第22話「その名を呼ぶもの」




-1-




 渡辺綱とイバラが激突する。< 髭切 >と< 渡辺綱の左腕 >が激突する。《 鬼神撃・腕断チ 》と《 鬼神撃・綱断チ 》が激突する。天敵と天敵が幾重にもぶつかり合う。

 それはお互いがお互いを滅ぼすための極限の一撃。その場での最善すら超越するための一撃。

 極限の中で、俺は< 髭切 >を振り抜いた。しかし、イバラが持つ< 渡辺綱の左腕 >も振り抜かれた。己にとっての天敵を滅ぼし尽くす一撃は、相殺される事なく相手へと襲いかかった。

 魂ごとバラバラに引き裂かれて吹き飛ばされる感覚は《 渡辺綱の左腕 》を受けた時のものと同じ……いや、それ以上に致命的なものだった。

 永い、永い刹那の中、俺が探していたのは、ここから続く一手。

 滅び切ってはいない。意識は微かなれども繋がっている。だが、体は動かない。手足どころか全身が機能不全に陥り、まともに活動しているのは思考くらいのものだというのに。


 しかし、まだ生きている。一度得た体験と、那由他さんによって未だ続けられている超常の強化によって、俺はまだ辛うじて渡辺綱を保っていた。

 俺がそうだという事は、イバラもそうである可能性が高い。イバラにとっての最上の死を叩きつけたという感覚はあるが、激突によって発生した結果を確認できていない。ヤツを滅ぼし尽くしたという手応えもない。俺たちは、我々はまだお互いに一手だけ届いていないと感じていた。


 微かに残る視覚で床に激突したのを認識した。そのまま後ろに吹き飛ばされて、一度致命傷を負った時と同じように壁へと叩きつけられたらしい。

 ……助かる。交通事故どころの話ではないが、視覚があるなら少し視界を上へとズラすだけでヤツを確認できる。少しだ、少しでいい。

 眼球をわずかに動かすだけだというのに、あまりに永い数秒が過ぎる。超常の回復を受け続けているというのに、まだ届かない。粉々に砕かれた魂が修復されるには、再び立ち上がるには数秒……いや、一分近くの時間が必要だ。もし、この状況でイバラに追撃を受ければ今度こそ終わりだろう。

 ……だから、わずかに動いた視界にイバラの下半身が映った時、それは本当の意味での敗北だと思った。


「……見事」


 語りかけてくる言葉は、聞き覚えのない声。ここまでお互いをぶつけ合って尚、初めて聞く宿敵の声。……喋れたのかよ、お前。

 良く考えて見ればイバラは実質的にも元ネタ的にも日本産だ。そもそも俺から生まれたのだから、知識を受け継いでいる可能性はあった。だからなんだという話ではあるが。

 しかし、追撃はない。覚悟していた敗北は、いつまで経っても訪れない。


「どうやら、滅ぼし尽くすには足りなかったようだ……お互いに」


 少しずつ再生していく視界に捉えられたのは、両足で立ちつつも霧のように消え去りつつあるイバラの姿だった。

 俺が動けないように、イバラもまた自身の崩壊を止められずにいた。わずかにでも手が動けば即座に殺し合う二人が、何もできずに向かい合う奇妙な光景が成立している。俺たちの邂逅は、お互いに一手足りないまま終焉を迎えようとしている。


「貴様に俺を倒す術はなく、俺もまた魔素へ還元されつつある。……だが、悪くはない」


 イバラの右腕が根本から崩壊し、床へと落ちた。急速に崩壊する右腕に対し、それに握られた異形の< 渡辺綱の左腕 >はそのまま残されている。まるで、それがイバラの一部ではないと主張するかのように。


「元々は貴様のモノだ。返還する」


 それは前世の俺のモノであり、俺の死であり、しかしイバラの根源でもあったはずだ。それを放棄するという事は、即ち自らの消滅を受け入れる事と同義。だが、イバラはまだそこにいる。


「貴様の左腕より生まれし対存在ではなく、今度はただのイバラとして貴様の前に立ちはだかり、挑むとしよう」


 イバラが消える。根源を失い、なのに滅びはしない。俺自身も、次のステージとやらに上がった気はしていない。

 おそらくは、ゲルギアルが皇龍に対して感じたものと同じ感覚に囚われていた。


「無限回廊四四四層にて待つ」


 最後にそう言い残してイバラは消えた。

 それは再戦の誓いであり、待っているからいつでも殺しに来いという因果の虜囚のルールに縛られない約束だ。

 四四四層はエリカたちがイバラに殺された層だ。それになんの意味があるのかは知らない。単純に死が重なる日本人的なイメージ故の拘りである可能性もある。

 俺たち以外には何も特別な意味を持たない階層。そこでイバラが待っている。おそらくは、今よりも遥かに強くなった俺の死として。




「……は」


 あれだけ無茶苦茶やらかして、無効試合かよ。……ふざけてる。

 ……だがまあ、あいつの言ったように悪くはないと感じている。星の崩壊のトリガーではあったが、那由他さんの死という特異点の楔は抜いたあとだ。あいつとの死闘も本来の目的からすれば必須というわけではない。何より、またあいつと殺し合える事に歓喜している俺がいるのも確かだった。

 俺たちはどこまでいっても天敵同士。決して交わる事のないお互いの死。だから、殺し合う事だけが唯一の対話となる。それは決して嫌悪や憎悪、あるいは利害の不一致による敵対関係ではない。俺たちは何よりも深く理解し合い、認め合い、故に殺し合う。そういうものなのだから。

 ……だから、強くなろう。今度こそは、真正面からあいつを殺せるように。



 何もないまま数秒が過ぎる。

 那由他さんが何も言わず強化と回復を継続してくれているおかげで、体の感覚が戻ってきた。とはいえ、《 土蜘蛛 》による世界改変を始めるにはもう少し時間がかかるだろう。

