第20話「月の後継者たち」




-1-




 眼の前で理解不能な光景が繰り広げられていた。

 イバラと戦うS6のシャドウ。その外見はシミュレーターのものとほぼ同じ、真っ黒な影。いくら死にかけで視界がボヤケているとはいえ、見間違う事など有り得ない。そのものであるかは分からないが、ほぼ間違いなく類似するものではあるはず。

 ……つまり、有り得るはずのないもの。奇跡というにも意味不明な現象だ。


 確かにデータ自体はある。セカンドから受け取ったオリジナルのデータ媒体は、俺の《 アイテム・ボックス 》内に存在している。だが、こんなところにそれを投影するシミュレーターなどあるはずがないし、あったとしても俺にそのデータを取り扱う技能などない。

 注意深く確認してみれば、微かに《 土蜘蛛 》に繋がるラインは感じる。魔力ではなく、《 土蜘蛛 》独自の因果の線のようなものが。それはユキの観測器を励起させた時のような繋がりではあるが、非常に弱く、今にも途切れそうな繋がり。間違っても俺が意識して構築したものではないし、こんな微弱な力ではデータの実体化なんて可能性を引き寄せるにはあまりに足りない。そもそも、俺の実力を遥かに超越した存在を具現化する事などできるわけがないのだ。

 おそらくトリガーは《 土蜘蛛 》なのだろう。しかし、あきらかに《 土蜘蛛 》以外の力が働いている。俺以外の意思を感じる。


 それが奇跡と呼んでいいものなのか、俺には判断がつかなかった。

 S6がやっているのは俺に対する援護だ。s3は俺を仕留めようとするイバラを押し留めつつ慎重過ぎるほどに俺をガードし続け、s6は治癒の効かないこの身体をどうにか回復させようと魔術を放っているのを感じる。単に目の前の敵と戦うだけならば、俺という要素を戦闘行動に組み込む理由が存在しない。このシャドウが意思を持っているのかどうかは分からないが、状況を把握した上で、あるいはそれに近いロジックで動いているのは間違いない。

 それは自分たちの未来を無残に砕いたイバラへの妄執か、それとも星を崩壊させた原因を討ち滅ぼすという使命感か、あるいは俺とエリカに由来する関係故か。

 ただの戦闘データならば、そんなものは有り得ないと一蹴できる。しかし、こうして理解不能な原理で実体化し、俺を守り、イバラと戦い続ける姿に、何かしらの情念が介在していると思ってしまうのは俺の甘さなのだろうか。あの日、シミュレーターで戦ったs1に感じた執念が、目の前のS6から感じる情念が、データが再現しただけの偽物なのだろうか。


 奏でられる金属音はイバラの大太刀とs1の刀が打ち鳴らす剣戟音。基本的に迎撃が成立しない俺では鳴らす事の叶わない戦闘音。

 そのs1よりも前に出て猛襲という名の牽制で舞台を作り上げるs2。俺の前に陣取りつつ、すべてのシャドウへの攻撃を遠隔で捌き続けるs3。地を這う茨を即座に処理しつつ、節目節目で死角から強襲を行うs4。広場全域に渡って展開したビットと無数の射撃武器であらゆる角度から攻撃を加え続けるs5。魔力が偽装されたs6が何をやっているのかは視覚的に確認しづらいが、見えない魔術でイバラを牽制しつつ、場面場面に合わせたバフをバラ撒く事で戦闘をデザインし、盾が受けた耐久ダメージを即座に修復し、わずかにでも攻撃を受ければ回復させるという一人何役か分からないほどの離れ業を実現している。

 そのシルエットに差が見られるのは、俺が戦ったシャドウと異なるレベルであるからなのだろう。おそらくは彼女たちがイバラに敗れた無限回廊四四四層か、その手前の再現。迷宮都市の基準で考えるなら軽くLv500オーバーと見て間違いない。




――Over Skill《 夢幻刃・雅 》――


 s1が放つそれは、戦場に咲く華。奇しくも放射状に展開されたトゲを持つ植物の中心で、無数の可能性の刃が花を模したように広がる。絶対不可避な特性はそのままに、s1が追求し抜いた果ての究極の刃華。

 全周囲へと同時に放たれた刃に対し、イバラは圧倒的に勝るリーチと攻撃速度、そして周囲の茨でそれを迎撃する。

 イバラの身体に見られるいくつかの傷は太刀傷であり、ここまでにs1が作り出したもの。それはs1本人か、スキルか、あるいは武器にイバラの防御を抜く力があるという事。ならば、いくら分散されていようがこの攻撃を無視する事はできない。

 だが、s1がこの戦局で求めたものは直接的なダメージではなく、おそらく手数。迎撃せざるを得ない攻撃を大量に発生させる事でイバラの行動を制限したのだ。


――Action Skill《 凍狼疾駆 》――


 s1とスイッチするように、再度前へと出るs2。それは疾走なのか、あるいは滑走なのか。

 s2の周囲には茨を巻き込んで氷の道が発生し、その上を滑るように加速していく。……立ち上がりの段階ですら尋常ではなかった速度が、移動を続けるほどに増していく。

 s1の《 夢幻刃・雅 》はこの加速を生み出すための牽制だったのだろう。極限まで加速した知覚の中でさえ見失いかねないほどに加速したs2がそこにいると分かるのは、単に氷の道が広がっているのが確認できるからに過ぎない。遠目で見てもそうなのだ。当事者であるイバラは対応が追いついていない。

 光の如き神速で繰り返されるヒットアンドアウェイ。有効なダメージこそないが、繰り返される度に広がり続ける氷の道は更なる加速を生み、茨を凍てつかせ、イバラの行動を縛り上げていく。加速を生み出す根源である氷の道を粉砕しても状況は変わらない。アレはs2が移動した周囲に発生するものなのだから、足を止める手段にはなり得ない。むしろ、砕かれた氷が意思を持つ氷柱となってイバラへと向かっていく有様だ。

 氷柱の形成、射出を行っているのはs6。s2が迎撃されないよう、要所要所で飛行盾を移動させるs3。その盾に隠れるようにs5のビットがイバラを射つ。

 流れるような連携。全体を手足のように動かす戦闘デザインは、S6が築き上げた膨大な戦闘経験によるものなのだろう。


――Action Skill《 死毒を纏う刺撃 》――


 無数に発生した意思ある氷柱に紛れ、氷そのものに偽装された苦無がイバラの左腕に突き刺さった。

 一般的な状態異常である毒ではなく、その上位である猛毒でもない、おそらくは俺の知らない未知の状態異常である"死毒"が、イバラの耐性を貫き、その身を侵す。

 それを放ったであろうs4は苦無の射線とはまったく別の、イバラの上方へ姿を現す。本来なら即時に斬り落とされるような位置。しかし、イバラの反応は間に合っても動作が間に合っていない。瞬きに満たない極小の隙。氷が生み出したわずかな動作の遅延が、イバラにとっても致命的な時間を生み出していた。


――Action Skill《 死病を運ぶ針撃 》――


 指の隙間から覗く三本の透明な長針。それによる頭部への攻撃と見せかけた、首元への一撃が決まる。

 物理的なダメージなどあるはずがない。そんなものは元々狙っていない。S6は自分たちの中で直接ダメージを与える事が可能なのはs1だけだと"理解している"。だからこそ、s2は足を止める事に専念し、s5とs6は遠隔による牽制を続けているのだ。

 s4が狙うのも当然直接ダメージではなく、間接ダメージ。針による《 死病を運ぶ針撃 》も苦無の毒と同様の副次効果を狙ったもの。

 もたらすものは死病という状態異常……ではなく耐性破壊、免疫破壊。先じて発生させた死毒を効率的に浸透させるため、そして続く攻撃を通すため――


――Skill Chain《 毒撃・死神殺し 》――


 見た目だけならばただのサマーソルト。しかし、蹴撃自体に対した意味はなく、本命は爪先に仕込んだ毒針。

 今の俺が解析不能なほどに超凝集された無数の毒を仕込まれた針は、イバラの右上腕部……その甲冑を貫いて深く突き刺さった。

 その毒は免疫を破壊されたイバラの右腕から猛烈な速度で侵食を開始し、甲冑すら巻き込んで壊死させていく。膨大なHP、堅牢な甲冑、強靭な肉体、その身に備えた無数の異常耐性、それらすべてをぶち抜いて、s4がイバラを内側から破壊した。


