第17話「真象風景」




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 私の名はサージェス。ちょっぴりマゾな変態冒険者だ。あるいはもっと大きなカテゴリで、変態紳士と呼んで頂いても構わない。

 以前から迷宮都市の冒険者……特に同時期にデビューした者たちの間では有名だったらしいのだが、最近では一般層にまで名前が知れ渡ったらしく、結構な反応をもらったりもするようになった。

 たとえば道端でしつこくナンパされているお嬢さんを助けに入ると両方から悲鳴を上げて逃げられたり、役所で手続きをする際に待合所で私の周りだけ空間ができたり、店でダンジョン・アタックで使う消耗品を物色しているとあきらかに用途を勘違いしている視線を向けられたりとその反応は様々だ。私がマゾだという事を知っているのなら、そういう事はやめて欲しいものだ。つい勃起してしまう。

 そんな話をゲスト出演したラジオ番組で近況として話したところ、多くの反響があったのは記憶に新しいところだ。パーソナリティの兼業冒険者やスタッフにはドン引きされていたが、生放送中だというのに思わずパンツが破裂してしまうところだった。危ない危ない。

 また、類は友を呼ぶというか、同じく変態と分類される者たちからの接触も増えた。どう考えてもカテゴリの異なる分野の者も混じっているのだが、大枠で変態であれば同志と看做されるという事なのだろう。しかし、残念だが変態的嗜好であればなんでもいいというわけではないのである。実はこう見えて私のカバーする範囲は狭いのだ。

 まず、恋愛感情に乏しいのでNTRは理解できないし、知り合いの男性雑誌編集者のようにショタコンも理解できない。ついでに同性愛者でもない。自分が拘束されるのは好きだが、歪んだ愛情故に相手の望まぬ監禁に走るメンヘラさんたちの気持ちも分からない。相手のものであれば排泄物だろうと口にしてしまうのも以ての他だ。そういった行為によって屈辱を得るならまだしも、それを喜々としてやるのは違うと思うのだ。

 もちろん、それらを否定するつもりはないし、業界の一部にカテゴライズされているのもそれなりの理由あっての事だと知っている。単に私が友人なり恋人なり、他者を媒介とした行為が理解できないという事だ。

 つまり、私は異常性癖を持つ変態ではあるが、基本的に自己で完結してしまっているのだろう。鮮血の城でロッテさんを追い回した時は、ついに私もサドに目覚めたかと興奮したものだが、せいぜいがその程度なのである。

 この業界の闇は深い。自分のレベルの低さに日々愕然とするばかりである。


 人生はSMに良く似ている……という言葉がある。最近考えた私の言葉だ。

 生きるという事は辛い事ばかりだ。努力しても上手くいく事などほんのわずかに過ぎず、大抵の者はどこかで妥協を強いられる。成功者と呼ばれる者たちも何から何まで勝ち続ける事はできないし、たとえそれが可能だとしても、そんな事が可能なのは極少数であり、茨の道だろう。

 そんな人生を生き抜くコツは苦しみを快楽へと変換してしまう事。それが性的快楽であれば変態っぽくてよりいい。つまり、試練の連続こそが人生であり、生きる事はSMに等しい。この場合のS役は世界そのものであり、程度の違いこそあれ私たちはみんなマゾヒストというわけである。

 分かって頂けただろうか。SMプレイは人生の縮図であり、特にプロの彼らはそうやって世界の真理を追求し続けているのだ。

 ……などと、雑誌のコラムで書いたらマネージャーに怒られた。媒体がいつもの成人向け雑誌ではなく、一般向けの冒険者雑誌だったのがいけなかったのかもしれない。最近では慣れてしまったのか、摩耶さんですら何も言わなかったのに……解せぬ。


 と、自分の事は比較的どうでもいい事でも分かるのだが、周りの事がさっぱり分からない状況に追いやられていた。長い前置きだったが、実はこれが本題である。

 見渡す限り何もない真っ白な空間。すべてが真っ白なので、遠くを見ても地平線が目視できずにただ白い光景だけが続いているように見える。足元も真っ白だ。一応地面はあるようなのだが、影がないので傍目には浮かんでいるようにも見えるだろう。影がないという事は光もないのだろうが、自分自身ははっきりと見えるという不自然な状態である。

 つまり、既知の物理法則が適用されない謎の空間という事だな。類似するものは見た事がないが、ダンジョンでは良くある事だ。

 リーダーが行ったという無限回廊マイナス層の未設定領域の特徴にも似ているが、なんとなくここは違う場所だろうなという気がしていた。具体的にどこかという見当はついていないのだが。


 はて、私は何故こんなところにいるのか。死んだ……と考えるのは早計だろう。私の中に、これは死ではないという確信があるからだ。ダンジョン内での死と実際の死がどれだけ類似するものかは知らないが、一切の共通点がないというのも考え難い。それに、あまりに意識が明瞭なのも気になるところだ。かといって、明晰夢というやつでもない気がする。

 ならば、ここは一体どこなのか。ここに至る直近の記憶は抜け落ちている。あるいはそもそも移動などしておらず、なんの脈絡もなく直接ここに移動したというケースも考えられるが、どちらにしても経緯は不明な事に変わりない。

 その前の記憶は……リーダーの元へ駆けつけたのが最後だな。直感でまずいと判断し、そのまま直行したが、案の定リーダーは絶体絶命の状態に陥っていた……そういえば、どういう状況だったか。


「……確か、"簒奪"だ」


 大混乱の最中、リーダーと通信したというディルクさんから情報をもらったはいいものの、誰とも合流が難しい場所にいた私は、周囲にいた冒険者や龍と共にクーゲルシュライバーを目指していた。しかし、多少情報を得たところで、未知の災害じみた大攻勢に対して即応するのは容易ではない。進むごとに人数が減る怪奇現象は凶悪で、簒奪の情報を持っていた私にしても迅速な対応はできなかった。

 可能な限り、逐次 念話 による情報共有はされていたが、それもなんらかの原因で上手く回っていない。情報の錯綜、指揮系統の混乱、現場の被害も合わさって全体がパニックに陥っていた。

 私は指針を決めかねていた。指示を待ち、判断を他人に委ねる状況ではない。かといって、このまま防衛だけにあたるのもジリ貧だろう。何より、最も核心に近いところにいるはずのリーダーがいない。

 こういう時、リーダーならどうするだろうかと考える。リーダーなら私にどう動けと指示するかを。彼の行動原理・方針は未だ理解し切れていない部分も大きいが、そろそろ傾向は掴めてきている。

 結論として、私は単身クーゲルシュライバーから離れ、より顔の多い場所へ向かう事を選択した。

 こんな時、真っ当な指揮官であれば冷静に状況を把握し、目の前の問題を片付けていく事を選択するだろう。とりあえず、行動できる基盤を整え、選択肢を増やす方針だ。しかし、私に求められているのはそんな冷静な対処ではない。論理的に破綻寸前でも先へ繋がる道を切り開く事こそを求められている。変態ならば、邪道にこそ活路を見い出せと。

 規模こそ大きいものの、迫り来る無数の顔は災害ではなく敵だ。その行動パターンに理性があるのかはともかく、明確に対象を簒奪しにきている。また、一貫した戦闘行動を行っている様子もない。つまり陽動はない。ならば顔の多い場所こそが戦域の中心であり、激戦区。その前提であればリーダーはそこにいる。意図的か偶然かは別としても、そういう場所にいるのが渡辺綱だからだ。

 幸い、顔の簒奪には多少の時間を要するらしい。接触イコール簒奪ではないのなら、高速で移動を続ければ対処は容易い。問題は数だが、そこは無茶を押し通すしかないだろう。いつもの事だ。

 前後どころか上下左右、視界すべてが顔に覆われたとしても、ただひたすら前へと向かう。《 トルネード・キック 》と《 飛竜翔 》を駆使し、半ば濁流のような顔の中を泳ぐように。

 これだけ情報を制限されていても戦闘の気配は伝わるものだ。リーダーそのものではないが、それだと確信の持てる派手な気配を見つけ、一際密度の高い顔の流れに飛び込む。その先で、案の定意識のないリーダーを見つけた……ところで記憶は途切れていた。無事助けられたかどうかははっきりしないが、リーダーの名前や顔を覚えているという事はまだ終わっていないという事なのだろう。無駄ではなかったはずだ。

 この分だと、私自身はどうやら無事ではないようだが。


 しかし、顔や名前を奪われたというわりには変化は見られない。

 混乱の最中、抜け落ちたと感じた記憶の空白部分はそのままで、記憶の中に奇妙な穴のようなものが空いているのが分かる。経験や知識が繋がりを失い、不整合を起こしている。簒奪とはそういうものだという認識は間違っていないだろう。