 感覚が戻って最初に感じたのは右手に握られた< 髭切 >……だったものの感触。……< 髭切 >はすでにない。俺の手にあると感じるのは日本刀のそれではなく、慣れ親しんだ木刀のものだ。柄は同じでも、それを間違える事はない。元より可能性を再現しただけのレプリカのようなものだ。本物に極限まで近いものであっても、本物ではない。

 その銘は< 不鬼切 >ではなく< 不友切 >。天敵であり、死であり、世界にとっての破壊ではあるが、俺は渡辺綱に対する至上の理解者たるイバラを友と感じていたのだろう。それ故の変化だ。史実における< 髭切 >の改名順を考えるなら一つ飛ばしている気がするのだが、それはどうでもいい。

 視界をずらせば、イバラが握っていた< 渡辺綱の左腕 >も残っている。イバラの元から離れた異形の大太刀は、形状こそ違えどかつて崩壊する地球で手にした時と同じ気配を漂わせていた。今更返還されてもとは思うが、これも俺たちが残した結果の一つだ。使うかどうかは別にしても持ち帰るべきだろう。

 《 アイテム・ボックス 》の中に、S6のシミュレーションデータが入ったデータ媒体はない。戦いの最中、s6が最後に吐いた嘘と共に砕け、消失したと感じたのは間違いではなかったらしい。

 あの奇跡が一体なんだったのかは分からないまま。だけど、共に戦ったあの姿だけは忘れるわけにはいかない。たとえ、誰が忘れても俺が忘れてはいけない奇跡なのだ。


――――《 ……終わりましたか? 》――


 《 念話 》で那由他さんが語りかけてくる。最初の狼狽ぶりはなんだったのかと言わんばかりの冷たく静かな声だ。


――――《 一応終わりました。助力感謝します。……今から特異点の改変を行いますが、邪魔はしないで下さいね 》――


 良く考えてみれば、那由他さんは《 土蜘蛛 》の発動に干渉し邪魔できる位置にいる。ちゃんと説明したほうがいいんだろうか。彼女が気にしているのはダンマスの行方だけであって、経緯や勝敗に興味は持ってなさそうだが。


――――《 ある程度状況は把握していますので、改変とやらを優先して下さい。ただ、詳細は後日報告するように 》――


 どうやってか分からないが、戦っている最中に情報収集はしていたらしい。

 セカンドから聞いたのかとも思ったが、墜落地点から移動していないのが感じとれる。……おそらくは、俺の理解が及ばない超常の力によるものなのだろう。ダンマスの事を聞いてこないのも、無事であると確信しているが故の事なのかもしれない。


「……さて」


 じゃあ、始めるとしよう。

 先のない壁へ打ち込む外道の法。形容の術もない犠牲の上に成り立ってしまった世界改変を。




-2-




 殴る。ただ無心で殴りつける。威力や体重移動、行動の繋がりなど、戦闘法則など無視して、ただ感情のままに。

 意味のある何かを考えてはいけない。意味がない故に手が届くのが今の状況なのだから。

 ロクに反撃もせず、面倒臭そうにただ躱し、逃げるだけのピエロだったが、そうやって感情のままに手を出した拳のいくつかは届いている。空虚な、実体のない者の感触ではなく、人間のものではなくともそこに何かが存在していると分かる感触だ。《 オーバードライブ 》が切れ、観測器としての感覚が消失したあとになっても、その感覚は続いている。

 ツナの言った通り、このピエロはなんでもできるが出力が足りていないのだろう。純粋なスペックだけなら、多分中級冒険者にも劣る程度のものしか持っていない。


「……痛いナ」


 溢れる言葉は欺瞞だ。そう感じる器官があるのかどうかも怪しい。だけど、手応えはある。だから無心に、ひたすら殴りつける。


「……痛いって」

「……は?」


 不意にクリーンヒットしたと感じた右拳が掴まれた。掴まれたと感じるまでの動作が一切把握できない熟練の技は、それまでのピエロには一切感じさせないものだ。

 そして、そのまま放り投げられた。


「うわわわわっ!!」


 なんだコレ。合気道? 少なくとも、これまでピエロが見せなかった技だ。

 とりあえず着地するものの、即座に離れた距離を詰める事ができない。眼の前のピエロはそういう踏み込めない気配を漂わせている。いきなりの展開。これまでとまったく異なる行動パターンに移行したピエロに対して足を止めてしまった。


「……はぁ」


 何をしてくるのかと警戒していると、ピエロはそのまま地面へと座り込んでしまった。……どういう事なの。

 そうして数秒、動かないピエロを観察していると、ピエロの腕とは別に服の隙間から腕がニョキッと生えてきて、ピエロの顔面を殴りつけた。

 顔を覆う仮面が砕かれると、下から出てきたのは良く知るダンマスの顔だ。元々すべてを覆い隠していたわけではないが、すべてが顕になるとフェイスペイントの違和感がすごい。良く分からない展開は今更だけど、それ以上にピエロから感じる気配に動けないでいた。


「えっと……ひょっとしてダンマス?」

「そうだよ。お前らの良く知ってるダンマスだよ。てめえの中のピエロにコケにされた杵築新吾だよ。くっそ……ふざけんじゃねーぞ。ふざけんな」


 パッと見で分かるほど機嫌が悪い。慣れてない者なら、近くにいるだけで死にかねないほどのプレッシャーが抑えられていない。

 それはおそらくあのピエロにはできない事で、本物の杵築新吾である事の証明でもあった。つまり、反撃されたら死ぬ。


「色々聞きたい事があるんだけど、どこまで把握してる?」


 だが、本物のダンマスなら無駄に殴りつける気もない。いや、恨みがないとは言わないけど、今どうこうする気もない。ここまでのはあくまでピエロに対する八つ当たりのようなものだったから。根本的な部分で同一存在だとは思うけど、話が通じる状態ならば話をするのが先だろう。