 対しイバラがとった行動は、感染源である自らの右腕を落とす事。イバラは一瞬だけ大太刀から手を離し、一切の躊躇もなく、左腕で自らの右腕を肩部から千切り落とした。

 地に落ちた右腕は落着した時点ですでに原型を保っておらず、地に落ちた衝撃を受けて溶け落ちる。床を覆っていた氷と自らが展開させた茨を巻き込んで周囲を溶解させる万病の毒塊と化したソレは、発生する蒸気ですら死を呼び込む猛毒の霧と化す。

 被害は甚大。間違いなくここまでで最大のダメージを受けてもイバラの行動に澱みはない。


――Action Skill《 廻刀・飛燕円舞 》――


 手から離れた大太刀が、自律して空中回転を始め、猛烈な速度でイバラの周囲を舞う。一時的な防御・迎撃を狙ったであろうスキルは、s3の盾を弾き、追撃を放っていたs5のビットを複数切り裂き、すでに距離をとっていたs4の胴体と腕一本を切り刻みつつ舞う。

 アレは単に回転させて飛ばしただけなく、魔力による遠隔念動を伴った斬撃だ。イバラの膂力によって放たれるそれと遜色のない攻撃がS6に襲いかかる。s1が自らの《 剣皇結界 》に入った大太刀を迎撃するものの、わずかに軌道をずらす程度の効果しか見られない。

 ……戦闘距離が離れた。


――Action Magic《 回帰する茨肢 》――


 体勢を立て直すべく、イバラが右腕を再生させる。s4が作り出した最大ダメージはわずかな時間と距離を許した事によって元に戻された。

 ……いや、違う。最初は影響を受けていた毒の霧に対し、イバラは意にも介していない。おそらく、あいつはこのわずかな時間で死毒に対する耐性を得たのだ。

 ここまで劣勢に見えていたのも、俺が最初にやったような初見殺しの対応と同じ……攻撃を受け、捌きつつS6への最適化を完了させた。


――Action Skill《 瞬装 - イバラの阿太刀 》――

――Action Skill《 瞬装 - イバラの吽太刀 》――


 未だ周回する大太刀を回収せず、その手に出現させたのは新たなる二本の大太刀。イバラの身の丈ほどもある元々の一本に比べれば刀身は短いが、それでも人間から見れば極端な化物サイズの大太刀だ。

 合わせて三本。相手が複数である事を前提とした手数重視の体勢。


 ……まずい。S6ではイバラの首に届かない。

 《 暴食の右腕 》がないとはいえ、おそらくイバラはS6を仕留めた時よりも進化しているはずだ。対して眼の前にいるのは本物のS6ではなく、それを元に作られたシャドウに過ぎない。どれほどの差があるのかは分からないが、それが本物を上回る事はないだろう。いくらレベルが高かろうと、HPがなくなった時点で消滅するシャドウではS6の真の実力を発揮するには無理がある。

 そしてきっと、S6もそれを理解している。どういう理屈なのかは一切分からないが、S6はイバラの学習能力を把握している。苛烈に見える連携攻撃もs4の強襲以外はすべて距離をとったもので、格上を殺すに至る踏み込みに欠けていた。

 同じ手が二度通用しない事を考慮するなら、奴に毒はもう効かない。似たような奇策があったとしても、単体でイバラを滅ぼし尽くせるものでもない限り、奴はそのすべてを跳ね除けるだろう。

 奴が警戒しているのは真正面からダメージを稼げるs1ただ一人。真に警戒する対象がそれだけなら、イバラもそうそう攻勢を許したりはしない。

 だから、それを理解しているS6は最初から時間稼ぎに徹しているのだ。

 なんのための時間稼ぎか。……そんなものは決まりきっている。俺だ。

 自惚れではなく、奴を滅ぼせるのは俺だけだ。イバラどころかS6のシャドウと比較しても戦力差は天と地ほどにもあるが、渡辺綱の持つ対イバラの特攻補正はそれを埋めて余りある。

 唯一対鬼の特攻効果を持っているらしいs1だが、それでは足りない。"本物が持つソレ"ならまだしも、シャドウとして再現されたそれでは傷を付けるのがせいぜいだろう。


 だから、立たないといけない。奴の前に立って、奴の首に刃を突きつけてやらないといけない。

 なのにこの身は崩壊寸前。目を開けているのでさえ奇跡と呼べるようなポンコツ具合だ。

 s6が魔術で治療を続けているのは分かる。おそらく、意識を取り戻したのはそれが最大の要因なのだろう。しかし、そこが限界。

 今、この身に起きているのは《 魂の門 》を潜ったあとに発生した魂のズレと同じもので、実体と魂が大きく乖離している。実際にはズレなどと生易しいものではなく、文字通り粉微塵に砕かれているのだが、ともかく回復しないのはそれが原因だ。《 土蜘蛛 》が使えるならどうにかする術はあるだろうが、俺の魂を根幹としている《 土蜘蛛 》が使えるはずもない。

 意識が回復してから数十秒。S6が身を挺して稼ぎ出した時間は一分にも満たない。

 そんなわずかな時間でイバラは反撃の態勢を整え、最適化を完了させた。このあとに続く攻勢に対し、S6が瞬殺される事はさすがにないだろうが、どれだけ楽観的に見ても数分保つかどうか。

 どう考えてもジリ貧だ。S6に目もくれず、直接俺を狙ってくるなら即終了しかねない。s3の防御もそう長く持ちこたえられるものではない。


 S6のシャドウが実体化するなどという奇跡が起きて尚手札が足りない。だが、これ以上どこから手を捻り出せばいい。

 ここは俺とイバラのために用意された決闘場だ。外部からの干渉を極力排除するよう造られた構造になっている上に、その外側にはダンマスでも容易に抜けない結界が大量に張られている。

 イバラは結界を飛び越えて《 暴食の右腕 》を発動させたが、その本人ですら再現可能かどうかは怪しい。ゲルギアルなら《 宣誓真言 》で干渉は可能かもしれないが……クーゲルシュライバーのブリーフィングルームにいるあいつにそれを期待するべきではない。

 つまり、外部からの干渉や、ましてや援護を期待するなど端から間違って……。




――――《 ……なっ!! 返事をしなさいっ!! 渡辺綱っ!! 》――


 ……ない、のか?




