第16話「決戦の舞台へ」
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微睡みの中で揺蕩うような、果ての見えない闇の中で迷子になるような、水の底へとただ落ちていくような感覚。そんな不明瞭な感覚にただ身を委ね続ける。
自分という存在が不明瞭になり、他人との境界線が曖昧になり、私という個が失われていく。
それは、死に良く似ている。無限回廊で何度も体験した、失われた記憶の中で体験した、抗い難い恐怖の体験だ。
この世界では私ともう一人のティリア以外に顔はなく、名前もない。しかし、ここではそれが極当たり前の事で、誰も疑問に思わない。私たちが違和感を覚えているのだってほんのわずかで、それがなくなればきっと世界に溶けてなくなるのだろうという確信があった。この世界にはきっと私たち以外の個は存在せず、あるいは私たちだけが異物なのだろうと。
しかし、不思議とこのまま消えてなくなる事に不安はなかった。底知れぬ恐怖は感じていても、個がなくなっていく先にあるのは永遠の安寧だと識っていたから。
悍ましい顔の濁流は、そうやって一つになった者たちの成れの果て。やがて私たちが至るカタチであり、未来の姿なのだろうと。
静寂の世界で目を閉じる。私は役目を果たしただろうかと、もう一人のティリアティエルへ疑問を投げかける。
しかし、彼女は答えない。顔があっても、名前が残っていても、答えるべき魂がない。……識っている。
行くべき道を決めるのはいつだって過去の記憶で、彼女の記憶。私はそれを見つめながら、後ろ向きに歩き続けているだけなのだから。
頭の悪い性癖が詰まった、そして師の教えが詰まった記憶は、私たちがティリアティエルであるための、ただ一つの生きる形なのだ。
パーティの盾役としてこう在るべしと教えられた冒険者像は、"ティリアティエル"を形作る指標となった。
決して仲間よりも先に倒れない。そう在る限り、自身が倒れなければパーティは崩れない。師より教えられたそれは、ただの屁理屈であり、真理である。そうやってパーティを支え続けた誇らしき自負なのだと彼女の記憶は語る。
傷付いても自身で回復すればいいと、極限の中で得た《 再生 》を使い、本来あるはずのなかった《 回復魔術 》の才能を行使する。それが本来在るべきだったティリアティエルの姿だと、自身を以て体現する。
私はそう在らなくてはならない。私もそう在らなくてならない。
紛いものであってはならない。借り物であってはならない。本物以上に本物でなければいけない。私はティリアティエルでないといけないのだ。
私の"脅威"が師ガルデルガルデンだったのは、きっと私が紛いものである事を看破されるのが怖かったからなのだろう。
迷宮都市に辿り着き、冒険者になって尚顔を見せなかったのもそう。生活が安定したら、独り立ちできたらと先送りにしていた里帰りもできないままだ。本物ならばそんな事は有り得ないのに、後ろ向きだからと前が見えないフリをして、潜在的な恐怖を誤魔化し続けている。……いや、誤魔化し続けていた。
それを認める事ができたのは、あの仮面の吸血鬼の戦いの中、絶望の縁にあって最後の最後の事だった。名前も顔も思い出せない仮面の先生と再会し、自分がただの食べ残しであると告げられて、極限の中で師の言葉を体現してようやく認める事ができたのだ。
しかし、今はもう自分が何者であったのかも思い出せない。
どんな性格で、どんな好みで、どんな才能があって、どんな夢を持っていたのか。記憶はあっても、見えるのは表面だけ。
あの日、先生に剥ぎ取られた顔と一緒に、顔だけの邪神に食べられてしまったから。
あるいは、そんな私自身もこのあやふやな世界のどこかに漂っているのだろうか。
「あなたが役目を果たしたかなんて、あなた自身にしか分かりませんよ」
ゆっくりと消えていこうとしていた中で、ひどく明瞭な言葉を聞いた。明瞭な呆れ声。
「私たちはそれを知らないんですから」
目を開けば、黒ずくめでボロボロな格好をした……どこかで会った気がしてならない女性が一人、目の前に立っている。
疲れ果て、今にも倒れそうなのに目だけはギラついた、誰かに似た姿だ。
「誰かに定義してもらいたいなら、私が定義してあげます。まだ、"全然足りてない"」
「…………」
「半分どころか一割にも、いや一分にも届くものか。まったく、これっぽっちも、微粒子レベルも足りていない」
えっと……それほどなのだろうか。
というか、こんな人だっただろうか。記憶にないのに、そう思えてならないのは何故だろうか。
「私は……ティリアになり切れていない?」
「そんな事は知らないし、どうでもいい」
どうでも……いい? いや、良くない。全然良くない。これは私が私であるための、唯一残された形なのだから。
「そもそも、私たちはあなたしか知らない。今のティリアティエルしか知らないのにそれが偽物か本物かなんて、どーーーーーでもいいんですよ!! 知ったことじゃない!! そんな事より、さっさと目ぇ覚まして手伝いなさい! 馬鹿娘っ!!」
「え、ちょ……」
突然、近付いて来たと思ったら胸ぐらを掴まれた。反射的にそれを振り払うと、その場に転んでしまった。
顔を上げれば、周囲が良く見える。それは私の故郷。顔なき者たちはその住人。彼らは私たちのやり取りに一切気付かず、ただ繰り返す日常を過ごしている。視界にある、生きている者と呼べるのは私を含めても目の前の彼女だけだ。
そんな異物が何故ここにいるのか。ここにいて、私を見下ろしているのか。
「立ちなさい、ティリアティエル。私たちはまだ大海を見てさえいない」
未だにこの人が誰かは分からない。しかし、上から見据え、手は差し伸ばさず、私が自力で立つように促すその姿は……。
「……お母さん?」
「誰があなたの母親ですか!」
蹴られた。……ああ、でもこの感覚は。
「……摩耶さんはいつも厳しい」
「年下に説教されてる時点で厳しくせざるを得ない立場だと自覚しなさい。というか、蹴られて思い出すんですか……。あなたの中で私はどういう存在になってるのか、小一時間ほど問い質したいところですね」