「分からない部分は大量にあるが、それでもクソピエロと同じもの見てたから大雑把な流れは把握してる。……させられた」

「とりあえず、ピエロの心配はないって事?」


 なんだか良く分からないが、ピエロが消えたって事だろうか。


「……近々はな。ツナ君が改変を始めた事で俺の存在が確定したんだろう。元々、ピエロが出てこれたのだって、俺が不安定な状況を利用していたからだ」

「じゃあ、ツナは……」

「少なくとも、改変を行える時間は捻出したって事だろうな。他の状況は分かんね。ここ、隔離空間だし」


 イバラとの戦いはどうなったのか気にはなるけど、最低限はやり切ったって事か。粉々に砕け散った盤面から夥しい犠牲を払って手繰り寄せた奇跡だ。

 という事は、この場にいるボクを含め時間が巻き戻る。おそらくはゲルギアル・ハシャや無量の貌が出現する前後まで。


「やっぱり、ピエロも全貌は把握してなかったって事かな?」

「あいつがやってたのは高度な予測と断定だ。クーゲルシュライバーの出港時、お前ら二人の視界に出現したのも、あの時点で自分と邂逅する確率の高い者を選択しただけ。ツナ君が一度死んでここに至るまでの数分間で色々情報はかき集めたけど、それだって断片的なものに過ぎない。ようはハッタリだ」


 あの、なんでも知ってるって感じはブラフって事だ。そうじゃないかとは思ってたけど。断片的な情報のみで予測し、組み上げて、断定し、錯覚させる手段だ。自信満々に、意味ありげな所作を加えるだけで、断片的な情報が凶悪なブラフと化す。

 まあ、ボクが時々やる事と同じ。そうやって、知らない間にスラムの黒幕にされたりするのである。


「この趣味悪い遊園地は?」

「ここは< 極彩の遊技場 >っていう、昔造って放置してたダンジョンの一つだ。あいつはそれを引っ張り出して来て、ツナ君とセカンドを引きずり込んだわけだな」

「ダンマスが造ったんだ」

「< 煉獄の螺旋迷宮 >って一層しかないダンジョンを応用して、テストとして造ったんだったかな」


 名前から受けるイメージはまるで違うけど、多分ここも一層構造のフロアに多数の独立したエリアが付随しているダンジョンなのだろう。各遊戯施設に個別のギミックが仕込まれてる感じで。セカンドが囚われていた観覧車はそういうもので、そこから出る時に違和感を感じたのもそのせいなのだ。

 ピエロのイメージのせいで、個別ダンジョンとしてオープンしても挑戦したいとは思えない。


「じゃあ、あとはツナが改変を始めるまで待ってればいいのかな」


 もうやるべき事はない。無量の貌のほうがどうなったかも気になるけど、ボクが出てきた時の状況ならそこまで悪くはなっていないはずだ。


「いいんじゃね? 色々聞きたい事はあるし、なんで40%になってるのかとか疑問はあるけど、それらも迷宮都市に戻ってからだな」

「ボクとしては、そもそもなんで%付けたのかは説明が欲しいけど」

「……迷宮都市に戻ってからだな」


 また逃げる気か。

 とはいえ、今のダンマスに突っかかる気はあまりしない。雰囲気自体はいつものそれではあるけど、その奥深くに言いようのないプレッシャーを感じる。兎的な危機感が踏み込む事を躊躇している。


「ツナ君はちゃんとやり切った。代償云々は無視するにしても、こんな盤面が崩壊した状況から勝ちにもっていった。見込みと結果に差異があるかは知らないが、やるべき事はやり切った。……だが、俺はこのザマだ。こっちに関しては、あのピエロが言った通り俺だけの完全な一人負けだよ。……陰気なピエロが高笑いしてやがる」


『つまり、ボクはどういう結果になっても一人勝ちってワケさ。いいネ、勝ち逃げ』


 あのピエロの台詞が蘇る。

 ……そうだ。この盤面に関してはどう足掻いてもピエロの勝ち。表にいる誰かに対して存在を認めさせただけで、あいつの勝利は確定した。ボクがぶん殴ったところで、それは一切揺らがない。


「きっと、俺だけの内に留めず、ツナ君に説明したのが致命的だったんだろうな。あいつはそれをずっと狙ってたんだ」


 この印象は種火のようなもので、燻ればそれだけ燃え上がる。最初の干渉を許してしまった時点で負けなのだ。

 この問題はダンマスが解決するまで……あるいは完全にピエロがとって変わるまで燃え続ける事になるのだろう。


「こうして話してるだけでもピエロが嘲笑うだろうからな。……分かってると思うが、ピエロの件は極力口止めだ。クーゲルシュライバー……もとい、セカンドとヴェルナーには俺が言い含めておく。まあ、今すぐどうこうっていうわけでもないし、これはこれとして置いておく」

「らじゃー。こっちはこっちで手一杯だったしね」

「そういう事だ。何かできる事があるなら依頼するが、コレは所詮俺の問題。今はそっちの問題のほうが重要過ぎる」


 二つの世界が崩壊しかねない問題。無量の貌に囚われてそのものにされる問題。那由他さんが殺される問題。規模から考えれば、優先すべきは決まっている。だからこそ、それを狙って干渉したピエロがムカつくわけだけども。


「ああ、%の件はまた別として、今回の詫びついでにコレやるよ」


 思い出したかのように、ダンマスが何かを放ってきた。受け取ってみれば、それは鞘に収まった日本刀だ。


「< 髭切 >の兄弟刀として打たれた< 膝丸 >。それを俺が模したものだ」

「ボク、刀はあんまり上手く使えないけど……ツナに渡せって事?」


 ここまで戦っていて、< 刀 >の武器適性も< 刀技 >も一切縁がない。使って使えない事はないだろうけど、有効活用するつもりならツナや他の刀使いに渡すべきだろう。剣刃さんとか、夜光さんとか。