-2-




 その声は俺の知らないものだった。しかし、認識してしまえば心当たりはあった。

 想像していたイメージとはあまりに違う、かけ離れた口調故に自信が持てなかったが、それ以外有り得なかった。


――――《 まさか……那由他さん? 》――


 隔離された領域を跨いで俺と繋がっている細い、細い糸。おそらくはこの空間に引きずり込まれる直前……目が合った時に接続された魔力のライン。

 前触れもなく唐突に現れた俺が、同じく唐突に出現した巨大な腕を斬り落とし、もう一つの腕に拉致された。こんなもの、正直当事者には意味が分からない状況だろう。だから、位置を特定するにしても、こうして《 念話 》を繋ぐにしても、ラインさえ繋がっていればあとからどうとでもできるというのは理解できる。それができたのは一人だけだ。


――――《 こちらを覗いておいて何を今更っ! 一体何がどうなってるんです!? どうしてあなたがここにいるんですか! 新吾様はどこに消えたんですか!? 》――


 《 念話 》なのにめっちゃうるさい。

 俺がここに引きずり込まれてから経過した時間はどれだけ多く見積もっても三分程度だ。

 口調から想像するに、しばらく前から呼びかけていたであろう《 念話 》が、ここまで一切届いていなかったのは……俺が遮断していた……のか? この身だけでイバラを打ち倒すと定義していた故に。


――――《 ダンマスの行方は想像付くが、知らん。それどころじゃない 》――


 多分、あのピエロのせいだろう。アレが表に出たせいで存在自体が不安定になっているんじゃないかとは想像がつく。説明しようにも理屈は分からないし、相手は最も説明してはいけない人だ。


――――《 一体何を……っ!! 》――

――――《 今、あんたを殺して星を崩壊させようとした鬼と戦ってる。このままじゃ数十秒も持たずにお陀仏だ 》――

――――《 は? 》――


 状況を把握しているわけがないのだから、その反応もおかしくはない。だが、説明している暇はない。


――――《 そういえば、何故そんなバラバラに……いや、なんでそれで生きてるんですか 》――


 どうやら遠隔でも俺がどんな状況にあるかは分かるらしい。なら話は早い。


――――《 俺が死ねばダンマスは戻ってこない 》――

――――《 ……要求を言いなさい 》――


 卑怯な言い方かもしれないが、一番効果のある言葉だと判断し、ダンマスを引き合いに出すと声のトーンが氷点下まで落ち込んだ。だが、今はそのほうが助かる。実際、間違ってはいない。

 その状況を理解すれば即座に判断し、対応できる。だからこそこのラインが繋がっているし、ダンマスのパーティにいるのだ。


――――《 俺を即動けるようにしてほしい。それと、可能ならバフか何かの援護をくれ 》――

――――《 即座……了解。死ぬほど痛いですが、我慢しなさい 》――


 やはり、といったところか。この人はそれができるのだ。

 那由他さんは< 魔術士 >だ。《 召喚魔術 》が本職とはいえ、それ以外の魔術を使えないはずはない。話に聞く限りでは火力特化型だが、それしかできない人が無限回廊一〇〇〇層を超えられるわけもない。魂のズレだけならディルクでも矯正できたのだ。あの時とは桁の違う崩壊具合だが、できるかもしれないと判断するのは間違いじゃない。どの道、今すがれる手はコレしかないのだから。

 そして、その判断は正しかった。



「がっっっっ!!!!」


 即座に襲いかかる猛烈な痛み。一度似たような体験を経ていなければショック死は免れないと思うような想像を絶する痛みが、粉々になった俺の魂を直撃した。

 引き摺られるように実体が跳ね上がり、滞留して行き場を失っていた血が口から噴出する。

 分類すれば治療行為のはずなのに、細胞一つ一つが拷問にかけられるような容赦のない痛み。相手が痛みで死ぬかもしれないという躊躇が一切感じられないのは、超常の存在たる者が持つ思考のズレだろう。

 だが、砂になるまで破壊された石像を修復するようなものなのだから、この程度の代償はむしろ安上がりもいいところだ。五体が引き裂かれようとも、精神が粉々に砕かれようとも、立ち上がれるだけで極上の援護になる。


 那由他さんの修復とs6の回復魔術が相乗効果を起こし、急速に渡辺綱が修復される。本来なら干渉しかねないそれを考慮し、最大限に効果が発揮されるよう計算までされている神業とも呼ぶべき魔術制御。

 イバラもそれを感じ取ったのが分かる。当たり前だ。こんな判り易い変化を見逃す奴じゃない。


――――《 ある程度修復した段階で強化に移ります。引き上げる戦力の目安は? 》――

――――《 全力。俺への負担は一切考える必要はない。こっちが合わせる 》――


 《 強化魔術 》に代表される補助効果は、本来非常に取扱いの難しい代物だ。普段と違う筋力、普段と違う神経で繊細な戦闘行動など行えるはずもないのは冒険者の常識。

 一割程度筋力が増すだけでも行動に支障が出る者がほとんどだろう。ましてや二倍、三倍ともなれば歩くのすら儘ならないはずだ。

 その差を逆に利用して戦術に組み込む人がいるほどに、強化は効果発生前後の能力差への慣れを必要とする。当然、それを習得した冒険者でも、容易に使ったりはしない。長年組んだパーティメンバーでも相当な慣熟訓練が必要となるのだから、野良パーティで使用などしたら一気に壊滅の危機が訪れるだろう。

 だが、那由他さんはそんな事を気にしない。俺がどうやって制御するつもりなのか、気にも止めていない。要求に応えているだけで、その結果俺がどうなるかなど興味がない。その躊躇のなさは時間のない今、最もありがたいものだった。


 魂が悲鳴を上げる激痛は無視する事はできない。実体の神経から生まれる痛みではないのだから当然だ。

 しかし、実体を伴わないものである以上、肉体への直接的な作用は無視できるはずだ。継続し、ショック死しかねない痛みは幻痛と同じもの。常軌を逸した覚悟を以てすれば、肉体の回復に合わせて戦闘行動をとる事も可能。


 目を瞑る。意識を内面に働きかけ、補修状況を確認する。最低限動けるようになるまで、あと五秒弱。

 那由他さんのバフは筋力や魔力だけのものではないのか、血管が修復したとほぼ同時に心臓が猛烈な勢いで動き出した。常人なら破裂しかねないほどの速度で全身に血流が戻る。

 神経系の修復が進み、手に握られた< 髭切 >の感触が伝わってくる。確かめるように、それを握りしめた。……あと四秒。

 イバラが距離を詰めてくるのが分かる。多少無理をしてでもS6を振り切って俺を仕留めようとしている。だが、それを黙って見ているS6ではない。狙いが明確になれば対処するのは容易。

 軌道を変えた《 廻刀・飛燕円舞 》の太刀がs3の盾によって弾かれた。それはもう間に合わない。

 地を這う茨が氷を粉砕してこちらへ伸びてくるが、s5の銃撃によって粉砕される。根本から失ったわけではないが、それも間に合わない。

 ……あと、二秒。


――Action Skill《 両断の踏み込み 》――


 イバラ本人が両断の体勢に入る。続く手が限定されるものの、その踏み込みは距離を潰す最良手。しかし、それも間に割り込んだs1の迎撃を受ける。

 距離は潰れた。間にはs1のみ。至近距離にいるs3も盾は届かない。


――Skill Chain《 阿吽連刃 》――

――Action Skill《 夢幻刃 》――


 放たれる二方向からの攻撃に対し、s1は《 夢幻刃 》を発動。質ではなく量で可能性の刃を潰しにかかる。

 問題は……それを放つイバラの手に握られている大太刀が二本という事。


――Skill Chain《 阿吽連刃・死出ノ追葬 》――


 続く第二撃。一切の誤差すらなく、潰したはずの可能性の刃が復元した。迎撃のために置かれた《 夢幻刃 》の刃はすでになく、隙間を縫うような二つの斬撃が俺とs1を襲う。


――Skill Cancel――

――Over Skill《 命断刃ノ壱・烈火 》――


 迎撃不可能と判断したs1は即座に《 夢幻刃 》をキャンセル。

 そこから選択したのは超神速の抜刀術。それを抜き身のまま、虚空を鞘に見立て無理やり発動条件を満たした。しかし……。


――Skill Chain《 旋風斬・禍津風 》――


 イバラの猛攻は止まらない。無理な体勢で迎撃を行ったs1は次に続くスキルを撃つことができていない。その横薙ぎのターゲットは俺だ。




「……ゼロ」

――Action Skill《 旋風斬 》――



 跳ねる。今にも千切れそうな手足を無理やり動かし、スキルの体勢補正も利用して、《 旋風斬・禍津風 》の軌道から脱出。およそ、人体の構造では不可能と思われる体勢から反撃を繰り出した。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ!!」