この人は摩耶さんだ。年下なのにしっかりしてて、いつも迷惑ばかりかけてしまっている……ティリアティエルが本物であるか偽物であるかなど関係ない、私のパーティメンバーだ。何故か妙に鼻息が荒いのでさえ、彼女らしいと感じてしまう。
「まったく、どんな悍ましい精神世界が広がっているかと思えば、こんなしょうもない事でグジグジと」
「……しょうもなくなんかないです」
これは私の根幹部分だ。それだけは誰にも……私自身にすら否定できないはずだ。
「こっちは数万のオークに陵辱されて苗床になってるあなたを救出する意気込みで来てたんですよ!」
「ご、ごめんなさい?」
何故、そんな事で責められるんだろうか。そうでなかったのなら、そのほうがいいんじゃないだろうか。
「迷宮都市に帰ったらガルドさんとしっかり話し合いなさい。一人で帰郷するのが厳しいというなら同行してあげたっていいです。つまり、あなたの悩みでやらなければいけない事なんてその程度の事でしかない。私たちにとって、ティリアティエルはあなた以外の何者でもないんですから。今更本物とやらに出てこられても困惑するだけです」
そう言って、摩耶さんはもう一人のティリアに視線を向ける。
でも、それだって私なのだ。私たちはもうどちらかだけでは立っていられない。存在できない。そうやって混ざり合って、ようやく人の形を保てているのだから。
……そうだ、だからこうやって立ち上がれる。
「……とはいえ、簡単には帰してもらえそうにないですけどね」
ノロノロと私が立ち上がった瞬間、世界が一変した。
場所が変わったわけではない。それは、あの日の光景……たった一晩であの地域一帯を地獄へと変貌させた狂気の光景だ。
曖昧な、現実とも悪夢とも認識し難い、顔だけの世界。その中心で、三つの顔が重なったような不気味で巨大な顔が口を開けてすべてを呑み込まんとしている。
「……先生」
開かれた口の向こう側から現れたのは仮面の男。顔だけで構成され、元々の姿も顔も失われた男が唯一特徴としていた仮面だけが過去を連想させる者。涅槃寂静を名乗る、特異個体だ。
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愛用の戟を振るう。ひたすら振るい、敵を粉砕し続ける。
誰にも止める事はできない。誰にも止めさせない。それが、< ■■ >たる呼び名の根源であり、在るべき姿であるからだ。
かつて憧れた先達は理想に心折られて挫折した。踏み止まっているつもりでも周りから見れば一目瞭然であり、本人も気付かぬフリをしているだけの軟弱な姿だ。今では名も思い出せない英雄の姿は、ひどく小さく映った。そんな背を追い続けるつもりはないと、早々に追い抜いてみせた。あとを追う者に見せるにはふさわしくないと。
どうせ背を追うならば大きいほうがいい。ならば、自分の背を追って来る者にはこれが大きな背であると主張し続けるのが先達の役目なのだ。
同じものを感じた二つの流星と共に戦い、抗い、走り抜け、打ち壊し、巨大な挫折して、途方もない壁に打ち拉がれても諦めず、ただ前を見て走り続ける。そうやって、己のいる場所こそが最前線で在ろうと戦い続けてきた。疲れて、歩くような速度だとしても、決して立ち止まる事だけはしないと。
団長であるローランが打ち拉がれた時も、副団長が支えきれずに悪戦苦闘していた時も、自分はただ前だけを見ていた。それはクランを代表する二人が乗り越えるべき問題であり、突撃隊長である自分がやるべき事は何も変わる事はないと考えていたからだ。
どれだけ挫折しようが諦めるはずがないと信じているからこそできた事ではあるが、事実その判断は正しかったといえる。
奮い立ち上がった理由になれなかったのは少々情けない話ではあるが、それはむしろ背を押した者を褒めるべきだろう。
迷宮都市の未来は明るいと感じている。眼前に見える未来は栄光に包まれている。
ならばそれを爆走し続けるのが自分の役目であり、先達の役目だ。どうしたトカゲ、そんなところに蹲ったままなら置いていくぞと。……トカゲ? まあいい、とにかく誰にも邪魔などさせない。
遥か先で戦い続けるダンジョンマスターに追いつくのは自分たちの役目だ。なんなら追い越してしまってもいい。
追いつき追い越し、共に戦うのは俺の役目であり、俺の背を見て追いかけてきた者たちなのだから、その未来を阻む者には容赦しない。無量の貌だかカオナシだか知らんが、止められるものか!
「ふわはははははっ!! どうした、疲れるのを待っているのか? 何百時間、何千時間、いや、何年だろうが戦い続けてやるぞ!!」
愛用の戟を振るう。ひたすら振るい、敵を粉砕し続ける。
在り方はシンプルかつ頑丈がいい。分かりやすく、間違えない単純さは力だ。走り続けた分だけ太く、大きく、頑丈になる。ただひたすらに前に向かう事しかできないのだから、些細な事で心折れたりはしない。
背に守る者があるというのはいい。ただあとがないよりもよほど重く伸しかかってくる。重圧は、重責は力になるのだ。
金虎は強く在らねばならない。野生に生きる虎ではなく虎の獣人とも違う、獣神の加護を持ち、炎のように猛々しく生きる金の虎なのだから。
この身を包む歓声は、護るべきもの、背を追うものから捧げられる栄光。……歓声?
そうだ。観客は勝利を願っている。クランとしてもそうだが、いい加減< ■■■・■■■■ >の■■を下して個人戦最強の座を手に入れねばならない。しかし、これは個人戦ではなかったのか。何故、こんなにも敵が多いのだ。
おお、そこにいるのは我が宿敵の■■ではないか。毎年毎年叩きのめしてやっているのに、まだ諦めるつもりはないというのだな。素晴らしい。いくらでも相手になってやろう。
ところで、お前の名前はなんだったか。
ふむ、まあいい。貴様とその次を倒して、我が< ■■■■■ >に最強のトロフィーを掲げるのは変わらん。■■■■や■■■■■■にも自慢ができるというものよ。
そういえば、ここはどこだ? シェルター? 闘技場? クラン戦がやっているのは年末だったはずだが、今は何月だ。年末か?