「いいや、ユキちゃんが持っててくれ。そうするべきだと思う。なんなら打ち直してもいいし」

「……なんで?」

「男の子の勘だよ」

「……なるほど」


 それは確かにボクには分からない。ぶっちゃけ0%だろうが100%だろうがさっぱりである。ラディーネが時々に口にするオトコノコは~っていうのも良く分からないし。

 まあ、預かるだけ預かっておこう。ツナが欲しがるかもしれないけど、それはそれとして。ツナが持つ< 髭切 >の兄弟刀っていうのも、ちょっといい。……うん、いいかも。


「……ん?」


 そんな事を話していると、ダンマスが何かの電波でも受け取ったように反応した。

 周囲は特に変化はないから、おそらくは個人を対象とした《 念話 》のようなものを受け取ったのだろう。こんな、隔離された空間でそんな事をするにはどうしたらいいかは分からないが、この反応だと敵対している者ではないっぽい。


「ダンマス?」

「ツナ君からのオーダーだ。ユキちゃんに殴られっぱなしなのは癪だから、ちょっと憂さ晴らししてくる」




-3-




 三つの顔が重なったような不気味で巨大な顔。その開かれた口から無数のカオナシが出現し続け、ティリアティエルの心象世界を染めていく。

 吐き出されるのは人型だけではない。竜のような巨大生物やダンジョンでしか見た事のないような大型獣、話にも聞いた事のないような異様なカタチのカオナシもいた。そのすべてが仮面をつけた涅槃寂静。そこに顔はなく、名前もなく、魂もない。ただの抜け殻。おそらくは、今回の惨劇以前に無量の貌に取り込まれた者たちの残骸なのだろう。

 そんな軍団規模の敵に対し、私たちはたった二人。摩耶さんと連携するのは慣れたものだが、ここまでの戦力差はちょっと経験がない。数だけなら、クーゲルシュライバーへと向かう道中の顔と変わりないが、それらすべてが単独で戦力と成り得る個体なのだ。

 しかし、摩耶さんは一切動じる事なく戦闘へと移行した。まるで、それが当たり前だといわんばかりに。


「今更ですよ。ここに来るまでも似たような感じでしたし」


 私の視線に気付いたのか、軽口で言ってのける姿は以前とは別人のようにも見えた。虚勢だとしても大したものだが、強がりではない。極当然の事実として口にしている。

 それは、以前< 鮮血の城 >で合流したあとのような、異様な成長ぶり。彼女がここに至るまで、どんな修羅場を潜り抜けてきたのかは聞いていないが、そういった成長せざるを得ない道のりだったのだろう。

 ここに至るまで彼女が何を経験してきたのかは知らない。どういった経緯でこの世界に現れたのかも聞いていない。しかし、それはきっと尋常ならざる事。真っ当な考えでは理解し難いものなのだ。

 対して、私は自身の殻に閉じ籠もってティリアティエルを演じていただけ。そんな差を感じていた。

 劣等感に苛まれるのは今に始まった事ではない。私はいつだって理由の分からない劣等感を感じていた。それは、今にして思えば理想としたティリアティエルとの比較によって生まれていたもの。本来在るべきティリアティエルであればという意味のない先入観で、勝手に自信を失っていたのだ。

 だからこそ、過剰にティリアティエルで在ろうとし続けていた。


 顔を上げる。顔を上げて、敵たる"先生"を見据える。

 仮面の涅槃寂静の目的は私だ。先生と私の関係、再会した時の会話、現状を見るにそれは間違いない。あの日、儀式を行うまでの先生と今の涅槃寂静は似ても似つかないものだけど、その怨念じみた執着心は酷似している。

 先生が自宅に飾っていた仮面は無量の貌の顔を模したものであり、周囲の村を含めた村人たちの顔。生贄で剥ぎ取った顔の代わりとして装着させるために用意された儀礼用の仮面。錬金術師として活動していたのは、村人を生贄とするために必要な毒を精製するため。教師として見せていた善良な顔も着けられた仮面であり、本質は極悪そのもの。いつか語っていた多数派によって迫害された少数派の宗教家などではなく、れっきとした邪教を崇拝する祭司だった。私の前に現れた涅槃寂静からは、そういった邪悪な部分の上澄みのみが凝縮されたような意思を感じる。

 きっと、先生は私を簒奪する事で何かを得るという確信は持っていない。実際、そんなルールなどありはしないのだろう。ただ、生前の妄執に固執しているだけ。生贄に捧げた中に不完全とはいえ生き残りがいた。それを儀式自体が不完全なものであると思い込んでいる。もしも儀式が完全なカタチで成就していれば、もっと良い結果になっていたに違いないという思い込みだ。呼び出された無量の貌に生贄の数など関係なく、そもそも冒険者のティリアティエルは生贄の頭数として含まれていないはずなのに。

 保有していた文献か、あるいは知識に無量の貌を呼び寄せるパターンのようなものが残されていたのかもしれないが、それが完全なものであるなら先生はとっくの昔に涅槃寂静と化していたはずだ。儀式が不完全だったからこそ、ああしてわずかでも我が残っている。


 言葉のない、物音だけが鳴り響く静寂の戦闘が始まる。輪を縮めるように涅槃寂静の軍団が前進する。

 逃げ場などありはしない。ここは閉鎖された心象世界。脱出路のない箱庭のようなもの。距離をとったところで、逃れる事はできない。

 こんな時、リーダーさんなら……渡辺綱ならどうするか、ウチのメンバーならどうするか、すっかり毒されてしまった摩耶さんならどうするか。その答えは目の前にあり、私の内にある。

 ……ただ前を向いて限界まで抗うだけだ。


 戦闘の最中、無数のカオナシの背景としてあの日の惨劇が蘇る。心象世界の風景が、失われた記憶のものへと変貌していく。

 燃える村や森は村娘だったティリアティエルの故郷。広場に整然と並べられた犠牲者は、生きたまま顔を剥ぎ取られた村人。先生は結果を求めて儀式を行ったわけではなく、ただ崇拝する邪神に生贄を捧げていただけ。だから、一部分とはいえ無量の貌が呼び寄せられたのは偶然のようなもの。