 ところが自分の名前は覚えているし、触ってみても顔は普通にある。あると認識しているだけかもしれないが、今のところは不都合がなければ問題はない。つまり、こんな状況にありながら、認識している以上の被害はないと……。

 ……いや、何かが足りない。私にとって必要な何かが失われたままだ。サージェスがサージェスであるために必要な部分。それが何であるのかも分からないが、重要な部分が欠けている。


「……まずいな」


 それが何かは分からないが、失ったままでは危険な気がする。私という存在が根本から破綻するような……。

 何を失った? 私の核となる部分……変態性? あるいはマゾヒズム? だが、自覚として嗜好や性癖はそのままだ。これまで繰り返してきたプレイの数々も克明に思い出せる。玄龍さんの金的をきっかけに発案した除夜の鐘撞きイベントでさえ、一回一回の痛みまでも思い出せる。ならば、失われたのはもっと別の……いや、待て。

 ……きっかけが思い出せない。最初からこうだったのなら分かるが、私は元々こういった特殊性癖の持ち主ではなかったはずだ。

 では一体、私はいつからマゾだったのか。簒奪のせいか歯抜けた記憶を辿れば、その傾向は十代の後半……唐突に始まっている。不自然なほど唐突に。

 私の性癖が少数派という事は自覚している。迷宮都市の外であればそれは尚更で、場所によっては迫害の対象にすらなり得るものだ。そんな環境にあってわざわざこんな倒錯した趣味を始める?

 迫害自体は興奮するから大した問題ではないが、それによって行動に制限を受けるのは好ましくない。迷宮都市以外で火炙りにでもされたらそこで終わりだ。そこで被虐の探求も終わってしまうのだから、私ならそんな悪夢は最後にとっておくべきと考えるだろう。つまり、そこにきっかけとなった何かがある。

 いや、きっかけ自体は別段どうでもいいのだ。問題は、根本が失われる事で私がマゾヒストでなくなってしまうという可能性。


「くっ……これが敵の仕掛けた罠だというのか。なんて恐ろしい奴だ」


 かつてない危機に戦慄を禁じ得ない。

 こんな時だというのに、思わず勃起してしまった。しかし、問題を放置したままでは、この興奮すら楽しめなくなってしまう。変態のサージェスが、ノーマルサージェスへと劣化してしまう。恐怖を快感に変えるマゾヒストがマゾヒズムを失ってしまえば、あとには耐え難い恐怖しか残らない。

 そんな事は看過できないと、あやふやで頼りない記憶を辿り、そこへと結び付く点を探し出す。点と点を結び、共通部分を見つけ、その先に何があるのかを導き出す。共通するのはどれも過去。私の知る過去、マゾヒストとして目覚めたより遥か以前の記憶……。

 ……そうか、前世だ。私が転生者だったという記憶は残っているし、前世の記憶も保持していたという認識もある。しかし、その前世の記憶がない。名前も、顔も、どんな人間だったのか、どんな世界に生きていたのかの情報が根こそぎ存在しない。

 ……そちらだけ簒奪された? 確かに私と前世の私では顔も名前も違うだろうが……まさか別の存在として扱われているのか?




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「どうやらそうらしいな」


 認識するまで一切の気配を感じず、かといって突然出現したわけでもない。最初からそこにいたといわんばかりに、隣に一人の老人が立っていた。

 背は私と同じ程度。髭こそ生えてはいないものの、髪はすべて光沢のない白髪。深く刻まれた数々の皺は人生に疲れた印象を抱かせるものだ。しかし、その身を覆う気配は見た目通りの存在ではないと伝えていた。


「……あなたは?」

「貴様にとっては前世の自分という事になるのだろうか。いまいち同一の存在であるとは感じられんのだが、どうやらそういう事らしい」

「……は?」


 突然現れて何を言い出すのかと思えば……いや、どうだろうか。ここまで検討した簒奪の性質を考えるならば有り得ない事はないのか?

 すでに私を取り巻く状況は意味不明もいいところだ。こんな状況で前世の自分と対峙したところで、別段突飛な展開ではないだろう。

 これがリーダーだったらもっと意味不明な存在と邂逅していてもおかしくはない。それに比べれば前世の自分など、まだ常識的な範疇といえる。リーダーを基準にして考えても意味はないだろうが。


「私は貴様よりは幾分か先に自己を確立したものでな。この世界について色々と考察していたのだが……おそらくは当たっているだろう。それ以外考えられんと判断した」


 この老人にしても、確信しているわけではないのか。

 そういえば、良く見れば纏うスーツは私と同じものだ。オーダー品なので見間違えようもない。


「……はぁ。しかし、どうにもあなたが私自身という感覚が……」


 言っている事を信じるなら、この老人は私の前世そのもの。失われた顔と名前から実体化でもしたという事になる。

 眼の前の老人はおそらく変態だ。それは分かる。分かるが……それ以上の親近感は覚えなかった。単純に面と向かって話しているからとかそういう事ではなく、根本的に遠く、別人のような在り方をしていると感じるのだ。敵意は感じないが、信用もできない。嘘を言っているようには見えないが、納得にはほど遠い。それほどまでに違う。

 顔と名前が失われた事で答え合わせができないのがもどかしい。失われた記憶の中では、私は彼を前世の自分だと認識していたのだろうか。

 話した感じ、この老人は私よりも現状を理解しているように思える。自分自身と考えるには持っている情報にも差があるような……。


「それはお互い様だ。私とて貴様が自分であるなどとは感じられない。転生の仕組みなど理解していないが、元になっただけで別人と考えたほうがいいかもしれんな」

「仕組みはともかく、あなたは転生そのものは知っていると?」


 前世の私が転生について知り、それを受け入れているのは不自然ではないのだろうか。私……彼が生きた世界については覚えていないが、かつて調べた限り、そういう仕組みがあると認識している世界から転生した者は極少数だったはずだ。

 そんな中で今いる私たちの世界が例外であり、無限回廊システムに触れたが故に浸透したのではないかという考察を聞いた事がある。

 地球では概念自体は存在していたらしいし、そもそもこの転生という呼称だってそこからきているのだろうが、リーダーやダンジョンマスターがそれを当たり前の現象と考えていたとは思えない。せいぜいが宗教上の一概念、あるいは物語を構築するギミック程度の認識だっただろう。


「この世界は少々特殊らしくてな。無量の貌とやらが取り込んだ魂同士が連結し精神世界を構築、互いに補完し合っているらしい。中でも、貴様から私には優先的に知識が流入しているように感じる。最も近しい存在である故かもな。しばらくすれば、その逆も起きるだろう」

「つまり、転生についても私から得た知識であると」

「主にな。断片的で統一性はカケラもないが、貴様以外からも情報は流入している。私たちが決して知り得ないだろう事も含めてだ。私のように自己を確立するには至らないが、前世持ちは個別に扱われるという情報もあったぞ」


 無量の貌。確か、リーダーが通信で言っていたという因果の虜囚の名だったか。

 という事は簒奪は同化が目的だろうか。知識か、魂か、とにかく他者が持つ情報を収集していると。……なるほど。個としての強化を求めるなら道理であり、かつシンプルな手段だ。

 となると、あの大量の顔は過去に取り込まれた者たちの絞りカスのようなものと考えるべきか。ああいう存在がいるという事は、完全な意味での同化ではないのだろう。そして、私や彼もまたそれと同じ存在になりつつあると。……まったく、タチの悪い冗談だ。そんな奴に私のマゾヒズムを奪わせてなるものか。


「自己賞賛のようで奇妙だが、これだけの情報でもある程度理解したようだな。どうやら私とは出来が違うらしい」

「そういうものでしょうか」


 普段活用する必要のない能力ではあるが、誰もいないのなら私が頭脳役をやるしかない。

 基本的に、私は考えはしてもそれを表に出さない。どうしても答えが出ないなら発言も検討するが、リーダーやユキさんは自分たちだけでも十分以上に情報を把握し、推測し、回答を出し、結論を出し、方針を立て、行動する事ができる。ウチには二人以外にもそういった能力を持つ者も多い。それぞれ得意分野はあるが、ラディーネさん、ディルクさんはすでに十分リーダーを張れるだろうし、ガウルさんや摩耶さんも素質を感じられる。直接の会話経験がないので確信はないが、おそらくマイケルさんあたりもそうだろう。一方で、そういった能力がありつつ一線を引いているのはガルドさんだ。彼と私のスタンスは近いところにある。

