第14話「贖罪のカタチ」




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 一般的に、模擬戦という言葉は実戦を模して行われる訓練を指す。大体、一対一か人数を合わせての対人戦に用いられる事が多い言葉だ。

 冒険者にとっての実戦とはダンジョン・アタックの事だから、冒険者同士の戦闘訓練は模擬戦とは言いづらいのだが、ダンジョン・アタックを模した訓練などそうそう行えるものではなく、自然とガチの戦闘訓練の事を意味するような言葉になっている。

 別にウチだけの話ではなく、業界全体でそう呼ばれている。調べた事はないが、おそらく迷宮都市外でも似たようなものだろう。

 この"ガチ"の定義は様々だが、何度も死ぬのが当たり前、極限状態の中でパフォーマンスを落とさない、五体が引き裂かれても尚戦う戦闘マシーン的な冒険者であれば自ずとその意味も分かるというものだろう。……いや、冒険者のみんながみんなそんな感じでない事は分かっているが一応。

 更に言えば、ウチは極めて実戦的でハードな環境である。代表が俺であるという基盤がそうさせているのは否めないが、クラン員も大体がどこかイカれたあんちくしょうなので、他のクランから見ればドン引きな模擬戦を行っていると業界の一部では有名な話だ。……専属マネージャーのククルさんが広めた結果なので、その評価も大体合っている。


 その中で最もガチな形式を好むのは、特に意外でもないがガウルさんである。別に変な隠語のつもりはなく、単純にハードなのだ。

 内容に特別なものがあるわけではない。その都度事前に決めた内容に従って模擬戦を行い、逸脱しない。しかし、終わらない。予め決めておかなければ何戦でも続けようとする。延々と精神力の限界が訪れるまで続けるのは模擬戦だけでなく、通常の訓練でも同じだ。


 一方で、一見最もハードな模擬戦を好みそうなサージェスは、実はそれほどでもない。内容がハードでも無難にこなしてしまうというのもあるが、飽きたら変な事を始めてしまうので適当に切り上げてしまうのが通例だ。ほら、パンツが爆発したりとか色々。

 いつか行った地獄の無限訓練でも、他の連中が気が狂ったようなハードメニューをこなしている中で、一人飄々とそれなりのメニューをこなしていた姿が印象に残っている。奴にしてみれば、ハードメニューはハード足り得ないという可能性もあるだろう。

 また、見た目だけならゴブサーティワンもハードだ。真っ二つになる事すら珍しくない彼にとってみれば、肉体の破損は模擬戦の内に含まれるという事なのだろう。


 要領がいいのはユキだ。その時その時で課題にしている事を模擬戦に取り入れ、戦闘の中で咀嚼・昇華していく。なんらかの回答が自分の中で出れば終わり。そうでなくとも、ある程度納得すれば終了する。摩耶も似た傾向はあるが、ユキは更に割り切って模擬戦に臨んでいる感が強い。ここら辺、才能というものを感じざるを得ない。

 ミカエルも似たような部類であるが、些か不真面目な面が目立つのが問題だ。だから燃やされるのである。


 全体として見れば、別に変わった事を行っているわけではない。ハードといっても、一般的な冒険者のそれの延長線上にあるものであって、特殊な、あるいは極端に逸脱したものではないという事だ。各種アイテムの実験の延長の意味合いが強いラディーネや、新装備・新部位のお披露目の意味合いが強いボーグとキメラなどもいるが、そういった特殊な例を除けば、方向性としては極めて真っ当なものなのである。


 冒険者歴はともかく、クラン内では新人と呼んで差し支えないベレンヴァールにしてもそれは同様で、むしろスタンダードな内容を重視するタイプといえる。どちらかといえば技巧的な面よりも基礎的な部分を重視する傾向があり、アクションスキルに頼らない素の状態での模擬戦を好む。着実かつ長期的視野で見た訓練スタイルは、長命種故の考えに基づくものなのかもしれない。


 現在、俺とベレンヴァールが行っているのもそんな基本的な模擬戦。アクションスキルは使わず、特殊な装備やアイテムも使わない。武器戦闘の技巧を重視し、無理やり相手のHPを削りにいったりもしない。ただひたすら武器で打ち合うだけの模擬戦である。