ああ、世界が違うのだったか。ここは■の住まう世界だったな。■がなんなんのか分からんが、我が強さを見せつける相手は多いほうがいい。何やら顔がたくさんいるが、思う存分味わっていくといい。いや、貴様らは敵だったな。見せつけるのは変わらんがな、ふははははははっ!!!!
いくらでも来い。金虎は決して倒れぬ。虎というのがなんなのか分からんが、そんな事は知った事か。
オレに限界などない。記憶を失おうが、存在を失おうが、名前を失おうが、顔を失おうが、すべてを奪わぬ限り抗い続けるぞ。
貴様らが敵という事だけは決して忘れぬ。オレを倒すつもりなら、すべてを粉砕する覚悟で来る事だ。
どうした、オレはまだ立っているぞ!!
「……見ちゃいられねえな、おい」
「むうっ!?」
良く分からないモノを相手に戦い続け、得物の戟も砕け、その身のみで抗い続ける事……何時間か、何日かは分からんが、とうとう変化が訪れた。良く分からないモノをかき分けるようにして現れたのは、ズタボロの毛むくじゃらだ。なんだ、フロアボスか。それにしてはずいぶんと貧相だ。
「良く分からんが、貴様も敵だな」
「…………かもな」
なんだ、やる気のない。敵ならば、敵らしく挑んでくれば良いものを。奇襲だろうが、オレは気にせんぞ。
そんな小細工、真正面から叩き潰すのがオレのやり方なのだ。
「顔や名前どころか自分が何者かも忘れ、護るべきものがなにであるかも忘れ、戦う相手すら覚えていない。そんな状況で尚抗うのは立派だな。さすが< 猛虎 >ってところか」
「もうこ……?」
意味は分からんが、立派な響きだ。気に入った。自分の名前を思い出すまではモウコと名乗る事にしよう。
「相変わらずの一直線ぶり、驚異的な精神力、絶対マネできねーな」
「ふははははっ!! すごろう。真似してもらっても構わんぞ。我があとに続くがいい」
「……訂正するわ。マネしたくねえ。そもそも、金虎と銀狼は仲悪ぃんだよ。そんな根幹部分がなくたって、この場に至って痛感した、てめえとは仲良くできねえってな」
思い出せないが、何度も言われたような言葉だな。まあ、世界は広いのだから相容れぬモノがいるのも当然の事。
その背を追ってあとに続く者がすべてなはずはない。オレはオレの道を行くだけよ。
「絶対に自分を曲げない。それは結構。ならば、てめえはなんのために戦ってる?」
「なんだ、問答か? 決まってるだろう。眼前にいる敵を粉砕するためだ」
「なんのために敵を粉砕する」
「決まっている。この背にいるモノたちを護るためだ」
「後ろ振り返ってみろ。……何もいねえだろ」
「何をいうか……こんなにもいるではないか!」
振り返れば、そこには無数のカオナシが微動だにせず立っている。これは護るべきものだと魂が訴えている。
それがなんだったのかはもう思い出せないが、オレが戦う理由などそれで十分だろう。
「これはオレが護るべきものだ」
「違うな。護るべき!だった!モノだ。ついでに言うなら、それはお前の妄想が創り出した幻影に過ぎない」
「違うっ!!」
幻影だと。これほどまでに力をくれる観客が幻であってたまるものか。ましてや、妄想だなどと。
「違わねえよ、バカ虎。……違わねぇんだよ。お前は……俺たちは負けたんだ。完膚なきまでに敗北して、すべてを奪われた。その上で、その負債を一人のバカに押し付けて、少しでも取り返そうと足掻いている。そんな中、てめえは何やってやがる」
「負けてなどおらんっ!!」
「負けたんだよっ! お前も、ヴェルナーも、戦力外だっつって俺をここから追い出したあとにすべてを奪われたんだ。そこを認めねえと前に進めねえ。つまり、お前は進めねえ。情けねえな、おい」
なんだ。こいつは一体何を言っているのだ。理解できん。だが、否定しようにも、オレの中の何かが邪魔をする。
そして、こいつの目はそれが真実であると突き付けている。しかし、それは絶対に間違っているのだ。
間違ってなければならない!