 出現した無量の貌の欠片が暴威を振るい、無数の存在が簒奪された。生贄たる人間だけではなく、魂あるものすべてを簒奪の対象として。

 その中で村娘であるティリアティエルは生贄として捧げられ、簒奪された。冒険者のティリアティエルもそれに巻き込まれ、簒奪された。しかし、無抵抗なまま簒奪されたわけではない。地獄と化した山の中で、彼女は最後の最後まで抗い、逃げ、戦った。

 冒険者のティリアティエルが顔を剥ぎ取られた私を認識していたかどうかは分からない。ただ、生きている人間がいたから、それを救おうとしただけかもしれない。

 しかし、不完全な一部とはいえ、元々が天体規模の存在だ。ほんの一部で山どころか地域まるごとを飲み干す巨体が出現した以上、冒険者一人が抗ったところで意味はない。記憶に残るすべてを簒奪された村娘ティリアティエルは、冒険者ティリアティエルと心中するように顔の渦に飲み込まれた。

 何もない、すべての存在証明が奪われた無の感覚。今あるものだけではなく、過去に積み上げてきたすべてを奪われる喪失感。奪われたものがなんであるのかも分からない。その記憶すら奪われてしまったから。……そんな暗黒の渦の中でティリアティエルの手を掴んだ気がした。

 奇跡のような不具合が起きたのはその結果だ。

 同じ名前だったからか、儀式が終了する寸前だったからか、それぞれが個として成立しないほどに欠けてしまったのを埋めようとしたからか、それ以外の理由があるのかは分からないが、"ティリアティエル"はただ一人生き残ってしまった。

 体や記憶は冒険者のティリアティエル。しかし、魂は村娘のティリアティエル。どこまでが自分か自分で分からなくなるような歪なカタチと化し、ただティリアティエルらしく在る事が目的となった。

 すべてを失ったティリアティエルが盾役としての在り方に固執するのも、異常性癖に固執するのもただ本物以上に本物であろうとしているだけ。借り物であるから、そう在らねばならないと。


 摩耶さんはその事実はどうでもいいと言う。リーダーさんだって、他のみんなだって気にしないだろう。きっと、師匠だって私を責めたりはしない。

 でも、私は……私だけは拘るべきなのだと思う。これまでのように記憶に蓋をして目を逸らすのではなく、偽物であると認めた上でティリアティエルらしく在るべきだと。


 カオナシの軍団の中にあって尚巨躯を持つ個体が大きな口を開いた。

 そこから放たれようとしているのは、射線上のカオナシごと私たちを滅ぼす魔力の光だ。

 私に逃れる術はなく、摩耶さんもまた打開する術はない。視線で誘導し、摩耶さんを背に庇うようにして防御の体勢を整える。


――Action Skill《 シールド・チェンジ - フォートレス・タワー 》――


 手にした盾と入れ替えるようにして、更に巨大な盾を展開した。それは、私が扱えないと思っていた盾。師ガルデルガルデンから渡された出来損ないの盾。

 良く考えてみれば当たり前の話なのだ。

 元々、師ガルドからもらったのは、彼が作り上げた盾をカード化したものだった。故郷で師事を受けた頃から《 アイテム・ボックス 》を習得していたとはいえ、持つだけで精一杯なものをそのまま渡すはずはない。なのに、迷宮都市に辿り着いた時点で< フォートレス・タワー >は物質化していた。それはどこかで使用したという事なのだ。

 その記憶が私の中にないのは、ティリアティエルの死の前後……不完全な状態で召喚された無量の貌によって簒奪されたから。

 おそらくはあの時、ティリアティエルはこの盾を使う事ができた。できるようになった。力を引き出すどころか、制限だらけで持つどころか支えるのがやっとの上級冒険者用の盾を。

 だからこそ、わずかな時間でも簒奪から逃れる事ができたのだ。


 多数の物理耐性、魔術耐性、状態異常耐性。物理・魔術問わず、攻撃を受けてから一定時間その攻撃が持つ属性への耐性を得る特性。

 ノックバック・ブロー無効。受け止めた衝撃とダメージの一部を魔力へと変換し、使用者のMPへ還元する効果。

 グレード差のある武器からの耐久ダメージを無効化する《 不壊 》に、耐久ダメージの《 自動修復 》。

 使用者の装備すべての荷重を任意のタイミングで超重量へと変化させ、盾自体とそれを扱う者への直接干渉の無効化まで備えている。

 それらの付与能力は統合され、唯一つの効果 不動要塞 に昇華された。

 あまりに多くの能力を付与し過ぎた上に、一つの能力へと統合されてしまったせいで、各能力を個別に有効化する事もできない。そんな、作り上げた本人ですら使いこなせない、ガルデルガルデンの最高傑作にして失敗作がこの< フォートレス・タワー >。


 放たれた魔力の光線は< フォートレス・タワー >によって防がれていた。一切の損傷も衝撃もなく、むしろ魔力を変換して私たちを回復させている。今、この時だけは、この世界においてだけは制限などなく全機能を発揮しているといわんばかりの輝きを以て。

 そして、光が途切れようとする瞬間に合わせ、摩耶さんが飛び出した。駆ける道は光線によって開かれた一条の間隙。狙うのは涅槃寂静の特異個体。これ以上ないチャンスを手繰り寄せた。

 群がるカオナシを薙ぎ払いつつ進む摩耶さんの動きは違和感を感じるもので、これまで以上に洗練され、熟練されたものに見えた。


――Action Skill《 死毒を纏う刺撃 》――


 先生に放ったスキルすら初見のもので、その一撃は装着された仮面を粉々に砕き切った。

 仮面の下から覗くものは何もない。ただのカオナシと同じもので……それが私の知っていたはずの先生とはすでに別モノである事を認識させた。

 トドメではない。そこまでには至らない。狙いは仮面そのもの。あの仮面は何らかの魔術媒体であり、おそらくは同じ仮面をつけた個体を制御するためのものだと看破していた。

 涅槃寂静の軍団が制御を失い、個々に動き始める。鳴動する大地は軍団が奏でる死の合唱か。……いや、違う。


「……地震?」


 それとほぼ同時に、世界そのものが振動し、裂けるのを見た。これは私の心象的なものではなく、先生が引き起こしたものでもない。あきらかに外部からの干渉を受けた現象だ。

 偽りの心象世界が罅割れ、崩れ、先生だったものやカオナシが落ちていく。私の世界が崩れていく。逃げるにもどうすればいいのか分からず、摩耶さんとの合流を優先した。崩壊する世界の中、ただぼんやりと立ち尽くす摩耶さんは、それまでの彼女と違っていて……。


