第9話 人魚さんを追って

 日が暮れて、月の光が照らす海。

 人魚さんがまっすぐ向こうへと泳いで行く。

 ときどき水面の下に隠れ、ときどきは水面から大きく上半身を出して息を継いでいる。

 行かないで。

 人魚さんが行ってしまうと、ステファニーの幸せも行ってしまう!

 どこに行っても「お嬢様」とちやほやされた日々。

 農園を眺めながら、ひさしのついたベランダで、飽きることなく図版入りの博物学の本を読んでいられた日々。

 シク教徒に案内してもらって、カシミールまで象で旅したり、南インドのババニ川にずっと昔の王が造ったという巨大なせきを見に行ったり、という、十歳前後の少女にはなかなかできない冒険をさせてもらった日々。

 人魚さんが行ってしまうと、そんな日々も永遠に行ってしまう。

 人魚さんは、ステファニーを招くこともしないけれど、ついて来ないで、とも言わなかった。

 だったらついていけばいい。

 人魚さんが泳いで行く場所は海だ。

 ステファニーは、船に乗ったことはあっても、海に入ったことはない。

 でも、だいじょうぶだ。

 ステファニーだって、海の環境に適応して、人魚になることができるだろう。

 勇気を持って。

 ステファニーは、爪先から一歩を踏み出した。

 落ちる。

 落ちるというより、吸い込まれていく。

 どんどん速くなる。

 止まらない!

 こうやって人間の女の子は人魚になる……?

 いや。

 そうじゃなくて!

 もし人魚にならなかったら。

 もし人魚にならなかったら、女の子って何になるの?

 だから、沈むのはいや!

 沈むのをめて……。

 止めてーっ!

 胸の底から叫び声を上げた気もちになって、はっとして目を覚ましたとき、ステファニーは枕から頭を浮かせていた。

 遠くから気筒を上下するピストンの規則的な金属音とそこから漏れる蒸気の音が聞こえてくる。

 あのエンプレス・オブ・ジュンガリア号では外輪が水を叩く音も響いていた。

 でも、それはずっと昔の話。

 いまの船は外輪なんか使わない。

 機関で水中のスクリューを回して進むのだそうだ。

 ステファニーは大きく息をついて、頭を枕に戻す。

 「お嬢様、どうされました?」

 ほの暗い船室の向かいの寝台から声をかけてくれる。

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