「何が情けねえって、こんな状況で一人妄想に浸って何かを守れてる気になってるところだよな!」
「違う!!」
「ふざけんなよ、バカ虎。妄想に騙されてるんじゃねーぞ。てめえにはやるべき事があるだろうがよっ!!」
一瞬の間隙。動揺した隙があったのか。迎撃どころか反応すらできず、顔面に蹴りを受けた。
オレもまだまだ未熟という事か。しかし、そう何度も通用せんぞ。
「自分が動揺してる事にすら気付けねえ。何に動揺してるかも気付けねえ。周りが顔だらけだろうが知った事か。動かねえってんならバラバラにしてでも連れてくぞ」
「……おのれ、猥褻物が」
「てめえ! なんでそんな事ばっかり覚えてんだよっ!? マジでふざけんじゃねえぞっ!!」
何故だかは分からないが、口から溢れたのだ。お前が卑猥なものであると。意味はさっぱり分からんが。
「オレは引けん。護るものがある限り、ここを動くつもりはない。オレを動かしたいなら力ずくで動かしてみせるんだな」
「ああ、そうする。どのみち、てめえはぶん殴ってやらなきゃ気がすまねえしな。そのあとで、自分の情けない醜態っぷりを嘆くんだな。その時になって後悔するんじゃねーぞ。……いや、後悔しろ。後悔して泣き叫びやがれ。動画に取って晒してやるからよ」
眼の前のなんだったか……いやもう猥褻物でいいな。猥褻物が構えをとる。得物は両手両足につけた金属の爪だろう。
対してこちらは愛用の戟もなく無手。伝わってくる気配は強者ではあるが、自分よりも遥かに劣るもの。
油断するつもりはないが、どれだけ疲れていようが、武器がなかろうが、負けるような相手ではないと判断する。
「なめるなよ、クソ虎。今のてめえはまったく怖くねえ。負ける気がしねえとは良く言ったもんだな」
しかし、相手の目は自らの勝利を疑っていない。
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龍の姿であった頃、俺はいつも"空"を見上げていた。空といっても姉の空龍の事ではなく、俺たちの世界には存在しない"そら"の事だ。
嵐から身を護るための防御結界であり、視覚的には完全に遮断されたそれだが、その向こう側に世界が広がっているのは知っていた。その先に何もない事も知っている。あるのは代わり映えのしない荒野と、結界内にも点在している謎の黒い柱だけだと。
更に向こう側……宇宙を飛び越えて他の星まで行っても、そこにあるのはただ無残な悪意の爪痕……龍であるならば目にしたくもない残骸だけだと聞かされていた。
それでも、ここではないどこか遠くに行きたいと考えていた……のだと思う。ひょっとしたら何も考えていなかった時間のほうが長かったかもしれないが、そういう考えがあったのは確かだ。そして、どうせなら悪意の爪痕のない世界を飛び回ってみたかった。
叶わない事だと知りつつ夢を抱き、ただ想いを馳せるだけの日々が続く。
我ながら達観していたと思う。生まれてからずっと……人間であれば数世代、数十世代かかる年月を何もないままに過ごしてきた。
現実的な話をすれば、龍の生産は本来奇跡的な確率で誕生した空で完成形であり、終わっていたはずなのだ。俺と玄は蛇足で生み出されたものに過ぎない。それで冷遇されたわけでもないが、特別期待もされない。期待されたのはいつだって空だけ。
年の離れた兄貴たちとの力の差は明白で、俺がこのまま成長してもせいぜいが並という程度だろう。玄だって似たようなものだ。
だから、この身に役目を与えられる事は素直に嬉しかった。空の補助であり、予備ではあるものの、戦う以外にやるべき事があるというだけで心が踊った。
任命されただけでそれほどだったのに、実際に訪れた迷宮都市は言葉にできないほどに新鮮な体験で満ち溢れていた。
浮かれていると反省しつつも改めるつもりは一切ないほどに楽しかった。この数千年はなんだったのかと言わんばかりの出来事である。
だから一時的にとはいえ元の世界に戻るのは嫌だったし、ましてやそこで問題が発生して迷宮都市に害が及ぶとなれば最悪だ。
迷宮都市側が良く分からない爆弾を抱えているのは知っていたし、ツナが奔走していたのも知っている。しかし、俺にとって何よりの問題は、俺たちの世界で取り返しのつかない事件が起きたという事だろう。正直、巻き込んでしまったという感想しか湧かない。
とはいえ、正直状況はさっぱり分かっていなかった。分かっていたのは、ただひたすらにまずい状況である事。
ツナに連絡がつかない。空に連絡がつかない。迷宮都市側の人間はおろか、近くにいた龍でさえ突然の事態に右往左往している。なにより母ちゃんに連絡がつかないのが最悪だった。
非常事態であるにも拘らず空に連絡がとれない以上、立場上俺か玄のどちらかが代表としてクーゲルシュライバーに残る必要があると、避難を兼ねて客室に押し込められたが、こんなところにいるわけにはいかないのは明白だった。というか、謎の顔がどこから湧いてくるか分からないのだから、避難の意味がない。
こういう時に合理的な判断を優先する玄は、クーゲルシュライバーの冒険者と合流して顔の排除にあたる事を提案した。この状況に至って俺たち代表の何が必要かと言われれば、龍に対する窓口役を確保する意味以上のものはない。ならば、二人だけで孤立して奮闘するよりは合流すべきだというのは正しいだろうと、二人して偉そうな冒険者を探して回る。
幸い、冒険者との合流は簡単だった。再度押し込められる不安はあったが、ここまで顔を売り込んできた分話はスムーズだったし、なにより直接戦力はいくらでも必要だったからだ。混乱の中にあって上手く状況を判断してくれた、名前も思い出せない冒険者には感謝するしかない。
しかし、クーゲルシュライバーの中で戦い続けていても状況は悪くなる一方だった。
なにせ一緒に戦っている冒険者の人数が減っているのは明確なのに、それが誰だか分からない。下手をすれば減った事にすら気付いていない有様だ。防戦一方とはいえ致命的な戦術ミスをした覚えはまったくないのに、戦力が減り続けている事には恐怖しか覚えない。