 無責任な事だが、リーダーや代表という立場を敬遠していた私にとっては理想的といえる。少なくとも私が欠けた程度では破綻しない強固な土台だ。


「人生の大半で人の心を知らぬ鉄面皮と呼ばれ続けてきたからな。そういう思考の柔軟性は生前の私の欲しかったものだ」


 肉体が違えば脳も違う。冒険者になってレベルアップによって鍛えられている部分も大きいだろう。極端な話、まったくの同一人物でも別の環境で育てたとしたら異なる人間になるだろう。同じ魂の持ち主だろうが、思考に差が出るのは当たり前の事ではある。


「貴様のように誰かを頼るという考えもなかった。誰も信用せず、弱みを見せず、ただやるべき事だけをやる姿は英傑そのものだと皮肉を言われたりもしたな。実際はそれが皮肉と理解できないという皮肉な結果だったわけだが」


 今は、流れ込んだ知識によって理解できていると。

 私もあまり皮肉を言うタイプではないが、理解はしているし必要とあらば行使もする。かつてノーマルだった摩耶さんを焚きつける事ができたのも、それを理解しいたからこそだろう。


「生前の自分を後悔しているのでしょうか?」

「残念ながら後悔はあるが、振り返ってみればあの生き方以外は有り得ないだろう。別の生き方はできないし、それを許してくれる環境でもない。もし、過去に戻れるとしてもやる事は変わらないだろうな。多少効率的になったところで祖国の体制を壊し、滅亡させ、革命家として磔にされるのは揺るぎないはずだ。私が私である限り、それは変わらない」


 私の前世なのに、また随分と苛烈な人生を送っているようだ。しかし、そうなると私の性癖は彼から受け継いだものという事になるのか。マゾヒズムの元祖というわけだ。


「……ああ、そういえば。確か最後は拷問車輪でしたか」

「少し思い出したようだな。それが情報の補完だ。そして、それが進行するほどに無量の貌へと同化されていくらしい」


 なるほど、これは流れ込んでくるという表現は正しいだろう。ないはずのものが、隙間を埋めるように補完されていくのを感じる。

 それを自覚したからか、真っ白だった風景が変化した。


「ここは……」


 古びた、壊れたままでロクに修繕もされていない広場。仮設のような観客席に生気のない目をした人々が詰めかけ、暗い熱狂に包まれている。

 中央には無数の拷問具。使い込まれてはいるものの、それ自体は有り触れたもので、極めて原始的な機構のものばかり。それらは元支配者だろうが革命家だろうが、等しく苦痛と死を与えるものだ。

 広場に放置されたいくつかの死体と染み付いた血は革命時のものか、それとも見世物としての拷問によるものか。


「当時の記録上に残るあらゆる拷問具を使用し、死なぬよう、長く苦痛が続くよう、国民たちの溜飲を下げ、あるいは目を逸らすために造られた処刑場。場所は王城だった場所の中庭だ」


 振り返れば、そこにはすでに廃墟と化した城がそびえ立っている。略奪され、破壊され、ガワのみを残して機能喪失した、かつての栄光の形だ。


「最初に刑にかけられたのは、旧王国の支配者であった王族ではなく、ロクに状況も把握できていない貴族や宗教家などの上級国民たちだ。その順番は見せつけて恐怖を煽るわけではなく、単に拷問による突然死を避けるため。死なせないための加減を学ぶため。担当する拷問官は下級貴族の、処刑・尋問を専門に行う家の者だ。その手順、役割分担や予定が効率的だろうと、私が大まかに段取りを決めて手配した」


 刑を実施する事自体はすでに避けられない。流れとして好ましくないが、強行しなければその先にあるのは民衆の暴徒化だろう。

 これは行き場のなくなったフラストレーションの解消のためのイベント。悲鳴と血で装飾された宴は旧体制の支配者すべてを殺し尽くした。

 しかし、体制を破壊しても絶望から抜け出せない憤り、こんなはずではなかったという落胆、悪いのは自分以外の誰かという責任転嫁によって異様な高揚に包まれた民衆はその矛先を扇動者へと向ける。それが終わりの始まり。


「革命時に作り上げたあらゆる権力や伝を使っても短期的な復興は困難。周辺国家による支援も、事前に提示されていたものを大きく下回っていた。暮らしがマシになれば併合されても構わなかったのだが、それに価値を感じる国家は存在しなかった。加えて、暴走を始めた民衆の姿は国家として距離を置こうと判断するのに十分な惨劇だったらしい。私の予定では最低限国家運営に必要な人材は残すはずだったのだが、尽くが皆殺しにされたのは致命的だったな」


 この老人は革命家であり扇動者であったが、政治家ではない。その強烈なリーダーシップは国家を崩壊させるのに特化したもので、修復に使える才能ではなかった。

 人と距離をとり、孤高で有り続けたのもマイナスに働いた。人の心を理解できない鉄面皮が、崩壊した国の国民を導けるはずもなかったのだ。


「ここに至り、正攻法での立て直しは不可能と判断した私は最後に民衆を欺いた。すべての原因が扇動者の私であると思い込ませる捨て身の保険だ。文字通りすべての権力と抜け道を使い潰して、そこで惨劇を終わらせられるかもしれないきっかけを作り上げ、演出した。私さえ死ねば良い方向に転がるとな。……もっとも、結果の確認はできないわけだが」

「死んでるんだから当然ですね」


 そうして、この男は拷問にかけられ死んだ。ついでにマゾに目覚めて昇天した。この二つは結果が良く似ているようで違う意味である。

 表面だけを見れば悲劇の英雄か、極悪な扇動者か。どちらにせよ、周囲に巨大過ぎる影響を与え、嵐のように過ぎ去った人生だ。

 自己犠牲による最後の行動が民衆の心に革命を起こしたかどうかは分からない。唯一確認できた結果は、自分自身の事。裏切りと絶望と恐怖と苦痛がもたらしたのは、自分も知らない性癖の発露だけ。自己防衛の一種だった可能性もあるが、素質があった事は確実だ。それは私の存在が証明している。


「異常性癖の発露も死ぬ事も特に気にすべき事ではない。この結末に不満はあっても、ここに至る道に後悔はない。……しかし、未練はある。それは、私が残した結果を確認できない事だ」

「その未練と性癖を私が受け継いだと」


 器たる私自身には何もない。元々が空虚な存在であり、生き様も強い感情もない。だから、甦った記憶がそのまま目的となった。

 その二つがあったからこそ、私はここまで戦い抜いて来られたという確信がある。ただ空虚なだけの器ではここに立てはしない。

 ……なるほど。前世という要素がなければサージェスという存在は成立し得ず、土台から崩壊する。不安を覚えるのも当然だろう。


「……ところがだ」


 終わりかと思っていた昔語りだったが、どうやら続きがあったらしい。しかし、これ以上に語る事など老人……前世の私には存在しないはず。

 惨劇の拷問場は終わっていない。拷問車輪に磔にされた肉の塊が苦痛の果てに死した後も、この世界は動いている。

 ……なんだ、これは。


「どうやら私が死んだあとも、保険は機能しなかったらしい。正確に言えば、機能はしたが足りなかった」

「何故分かるので?」


 推測であれば立てられる。予想としては十分以上に考えられた光景だ。私だって幾度もシミュレーションした事はある。

 しかしそれはどこまでいっても机上の空論に過ぎない。間違っても、『正確に言えば』などという言葉には結びつかない。

 まさか、幽霊になって見守っていたとは言うまい。


「私が種を蒔いた幾人かは下らぬ熱狂から覚め、ある者は破滅しか有り得ない未来の軌道修正を試みた。ある者は暴走した民衆の手にかけられ、ある者は自前の権力で虐殺を始めた。また、ある者は早々に見切りをつけ、外国へと亡命を果たした。しかし、全体の動きを統率する者はいない」


 どうやら、私の疑問に答えるつもりはないらしい。


「結果、革命で起こった臨時政府はわずか数ヶ月という短期間で崩壊した。理想を失った暴徒はただの暴威と化し、その危険性を重く見た周辺国家は安全の面から火中の栗を拾わざるを得ない状況に追い込まれる。そしてその行動も遅く、軍が鎮圧に動き始めた頃には手が付けられない状態になっていた。暴走に継ぐ暴走。無数の暴徒が集団を形成し、眼の前にあるわずかな益だけを奪いあった」


 収拾などつくはずがない。国家同士の戦争ならばどのようにでも決着をつけられるが、その相手が存在しない。


「人類史の中でおそらく初となった大規模非対称戦争は真の意味で泥沼と化し、この後数年に及ぶ鎮圧戦、そして数十年に渡るテロ対策に周辺国家は国力を衰退させていく事になる。理想を失い、目標を失い、統率者も扇動者もいない。原因が風化しようが、国家や集団の枠組みがなくなろうが、積み重ね続けた怨恨が連鎖していく。もちろん、都合良く英雄が現れたりもしない」