「なんで……泣いてるんですか?」

「え?」


 摩耶さんは大量の涙を流しながらも、それを理解していないようだった。


「あれ……おかしいな。……なんだか急に末の妹の事が頭に浮かんで……別に死んだわけでもないのに。……なんででしょうね」


 そう言って涙を止められずにいる摩耶さんを前に私は何もできず、ただ世界の終わりを迎えた。




-4-




 一体どれだけ戦い続けたのか。己が正義であるという情念を燃やして歩み、進む先にいるモノこそが悪であるという憎悪で以て敵を斬り続けた。

 最初から無謀な事だという事は分かっていた。どれほど抗おうが、矮小な身で天体規模の存在を屠れるはずはないと。

 だから、せめて少しでもその中心に近い部分へと踏み入り、一太刀でも俺という存在を刻みつけてやろうと思っていた。

 他人には理解し難い感情だろう。そこに高潔な価値など欠片もなく、大した意味もない。それはベレンヴァール・イグムートは無量の貌を許せないという、ただの意地なのだから。

 実のところ、俺こそが正義であるなどと言うつもりはなく、絶対普遍の正義など存在しないと思っている。誰かにとっての正義は誰かにとっての悪であり、だからこそ信念と信念がぶつかり合うものだと良く知っている。それは無駄に長く生きてきた中で得た真理の一つだ。

 しかし、その一方でどうしようもない悪というものは存在する。


『俺は……渡辺綱がやってきた事は、無量の貌となんら変わりがない極悪そのものだ』


 ツナは真実を告げる中で己をそう評価した。

 確かにヤツのやった事は外道の極みだろう。半ば無意識の事とはいえ、許される事ではない。贖罪をすれば許されるのか。償うつもりがあればいいのか。そんなはずはない。ただそれだけで許されるわけがない。

 しかし、それでもツナが絶対の悪とは断じる事はできない。無条件で断罪すべきものでもない。罪は罪であり、咎人が背負うべきものだが、俺にそれを断罪する正義などありはしないのだから。

 確かにこれからも嬉々として世界を喰らい続けるというのなら、俺はヤツを斬るだろう。しかし、渡辺綱はそんな事をするヤツではないと俺が判断した。判断材料などそれだけで十分だった。

 その時点で悪ではないものを断罪する権利は正義にはない。過去の罪で裁くのは正義であってはならない。そう、俺自身の正義の定義を決めた。


「無様……だな」


 剣を振るう理由さえ満足に決められない。頭がいいわけでもないのに、変に理屈を捏ねて雁字搦めになる。そうして、身動きできないのが今の俺だ。


『俺は、やると決めた事をやり抜く勇者の在り方に憧れたのだろう、と思った』


 そうロクトルのヤツに言ったのは一体いつの事だっただろうか。

 初志貫徹はしているつもりだ。ヤツが言ったように己の正義を定め、その範囲で抗い続けてもいる。しかし、世界はあまりにも複雑で、設定を後付けされた絵本のように多様性に富んでいる。その癖、それぞれに整合性がない事もザラという有様だ。自分のしている事が正義であるという自信すら揺らぐほどに、その在り方は曖昧に過ぎた。


 雁字搦めで動けない勇者。皮肉にも今の状況とまったく同じといえる。

 ツナの支援を受けて、< 魔王 >の可能性と過去の力を受け取って尚、無量の貌の核にはまるで届かない。

 先に進めば進むほど、密度の増した無量の貌の単位個体に阻まれる。どこまで単位が増えたのかすら覚えていないほど進んだとしても、無量は遥かに遠い。なるほど、最小単位が涅槃寂静とは良くいったものだ。

 俺がどれだけ傷をつけたとしても、無量の貌は一切痛痒を感じていないだろう。

 手足はすでに動かず、魔力も武器も尽きた。簒奪しようと群がる単位個体を退ける事もできず、周囲すべてを囲まれている。こんなザマで刃を突きつけるなどと言っても笑われるだけだろう。

 しかし、無量の貌の罪のカタチが俺に諦めさせる事を拒んできた。だからこそ、こうして意地を張っていられた。

 群がる単位個体はヤツの罪そのものだ。無残に簒奪され、未来永劫ヤツの糧として縛り付けられる被害者そのものだ。

 そうやって大罪を繰り返し、ひたすら膨張を続ける姿は俺が望んでいた悪そのものだった。


 ああ、そうだ。俺は無量の貌のような単純極まりない悪にいて欲しかった。俺の剣の振りどころを与えて欲しかったのだ。

 それは害虫駆除のようなもの。誰かにとっての善では決してなく、ただただ絶対普遍の悪を体現するモノを取り払う事。己が正義であると断言できる今こそが、最も充実していると感じている。

 無量の貌を許すべきではない。許してはならない。これを見逃すわけにはいかない。これは未来永劫、災厄を撒き散らすだけの悪の塊なのだから。

 素晴らしいな、まったく。対するだけで正義だと断じる事のできる絶対悪と相まみえるなど、これ以上ない幸運だ。


 今はまだ、力が足りない。俺のすべてを以てしても、ツナの後押しを受けたとしても刃が届かない。それは認める。

 俺たちの間には絶対的に差があり、因果の虜囚の対存在のような関係もない。おまえは俺という存在を認識すらしていないだろう。


「……だがな、無量の貌。俺はここにいるぞ」



――――《 看破 》――



 残されたわずかな魔力で行使するのは、ただ相手を見据える事。それこそが、矮小な今の俺にできる最大の自己主張だった。

 情報の海が脳を焼く。しかし、それはディルクが受けたようなダメージには成り得ない。それは、支配下にあるモノが認識阻害を超え、顔それぞれが持つ情報を見ようとするから発生するものだ。