ディー君との《 念話 》や先生の通信である程度状況は把握したものの、理解は追いつかない。説明する本人たちが理解していないのだから当然だ。
こういう時、理論を優先する玄は動けない。判断もできない。この場面で動くとしたら俺の方だ。というか、空がいない状況でこの場に残る必要があるのは、どう考えても次席である玄のほうだろう。
しかし、説得する時間も言い包める言葉もないし、何より面倒だった。
とりあえず、何も考えずに玄をぶん殴った。全力で。
錯乱したか、敵に操られたか、玄はそういう考えに至ったような顔をしていたが、空を迎えに行くと伝えてクーゲルシュライバーをあとにする。失敗したら事後処理は任せると。いや、もしもの場合の面倒事が嫌だったという気持ちは半分程度しかない。
良く見知った面々はすでにシェルターへ救出に向かっている。ただ一人、顔の津波へと身を投じた。何を考えるわけでもなく、ただ勘の赴くまま。それがこの場での最上だと確信していたから。
だから、その場に居合わせたのは本当に偶然なのだろう。
クーゲルシュライバーの格納庫である地下へと続く穴の近くで戦闘が発生していた。
戦っているのは目的である空とベレンヴァール。相手は仮面をつけた謎の蝙蝠羽。周りには大量の顔も蠢いている。
一目で分かる劣勢に慌てて駆けつけるが、蝙蝠羽は二人を追って穴へと消えていった。
「おい、大丈夫か?」
声をかけるが、意識を失っているのか空の反応はない。ベレンヴァールも蝙蝠羽による攻撃を受けたのか、立ち上がる事すらできない有様だった。状況確認もままならないまま、周囲の顔が群がってくる。
「三十秒でいい。時間を稼いでくれ」
「あいよ」
軽く引き受けるものの、楽観はしていない。というよりも絶望的状況にあった。
周囲の顔は壁と見間違うような津波と化し、その周りには顔の集合体のような個体。更にはどこから現れたのか、顔のない冒険者っぽい連中と龍の形をした何かが眼前に迫っている。
……三十秒は無理だな。生き残るだけならともかく、制約が多過ぎる。
仕方ないので、その場で最優先だろう空とベレンヴァールを穴の上層部へと押し込み、そこを死守する事にした。まあ、それだけなら俺が犠牲になればなんとかなるだろうと。
「やめろ銀龍っ!! これ以上、俺に背負えというのかっ!?」
俺の思惑をベレンヴァールは一瞬で看破してきた。そして逆に、俺もなんとなくだがベレンヴァールが"覚えている"事に気付いた。その悲壮な叫びは、ここまで散々背負わされてきたが故のものだろうと。
「おい、ベレンヴァール! 三十秒の対価だ。お前だけは絶対に死ぬんじゃねーぞ。ちゃんと覚えてろ!」
この身を挺して何かを成しても、存在自体忘れ去られるのはさすがに興醒めだ。冗談じゃない。
しかし、誰か一人でも覚えているのなら、きっとそこには意味がある。その相手を護るのなら、きっとそこには価値があるのだ。俺の無駄に長く空虚な生にも花が添えられるというものだろう。
大津波が迫る。無数のカオナシの群れが迫る。こんなもの、この身だけで防ぎ切れるものではない。
しかし、確信があった。何故だか知らないが、俺の封印は緩まっていると。その気になれば、ツナの時と同じように龍の姿に戻れる。必要なのはおそらく、封印が保たなくなるほどのダメージと……因果の虜囚の気配。お誂え向きに周りはその気配だらけ。俺も十分以上にボロボロだ。
解放する。人の身に抑え込んだ龍の巨躯を、内側から爆発させるように。
理屈ではない。理屈などいらない。ただそう在れと己に命じる。それだけでいい。
ベレンヴァールが三十秒と言ったのは、おそらく動けるようになるまでの時間だろう。楽観的に見れば、それに加えて空が目覚めるといった程度。つまり、時間を稼ごうがこの津波を押し止める術はない。加えて、あの蝙蝠羽だってただ見過ごしたわけではないはずだ。
向かった先に何があるのか、何がいるのかは分からない。十中八九ツナたちなんだろうが、どちらにせよベレンヴァールたちがアレに対処する余力は必要だ。
ならば、こいつらはまとめて吹き飛ばしてしまおう。
本来、この身は不定形の水銀。この大津波やカオナシをすべて飲み込み、溶かし尽くす。大丈夫、やってやれない事はない。
ベレンヴァールの叫びを聞き流しながら、最後の瞬間に思ったのは……何故かツナの姿だった。
「……あいつなら、こんな状況でもなんとかしてみせるのかね」
本当になんとかしてしまいそうだから困る。もしあいつがこの状況を引っ繰り返してしまうのなら、最高の花道じゃねーか。
到底有り得ない願望。根拠のない希望。胸中にあるのはただ申し訳無さと、情けなさ。
それでも、この最後に意味を持たせられて良かったと……そう思った。
それからどういう状況になったのかはさっぱり分からない。
龍としての本体を暴走させ、水銀の津波となって押し留めようとしたのは確かだが、それが成功したのかもベレンヴァールたちが助かったのかも確認できていない。
俺を簒奪しようとする顔を大量に取り込み、意思を持つ水銀として暴威を振るう。
そんな、ひたすらシンプルな行動パターンのみを残して銀龍という存在は消えた。残ったのはいろんなものがぐちゃぐちゃに混じり合って良く分からないものになった残骸だけだ。
しかし、どんな状況になっても取り込まれてはやるものかと、水銀の意思を以て抵抗する。お前ら簒奪者にくれてやる名前も顔もないと。だから、こうして何も見えない闇の中でじっと終わりを待ち続けている。
気の遠くなるような時間をただじっと。
「……なるほど、なるほど。銀は私を差し置いてこんな活躍をしていたと」
声が聞こえる。……それは、あの場で護り通したはずの姉の声だ。
いつも自分が前に出る事ばかり考えていて、肝心なところで些細なミスをして格好悪いところをみせる姉の声だ。
「ていっ!」
「痛っ!! ……なんだこれ。なんで叩かれてんだ俺」
唐突に殴られた。
そもそも、ここどこだよ。なんで空がいるんだ? 周りなんにもねーんだけど。また、人型に戻ってるし。
「これは心配ばかりかけて、姉より目立ってしまった弟への愛の鞭というやつです」
「なんだそりゃ」