 それだけ長く混乱が続けば、どうにかしようとした人はいるだろうが、英雄にはなれずに圧殺されたのだろう。

 これらは判り易い利益や領土で解決できるものではない。果ては絶滅戦争にまで行き着きかねない、根の深い問題だ。


 そして、同一性は皆無とはいえ自分の考える事だ。このあとに続く言葉がなんであるのか、ある程度予想していた。


「規模こそ変われど、延々と、ただひたすら続く不毛な戦乱は決して終わる事はなかった。その後、遥か未来に突如として出現した無量の貌によってすべてが簒奪されるまで」


 この老人は、簒奪された記憶からそれを収集していたのだ。自らの最後の未練を果たすために。


「だがな、サージェスよ。すべてが無に帰すという結末など、私にとってはどうでもいい事なのだ。それこそ星が寿命を迎えて消滅しましたと言われるのと変わりない」

「あなたの未練は確認だけですからね」

「そうだ」


 それでは……目的はすでに果たされてしまったのだろうか。同時に、私の道標も消滅したと。


「……もう未練はないと?」


 老人は答えない。


「実はな……蒔いた種は完全に無意味ではなかったのか、死後の詳細をわざわざ記録にして残してくれた者がいたのだ。後の世に名前が残ってしまったらしいぞ、私は」

「どういう評価か気になるところではありますね」


 近視眼的な視点であれば世紀の大罪人という評価は免れないだろう。しかし、歴史という大枠で再評価された場合はどういう形になるのか。ある意味、客観的で公平な評価が期待できる。

 闘争の日々に意味はなかったと告げられるよりも、よほど興味の惹かれる話だ。


「聞きたいか?」

「え? ええ、聞きたいですね」


 何故か、説明を渋られた。何か聞かれたくない、言いたくない事情でも含まれているのだろうか。ここまでくればどんな評価だろうが気にするようなものではないと思うのだが。


「教えてやらん」




-3-




「……は?」


 一瞬何を言われたのか理解できないまま、状況が一変した。老人が消え、拷問場が石造りのダンジョンのようなものへと変貌する。……いや、ようなものではなく、これはダンジョンだ。

 見覚えがある。ここは、かつてリーダーたちと共に挑んだ[ 鮮血の城 ]……その入口部分だ。

 一体どういう事なんだ? 口ぶりから察するにこの変化はあの老人が行ったものだろうが、まさか説明が欲しければ[ 鮮血の城 ]を再攻略しろとでも? なんだ、その高度なセルフSMのようなプレイは。あの男は紛れもないドMだというのに。ドMとドMが争ったところでギャグにしかならないぞ。


 しかし、こんなところで立ち止まっていても仕方ないと、一本道の通路を歩き出す。その先に待っていたのは、あの時と同じ試練の門番であるスカル・ドレイクだ。

 下級冒険者だった頃のあの時であればともかく、今の私の敵ではない。私どころか、当時の参加者全員が鎧袖一触の元に葬りされるだろう。


――――Action Skill《 トルネード・キック 》――


 特に必要もないが、少々の憤りを発散するが如く過剰ダメージを叩き出した。スカル・ドレイクは極当たり前にバラバラに砕け散り、地を這うまでもなく魔化していく。あの時のカウンタースキルは発動しなかったが、感触からしてあの時とほぼ同じ強さだろう。

 まあいい。……思惑は分からないが、私としても第四門の攻略には不満が残っていた。それがあの老人の課す試練だというのなら、受けて立とう。

 そして、第一門[ 明滅の間 ]の前に辿り着く。


「……一本か」


 あの時、八人の生命状況を示していたロウソクは一本のみが灯っていた。つまり、当たり前のようだがこれは私一人だけで挑む試練だという事を強調しているのだろう。

 確か第三門で四人揃わないと進めない試練があったはずだが、同じルートを辿るならば複数人数が必須となる試練はない。

 ……八人か。一人思い出せないな。……これも無量の貌の簒奪の影響という事か。近しい仲間も簒奪されているという事を浮き彫りにされている。

 そういえば、< 自滅の輪 >が第四門の鍵になっていたはずだが、あれはどうなるのか……と首に触れてみたらすでに装着していた。


 門を潜り、風景を一瞥する。

 序盤は明滅する視界の間隔が長く、入り口付近であれば奥まではっきりと見通せた。……構造を含めてまったく同じだ。複雑な拷問トラップ塗れの試練ではあるが、散々やり直した記憶はそのまま残っている。

 私は常々空気を読まない男と言われているが、こんな時までセルフ拷問ショーを楽しむつもりはない。

 出口の位置を確認し、調整。そのまま《 トルネード・キック 》と《 飛竜翔 》を駆使して強行突破する。挑戦回数一回、攻略時間一分足らずのレコード更新だ。リーダーならTASがどうとか言い出すに違いない。未だになんの略かは知らないが。


 続いて摩耶さんを煽った[ 第二門 階段の間 ]。その摩耶さんはいないが、ここも問題はない。元々一人で攻略しているし、そもそもが私向きの試練だ。

 階段を一段進むごとに発生する待機時間は面倒だが、今は思考を巡らす休憩時間として扱えると前向きに捉える事にした。


 考えるのは、あの老人が何をしたいのか。

 この先おそらく第四門で待ち受けているのだろうが、アレは敵ではないだろう。未だ同一の存在とは思えないが、それは簒奪以前の私でも同じだ。私の前世を騙る偽物という線も有り得るが、それにしては手が込み過ぎている。無駄に私を苦しめたり、陥れて遊ぼうという意思も感じなかった。

 何か考えがあるとばかりの行動は、おそらく私にとって必要なものなのだろう。遠いと感じるが、自分自身の事だ。推測は成り立つ。それくらいは分かる。

 おそらく、あの老人は私の目標が消える事を懸念している。前世での未練が解消された以上、私が代わりにそれを確認する必要はなくなったと。だから『教えてやらん』なのだ。


 試練開始に規定人数のあるもう一つのほうに転送されたらどうしようかと不安もあったが、無事[ 第三門 尖塔の間 ]に転送されたらしい。

 ユキさんはいないが、ここも体得した技術と慣れさえあれば問題なく突破できる。戦力的にも問題はない。頭数が減ったところで、それ以上に私が強くなっている。そもそも当時の摩耶さんは一人でここを抜けたのだから、今の私にできないと泣き言を言うわけにもいかない。

 ユキさんのような華麗な身のこなしとは言い難いが、それでも初回で頂上まで上り詰め、嵐の中ボス撃破に成功する。やり直しとはいえ、ここまでパーフェクトだ。

 そして、出現した階段は一つだけ。やはり私一人用に用意された試練という事なのだろう。


「つまり、第四門も一つというわけだ」


 転送先には帰還用の休憩所すらなく、第四門への扉が一つ。若干名残惜しくはあるが、結局一度も使わなかった< 自滅の輪 >を使い、扉を開いた。

 そして、中で待っていたのは予想通りドッペルゲンガーではなく一人のスーツ姿の老人である。


「随分と早かったな」

「一度攻略した試練ならこんなもんでしょう」


 これがまったくの別の試練というのなら同等の難易度でも苦戦するかもしれないが、攻略実績のあるものをそのままならどうにでもなる。

 しかし、それもここまでだろう。私は本当の意味で第四門をクリアしていない。己の脅威を乗り越えたわけではなく、強行突破しただけなのだから。

 攻略時に生存していないという意味なら第五門もそうだが、アレは私たち八人の試練なのだから別の扱いだろう。つまり、ここだけが自分で納得していない試練なのだ。


「それで、説明は頂けるんでしょうか。それとも本物の時と同じようにやり合いますか?」

「今なら勝てると思うかね? 生憎、この私はお前と同じ力を有しているぞ」


 私が強くなったところで、[ 脅威の間 ]の仕組みがそのままなら相対的な強さは変わらない。負ける気はないが、勝てるかといえば……正直、自信はない。

 どんな強敵が相手でも勝ち筋を見出し、犠牲を厭わず飛び込んで行くのが変態紳士サージェスの在り方だ。どんなか細い勝ち筋でも、勝利のイメージがあれば立ち向かえる。……だが、この男に勝てるイメージが湧かない。どうやれば勝てるのかが分からない。


「……何故、こんな事を?」

「わざわざ考える時間をやったのだから、答えには辿りついているはずだ」

「あなたは消えるつもりだ。その上で、私に何かを残そうとしている」

「その通り。ここが私の終着点というわけだ」


 元々、彼は亡霊のようなものだ。前世の記憶などという曖昧な情報から形を作っているに過ぎない。個別の名前があるから、顔があるから独立して存在している。それらは本来情報に過ぎないはずだ。私の魂にこびりついた未練という名の亡霊が正体なのだろう。