――Skill Chain《 鬼神撃 》――


 目標も定めず、命中するタイミングすら定かではない。それに勘のみで合わせての《 鬼神撃 》を放つ。

 確認できないが、どこかには当たった。今はそれでいい。


 俺は跳ねた勢いそのままに宙を舞う。回転する視界の中で、イバラを捉える。ダメージは右手首。

 戦闘に支障をきたすものではないと判断。だが、スキルを空撃ちしたイバラに追撃の手段はない。極々短いものだろうが、技後硬直が発生している。

 転がるように着地。そのタイミングで、尋常でない魔力の流れを感じた。


 ……来た。


 那由他さんの強化魔術。超常の領域に至る反則技。本来ならどう足掻いても制御し切れないそれを、《 土蜘蛛 》で解析し、最適化を図る。

 解析した結論として、残されたリソース内での制御は不可能と判断。ならば、最低限の制御のみを行い、暴走させるのみ。


――Passive Skill《 因果を喰らう獣 》――


 俺が喰らう事で変化した因果の獣のカタチ。更に昇華された《 飢餓の暴獣 》の姿。わずかに残された因果を捕食するための力を開放する。

 スキルの発動条件すら満たしていない無理やりの起動。未だ制御の見込みもない、発動したら最後、限界まで肉体を行使して暴走させるための諸刃の剣だ。どの道制御できないというのなら、上乗せする。ここから先、精密な戦闘行動は不可能と切り捨てる。

 その上でイバラを圧殺する。


 それを見て、イバラが咆哮を上げた。

 ここに来て初めて見せた感情の発露。空気の振動を通じて伝わってくる感情は怒りではなく歓喜。


 ……奇遇だな、同類。俺もお前を殺せる事が嬉しくて堪らない。


 なんて歪な感情だろうか。あいつを認めたくて堪らないというのに、どうしてもその存在を看過できない。

 渡辺綱はイバラを滅ぼさなくてはならない。イバラは渡辺綱を滅ぼさなくてはならない。互いにそう感じていると感じている。


 ……ああくそ、ふざけるな。何故、お前の屍の先に道があるんだ。




 唯一の悪意によって用意された最初の試練。その歪みは、唯一の悪意を滅ぼすカタチへと矯正すべく行われるもの。

 歪な闘争の舞台の先にある道は、ただ一人しか歩む事を許されない。


 歓喜を塗り潰すように湧き上がるのは、漆黒の負の感情。これもまた、根幹にある情念を燃え上がらせるためのものだと確信した。









-科学者と龍人-




「至ったか」


 ブリーフィングルームの壁に背を預け、しばらく無言を貫いていたゲルギアル・ハシャが呟いた。


「……ワタナベ君の事かな」


 モニターに映る戦況は混沌としているものの、特筆する何かが起きたわけではない。ディルク君の情報処理能力には劣るが、ワタシもボーグもこの手の技術は一流だ。今更、見落としなどまず有り得ない。だとすれば、老人が言うのは無量の貌内部ではなく、ワタシたちが把握できない部分の話だと考えるべきだろう。

 この老人はなんらかの方法でもって、ワタナベ君の戦いを観察している。


「渡辺綱が、己の在り方についてようやく認識できたらしい。さきほど、ここを覗いていたようだ」


 意味が分からないが、それは今更だろう。この超常の存在はそういう理解を超えた先に立っている者なのだから。遠隔で戦況を把握しているらしいゲルギアルならば、ワタナベ君がどういった状況にあるかも分かるのかもしれない。

 言葉通りに捉えるなら、ワタナベ君がイバラとの戦闘の最中、なんらかの力を得てゲルギアル・ハシャに干渉したといったところだろうか。


「少しはワタナベ君が優勢になったという事かな」


 元々、低い低いと言われていた勝率だ。勝てる要素が増えるなら、間違いなくいいニュースだろう。


「ようやく勝負の舞台に上がれたというところだ。イバラの元に辿り着き、特異点の楔を抜く事には成功したが、あのままなら単純に鏖殺されるだけだっただろう」

「ご老人は確か、一割程度は勝機があると言っていなかったか?」

「ここに至ってようやく一割だ」


 バカにされてるのかとも思ったが、まあ違うのだろう。

 それはつまり、そうなる事ははじめから確信していたという事だ。因果の虜囚なら……あるいは対象が渡辺綱なら容易く見通せるほどの既定路線と言っているに等しい。

 分からなくはないが、ワタシでは確信するとまでは断言できない。せいぜい、ワタナベ君なら想像を超えた事をするに違いないという程度だ。


「なに、追い詰めれば追い詰めただけ理解不能な事をしでかすのが渡辺綱だろう? ここでただ無様に死ぬようなら、そもそもこんな舞台を整えられはしない」


 龍人ゲルギアル・ハシャは確信している。

 重要な要素が足りないまま挑む決戦。足りないままなら勝負にすらならないが、それを容易に埋めてしまうのが因果の虜囚というものなのだろう。そんな虜囚が対となって対峙する場面で、前例の見当たらないほど興味を惹かせる渡辺綱が至らないはずはないと。


「アレは対存在同士の戦いだ。己がどういった存在かを理解していない者が挑めるはずもない」


 不完全とはいえ、己が体験済であるからこその確信なのかもしれない。


「味方のつもりなら、事前に警告できたのでは?」


 戦いは終わりに向かっているが、ゲルギアルがどの程度味方であるかのラインは未だ引きかねている。ワタシたちやワタナベ君の戦いを舞台劇として見る観客を自称する以上、過度な手助けはしないのだろうが、その基準も分からない。だが、それは事前に教えて劇がつまらなくなる類の知識なのだろうか。


「言うだけならいくらでも。しかし、それがどんな性質のものか本人が理解していない……いや、そもそも定義すらされていないのだから、事前の警告はむしろ害悪に過ぎんだろう」


 つまり意味がないと。むしろ、先入観を持たせるのは危険と判断したという事か。

 聞く限り、それは本人にしか分からない、定義し得ないものだ。確かに、ワタシがワタシである定義など、他人から教えられるようなものではない。その前提なら、間違ってはいないのかもしれない。


「ともあれ、これでよりシンプルな形になった。謎の介入があったせいで《 土蜘蛛 》による世界改変の時間を捻出できなかったものの、渡辺綱がイバラに勝てば予定通り。負ければすべてご破産。改変を行えないほど消耗し切っても駄目だが、アレが今更その調整を間違える事はないだろう」

「ご老人にとってはどちらが勝ってもいいのでは?」

「渡辺綱には貸しを作ってあるからな……というのは冗談にしても、イバラが勝つのは少々都合が悪そうだ」


 冗談なのか。その真偽はともかく、なかなかに理解し難い人物像だ。


「ワタナベ君のほうが同盟相手に相応しいと?」

「渡辺綱が同盟相手として稀有な資質の持ち主である事は確かだが、これはそれ以前の問題だ。イバラ相手では同盟以前に交渉が成立しない。対である渡辺綱を滅ぼしたが最後、アレは己のみで完結する真の孤高の鬼になるだろうよ。誰の手も借りず、誰とも協調せず、誰も踏み入れさせず、ただ一人で唯一の悪意を滅ぼすために闘争を続けるはずだ。相容れない因果の虜囚なら尚更排除対象だな」