 しかし、俺にそれは利かない。俺は貴様の王国の住人ではなく、ただの部外者なのだから。

 加えて、視界に存在する情報量そのものが違う。中心近くまで進んだ事によって、情報量は圧倒的に減少していた。

 それでも脳を埋め尽くすかのような情報の海に飲み込まれそうになる。それほどまでに多くのモノを簒奪してきたという罪を凝視する。大罪の中心、その更に中心に陣取る悪の名前を見る。




「……ブェルプラト」


 人の器官では発声困難な名をあえて文字にするならば、こう。それが無量の貌の真実の名だ。

 矮小な、一つ目のネズミのような、ただただ弱き存在。それが無量の貌の中心となったモノの姿。それこそが悪の核であると、確かに認識した。


《 あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああああああああああーーーーーッッッ!!!!!! 》


 醜悪な世界の中心で激昂する矮小なるモノ。

 見られた。数え切れぬ顔の壁で偽装した、暴かれるはずのないものが露呈した。有り得ない。そんな事があってはならないと天体を覆い尽くす体躯を震わせた。

 それは完全無欠の王国に罅が入った瞬間だった。


 《 オノレ、おのれ、ベレンヴァール・イグムートぉおおおおおおーーーーーッッッ!!!!!! 》


 その極端な反応に思わずほくそ笑んだ。


「……ああ、そうだ。俺がベレンヴァールだ。お前の敵はここにいるぞ!」


 己の名を刻みつける。絶対的な悪に、その名こそがお前の敵対者であると刻みつける。

 今はまだ届かない。どれだけの差があるのか考えるのも馬鹿らしくなる。しかし、宣言は済んだ。鳴動する天体の中心で、確かに絶対悪と独り善がりな正義が邂逅し、対立したのだ。

 首を洗って待っていろ、ブェルプラト。その無量の顔ごと滅ぼし尽くしてくれる。


「……ああ、首はないのだったか」


 そんな、どうでもいい事を口にしつつ、世界が終わる姿を見た。

 おそらくは改変。……ツナの世界改変が始まったのだ。





-∞-




 世界が巻き戻る。決して揺るがぬ楔を打ち込まれた特異点が改変される。

 改変するのは極小の事象。最小限の事実のみを改変し、最大限の結果をもたらす。

 巻き戻るのは特異点の発生直後。ゲルギアル・ハシャと無量の貌が龍世界に出現するそのタイミング。

 そこから発生した惨劇をなかった事にし、同時に那由他さんがイバラに殺されるという事象を否定する。そこへと至る因果を取り払う。

 ついでに、俺たちのいる座標にも手を加えた。


 改変を行ったところで、超常の者たちの記憶には残るだろう。そこまで干渉するリソースはなく、その意味もない。

 俺やイバラ、ゲルギアル・ハシャ、剥製職人やその影響を受けたユキやフィロス、無量の貌、肉体が滅んでいた皇龍もそう。ダンマスや那由他さん、それ以外にもひょっとしたら亜神と呼ばれる者たちはこの改変に気付き、記憶を保持するかもしれない。

 この事件に深く関わった者の改ざんも難しい。精神にダメージがある者は自動的に元の状態へと復元され、その影響で記憶が欠落するだろうが、それでも何かしらの影響は残るだろう。

 冒険者の中でも最終的に無事だった者はまるごと記憶が残るはずだ。良い事か悪い事かは別にしても、なんらかの影響は免れない。あの作戦に参加した者たちは、そういう理外の盤面に立っていたという事だ。


 多大な影響は残るものの、すべての犠牲をなかった事にした。

 それは玄龍のようにあの惨劇で死亡した者だけではない。多くの簒奪された者たちを含むすべての事だ。

 この特異点において、無量の貌に簒奪された者は一人もいない。……そう、一人残らず取り戻した。あれほどまでに絶望的だった戦況は、完全なる逆転劇として無量の貌に刻まれたのだ。