 それが当たり前の事であるかのように、合図もなく戦闘は始まった。

 老人が駆ける。一直線に向かうように見えるが実のところフェイントを多く織り交ぜた動きは私そのものだ。

 斧のように振るわれる蹴撃を、同じく蹴撃で払い落とす。……重い。ドッペルゲンガーの時よりも重く感じるのは単にコピー元である私が強くなったからなのか、それとも心情的な弱さの現れか。

 戦いながら認識を修正する。ただ、同じ強さというだけでは把握できない細かい部分を学習し、一手一手を最適化させる。そうしないと、打ち合う事すらできない。

 互角、とはこういうものをいうのだろうか。拳打は拳打によって、蹴撃は蹴撃によって、同じ角度ではなく無効化・迎撃に最適な角度と威力で放たれる。その姿は鏡写しではない。しかし、完全なる拮抗を表現している。常に後出しで相殺狙いをしてくるのならどうとでもなったが、むしろ老人は先手をとって攻め立ててくる。

 おそらくコピーされているのは筋力や魔力、臓器や神経系などの肉体的要素だけではない。戦闘経験のような内面的要素すらもが同じなのだ。本当の意味で自分自身と対峙している。

 自画自賛のようだが、強いな。その姿はリーダーの無茶に応えるべく強く在ろうとした私そのものだ。自分の力ではないとはいえ、戦っている彼も同じように感じているのだろうか。それとも、私だけが一方的に焦燥感を覚えているのか? だとしたら、結果はドッペルゲンガーの時と同じ……いや、それ以下だ。長引けば、心情に難を抱えた私が不利に傾くのは道理。無理やりな強行突破など彼は許してくれないだろう。


「うおおおおっ!!」

――Action Skill《 トルネード・キック 》――

――Action Skill《 トルネード・キック 》――


 空中で同時に放たれるスキル。二つの竜巻が交差し、ぶつかり合う。互いにダメージはあるが、決定打にはなり得ない。渾身の力で放ったスキルも当たり前のように相殺された。

 まずいぞ。このままでは試練を超えるどころではない。いや、そもそもこの戦いが本題ではないのだろうが、負けていいはずもない。

 勝利のイメージが見えない。


「どうした? 今正に消えようとしている亡霊相手に、精神的優位すら保てないのか」


 このまま戦況が推移すれば負ける。今はわずかな差だが、すでに優劣は生まれ始めている。

 戦闘能力が同じならば、内面的な部分が決定打となる。それは[ 脅威の間 ]で知っていた事だ。そこに大きな差が存在している。この英雄には勝てないと、私のどこかで認識してしまっている。

 彼が人生を賭して積み上げたものは、自分のものでないと感じているから。


「あなたが知ったのは断片に過ぎない。無量の貌が収集した情報など、数多にある世界の一つにしか過ぎないだろう。平行世界には違った答えも存在するはずだ」


 苦し紛れに対話を試みる。それは、彼の話を聞けば当然の疑問であり……私にも回答の分かっている疑問だった。


「下らんな。答えの分かっている事をわざわざ問いかけるほど追い詰められているのか」


 完全に看破されていた。この世界にいて情報を受け取っている以上、当たり前だがその疑問に辿り着かないわけはないのだ。


「自問自答が聞きたいというなら答えてやろう。……そうだろうな。絶対の法則ではないが、無量の貌は近似世界で複数回以上簒奪を行なわない傾向が見られる。つまり、私が識ったのは数多に存在する可能性の一つというのは正しい。だが、私が欲していたのはそんな情報などではない。どんな形であれ、結末を知った。私はそれで納得した。それがすべてなのだ」


 知る事ではなく、見届ける事こそが未練。明言されずとも分かっていた答えだ。

 『満足か?』とでも言いたそうな表情を見せて、老人は再び戦闘行動に入る。

 相手の行動は読める。フェイントを含め、どういう手をとるかは筒抜けだ。私だけでなく、お互いに手の内は知り尽くしている。なのに少しずつ押され始めている。

 その理由は簡単だ。私の中にある迷いが彼我にわずかな差を生み出し、そのわずかな間隙を見逃さずに攻撃をねじ込んでくるのだ。

 それを繰り返していれば大きな差となる。目に見えてダメージが大きくなってきた以上、肉体的な差まで生まれているのだから。


「どうする、サージェス。私と共にここで果てるか」


 そんなわけにはいかない。だが、なんのために戦うのかという問いに明確な回答を出せない。私がこの老人と同じものであるというのなら、それを失えばどう言い繕っても空虚なサージェスに逆戻り。それならばいっそと思わなくもない。

 しかし、それは有り得ない。それだけははっきりしている。未練がなくなろうと、ここで止まるわけにはいかない。


「ここが貴様にとっても終着点だというのなら、私も止めはしない。しかし、貴様がここまで積み重ねて来たものは、その程度のものだというのか」

「違う」


 そんなはずはないと断じる。断じなければならない。


「絶体絶命だった渡辺綱を救出した。私がいなくともリーダーがいればなんとかするだろう、などと考えているのではないか?」

「違う」


 認めてはならない。確かになんとかするだろうという期待はあるが、だからといってすべてを放り投げていいはずがない。


「借り物の目的や性癖で歩む自分こそが井の中の蛙であると思っていないか?」

「違う!」


 そんな事はあってはならない。そんなものはサージェスの在り方ではないのだ。


「そうか、だが前世である私は本当にそう思っているぞ。貴様は本当にそれを否定できるのか?」

「……違」「違うというのなら、過去の亡霊など薙ぎ倒して前に進んでいけ。貴様の……サージェスの在り方を示してみせろよ」


 老人が言っているのは至極簡単な事だ。私が本当にサージェスとしての個を確立しているのか。前世などに囚われる事なく、己の存在を示せと言っているのだ。

 ここまでは借り物のサージェスでも良かった。そうしなければいつまでも空っぽのままだったから。

 だが、未練が果たされた今、私は真の意味でサージェスとならなければいけない。


「こうして[ 脅威の間 ]を再現しているのも、貴様が戦闘という判り易い形でしか存在を証明できないからだろう。それが、これまで"サージェス"に求められた事の大部分を占めるからだ。断じてもいいが、ただ私に勝ったところで自己の証明になどなりはしない。なにしろ、私は本来戦闘経験など皆無なただの扇動家だからな」


 耳の痛い話だ。かつて[ 脅威の間 ]でそれを要求されたのは、それがリーゼロッテさんの課した試練であるからという側面が大きい。この戦いも、ここまでの試練も、あの時私が試練を超えてなかったという認識が容易な回答を求めた結果が反映されたものであると言われれば反論できない。

 すでに老人は戦う意思はないようだった。……私も合わせて戦闘態勢を解く。


「あと、最後だから勝ち逃げしたいという気持ちは少しある」

「……おのれ」


 忌々しい事この上ないが、それくらいは華を持たせてやってもいいだろう。決して強がりではない。サージェスは寛容なのだ。今はそういう事にしておく。

 遠いと感じるのは、それだけ違いがあるという事に他ならない。そして、老人は最初からそれを否定していない。

 自分らしさなどという抽象的なものに正解などない。それを口にする本人がそうだと信じていれば、言ったもの勝ちだ。ただし、そこだけは誤魔化しが利かないし、誤魔化してはいけない。

 私が彼から受け継いだものは性癖と未練から生まれた目的。そこが立脚点という事は認めた上で、"私を"宣言するのだ。


「私は変態です」

「知っている。私もそうだ。裏切りと絶望の果てに行われた拷問で、つい目覚めてしまうほどの筋金入りだぞ。信仰してなどいなかったが、当時主流であった一神教の考えからすれば異端もいいところだ。その倒錯感もまた一要素であるかもしれんがな」


 いや、マゾヒズムは宗教に関係なく敬遠されるものだろう。

 ……おそらく、これも鍵の一つだ。彼は世界を知らない。情報としてはある程度識っていても、自身はひどく小さいコミュニティでしか生きていない。

 特に、性の多様性については論外ともいえる。少なくとも、実際に体験した事はない。彼が性的に絶頂した事など、最後の最後で一回だけなのだから。


「あなたは筋金入りかもしれないが、その性癖に歴史はない。それは人生の最後でとってつけたように発生したアクセント程度のものだ」

「……まあ、そうだな。私の事を記した後世の知識に実はマゾヒストであったなどと書かれたものは一切存在しない。冗談のようにこんな人生を送った奴はマゾに違いないと言っていた者はいたらしいが、私自身は生き様に性的興奮など覚えてはいなかった」