 歪な因果を植え付けられた虜囚の在り方にあって、それはむしろ正常といえるのだろう。

 どちらかといえばワタナベ君や皇龍殿のほうが例外、その更に例外がこの老人というわけだ。どの道、交渉が成立しないのであれば同盟などできるはずもない。


「さて、私はそろそろ失礼する。状況の経過を伝えるために留まっていたが、ヤツの決着如何では即動く必要もあるからな」


 そう言って、ゲルギアルは壁から背を離した。


「アフターサービスだったとは……随分サービス精神旺盛な方だ」

「なに、元より私は知識欲を満たす以外の事に関して執着を持たない。労力だろうが時間だろうが、私にとっては惜しむものではないな」

「それでワタシたちにとっての価値が変わるものではないがね」

「そうかね。なら気を良くした爺から、もう一つサービスしてやろう。……決着まで、実時間であと一、二分前後。その間に、無量の貌のほうでも何かしら大きな動きを見せるはずだ。完全無欠の勝利を求めるならば、気張りどころだと伝え給え」


 そう言い残すとゲルギアルは徒歩のままブリーフィングルームを退室していく。

 それに合わせるように無量の貌内部からの通信要求を受信した。発信者はグレン氏。

 ……残り時間を信じるならば、これが最後の通信になるだろう。




-目指すべき勝利のカタチ-




 ラディーネ女史との通信を終え、目の前の戦場へと意識を戻す。

 とはいえ、すでに涅槃寂静の影はなく、実世界でいうシェルターも制圧が完了している。つまり、予定されていた救出作業は完了済みだ。


「さて、あとはどう動くか。なあ、グレンよ」


 ドッシリとシェルターの床に座り込んだサイガーが呟く。アイデンティティともいえる両の義腕は破損し、すでに戦力はないも同然。しかし、撤退する気はないようだった。


「あと一、二分以内に動きがあるそうだ。といっても実時間の一分だが」


 時間の流れに差がある以上、あと数分というのもただの目安にしかならないだろう。とはいえ、それが体感でもそう長い時間ではない事も確かだ。一時間か、一日か、一週間か、とにかくここまで戦い続けた時間に比べれば瞬きのような時間しか残されていない。それだけですべてが決まる。

 何故そんな予想が立てられるかも分からないが、信じる価値はあるだろう。そもそも、こんな状況で常識を問うのは愚かにもほどがあるというものだ。口に出したのだから、きっと意味はある。

 詳細は分からないが、有り得るとすればいくつか思い至る事はある。謎の世界侵食現象や、そこから発生して単独で深部へと向かったベレンヴァールの戦果はこの世界に歪みを発生させている。本命かどうかはともかく、それらが起点の一部になる事は間違いないといえる。

 世界が歪み、亀裂が入るというのならば、深部に捕らえられた者たちを救出するための道だってできるかもしれない。だから、こうして最も無量の貌の気配が濃い場所に陣取っているのだ。わずかなチャンスでも決して逃さないように。


「なら、最後まで見届けんとな。先に撤退していった連中に自慢できそうだ」

「もう十分自慢できると思うがね」

「足りんな。ワシは贅沢モンだから、自慢するネタもたくさん確保せにゃならん。この作戦を冒険者引退の土産にでもしようと思ったが、そんな気も失せたしな」


 鉄腕サイガーは迷宮都市の最初期から冒険者を続けている古豪の一人だ。

 今でいう中級冒険者のランクに到達して以降はパッとしない成績が続き、そろそろ引退とまで言われていたのだが、この空間で再会した彼はすでに別人とも呼べる気迫を持っていた。

 別人と言えば、己の離脱覚悟で私を助け出したロベルト殿もそうだ。二人だけではなく、この作戦に参加した者は多かれ少なかれ、己の殻を破っているように見える。


「なら、そのタイミングにむけて各人員の最終調整を頼む。私は龍たちの再編成に入ろう」

「もう済んどるわ。紅葉がちょっとばかし死にかけだから、少し前からワシが担当してる」


 と、返事に合わせて再編成表のデータが送られて来た。苦手と言っていたのに、《 情報魔術 》の取扱いにも慣れたらしい。


「前回の報告から冒険者の脱落はなしだ。十全に動けるのはワシ含めてほとんどいないが、まあなんとかなるだろ。ただ、精神世界に潜って戻って来てないヤツは結構いるな」


 機能しそうなのは、冒険者だけなら二パーティ。龍に補助してもらう事はできるだろうが、彼らは基本的に連携が未熟だ。何かしらの意図を持って動くならばこの二パーティが鍵になる。それは、完全無欠の勝利を得るための鍵でもある。

 妥協するのは……犠牲を許容するのは容易い。ここで諦めてしまっても十分な戦果といえるだろう。

 人格が崩壊しかねない精神的ダメージを負った者も多いが、世界改変によって元に戻るらしい事は分かっている。特異点とやらの中で死んだ者も蘇る……というより元に戻るらしい。直接改変を行う渡辺君以外には確認しようもないが、突入班に要求された結果は十分以上にクリアしている。無量の貌が特異点に打ち込んだ楔は"ほぼ"取り除かれたはずだ。

 無量の貌に簒奪された被害者は大多数が救出済みで、残っているのは現在救出活動中の数名と、この空間にいない……より深部の領域へと移送済みの者だけだ。内訳としては主に亜神とシェルターに避難していた一般人がそれに当たる。そして、そこにはすでに簒奪完了と判定された者を含んでいる。

 本来ならば取り返しのつかない甚大なるマイナスをゼロに近付けたのだから、これ以上を望むのは贅沢かもしれない。しかし、足掻く事に意味がないなどという事はない。私は……いや、この戦いに関わっている誰も諦めてなどいない。


「どの道、妥協はなしだ。残された時間で我々にできるのは、完全に近付ける事ではなく、完全を求めて足掻く事だ」


 98でも99でも駄目だ。100でなければいけない。

 それは私たちだけの問題ではない。この戦いのあとも考えた場合、その差は絶大なものとなるのが目に見えているからだ。……これ以上、渡辺君にだけ負担をかけるのは避けたい。


「ここじゃ必須ではないとはいえ、もう随分長い事飯も食っとらんし酒も飲んどらん。寝たのだってどれくらい前か覚えとらん。冒険者始めて随分経つが、ここまでハードなのは記憶にないな」

「無限回廊の深層と比べても……そうだろうな。撤退すればすぐにでも食事はとれるぞ」

「アホぬかせ」


 もちろん、今更脱出を薦める気はない。たとえ一切戦力にならなくとも、サイガーは最後の最後までしがみ付くだろうと分かる。何故ならば、私ならそうするからだ。


「撤退は論外だ。力尽きたのならともかく、もう戦えませんと撤退などしたら何を言われるか分かったもんじゃねえ」


 さすがにそんな事を言うヤツはいないと思うのだが、自分がそう思うのかもしれないな。


「それにな、不謹慎かもしれんがもったい無い。ワシは今、この上なく冒険者であると実感している。長い事頭を押さえつけていた天井が取り払われた気分だ。キャリアハイはまだまだ高みにあるな」

「違いない」


 ここまで幾度も限界を迎え、それを乗り越えて来た。その上で天井が見えた気がしていた。しかし、どうやら天井の先にもまだまだ道は続いてるらしい。

 迷宮都市でよく挙げられる冒険者が引退する理由など、ただの言い訳にしか感じないほどに、自分自身にかつてない可能性を感じている。そして、それはきっと私やサイガーだけではない。この一件に関わった冒険者ならば、感じざるを得ないはずだ。


「ところでサイガー、いつの間にか一人称が元に戻っているようだが」

「若作りで俺などと言っていたがな。そんなモノは必要ないと気付いた。俺はワシらしくない」

「なるほど、むしろそのほうが若く見えるがね」

「応よ。まさしくその通りよ。ワシはまだまだ若い。天井にぶち当たったと勘違いして半ば隠居してるような連中よりよほどな」


 燻るだけの状況をどうにかしたいという悪戦苦闘。いつの頃からか一人称が変わっていたのは知っていたが、そんな理由だったのか。確かにそんな小手先の事でどうにかなるような問題でもない。