いつもの事だが、この姉は自分の中での感情だけで完結する節がある。いやまあ、無茶したのは間違いないから心配させたというのは否定しないが。……なんで覚えているのかは分からんが、そもそもこの状況が意味不明だし。
「なんて不甲斐ない。なんて情けない。こんなにも強い意思に護られて、何もできずにただただ助けられ続けて……」
「……泣いてんのか?」
「あなたも玄も、これほど身を挺しているというのに、私もお兄様たちもお母様もなんて情けない事でしょうか」
ああ、確かに情けねえな。せっかく交流して、同盟組んで、いざこれからって時に本拠地でこの事件だ。俺が体張ったところで、ちっとも取り返せた気がしねえ。なにが龍だって話だ。どこら辺が超越種なんだよ。まったく。
「こんなどうしようもない中で、渡辺様だけにあんなにも辛い負担を押し付けて……これでどうにかなったところで、どうやって借りを返せばいいのか……」
「え、あいつマジでなんとかしたのか?」
意味分かんねえ。そりゃ、なんとかできるならあいつくらいしかいないって思ったのは確かだけどさ。
やっぱり、母ちゃんが同胞って認めるだけの事はあるのか? 良く分かんねえけど、すげえな兄ちゃん。
「というか状況分かんねえんだけど、空は俺を助けに来てくれたっていう認識でOK?」
「おーけーです。……とはいえ、まだ余裕がある状況ではありませんが」
余裕がないってところまで巻き返してる時点で信じられないんだけどな。本当、どういう事だよ。
正直、説明されても理解できる気がまったくしねえ。
「なら、まだやれる事もあるだろ。どうやってここを抜けりゃいいんだ?」
「……どうしましょうか」
「おい、姉ちゃん」
相変わらずウチの姉ちゃんはどこか抜けていた。それなら、どうやってここまで来たんだよ。
「銀の場合本当に広域に渡ってバラバラになっていたので、こうやって本体らしい精神世界に当たったのすら奇跡的というか……」
「ダンジョンの中ってわけでもなさそうだけど、精神世界?」
やっぱり、現状がさっぱり分からねーんだけど。
「でも、まったくの手がかりなしってわけでもないです。……聞こえませんか?」
「……何が」
こんなところで何が聞こえるのかと耳を澄ませてみれば、遥か遠くから雄叫びのような声が微かに響いているのが分かった。
……これは龍の咆哮だ。
「お兄様たちの誰かは分かりませんが、ここまで散々やらかした失態を少しでも取り返そうとしているのでしょう」
「辛辣だな、ねーちゃん」
しかし、この咆哮は確かにそういう意味合いのものなのだろう。
このままでいいのか。こんな情けない結末が俺たちの最後でいいのか。あまりに不甲斐ない。
無様な自分を認めて、だからこそ逆襲してやると……そういう意思が込められているものだ。
「だがまあ、同感だ。このままじゃ情けないなんてもんじゃねえ」
「お母様の……皇龍の牙であり、爪であるならば、黙っていられるはずもない。旗頭になってくれるというのなら、乗りにいけばいい。これは、そういう慟哭です」
つまり、この声の聞こえる方向が向かうべき場所なのだろう。
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『行くぞ、作戦は続行だ』
通信越しに伝わってくるグレンさんの声には、決して引かないという意思が込められている。
おそらくそれが伝わったのは俺だけではない。今尚戦い続ける冒険者たちのステータスを見れば、数値として現れるほどに影響が生まれているのが分かった。
若干ではあっても精神系の異常が緩和され、リタイヤ寸前だったはずの者まで動きが見える。全体として見れば誤差のようなものでしかないとはいえ、ただ声をかけただけで状況を動かしたのだ。……本当に冗談のような話である。
「はっはっはっ!!」
突然、ラディーネが笑い出した。あまりに突然だったので困惑するが、よほど予想外なものを見たという事だ。
「いやはや、なんの冗談だ。豪龍殿の雄叫びに反応したのか、これまで所在不明だった生体反応が大量に現れた。中には自力で動き出しているものもいるぞ」
そう言って共有してきた立体マップを見れば、これまで存在していなかった反応がある。
リストを見れば、すべてではないものの名付けられた龍たちの名前まで浮かんでいる。その数は、これまで脱落した冒険者よりも多い。
……文字通り、戦況が引っ繰り返った。
『どうだ? これはさすがに想定外だが、続行の価値はあるだろう?』
グレンさんが勝ち誇った顔をしているのが良く分かる通信だった。きっと、将棋で勝った時と比較しても極上のドヤ顔をしているに違いない。
「……分かりました。ですが、無制限に延長というわけにも……」
『それなんだが、おそらく……』
何かを言おうとしたところで、グレンさんの言葉が途切れた。時間差による通信障害かと思ったが、そうではない。
「ダンジョン全体に原因不明の振動を検知。同時に、涅槃寂静のものと思われる反応が活性化しています」
「無量の貌に気付かれたか」
セカンドからの報告。原因は豪龍の咆哮か、長時間のアタックか……相手が対応し始めたというのなら、尚更長期の作戦延長は……。
「いえ、これは……何?」
しかし、それにしてはセカンドの反応は鈍い。それはもっと別の……完全に想定外の状況に困惑しているようにも感じる。
「一体、何があった」
「……不明です。ダンジョン……いえ、無量の貌が書き換えられていく……」
なんだそりゃ。
しかし、常時監視している立体マップには影響は見られないものの、更に外側……俺がダンジョン化したギリギリの範囲を見れば、情報を取得できないのか無数のエラーを吐き出しているのが見えた。
あまりに意味不明過ぎて、状況が把握できない。こんなもの、段取り以前の問題だ。普通なら即撤退を決断すべき場面だろう。
……しかし。グレンさんと豪龍が引っ繰り返した状況に垣間見えた希望が判断を鈍らせる。
『状況は分からんが好都合だ。今のではっきりしたが、無量の貌が活動していたほうが、こちらとしてはやりやすい』
「……好都合?」
『渡辺君、スケジュールを前倒しだ。君はイバラとやらのところに向かいたまえ』
「は?」
何言ってるんだ?