 それは当然いるだろうな。私がリーダーに対してマゾに違いない共感を覚えるのに似ている。

 私が彼が起こした革命について詳細を知らないのは、それが理解不能なものである事が大きいのだろう。


「私はあなたの記憶が甦った直後から世界を旅した。当時秘境とまで呼ばれた地域まで足を伸ばし、国すら存在しない大陸にまで足を向け、マゾヒズムの探求に勤しんだのだ」

「深くは知らんが、識っている。随分と活動的な事だ」


 やはり、ここら辺が境界線か。


「ええ、空虚な私にはあなたの残したものがすべてでしたからね。活動方針は自然とそれがメインになる。きっかけは間違いなくあなたの存在だった」

「さぞや孤独な旅だったろうな。迷宮都市というところで同志に巡り合ったとは識っているが、こんなものは少数派もいいところだ」

「いいえ。一人旅ではありましたが、行く先々には同志もいましたよ。類は友を呼ぶというか、我々変態は惹かれ合う。出会ってしまうものなのです」

「そ、そうか……なるほど、意味が分からん」


 まあ、知らなければ困惑するだろうな。理解できないが故に詳細が共有されていなかったのかしれないが。

 旅の途中、迫害されはしたし、火炙りにかけられそうになった事もある。しかし、暗黒大陸で風獣神パロと出会った事をはじめ、各地の同志たちとの出会いはかけがえのないものだった。


「それだけでもあなたにできなかった事を成したという自負がある。加えて迷宮都市での活動を加えれば、間違いなくあなたより変態であると宣言できる。私はあなたより上だ」

「私は表面上でのみ識っているだけだが、それほどかね? べ、別にそこまで興味はないが、聞いてやってもいいぞ」


 何故そこまで動揺する。自分である事もそうだが、老人のツンデレなど気持ち悪いだけなんだが。演技とはいえ、クラリスさんを見習って欲しいものだ。


「あなたは迷宮都市の業も懐の深さも知らない。あの街は私でさえ未だ理解不能な性癖が魑魅魍魎のように跋扈する魔都だ。そんな中では、如何に度が過ぎているとはいえ、マゾヒストなど良くいる性癖の一つでしかない」

「馬鹿な……」

「あの街では、筋肉質の男がパンツ一枚で彷徨いていても『ああ、そういう人なんだな』程度にしか扱われない。女性冒険者が半裸同然のビキニアーマーを着ていたら賞賛されるほどだ。私が透明素材だけでできたパンツだけを履いて『ちゃんとパンツは履いてるから』と人通りの多い場所を歩いた時はさすがに連行されたが、それでも厳重注意と罰金だけで済んでいる。法が法として機能していて、明確に逸脱しない限りは刑にかけられたりなどしない」

「や、やめろ。私をこれ以上誘惑するな」


 これは誘惑なのか? 確かに桃源郷の話に聞こえるかもしれないが。


「いいえ、やめません。こんなものはほんの入口に過ぎない。あなたは数千人、下手をすれば数万人規模で客の訪れる変態の祭典が想像できますか? 性癖それぞれに専用の雑誌があり、書店で普通に購入できるなど理解できないでしょう? 専用チャンネルですが、テレビ番組だって存在する。あなたの生きた中にこんなコミュニティなど存在していなかったはずだ」

「し、しかし、妬ましくはあるが、それはあくまで環境の話だ。貴様自身の事ではない」

「私は変態だ。冒険者のサージェスはド級の変態であると街の一般人までもが知っている。普通に歩いてるだけで行く先から人が避けていき、変態だと中傷される。私はそれに興奮しながら、変態性を確立し続けているのだ」

「待てっ!! マゾヒズムは少数派であるからこそ輝く性癖だろう。公言し、同志を募るのは羨ましい限りだが、少数派であるが故の価値観は失われてしまうっ!!」


 そりゃ、市民全員がマゾヒストだったりしたら私でもドン引きですがね。間違いなく社会基盤は崩壊する。


「分かっていないな。それでも少数派なのだ。もちろん大多数はノーマルで、その割合は変わらず、私たちは忌避するものとして映るだろう。それは分母が多くなっただけで、大多数の中の極少数である事は変わらない。しかし、人の絶対数が多いという事は多様性を生む。その中で性癖は分化し、独自のコミュニティを作り上げ、細く、鋭く研ぎ澄まされていく! あなたがあの国で孤高を貫いたように、私も孤高の変態であろうとしている。カテゴリと人数が多いから誤解されるかもしれないが、同じジャンルだろうが性癖が一致する事など有り得ないっ!! 変態は誰もが孤独なんだっ!!」


 そろそろ自分が何を言っているのか分からなくなって来たが、ストレートに本音を言っているのは間違いない。今必要なのはそういう情熱であるべきだ。


「あなたは自身の性癖こそが至高と考えているかもしれないが、そんなものは頂上が見えないほど高い山の麓でしかない。私に言わせればただのハイキングコースだ」

「おのれーーっ!!」


 何故か見る影もないテレフォンパンチが飛んできたが、それを弾く。そのままカウンターを入れるように、ジャブを放つと面白いように顔面へと命中した。

 私はよろめいた老人に追い打ちをかけつつ、宣言を続ける。卑怯と言われるかもしれないが、明確に中断した覚えなどない。


「加えて、私は冒険者だ。人でありながら、人が生涯に二度と味わう事のない苦痛を日常のように受けている」


 殴られた事で多少正気に戻ったのか、老人は再度戦闘態勢を整えたようだ。追撃の蹴りは蹴りで相殺された。

 だが甘い。さきほどのまでの動きではなく、あきらかに精彩を欠いている。ここは畳みかけるべき場面だ。


「過酷な戦場で戦う冒険者にとって、マゾヒズムは優位に働く。盾役の素質こそ恵まれなかったが、常に前線に身を置き、痛みを受ける事を厭わずに戦い続けられる。私に期待されているのは変態故の意外性で劣勢を覆し、常人であれば届かない一手を繰り出す事だ! 私はそれを常に体現してきた。だからこそ、リーダーもユキさんも、他のみんなも変態と知りつつ私を受け入れているのだっ!!」


 ぶつけ合う。お互いの拳を、脚を、変態としての主張をっ! 私たちではなく、私こそが真の変態であるとっ!


「ぐぅっ!! 自慢のつもりか! 自分は変態で在りながら、存在を認められていると!?」

「ああ自慢だ。それと、在りながらではない。変態だからこそ認められているのだっ!! あなたには分からないだろうが、冒険者が力を誇らずしてどうする。変態が、その力の根源である変態性を誇らずしてどうするというのだっ!!」


 冒険者のサージェスが変態でなくどうするというのだ。賢者モードになった私に対してリーダーが困惑したように、変態でないサージェスなどサージェスではないっ!!


 さきほどまでの高度な戦闘はどこにいったというのか、子供の喧嘩のような戦いが繰り広げられている。身体能力だけが高い歪な殴り合いだ。

 私は今、この男に優越感を感じている。私らしくはないが、微かに芽生えたサディズムも私らしさであるはずだ。自分の性癖を至高と信じ、その場所から一歩も動けない男とは違う。


「井の中の蛙の例を挙げたな? ああ、確かに私は大海がどれほど広いかは知らない。しかし、大海へ踏み出す意思はある!! それは、ここで終わるあなたにはないものだっ!!」


 サージェスは可能性の探求者だ。未知の可能性があるなら大海へと漕ぎ出す意思と勇気を持っている。蛙であるかどうかなど分からないし、関係ない。蛙だろうがアメンボだろうがミジンコだろうが大海へと踏み出して見せよう。それこそがサージェスの在り方だ。


「……まあいい。思わぬ深刻なダメージを受けてしまったが、ひとまず合格にしてやろう」


 老人の手が止まった。

 ここまでの反応を見る限り、負け惜しみにしか感じられないが、それが必要とされていた事だとは分かる。


「あなたがやろうとしていた事、必要としていた事は分かる。それは情報の流入によって私にもある程度見えて来た」

「だろうな。……つまり、もうあまり時間がないという事だ」


 私たちは無量の貌に同化されつつある。

 リーダーが本当にどうにかしてしまったのか、あるいは別の要因かは分からないが、この世界が干渉を現在進行系で受けているのは感じるが、それは遠い。あくまで表層部分に留まっている。

 しかし、おそらく私たちはより深いところにいて、優先的に同化されようとしているのだ。この干渉が救助かどうかは分からないが、手は届かない。


「ここは魂の強さがモノを言う世界だ。自己を前世に依存している私では同化は避けられない」

「そうだ。少なくとも私には脱出の手段は見つからない。ましてや未練のなくなった抜け殻ではな」


 ならばどうするか、と言われても分からない。しかし、明確に自己を確立しなければあっという間に呑み込まれるだろう。この世界では、自分を持たない者は時間稼ぎもささやかな抵抗も許されないのだ。