 己の天井を突き破ってみて理解したが、自分の中で生まれたモノで突き破れるならそれは天井ではないのだ。コレは自分の常識の範囲外からの圧力を必要とする。そういうモノだ。

 渡辺君がやっている事はそういう事に他ならない。おそらく、私は今、新人戦の時にローランが感じたモノを実感している。


「知ってるか、グレン。渡辺綱は冒険者になってからまだ一年経っていない」

「何度聞いても驚愕の事実だが、もちろん知っている」

「つまり、まだまだケツの青いひよっこというわけだな。先輩として威張り散らしてやらんと」

「ははっ、確かにしばらくは先輩を気取っていられそうだ」


 彼自身は言わずもがな、彼の周りには元より天井が存在しないのではないかという人材しかいないが、この分なら彼らに追いつかれるまでに長く道を舗装してやれそうだ。

 その舗装が、歩き易さだけを求めたものでない事にはなりそうだが、先へ向かうのならば必要な事だろう。




-狼と虎-




 無数のカオナシを観客として、暗闇の中で戦い続ける。

 武器は始まる前から折れている。体力も魔力もとっくの昔に底をついた。だが、オレは己を貫く芯によって立っている。


「いい加減くたばれっ! クソ虎ぁっ!!」

「貴様のような三下にやられるものかっ! 猥褻狼っ!!」


 どれだけ打ちのめしても、眼の前に立ちはだかった狼は倒れない。……そうだ、どこかで見たと思ったら、これは狼の獣人ではないか。

 というか、何故そんな事も忘れていたのか。簒奪か? それとも猥褻物であるが故に目を逸らさざるを得なかったのか。というか、何故猥褻物なのだ。分からん。


「ぐぬぬ……」


 意味はさっぱり分からんが、猥褻物に負けたとあっては恥ずかしくてかなわん。虎は狼と違って、常に誇り高く在らねばならない。

 そんな一瞬の油断を突いて、狼が飛びかかってくる。ここまで散々使ってきた《 爪技 》か、あるいは打撃かと思えば、飛び付き式の腕挫十字固めだ。


「うおらああああっ!!」


 極められたと判断した直後、一秒とかからず左腕の関節が破壊される。だが、冒険者ならば、その程度のダメージは日常だ。


「むうううううっ!!」


 腕を取られたまま、その腕を地面へと叩きつける。離脱のタイミングを逃した狼はそのまま打ち付けられ、大きくバウンドした。

 そのままマウントをとるか。いや、折れた腕の事を考慮に入れるならこのままサッカーボールキックだ。オレの力で頭を全力で振り抜いてやれば、関節破壊以上のダメージとなるだろう。


「貴様はボールだっ!!」

「ふざけんじゃねえっ!!」


 しかし、その蹴りは掠るのみ。狼はバウンドすら利用し、宙で回転。そのままオレを飛び越え、今度は首を極めに来た。


「ぐっ……貴様、さてはプロレスラーか」

「違うわ! 違うが、ツナ直伝のスリーパーホールドだ。絶対に外さない俺のアレンジ入りのな!! 格上には組み技が有効なんだとよっ!」


 腕だけではない。狼は足に装着した金属爪を食い込ませ、確実に極めに入った。

 人型という前提はあるものの、HPで補強のしづらい関節技など、組み技全般は実力に左右され難い。それは確かだが、それを実演する奴はほとんどいない。


「な、めるなぁっ!!」


 オレにそれを抜ける技術はない。膂力差で無理やり抜ける体力も残されていない。ないが、それはイコール外せないという事ではない。

 幸い、足は地に着いたままだ。ならば、全力で地を蹴り上げるのみ!


「んなっ!?」


 そのままバク転。脳天から落ちれば、先に地へと激突するのは首を極めているほうだ。

 案の定技を解きにかかる狼の腕をガッチリと掴み、そのまま地面へとダイブする。結果、自らもダメージを受ける事になったが、それはヤツも同じ……。


「うおらああああっ!!」


 間髪入れず、オレの脳天に蹴りが入った。馬鹿な……。


「なめんなよ、虎。似たような事やる奴と散々模擬戦やってんだよ!」


 その割にはフラフラだが、それはこちらも同じ。……いい加減、限界が近いという事か。




「………ん?」


 見合う事、数瞬。狼の表情に変化があった。


「どうした、降参か? ならば地の染みにしてくれよう!!」

「……ああ、そうかよ。まあいい。時間がねーのも確かだしな。極めて癪だが、乗ってやる!」

「何を……」



――Action Skill《 獣王転身 》――


 突如、猥褻狼の姿が跳ね上がり、膨れ上がった。銀の体毛と巨大な体躯、何よりも全身から伝わってくる冷気には覚えがある。


「……凍獣神」

「一緒にすんな。畏れ多いわっ! 良く覚えておけっ! 俺はガウルだ。それが、てめえが散々猥褻物呼ばわりしている者の名前だ!!」


 ガウル……それは確か。やはり、猥褻物ではないかっ!?


「だが、……こっから先は覚えておく必要はねーぞ。お前をぶちのめすのは、俺だけの力じゃねーからな」


 巨大な凍れる狼と化したガウルが吠えた。それだけで、辺り一面が凍り付き、白銀の世界へと変えていく。

 そんな《 獣王転身 》があるものか。あのスキルは獣人の遺伝子に眠る獣の力を呼び覚ますものだ。お前のそれは凍獣神そのものではないかっ!?


「しっかり見るんだな、リグレスっ!! お前が守ろうとしていた世界の姿をなっ!!」


 銀世界に覆われた中には当然、オレが背で守り続けていたものが……。


「……馬鹿な」


 そこに顔がない。いや、元々がそう。そう認識していた。では、オレは何を守っていたというのだ。一体、いつからオレの目は曇っていたというのだ。

 それを目にした瞬間、悪い夢から覚めた気がした。


――Action Skill《 凍狼疾駆 》――


 動けずにいたオレに対し、ガウルはトドメとも呼ぶべき大技を繰り出し……それが記憶に残る最後の光景となった。




-世界を穿つ-




 龍の咆哮を頼りに脱出するとは言ったものの、その目論見はあっという間に破綻した。


「なー空よー、そこらから聞こえてくるんだけどよ」


 指標となるはずの龍の咆哮は、およそすべての方向から聞こえてくる。何かに音が反射しているわけではなく、本当にすべての方向から聞こえるのだ。これでは目印もクソもない。


「ちょ、ちょっと待ちなさい。姉にいい考えがあります」

「本当かよ……」


 あきらかに動揺している空龍。その姿は、何度か見た良い案がない時のものに良く似ている。

 いや、俺だって妙案があるわけじゃないんだが。


「ここじゃ上手く《 念話 》も使えねえから、手分けするわけにもいかないしな。何か目印でも……」

「…………」


 なんでもいいから対策を考えようと空を振り返ってみると、さきほどまでの慌てた様子はなく、思案顔で沈黙を続けていた。


「空?」

「…………」

「……おーい、ねーちゃん」

「黙りなさい!」


 叩かれた。なんだ、本当に案があるのか。正直信じられないんだけど。


「ふむ……どうやら、最後にお役目ができたようです」

「どういう流れでその結論が出たか知らねーけど、お役目?」

「渡辺様から指示がありました」

「ツナから? 《 念話 》も届かないのにどうやって?」


 この空間にいる者同士なら、会話にならないレベルの《 念話 》であれば使えるのは確認済みだ。しかし、空龍がやって来たというこの空間の外とは連絡が付かない。

 まさかツナがここにいるとか? いくらあいつが無茶苦茶でも、それはねーだろ。作戦自体に参加してないって話じゃねーか。


「分かりません」

「ええ……」

「ですが、確かに届きました。……時間がない」


 空龍は確信しているようだが、あまりに唐突で突拍子もない話だ。とはいえ、それを俺に説明する気もないようだし。


「銀、離れなさい。ちょっと、元の姿に戻ります」

「……何言ってんだ?」


 確かに俺はそれをできる。だが、ここまでに空龍ができたとは聞いていないし、むしろ俺が元の姿に戻るのはイレギュラー的な扱いだったはずだ。もちろん、理由も原理も分からない。ただ、できるという確信があったから使っただけ。