イバラの元に向かうって事は、俺が生き返るって事で、それはつまり時間を動かす必要があるって事だ。一度動き出した時間を止めるのは容易じゃない。だからこそ、俺が復活してからの移動時間を問題視していたわけで……。
確かに対無量の貌と並行して動かせる作戦ではあるが、それをする理由が……いや、この口調だとあるのか。
『無量の貌の活動が活性化するのに合わせて、私が広域探査で救出対象の座標を特定し、短期決戦をかける。君がイバラの元に辿り着き、因果改変を行うその時が作戦のタイムリミットだ』
提案されたのは、当初の段取りから考えれば無茶苦茶なものだった。
それは、動き出した無量の貌の内側から、食われた者たちを救出した上で食い破ると言っているのに等しい。
「……正気ですか?」
『君に言われたくはないが、どの道あまり悠長な事はしていられない。ならば、博打を打つ。……得意だろ?』
「…………」
あきらかに突発的状況と現場の意見に振り回され過ぎだ。これを承認して、余計な犠牲が出ては目も当てられない。
しかし、まるっきり勝算がないってわけでもない。
第一に、因果改変に必要な結果は現時点でも十分に確保している。このまま俺が那由他さんを救出するだけでもリソースは十分に足りる。
生身のない状態で作戦に加わる事、無量の貌が活性化する事で簒奪の危険が激増する事が強烈なデメリットではある。そして、原因不明な改変現象の影響はまるで判断がつかない。予定はメチャクチャだが、グレンさんはそんなメチャクチャな状況にこそ活路を見出している。リスクはあるが見返りもあって、最低限の保険はかけられる。
「……分かりました。その博打乗った。ただし、危険を感じたら必ず即撤退を」
『もちろんだ。むざむざ何度も簒奪されるつもりはない』
これはつまり、作戦が俺の手から完全に離れる事を意味する。しかし、乗ると決めたのならフォローはするべきだ。
「ラディーネ、ボーグ、何が起こるか分からない以上、状況は注視し続けろ。場合によっては、お前の判断で強制帰還させてくれ。絶対に無茶は止めろよ」
「了解。任せ給え」
「ネームレス、強制帰還の場合は頼む」
「任されたよ」
すげえ不安だが、ダンジョンの管理をしているのがこいつな以上任せるしかない。
「セカンド、行くぞ」
「はい」
段取りは狂ってしまったが、見方によってはただ前倒ししただけともいえる。俺がやる事が変わったわけではない。
元々護衛として付いて来てもらう予定だったセカンドを残す意味も薄いだろう。なら、このまま次の段階へ以降する。
「ゲルギアル」
そして、もう一人の同行者に声をかける。
「想像以上に面白い事になっているな。私としては楽しいが」
そりゃ、お前の立場からしてみればそうだろうよ。
「まあ、私がやる事は変わらんからな。できれば、より良い形でお前たちが勝利する事を願っているよ」
「……どっちでもいいんじゃないのか?」
「究極的にはそうかもしれんが、何度も言ったように心情的にはお前たちの味方だぞ。イバラは同盟相手として相応しいかどうかは未知数な上、無量の貌は是非滅ぼしたい敵だ。なら、お前が勝ち上がるのがベストだろう」
言ってる事は筋が通っているんだが、どうしても胡散臭さが抜けないんだよな。
……ネームレスといい、もう少しどうにかならないものか。
「ああ、渡辺君。ちょっと待ってくれ」
セカンドとゲルギアルを連れてブリーフィングルームから退出する直前、ラディーネから声をかけられた。
「なんだ?」
「大した事じゃないんだが、そろそろ設立するクランの名前を考えておきたまえ」
なんで今そんな話をするのかとも思ったが、おそらくいつものラディーネ流の激励なのだろうと思い至る。オトコノコなら~ってヤツの別パターンだろう。
「……ああ、実はもう候補はあるんだ」
「そうか。なら、戻ってきたらみんなの前で発表だな。……間違っても、世界だけ救って君だけが戻らないなんて結末はないようにしたまえよ」
「分かっているよ」
世界程度救って当然という口ぶりは、やはり平行世界のラディーネと同一人物だという事なのだろう。
当然、そんな結末は冗談じゃない。俺はまだ、贖罪の機会すら得ていないのだから。
-5-
「さて、一応事前にもう一度説明しておくが、私が斬るのはあくまで距離という概念だけだ。そもそも目的地を知らんのだから当然だが、どこに向かうかはお前の意思一つで決まる。まあ、因果改変をするよりは遥かに容易いだろうがな」
「ああ、問題ない」
渡辺綱の惨殺死体が横たわる玄室で、ゲルギアルから最後の確認を受ける。
本来なら対無量の貌の作戦終了を確認した上で、セカンドを護衛として連れてイバラの元へ向かうというのが段取りだったのだが、予定はあくまで予定という事だ。物事が予定通りに進む事など、俺の人生の中でそうそうない。
「移動時間を含め、結局のところお前次第というわけだが、私の経験からいえば移動にかかる時間は数分というところだろう。如何にイバラの目覚めるトリガーがお前の死とはいえ、それで間に合わないという事はないはずだ」
どれくらい遅れたらアウトなのかも分からないが、できる限り早く辿り着けばいい。
可能かどうかは分からないが、事前に那由他さんへの説明ができれば上出来だろう。奇襲さえ許さなければ、そうそう殺せるような相手ではないのだから。話を聞かない人って可能性もあるが、近くにはダンマスもいるはずだし。
……もちろん、それは上手くいけばの話であって、イバラとの直接対決を避けられるとは思えない。
何か問題が起きた場合は臨機応変に対応する必要がある。そのためにわざわざ護衛としてセカンドを連れて行くのだ。もっとも、一番警戒しているのは、この玄室でゲルギアルが何かやらかさないかだが。
「その時点で私の役目は終了。あとは高みの見物をさせてもらおう」
ずっと高みの見物をしていたじゃねーかとは口に出さない。
「まあ、助かったよ。感謝はしてる」
「それはすべてが終わってからにするべきだろうな。これを借りと考えるなら、是非返してもらいたいものだ」
色々思惑があるにせよ、ゲルギアルは口に出した事は守ってみせた。今だって綱渡りだが、この関係がなければ更に厳しいものになっていたのは想像に難くない。