 今はようやくその最初のハードルを超えただけに過ぎない。


「それで、自分の進むべき新たな道は見えたかね? まさか性癖の探求だけが生きる目標とは言うまい」

「いいえ」


 そんなものは決まっていない。前世の未練の上に立つ事をやめるというのだけは決まっているが。


「大目標などありませんが、とりあえずやるべき事はたくさんある。それを投げ出すわけにはいかない。なにしろ先は長いのだから、自然と見つかるでしょう。どうしても答えが必要だというのなら、そうですね……いつか、あなたが過ごした世界の一つに赴いて墓に花でも添えに行きましょう」

「……そうか。お前がそれでいいというのなら異論はない。こんな状況でなければ何かを言う必要もないからな」

「ここは、ご自分の墓で楽しみに待っているというべき場面では?」

「そんなところに私はいない。すぐに消えはするだろうが、魂の在りかは知っているはずだがね。サージェス」


 それが老人の最後の言葉だった。

 ……そういえば、私たちは同じものだったな。

 まるで、最初からどこにもいなかったように消えたが、私の中に戻ったとかそういう感じはしない。そもそも、分裂したとかそういう事でもないのだろう。

 アレは幻のようなものだ。前世という魂の情報が見せた、私自身の主張なのだろう。それにしてはやはり遠いし、手の届かない英傑であったとは思うのだが。


「……やはり、お手本にはならんな、ラジェルト」


 その生涯は私には決して真似のできないものだ。だからこそ、いつか自身の心にではなく英雄の墓前に花を添えに行こうと思う。墓があるのかは分からないが、『ラジェルト・ブロウ』と名が刻まれた像なり由来の土地は残っているだろう。


「そういえば、覆面戦士の名も彼が元だったな」


 今更ながらに思い出した老人の名に思いを馳せる。……いや、享年三十九の男に老人もないか。老いているように見えたのは、それだけ彼の生涯が過酷だった事を示すものだ。

 最初は掲示板に書かれていた裸ージェスだったが、妙にしっくりくると思っていたのだ。すぐに結びついたわけではないが、どこかで似ていると感じていたに違いない。

 墓参りの際は、ついでだから花と一緒に愛用のマスクも一緒に添えてあげよう。きっと喜んでもらえるだろう。




-4-




 自分の魂に一応のケリはつけたが、最大の問題は一切解決していない。

 ここは相変わらず無量の貌の創り出した精神世界であり、私は簒奪されたままだ。回収処理が完了していないというだけで、脱出の手立ては見つかっていない。

 座してそれを待つ気はないが、手掛かりがないというのは困ったものだ。そもそもそんな手段があるのかどうかも分からないが。


 ラジェルトの創り出した[ 鮮血の城 ]はそのまま残っているが、この先にあるのは[ 真紅の玉座 ]だけだ。

 ひょっとしたらリーゼロッテさんの幻がいるかもしれないが、それを倒したところで現実世界に戻れる扉が開くとかそういう事はないだろう。

 とはいえ、他に行くべき場所があるわけでもないと先に進む事にした。


[ 第五門真紅の玉座 ]


 再び訪れたそこは当時の記憶そのまま。真っ赤な過剰装飾に骨と炎を模したオブジェクトとリーゼロッテさんの趣味そのものだ。あえて違いを言うのなら奥に飾ってあったはずの巨大燭台がない事くらい。私の記憶から再現しているのだから当然ともいえる。

 当たり前のように出口は存在しない。それどころか入り口までもが消え去った。あの時のように、あとからみんながやって来るという事もないだろう。いや、来たら来たで困惑するしかないが。

 玉座の前にいる吸血鬼は彫像のように動かず、ただじっと佇んでいる。

 巨大な鎌を持ち、コウモリの羽根を背に持つ人型。しかし、リーゼロッテ・ライアット・シェルカーヴェインではない。

 記憶にない男。しかし、記録として流入してくる名前は……。


「ヴェルナー・ライアット」


 迷宮都市のギルド職員にして最高幹部の一人。ダンジョンマスターの被造物。リーゼロッテさんの父親。という事は、私とも面識はあるはずだ。

 つまり、クーゲルシュライバーの責任者あたりの肩書きで龍の世界との交流に参加し、そこで私と同じく無量の貌に簒奪され、この深部の領域に囚われているという事なのだろう。

 敵地のど真ん中で出会った知人ではあるが、談笑するような相手でない事は明白だった。今の彼には中身がない。顔もなければ名前もない。流入してくる情報はすべて彼がそうだったという記録に過ぎない。そして、このタイミングでこの場に現れたという事は……私を回収しに来たと考えるべきなのだろう。

 私以上に簒奪が進んだ消えかけの存在が、無量の貌の尖兵として立ちはだかっている。


 そのヴェルナーが宙空に向かい、巨大な鎌を一閃。何かが砕ける巨大な音がした。

 砕けたのは部屋の天井部分。代わりに姿を見せたのは赤い空と更に赤く巨大な月。そこを羽ばたく無数の巨大な龍のような姿。それを見て、これが本来在るべきこの世界の姿だと確信した。


「……なるほど、私は護られていたという事か」


 おかしいとは思っていたのだ。敵中というわりにはあまりにも平穏で、身の危険の感じない世界だと感じていた。この精神世界はラジェルトが私を護るために創り出したもので、簒奪に対抗する準備を整えるために用意したものだったのだ。

 超常の存在が創り出した機構に対し、魂に残っただけの情報がどうやってそんな離れ業を成したのか分からない。あるいはそれが彼が英雄たる所以なのかもしれないが。

 ……まったく、どれだけ偉大なのだあの男は。こんなお膳立てまでされて、ただ回収されたとあっては情けないにもほどがあるな。


 続いて、世界が顔に満ちた。赤い空や月に顔が浮かび上がり、精神を蝕む絶叫が轟く。直接脳に響くそれはただの騒音であり、鎮魂歌のようでもあり、賛美歌のようでもあった。

 顔のない龍の群れは羽ばたき、あるいはこちらを窺うだけ。彼らも簒奪された者たちのはずなのだが、観客か何かのつもりなのか。


 直後、ここは私たちだけの戦場だといわんばかりにヴェルナーが羽ばたき、目にも止まらぬ速度で飛翔する。


「がっ!!」


 閃光のような速度で放たれる線のような斬撃が三つ。慣性を無視した動きは、俯瞰するならともかく対峙している相手には捉える事が困難なものだ。

 視認できないそれを、勘で捌いた。すでに戦闘状態には入っている。最初から全力で踏み込まないと一瞬で刈り取られるだろう。そこまでやってようやく大劣勢。瞬殺でないというだけ。

 おそらくこれでも本来の全力ではない。何せ中身がない、そんな状態で尚隔絶した実力差だ。冷静に判断するのなら決して触れてはならぬ存在。ダンジョンマスターほどでなくとも、十二分に次元の違う相手なのだ。

 アーシェリア・グロウェンティナ、リーゼロッテ・ライアット・シェルカーヴェイン、サーペント・ドラゴン、八本腕、四神練武で戦った格上のモンスターたち、かつて戦った相手は比較にすらならない。

 途方もなく強い。だが……。


「負けるイメージが湧かないな、ヴェルナー・ライアットっ!!」


――Action Skill《 トルネード・キック 》――


 魂を奮い立たせろ。ここは無量の貌の内部とはいえ精神世界。ましてやまだラジェルトが残した世界の残滓が残っている。

 精神力がモノをいう世界だというのなら、こんな抜け殻相手に負ける道理などないっ!!


 本来なら捉えられるはずもない相手と空中で激突する。零分の目算、五分の予測、五分の勘だ。

 ダメージはない。標的を捉えはしても攻撃は鎌で止められた。《 トルネード・キック 》の回転は残っているが、それが弱まる前に反撃がくる。


「おおおおおぉーーっ!!」


 吼えろ。イメージするのは常に格上の敵を葬って来た渡辺綱の姿だ。

 パーティ内での私の役割上、強敵相手の戦闘では途中離脱する事も多かった。それができるのは私の強みであり、同時に弱さでもあるのだろう。その弱さを認める。認めた上で足りないものを補う。

 精神的な支柱として渡辺綱を超える者はいないと断言する。そのリーダーはここにいないが、いないのなら私が代わりをやればいい。


――Skill Chain《 パリィイング・キック 》――


 鎌を弾く。どれだけ膂力や魔力に差があろうとも、相手の動きを利用した逸らしならば幾分かは難易度が落ちる。


――Skill Chain《 マグナム・ストレート 》――


 わずかに開いた空間に向けて拳打を放つ。通ったが、ダメージを与えた感触は極小。致命傷どころか、かすり傷程度にしか届いていない。

 しかし、僥倖。届かないわけではない。手が届く。実物がどうあれ、この場この状況ならば届くと確信した。


――Action Skill《 曲撃・横円環 》――


 反撃としてわずかに離れた距離から放たれる鎌の一撃。刃の残す魔力光が円となり、巨大なチャクラムのように私の体を両断すべく迫る。


「うぐぁっ!!」


 至近距離でスキル発動直後。回避などできるはずもないが、最小限の犠牲で切り抜けた。右腕の更に右半分。肘から先が縦に裂けている。……この程度なら上々だ。

 右腕はしばらく使い物にならない。精神力で補うとしても、人の体という認識では瞬時の再生はしないというイメージが付きまとう。それを覆すのはなかなかに難しいだろう。徐々にでいい。今の殻を破るべく魂を震わせろ。

