十年以上が経っている。手がかりを探る、となると、かなりの長期滞在になるだろう。探すにはお金もかかる。そんな負担を旦那様に負わせるわけにはいかないと思った。

 インドに行かないことにしたので、ボンベイにもカルカッタにも寄らず、セイロン島に寄港し、シンガポール、香港、上海と北上する航路を使うことになった。

 そして、上海に着くと、ロンドン金融界の重鎮になっていたマシュー卿は

「わたしはここでいろいろ人に会って話をしなければならない。きみたちの相手をする時間はほとんど取れないから、そのあいだ、日本に行って来たらどうだ?」

と二人に言った。

 幸せだった時期の最後、あの太平洋横断の船旅で、ステファニーは、日本に行きたい、と何度もアリソンに言っていた。

 それをアリソンが覚えていて、マシュー卿に伝えてくれたのだろう。

 ステファニーとアリソンを載せたフランス船の石炭の煙の下に中国大陸が霞み、やがて夜になってあたりは真っ暗になった。

 二人が乗ったフランスの汽船会社の船は航続距離が長く速度も速いというのが自慢らしい。長崎や神戸には寄らず、横浜まで直航する。

 ステファニーが人魚さんの夢を見て目が覚めたのは上海を出発した最初の夜のことだった。

 目が覚めてしまったので、アリソンがアルコールランプでお湯を沸かしてお茶を入れてくれた。いまお茶を飲むと眠れなくなるかも知れないが、どちらにしても、横浜に着くまで、特にやることはない。

 「いよいよ日本ですね」

と、ほの暗い室内灯の下で、アリソンが言う。

 「うん」

 ステファニーはカップを持ったまま小さくうなずいた。

 あのスクーナー船のような揺れかたはしないけど、カップを置くと船の揺れでこぼれてしまうかも知れない。

 「あのころは門戸閉鎖政策を解いたばかりで、行くのも容易ではなかったけど、いまではチン国と戦争して勝って、フォルモサ島まで支配してしまう勢いで、国土も、とくに都会はイギリスとも変わらないくらい便利に生きられる国になったらしい」

とステファニーは言う。

 アリソンは口を閉じたまま軽く微笑して軽く首をかしげた。

 こういうところは、若いころ、いや、幼いころから変わらない。

 ステファニーは続ける。

 「でも、そんな国になったら、もしかすると、わたしの見たいものは見られなくなってしまうかも知れない。だから、いま、日本に行かせてもらうことができて、とてもラッキーだった」

 「ラッキーも何も」

 アリソンはふふっと笑った。

 「あのひとは、日本に行く機会をお嬢様にプレゼントしたかったんでしょ」

 「は?」

 ステファニーは目を丸くする。

 四十何年か前の少女のころのように。

 アリソンはさっきよりもはっきり笑った。

 「それは、上海に商用があったのはたしかなんでしょうけど、これまでなら自分で行くなんて言わなかったでしょうよ。だれかに代理に行ってもらって。でも、お嬢様にはずっと世話になったのに、それにふさわしい返礼ができてない、ってずっと言ってたから」

 「あ」

 「あ」も何もないと思うが。

 まず感謝の意を表さないといけないのだろうけど、アリソンにいま「ありがとう」というのも違うと思ったので、どう言っていいのかわからない。

 もちろん、アリソンには、ことばで言い尽くせないほど感謝しているのだけど。

 それに、マシュー卿には部屋を与えてもらったうえに、図書室も使わせてもらっている。標本や図書が欲しいとステファニーが言うと、可能なものは手に入れてくださったし、そのうえ安くはない給料までくださった。

 「ふさわしい返礼」ができていないのは、ステファニーのほうだと思う。

 アリソンが続けて言う。

 「奥様をインドまできちんとお送りしなかった、っていうのも、あのひと、ずっと気にしていたし」

 奥様というのはステファニーの母のことだ。

 「そうだったんだ」

 マシュー卿がそこまで気にしているとは、ステファニーは思ったことがなかった。

 マシュー卿が邸宅で不自由なく暮らせるようにしてあげる、と言ったのに、ステファニーの母は、自分から、それも逃げるように出て行ったのだから。

 「ま、あのひとは、そのへんのこと、内緒にしておくつもりだったんでしょうけど」

 アリソンは得意そうに言う。

 そうか。

 内緒か。

 「じゃあ」

とステファニーは顔を上げた。

 「わたしも内緒話を、一個、ばらす」

 笑って見せる。

 アリソンはふしぎそうにステファニーの顔を見た。


 * コンスタンティノープル … 現在のトルコ共和国のイスタンブル。当時はオスマン帝国の首都だった。

 * ボンベイ、カルカッタ … それぞれ現在のインド共和国のムンバイとコルカタ。

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