 また叩かれそうなので少し距離を開けてみるが、その直後、背後から巨大な気配を感じた。いや、背後にいた空龍の気配が膨れ上がった。

 振り返れば、そこにはかつての空龍の姿。透明な龍の姿がある。


「え……ちょ」


 何がどうなっているのか。なんで突然元に戻れるようになるのか。というか、それで何する気なんだ。


「今から全力で《 虚無へ還る撃咆 》を撃ちます。その後、世界の壁が壊れるはずなので、脱出しなさい」

「いや、なんでそれで脱出できるのかとか説明は……というか、お前はどうすんだよ」

「要求を満たした出力となると、発動後、私は倒れます。なので、抱えて脱出して下さい」

「やる事は分かったけど……」


 どうも説明する気はないらしい。姉のいつもの横暴である。

 だが、ひょっとしたら大丈夫なのかもしれないとも思い始めていた。できるはずのない事ができたのだから、これも本当に脱出の一手かもしれないと。

 というか、さすがにその巨体抱えて脱出とか無理なんだけど……人型に戻るよな?




-世界を侵食する者-




 誰のものという区別もないが、世界を悲鳴が覆い尽くしていた。

 カオナシは悲鳴を上げたりしない。だから、これは《 拷問世界 》そのものが上げるものなのだろう。そう考えると、妙に性的なものに聞こえてしまうのは何故だろうか。

 ヴェルナーとの決着は一瞬でついた。世界を侵食する《 拷問世界 》に対し侵食される側が生み出したカオナシでは対応する事はできなかったらしい。

 それは見物していた亜神龍も同様。元より、この世界にあって拷問から逃れる術はない。逃げようが、立ち向かおうが、諦めようが、世界すべてが拷問なのだから。

 この世界で拷問から逃れる事ができるのはただ一人。拷問官であるスーパーサージェス一人のみ。

 体験にあるあらゆる拷問をノータイムで再現し、相手の状態に合わせて調教を行う。苛烈な指導も、順に段階を追うならばクリアさせる事が可能だ。

 そう、調教師であるスーパーサージェスは、世界に囚われた者たちを相手に労りと慈しみを以て接している。それぞれに合わせたバランスの良い調教を行っているのだっ!!


 だが、限界が近いのは感じられた。刻一刻と、スーパーサージェスでいられるタイムリミットは迫っている。

 実力の問題ではない。魂のみで限界を超えられるこの空間では、元々の実力差など関係はない。ヴェルナーや亜神龍との格はこの際あってないようなものだ。簒奪された者たちなど、理屈を超越した変態である私……スーパーなサージェスの敵ではない。

 侵食の影響で世界が崩壊しかかっているのは確かだが、それが原因というわけでもない。侵食できたのは全体のほんのわずかな部分だが、私が私である限り、塗り潰した側が自壊する事はない。単純に、私の精神力の問題である。

 自らが作り出した拷問の支配する世界で、完全なる愉悦を感じられていたのは最初だけ。

 ヴェルナーを捕らえ、龍を捕らえ、決して逃れる事のできない拷問の連鎖に落とし込んでいく中で、私は決して逃れられぬ感情が膨れ上がってくのを感じていた。

 そう……ドMのサージェスに戻りつつあるのだ。拷問をかけるのではなく、拷問にかかりたくなっている。ドSへの振れ幅が小さくなっている。

 マゾヒストが内にサディズムを抱えるのはリーダーの言った通りではあるが、つまるところ、私の主体はマゾという事なのだろう。

 このままでは、自分が用意した拷問に自らが五体投地する意味不明な世界へと変貌してしまう。SMではなくすべてがMになってしまう。そんなのもいいかなと思ってしまっている時点でまずい。

 ……いいはずがないのだ。元々の目的はこの世界を脱出するためのものなのだから、手段に飲み込まれてはいけない。……決していけないのだっ!!


「ああ、そうか」


 リーダーが、因果の虜囚が手段である負の感情に抗うのはきっとこんな気分なのだろう。

 激しい情念に身を任せてしまえば心地が良い。しかし、その先にある目的を見失ってしまっては意味がない。手段を目的にしてはいけない。

 その先にあるのは情念だけで暴走する、怪物ですらないナニかでしかないのだから。

 頭皮や毛根ごと後ろ髪を引き抜かれる思いではあるが、この世界はもう終わりとするべきなのだ。そもそもマゾしかいない世界など、私は望んでいない。ラジェルトの語った特殊性癖はマイノリティであるべきという考えもまた正しいと思っているのだから。


 とはいえ、どうするか……。

 《 世界魔術 》で《 名貌簒奪界 》を塗り替えたといえばすごいものに聞こえるが、これはただ己の欲望を暴走させただけ。制御できないわけではないが、それもわずかな変化に留まるだろう。

 おそらく、脱出は可能だ。私だけではなくヴェルナーや龍を抱えてもなんとかなる。

 しかし、その先にあるのも結局は《 名貌簒奪界 》なのだ。巨大に膨張した世界を侵食するには、個人の欲望はあまりに小さい。私の性欲だけで支配するには無理がある。いくらスーパーでも、そこまで自惚れてはいない。

 脱出したところで生還が叶わないのでは片手落ちどころの騒ぎではない。リーダーが何かをしているらしいのは分かるが、この空間は外界と切り離された孤立した空間だ。その思惑が伝わるどころか、私がここにいるというのを伝える事さえ……


「……は?」


 ……なんだ、今の感覚は。見られている。無量の貌ではなく別の、超常の力を感じる。これは……リーダーなのか。

 まったくもって意味不明だが、リーダーとのラインが繋がっている。変態の私が理解不能なのだから、きっとこれはド級の意味不明な現象に違いない。つまり、考察しても意味はない。

 ならば私はそれに乗るだけだ。結果、どうなるかは知らないが、まあ、リーダーがどうにかするんだろう。


「さて、世界の終焉といこう」


 あとはこの世界を指定された方向に伸ばし、崩壊させるだけ。ドSなサージェスという余興はもう終わりだ。




-魔を背負う勇者-




 前へ、前へと歩を進める。方向も定めず、距離も考えず、ただ深部に向かっていると感じるがまま足を動かす。

 もはや、歩いてる感覚はないに等しい。歩くという身体知で行っている行動を自覚して行わなければいけない時点で、個が確立できない領域だと分かる。


 踏み込んで理解したのは、ここは無量の貌の管理下にある者では決して辿り着けぬ場所だという事。

 無量の貌の内部構造は深部に至るほどに個の概念が失われていく。

 イレギュラーである俺、より上位の管理下にあるが故に干渉を受けないユキ、管理領域から壁を突き破って外に出たツナ、あとは単純に無量の貌よりも上位の権限を持つ者でしか、ここには至れない。

 皇龍も、ゲルギアル・ハシャも、ここに足を踏み入れれば即座に簒奪され、個を失う。群体であり、精神構造が根本から異なるネームレスであれば可能性はあるかもしれないが、俺が知らない未知だから判断ができないだけで、おそらくは無理なのだろう。


 つまるところ、無量の貌は自身の管理世界においてほぼ完全なる支配体制を構築している。

 天体規模にまで膨れ上がった巨大な体躯は、どれだけ火力があろうとも容易に滅ぼし尽くせるものではない。ある程度被害を受けた段階で自己保身のために逃走を開始すれば、追撃もままならない。