「さて、じゃあ始めるとしようか」
ここからが俺の正念場だ。
俺は無残に転がる自分の死体に触れ、意識を集中させる。
――Action Skill《 土蜘蛛 》――
やっている事は大層なものだが、発動は一瞬だ。
ここまでで最大の出力を使っての因果改変。渡辺綱の死を否定せず、そのままの形で復活させる。
同時に体の復元、特に喪失した左腕を修復。ベストとはいわないまでも、問題なく戦闘が行える状態にまで回復させた。
《 回復魔術 》など比較にならない速度で元の渡辺綱が蘇っていく。あとは中身である俺が戻るだけだ。
「……体が重いな」
吸い込まれるように元の体へと帰還する。
立ち上がってみるが、長く離れていたせいか若干の違和感を感じる。復元させた左手を動かす限りでは問題ないから、すぐに慣れるだろうが。
「ではいくぞ」
――Action Skill《 我が剣はすべてを切り裂く刃である 》――
相変わらず視認すらできない速度の剣閃が振るわれた。
直後、空間が裂け、世界間回廊のような道が出現する。……この道の先に、イバラがいる。
「ゲルギアル……」
最後に何か言うべきかと思ったが、言葉が出てこなかった。
「いずれ、また会おう。どんな形でかは分からんがな」
「……ああ、また。セカンド、行こう」
「はい」
そうして、それだけのやり取りだけを交わして足を踏み出した。
駆ける。
ゲルギアルが切り開いた距離なき道を疾走する。
その道は世界間回廊のような不安定さはなく、問題なく走れるほどに安定した空間だった。こんな楽に距離を潰せるなら、そりゃ移動も楽だろうと思いつつ、走り続ける。
向かう先は決まっている。< 地殻穿道 >に行った事はないが、目印はいくらでもある。
それはダンマスの気配でもいいし、那由他さんの気配でもいい。巨大な魔力という条件なら簡単に察知できる。そして何より俺の対存在であるイバラの気配は間違えようもない目印になる。だから、距離さえなくなってしまえば辿り着く事は容易い。
すでに出口は見えている。先にある分かり易い光の向こうには、かつてない死闘が待ち構えているのだろう。
対無量の貌の結果が確認できないという不安はあるが、ここから先は意識を切り替えるべきだ。
こんな空間で目測などアテにはならないだろうが、あと数メートルで出口……。
「……なんだ?」
奇妙な違和感。いくら走っても出口に近付かない。いや、それどころか……遠ざかって……。
「渡辺綱っ!!」
異変を感じとったセカンドが声を上げ、俺の腕を掴む。その体にはパワードスーツのような機械が展開され、ロケットのような超加速で疾走を始めた。体がバラバラになりそうな急加速だが、そんな事に構ってはいられない。
一体何があった。
まず最初に脳裏を過ったのはゲルギアルの裏切り。
ここまでお膳立てをして、最後の最後でハシゴを外すというのは意地の悪い者なら考えつきそうだが、どうしてもその考えが正しいとは思えなかった。どう考えてもイメージに合わない。それをするなら、出会った最初から演技をしていたという前提が必要なほどに、この場面での裏切りに結び付かなかった。
ならば、まったく別の何かだというのか。イバラは……ない。無量の貌だって干渉の余地はないだろう。剥製職人? それも目的からすればないと断言できる。
セカンドがどれだけの加速を続けても出口への距離は遠ざかるばかり、それどころか振り返れば入り口さえも遥か彼方まで遠ざかっていく。現在進行系で通路が伸長している。
この距離はそのまま作戦成功への距離だ。それがどんどんと遠ざかっていく。
「セカンドっ!! なんでもいい、このままじゃ閉じ込められかねない!」
直接的にこの状況を打開する術はない。《 土蜘蛛 》を使う? だが、どういう改変をすればいい。
何か、何かないのか。
「しっかり掴まっていて下さい。宇宙用の追加ブースターを……っ!!」
会話の最中、突然セカンドの姿が消え、宙に投げ出された。
あまりに唐突な展開に、受け身をとる間もなく地面へと墜落する。なんだ、何が起きている。
顔を上げても、周りには誰もいない。
「セカン……」
次の瞬間、何かに足を掴まれた。そして、反応する間もなく地面の更に下へと引きずり込まれる。
抵抗できない。地面に手をかけても感触がない。まるで、ここが水面であるかのように底へと引き摺り込まれていく。
視界が闇に染まった。
-6-
次の瞬間、切り替わった視界は極彩色の遊園地のような場所。目がおかしくなったのかと思えば、少なくとも自分の体は正常に見えた。
意味が分からない。意味不明で唐突過ぎて思考が麻痺しかけている。
しかし、そんな事を言っている状況ではない。ここで時間をとられるのは致命的過ぎる。時間はすでに動き出しているのだ。遅れれば遅れるだけイバラの復活が近づく。
「ハァーイ、ハジメマシテ、渡辺綱。それとも久しぶりカナ?」
背後から聞き覚えのある声がした。しかし、俺の記憶にあるその声の主はそんな喋り方をしない。
自然と、背に氷のような冷たい汗が伝うのを感じた。一瞬にして体温を奪うそれは恐怖。
この時点で、俺は声の主に気付いていた。あまりに想定外の存在に。
ゲルギアルではない。無量の貌でもない。剥製職人でも、イバラでもない。
おそらく、こいつはこのタイミングを狙っていた。ここしか有り得ないというほどにピンポイントで、すべてが破綻するこのタイミングを。
「キミのために遊技場を用意したンダ。是非遊んでいっておクレよ」
「お前……」
あまりに予想外の邪魔者。あまりに理不尽な展開。ダンマスの言葉を信じるならば、決して表に現れる事のない存在。
「アレアレ? オカシイなー。ボクの予想ではあのユキって子もここに来るとおモッタんだけどナー。ま、良くある事だヨネ。だヨネ」
あまりにも致命的なタイミングで出現した、最悪の敵。
「セエッかく、こうして表に出るコトができたんだ。邪魔はさせないヨ。むしろ、ボクが邪魔するネ。イヒッ! イヒヒヒヒヒヒヒヒッッッ!!」
振り返れば、クーゲルシュライバー出港前に目にした不気味なピエロが物言わぬセカンドを抱えて立っていた。
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