 落下する私に直接の追い打ちはない。その代わりにヴェルナーは高く飛翔し、鎌を掲げた。


――Action Skill《 真紅の血杭 》――


 これが本家本元だと言わんばかりに、かつて見たリーゼロッテさんのそれとは数も密度も違う。空から地上に向けて向けられた杭に一切の死角はなく、移動できる範囲のどこにいても致命傷は免れないと分かる。そして、アレは一発でも受けたらアウトという類の凶悪な代物だ。

 逃げるどころか、そもそも空中にいる私に移動手段はない。いつも移動に使う《 トルネード・キック 》も《 飛竜翔 》も足場がある事前提のスキルだ。だが……。


「知った事かっ!」


 足場がなければ使えないなどと誰が決めた。精神力がモノをいう世界だというのなら、私がそれを書き換えてやる!


――Action Skill《 飛竜翔 》――


 杭が放たれるのに合わせ、発動できないはずのスキルを使い上空へと疾駆する。

 どこにいても致命傷なら前へ進む。二次元で見るならば死角のない杭の雨でも、そのすべてが同じタイミング、同じ速度で放たれるとは限らない。三次元で見るならば死角はあると信じる。

 つまり、直線的な斜め上空への蹴撃技である《 飛竜翔 》だけでは回避はできない。そして、連携以外でスキルを途中で止める事もできない。その手段を私は持っていない。しかし、識ってはいる。


――Skill Cancel――


 スキル硬直を無視した中断技術。そういうものがあるという事だけは聞いていた。未来のSランク冒険者が使用したというだけあって、当然今の私に行使できるものではないが、できると思い込んだ。


――Action Skill《 パリィイング・キック 》――


 襲いかかる杭の一つに合わせ、蹴りを放つ。威力は殺せないし蹴り飛ばせもしないが、足場にする事はできる。そして、その分隙間ができる。


――Skill Chain《 フル・パージ 》――


 性的興奮を狙ってではなく、服が弾け飛ぶわずかな慣性を利用するための脱衣。自我のない相手だからか、興奮はわずか程度にしかない。


――Skill Chain《 トルネード・キック 》――


 衣服を舞い散らせながら、空中の杭を蹴り、再び上空へと飛翔。《 真紅の血杭 》を放った直後だからなのか、私の行動に対応できていないのか、ヴェルナーは捉えられる範疇にいた。


――Action Magic《 ヴァンパイア・テリトリー 》――


 迎撃で放たれるのは未知の魔術。流入してくる情報を信じるなら、それは空間内の無差別吸血を行う《 領域魔術 》。

 それは悪手だ、ヴェルナー・ライアット。被害を無視して突っ込むだけならば苦になどならない。全裸だろうがダメージは同じだっ!!


「おおおっ!!」

――Skill Chain《 ダイナマイト・インパクト 》――


 着弾のタイミングに合わせ、《 トルネード・キック 》に打撃力を上乗せ。それでも大したダメージにはならない。そんな事は最初から分かっている。

 そして、このままこの領域に留まり続けるならば吸血効果によって深刻なダメージを受けるだろう。それは無視できない。


――Skill Chain《 ローリング・ソバット 》――


 リスクは元より織り込み済み。ならば畳みかけるのみだ。

 半ば相手の体に引っ掛けるように回転蹴りを放ち、私は更に宙へと舞う。ロクに自我は残っていなくともやはり親子なのか、あの時とほぼ同じ形で態勢、同じ全裸という条件が整った。


「落ちろっっ、ヴェルナー・ライアットっ!!」

――Skill Chain《 ドラゴン・スタンプ 》――


 ただの攻撃でロクなダメージを稼げない以上、これだけでは足りない。状況を変えるには巨大なダメージが必須だ。その手段はすでに持っている。

 その締めは同じくスキル連携の最後を定められたFinal Attack。これを使えば、代償として私はかつてない賢者モードへと移行するだろう。

 だが、それが狙いだ。


――Final Attack《 インモラル・バースト 》――

「うおおおおおおおおっ!!」


 私の全性欲を打撃力へと変換した踏みつけ攻撃が炸裂した。目に見える現象など意味はないだろうが、隕石でも落下したのかと言わんばかりのクレーターが私を中心に誕生している。

 そしてスキルが終了すれば揺り戻しが起きる。極限まで振り切れたドMの性欲がニュートラルな状態へと引き戻される。

 この極端な揺り戻しこそが望んだ条件。不安定で未完成なスキルだが、この場であれば難なく発動可能なはずだ。


 イメージするのは自分でない自分。究極マゾを内包し、私は究極サドへと変身を遂げるっ!!


「見るがいいっ! 私の新たな姿をっ!! これが貴様を屠る者の姿だっ!!」



――Action Skill《 サージェスSPM 》――



< ナレーション >

 説明しようっ! サージェスの《 サージェスSPM 》とは、極限まで高められたマゾヒズムの逆転現象により、スーパーなサージェスへと変身する究極奥義だっ!!

 マゾの揺り戻しに加え、スキル硬直の反動すら利用して発動するこのスキルが生み出すのは本人にも予測不可能なほどに凶悪な圧倒的パワー!!

 そのパワーが生み出すのは究極マゾを内包した究極サド! 今、あらゆる拷問体験を自ら駆使するタチの悪い変態が誕生するっ!!

 ちなみに、変身と言っているが外見は特に変化はない。いつも通り全裸のままだっ!!



 ダメージは与え、地に落としたものの、ヴェルナーは健在。《 ヴァンパイア・テリトリー 》の効果も続いている。

 一方で《 サージェスSPM 》による変身効果か、私の右腕も急速に回復しているのが分かった。つまり仕切り直し。ここからが本番だ。


「知っているか、ヴェルナー・ライアット」


 《 名貌簒奪界 》は使用者が可能な範囲で世界そのものを改変する《 世界魔術 》だ。

 私や眼の前のヴェルナーや龍たち、簒奪された迷宮都市の冒険者は書き換えられた世界に閉じ込められている。世界そのものを書き換えるが故に脱出不可能。そういう類の極悪スキルだ。

 リーダーはどうやってか知らないがそれに干渉しているようだが、その救助を待つのは愚策だろう。

 何故ならば、ここはその世界の深淵。おそらく無量の貌の中心に近い場所にある、干渉困難な領域だからだ。

 ヴェルナーもそうだが、視界に入る龍はそのどれもが亜神であるとの情報が流れ込んできている。存在として格が高ければ、簒奪の処理も異なるという事なのだろう。

 こんな時、リーダーなら私にどう指示を出すか。……決まっている。自力生還だ。


「ウチのリーダー曰く、サドはマゾを内包する性癖らしいぞ」


 私の気配を察したのか、ヴェルナーが行動に移る。そのほんのわずかな刹那がすべてを決定付けた。もう遅い。こちらの態勢は整った。


 脱出不可能なのはここが閉ざされた世界だから。出口がないと定義された世界ではどう足掻いても脱出はできない。

 そんなところから自力で脱出するならば、そんな不可能を実現するならば、世界そのものに干渉し、上書きしてしまえばいい。


 不得意な魔術ではあるが、この世界に限ってはそれを無視できる。

 この特殊な環境とスーパーサージェスのインモラル・パワーによってのみ実現可能な特大術式を編み、構成し、定義する。



――Action Magic《 拷問世界 》――



 私を中心として世界が変貌した。それはマゾヒストのサージェスの拷問体験を精密展開、実体化し、世界に捕らえたすべての存在に無条件で被虐体験を与えるもの。

 高度なマゾヒストであればあるほど凶悪な性能と化すこの魔術を今、この場で創り出した。スーパーなサージェスであれば不可能はないと。

 元々未熟な者が無理やり発動する《 世界魔術 》だ。当然、制御などできない。制御する気もない。趣くままに暴走させ、世界を広げ、無量の貌を内側から侵食し、飲み込んでいく。


「お前も、上空の龍たちも、ついでに顔の群れもすべてマゾにしてやろう」




 対無量の貌攻略戦。その戦場の片隅で、更に悍ましい世界が産声を上げた。



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