 管理下にある者たちはすべてが簒奪候補。無限回廊における管理権限以下の層に住まう者なら、無条件で簒奪が成立する。

 極めてイレギュラーなケースとはいえ、今回のように内部へと侵攻すれば逃がす事はないだろうが、この方法も根本的な問題を抱えている。我々がまともに活動できていたのは、未だ簒奪が完了していない者を隔離する表層部であるからというだけ。こうして無量の貌にダメージを与えるべく内部へと侵攻すれば、あっという間に同化されてしまう。

 俺のようなイレギュラーがいて、この盤面を創り出せるツナのような者がいるような極めて極小の可能性でのみ、内部への侵攻が可能となる。

 よほどのイレギュラーがなければ痛打すら与える手段が存在しない、強固な支配体制。これを国家のカタチとして捉えるならば理想に近い構図といえる。

 簒奪で築き上げられた、決して揺らがぬ不沈の王国。それが無量の貌の正体の一面というわけだ。……馬鹿げている。


 俺たちが最初に出会った涅槃寂静が自我のようなものを持つ個体だった事で認識がズラされていたが、その上の単位だろうが個別の意思を持った個体などいない。

 アレと同様に特異個体は存在するのかもしれないが、基本的にはすべて役割が異なるだけで無量の貌の一細胞でしかないのだ。

 最小単位とされる涅槃寂静のようにツナが自らの知識の中から名付けた基準に沿うならば、阿摩羅、阿頼耶、虚空、六徳、刹那、弾指、清浄と呼ぶべき個体はどれもが自我を持たず、ただ与えられた権限の範疇で自動的に活動するだけの存在だ。区別は付くが、ただそれだけ。体内に入り込んだ管理外の異物に対し、排除行動を行うのも防衛本能に従っているに過ぎない。


 見た事のない異形、聞いた事もない種族、概念すら定かではない不定形の存在。未知の姿へと変貌し、呼び出し、あるいは結合する単位個体たちは最大限に警戒してかかるべき相手ではあったが、結局のところ意思を持たぬモンスターと同じ……いや、それ以下だ。能力値とスキルだけで動く木偶など、どうとでもなる存在でしかない。ましてや魂の強度がものをいうこの空間にあるなら尚更だ。

 何十、何百と無量の貌の単位個体を切り刻んでいく。千には届いたかもしれないが、万には到底届かない。

 細胞など、人間でも数十兆あるのに天体規模の体躯を持つものがその程度の数を失ったところで影響などあるはずもない。

 作戦前、限界まで《 アイテム・ボックス 》に詰め込んだ武器はすでに使い果たした。ほとんど使用機会のなかった消耗品ですら心もとない。防具の予備はあるものの、それが相手の攻撃特性による結果である以上、使う事はないだろう。肝心の《 刻印術 》も戦闘用の術は軒並み品切れだ。


「……潮時か」


 元々ツナから受けたオーダーは可能であれば突入経路を見つけ出し、本体にダメージを与えるチャンスを図りたいという目的だった。

 それに加え、深部であれば本体に痛打を与えた上でより上位領域に移行済の簒奪対象を救出する事ができるかもしれないというグレンの後押しでこうして突入したが、影響の確認は難しい。

 ゼロではないだろう。表層部分にあってさえ、涅槃寂静を削る度に空間への揺らぎ程度の影響は見てとれた。すでに、グレンたちが最後の救出活動に入っている可能性もある。

 俺に課せられたオーダーは十分に果たしている。


「……しかし、なあっ!!」


 眼の前の視認するだけで精神異常を加えてくる怪物を、折れた剣で両断する。

 ただ課せられた役割をクリアしたところで、俺の激情は収まりがつかない。

 確かにこれは簒奪された仲間を救出する事、それによって特異点に打ち込まれた楔を取り払う事が目的の作戦だ。それはいい。

 だが、それ以上に無量の貌という極悪を許せないという意思が俺を支えている。アレは決して許す事のできない、存在すら許容してはいけない悪と俺の正義が定義した。なのに、細胞をいくらか削り取っただけで満足できるはずもないだろう。

 本来なら敵性存在すら許さない絶対なる王国の中にあって、お前の敵はここにいるぞと突きつけてやりたい。……いや、やるべきだ。


 傷付き、疲れ果て、剣は折れ、魔力が尽きた。しかし、まだこの身に宿る魂は燃え盛っている。

 その正義こそがベレンヴァール・イグムートの在り方であると示さねばならない。

 そうして、更に奥へと足を踏み入れようとした時、それは起こった。




「……地震?」


 感覚すら正常に働かない空間にあって、はっきりと足元が揺れるのが分かった。

 空間全体が振動し、歪み、軋み、周囲の単位個体を大量に巻き込んで崩壊を始めている。

 一体、何が起きている。

 俺が起こした現象でない事は確かだ。ならば、それ以外の……表層部で何かが起きたのか? 謎の世界侵食現象か、活路を見つけたグレンが何かをしたのか……いや、違う。

 ……これは俺への援護だ。


 これは、ツナが引き起こしたものだ。理解はできないが、そう伝わってくる。

 ツナがトリガーを引き、計算し、不安定極まる異常空間を解析し、空龍とサージェスの手を借りて、本来ならば手の届かぬここにまで亀裂を入れた。

 絶対に有りえぬ事をやるツナでも不可能と断言するような、可能性の隙間を縫って行われた奇跡の援護なのだ。

 そして、それは空間を崩壊させるだけに留まらない。


 《 土蜘蛛 》は可能性の姿でさえも実体と化す。

 それは作戦開始前に告げられた事であり、ユキが観測器を再現するに至ったのをこの目で確認した。ツナがその場にいなければ使えない以上、この作戦に使う事はできないが、かつて俺を蝕んでいた< 魔王 >のクラスですら再現できると。

 有り得るならば、どれだけ極小の可能性だろうと再現する力。……だから、こうして"空間を飛び越えてヤツが干渉できる"なら、いくらでもその幅が広がる。

 この身に、かつてネームレスに操作されていた時に植え付けられたものと同じ力を感じる。慣熟すら必要ない、異常なまでに馴染む感覚は、俺の天職が< 魔王 >であるとでも言いたいのか。


「いいだろう。目を背けたい汚名ではあるが、これも力だ。力があるなら、まだ戦える」


 加えて……これだ。

 《 アイテム・ボックス 》から、一振りの大剣を取り出す。それはしばらく手にしていなかった、失われたと思っていた、召喚される以前に俺が愛用していたものだ。どういう仕組みかは知らないが、あの世界と今の《 アイテム・ボックス 》が連結している。俺が最大限に力を発揮すべく活用していた武装のすべてがそこにあった。

 意味不明過ぎて笑えるほどの援護だ。これで、潮時だと帰るのは有り得ない。


「正直、こんなものは俺自身の力とは言い難いが、関係ないな」


 反則技、結構。ツナに言わせればチートだったか?

 どの道、こんな戦いにルールなどない。相手は許されざる外道ならば、こちらが反則していても気に病む心配がない。

 何も苦悩する事なく討ち滅ぼせる巨悪の存在がありがたい。感謝して吐き捨ててやりたいところだ。


 直接 念話 を受けたわけでもない以上、ツナの援護が意図するところは大まかにしか分からない。

 しかし、やる事は変わらない。俺がすべき事はより深くへと侵攻し、無量の貌に痛撃を与える事。

 それによって表層部に更なる揺らぎが発生すれば、グレンが動き易くなる。簒奪者を救出できれば、ツナが世界改変に使う力も抑えられる。すべてが繋がっている。ここまで状況を把握できているならば、わずかなリソースを確保するだけでもツナの勝率は上がるはずだ。

 いや、それ以上にこれは俺のやりたい事、やるべき事なのだ。その在り方は見失わない。




 どちらにせよ、決着の時は近い。

 いくら外界や表層部と時間の流れがかけ離れているとはいえ、無量の貌に剣を突きつけるためには急がねばならない。



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