 いくらサージェスや空龍、そしてベレンヴァールによって痛打を与えたとはいえ、ここまでの結果は戦慄するしかない。

 それは、俺が諦めていた結果だったから。


 そうして、在るべき世界は終わり、そこから生まれるもの失われるものをすべてを巻き込んで否定された。

 俺はこの続く世界で罪を背負い、贖罪を果たすために無限の先へと歩み続けるのだろう。


 だが、忘れてはいけない。忘れるわけにはいかない。否定した未来において戦い続けた者の姿を、なによりエリカ・エーデンフェルデの名を。


 ……ああ、やり切ったぞ。やり切ってしまった。




 そうして世界は再び始まる。外道の法により穿たれた煉獄の道は続いていく。

 ここより始まるすべては未知となるのだ。












-5-




 嵐吹き荒れる惑星を眼下に抱く人工の星。そこよりわずかに離れた空間に鎮座する衛星サイズの巨体。

 敗北も、惨劇も、何もかもがなかった事として巻き戻された。切り刻まれた体躯に一切の傷はなく、記憶だけが対存在との戦いの爪痕を主張している。

 皇龍はジッと目を瞑る。人工衛星に残る分体も同じように目を瞑り、世界が始まるのを待っていた。


――Action Skill《 我が剣はすべてを切り裂く刃である 》――


 そうして、あの時と同じように対であり天敵たる原初の龍人が現れる。


「はじめましてと言うべきか、劣化龍。……お前の同盟者が見せた舞台は、なかなかに面白いものだったぞ」


 すべてを見てきた者の言葉が音のない空間に響いた。自分唯一人が観客であると主張するかのように。

 しかし、皇龍とてすべてを見てきた。超常の知覚で、渡辺綱の奇跡を観測していたのだ。



「我と彼は同じものであり、対なるものである」

「我と彼は互いに天敵であり、争う事を魂に刻まれたものである」

「我と彼は抗えぬ死そのものであり、存在を許容できないものである」

「それは用意された試練であり、冗長系。我と彼は一つの席を奪い合うものである」



 どちらからというわけでもなく、お互いが口にするのは因果の虜囚の法則。一つのみの席を奪い合い、殺し合うはずだった龍人と劣化龍の在り方そのものだ。


「それで、どうするかね? 渡辺綱との約束は尊重したいところではあるが、貴様の意思は確認していないからな」

「妾の中に在る《 因果の虜囚 》は汝を殺せと叫んでいるが、そこまで無様ではないつもりだ」


 抗い難い運命ではあるが、ここで再び殺し合いを始めるのは無粋に過ぎた。それは同盟者である渡辺綱の意思を冒涜する事でもある。

 眼の前の龍人も同じであり、極力尊重しようという意思を感じさせた。


「たとえ戦いを始めたところで、そこにいる男が黙っているとは思えんしな」


 改変前とは異なり、人工衛星に渡辺綱やその仲間の姿はない。それどころか、人龍や界龍、空龍までもが別の場所に座標を変更されていた。

 代わりにホールの片隅で胡座をかく男が一人。ここにいるはずのない超常戦力、杵築慎吾の姿が在った。


「知るか。勝手に殺し合ってろ」


 そう吐き捨てるが、いざとなればどうとでもできる力を持っているのは確実だ。たとえこの場の皇龍とゲルギアル・ハシャ、それに加えて次の瞬間にでも出現するであろう無量の貌がまとめてかかったとしても相手にはならないだろう。

 在るべき世界で翻弄され続けたのは、あくまで特異点であるが故の事。純粋な暴力としてみるならば、因果の虜囚から見ても尚超常の存在といえるのだから。


「ツナ君からオーダーを受けたのは無量の貌の対処だけだ。……もっとも、その視界の隅で暴れるヤツがいるなら手が滑るかもな」


 そう言って杵築慎吾は立ち上がる。手には二本の小型ハンマー。


「さて……憂さ晴らしを始めようか」

――Action Skill《 ジャグリング・リング 》――


 ハンマーが放られる。小槌が宙を舞い、円を描く。二つだったソレが四つになり、八つになり、数え切れないほどに増殖していく。

 その軌道が描くのは∞。繰り返す度に質量を増し、振るった対象にのみ超重力を叩きつける超常のスキルだ。< 極彩の遊技場 >で渡辺綱に叩きつけたのは、この劣化版に過ぎない。


「よっと」


 それが、無量の貌の出現に合わせて放られた。

 放られたハンマーは人工衛星の壁を突き破り、宇宙空間に展開しつつあった無量の貌の体躯を貫き、超重力の渦を発生させる。あくまで対象にのみ作用する現象は、ゲルギアル・ハシャにとってさえ理外のものだ。

 開いた大穴に飛び出していく杵築慎吾を、皇龍の分体とゲルギアル・ハシャは無言で見送っていた。


「……なるほど。聞いてはいたが、万が一程度にしか勝ち目のなさそうな相手だな」


 すさまじき力量。比較するのも烏滸がましい戦力差。しかし、万回挑めば一度は勝てる。そういう術を持っているからこそ因果の虜囚なのだ。

 ゲルギアル・ハシャは考える。アレと対峙するのに無量の貌は論外。皇龍やイバラは相性が悪いだろう。しかし、自分ならば微かにでも勝機はあると。


「まあ、戦う理由はないがね」


 無限に続く煉獄の道に、あの男は立っていない。目的を考えるなら、敵対する理由など欠片もない超常だ。宇宙を鳴動させて削られ続ける無量の貌は運が悪かったというべきか。

 しかし、それでも滅ぼし尽くす事はできないだろう。どれだけ削られようが無量の貌は逃げ切る。そういう存在だ。あの男は、そういった特性を含めて理解した上でやっている。まさしく憂さ晴らしに他ならない。


「さて、私はもう去るとしよう。我々の戦いは一時お預けだ。次は劣化龍……お前が来い。いつでも受けて立ってやろう」


 演目の鑑賞を終えた龍人は去る。宿敵を背にして、律儀にも約束を履行すると宣言して。


「……待て、ゲルギアル・ハシャ」


 しかし、皇龍はその背に向かい、足を止めさせた。


「なんだ劣化龍。仕切り直してやると言っているのを、わざわざ止める必要はないだろう」


 元より絶死に近い戦局まで追い詰めた。滅ぼすに至らなかったとはいえ、カラクリの解けた今となってはそれも無意味だ。ここで戦いを再開する理由が皇龍の側にあるとは考え難い。

 もしそれでも戦いを始めるというのなら、その時はカラクリごと斬り捨てるのみ。


「……違う。間違えるなゲルギアル・ハシャ。劣化龍などと呼んでくれるな。……妾は皇龍。そう、《 我が名は皇龍である 》」


 それは、あの渡辺綱の宣言と同様のもの。自分が自分であるというだけの宣言。


「く、……ははははははっ!! これはこれは……なんともはや……面白い、面白いぞ。ならば私も宣言しよう。《 我が名はゲルギアル・ハシャ・フェリシエフ・ザルドゼルフ・アーマンデ・ルルシエスである 》。……いずれまた会おう、"皇龍"」


 ゲルギアルの知る劣化龍では決して有り得ぬ言い回しだ。創り出した者として、何より未知を求める者として面白くて仕方ないというのも当然といえる。

 二つの超常の間で交わされたそれは宣言。世界に対して投げかけられた、彼は我の天敵であり、死であるという宣言だ。

 いつかその首を取りに行く。それを返り討ちにして滅ぼしてくれる。という意味に他ならない。




 こうして、もう一つの対による激突も一先ずの決着となった。

 滅ぼし合う事が約束された因果は、わずかな歪みを以て近しい未来へとその場を移す事になるだろう。



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