 訓練場には他者の影はなく、観戦者も訓練場の隅に備え付けられた椅子に腰掛けるユキのみ。武器の鳴らす音だけが響く空間だ。


 ベレンヴァールの大剣が振るわれるのに合わせて、避ける、払う、止める、弾く、打ち落とす。あるいはあえて喰らう。

 隙が生まれればそこへ切り込み、相手の反応に合わせて次の行動を選択。自身の姿勢に注意を払い、常に柔軟な行動を選択できるように維持し続ける。相手のどこに無理が生じているのか観察し続け、それを突く。または意図的に崩すように行動する。

 意図的にズラした最適解ではないタイミングや軌道、大量のフェイントを含め、無数に繰り出される剣戟の中、次の一手、更に次の一手を模索しながら戦闘を組み立てていく。

 当然、条件が同じなら相手も同じ事を考える。結果、予想した一手が最善手足り得なくなるのは自然な事で、その度に微調整を繰り返し、時には根本から戦術を再構築する。そうやってお互いの戦闘術を磨き上げ、常に最適化していく。

 高速かつ膨大な戦闘判断は冒険者の誰もが行っている事だ。ユキやガウルのような勘に拠った者でもそれは程度の差でしかない。

 俺たちの中で、そういった技術に最も長けているのは眼の前のベレンヴァールだろう。数十年に及ぶ冒険者としての生活は、そういった基礎を練り上げる環境でもあったというわけだ。

 模擬戦である以上、積極的に決めには来ないが、やろうと思えば決定打を打つチャンスはいくらでもあったはずだ。部外者から見れば、俺とベレンヴァールの打ち合う様は殺陣のようなものに見えるかもしれない。寸止めはせずに当たってはいるが。

 訓練を始めて一時間近くになるが、ベレンヴァールは何も言わない。ただ黙々と、淡々と、いつもの模擬戦を繰り返している。いつ話を切り出されてもいいよう身構えてはいるが、一向にその気配がなかった。


「……特に飛び抜けて戦闘技術が向上したというわけではないんだな」


 そんな打ち合いを続けて三十分ほど経過した頃、ベレンヴァールの手が止まった。動作の一部やフェイントというわけでなく、模擬戦そのものを中断するような動きだ。合わせて、俺も動きを止める。


「ん? ああ、そうだな。俺の素の戦闘力はそのままだ」


 俺の技量は、ゲルギアルに斬られた時から特に変化していない。

 あの撤退戦の中である程度成長してはいるだろうが、それは実戦経験を経て普通に成長したに過ぎない。あの地獄を体験したのはベレンヴァールも同様なので、相対的な違いは個人差程度のものだ。本体でない事で差が生まれているかもしれないが、それだって誤差程度だと思う。

 いくつかスキルが増えたり減ったり変質していたりするが、それも直接技量に関わる部分ではない。

 俺が一人でイバラと戦う事に対して懸念を持つのも仕方ない事ではある。


「対イバラを想定しての戦闘力に懸念があるのは分かるが……」

「いや、いい。お前の《 土蜘蛛 》が、俺の《 刻印術 》以上に訓練で使うようなものでないというのは分かっている。ただの訓練評価だし、この模擬戦も言葉通りのそのまま受け取ってもらって構わない。色々考え過ぎて頭の中が茹だっているから、別の事に集中したかっただけともいえるな」


 どうやら、模擬戦自体に意図したものがあるわけではないらしい。

 考えはまとまってないけど、とりあえず気に入らないからお前を斬りたいとか言い出されなくて良かった。


「とはいえ、お前の《 土蜘蛛 》がどう戦闘に応用できるのかはやはり見ておきたいというのはあるが」

「使用方法の幅が広過ぎて説明するにしてもキリがないんだが、時間停止した連中を元に戻した時の消費くらいなら構わないぞ」

「……いいのか? 強要する気はないんだが」


 いくら誤差の範疇とはいえ、それだって温存しておいたほうがいいのには違いないが、ベレンヴァールは対無量の貌での切り札のようなものだ。その切り札が心置きなく挑むための材料というのなら見返りは十分だろう。


「そうだな……じゃあ、模擬戦で出せる全力で攻撃してみろ。俺はこの場から動かないから」

「分かった……いくぞ!」


 疑問も持たず、ベレンヴァールが大剣を大上段に構え、こちらに振り下ろしてくる。

 もう少し躊躇してくれてもいいんじゃないかと思うが、その太刀筋に迷いは見られない。俺がそれをどうにかすると確信している証拠だ。俺としてはアクションスキルか何かを使ってくれたほうが分かり易くて良かったのだが、これでも問題はないだろう。

 振り下ろされた剣はそのまま俺の肩口から縦に体を引き裂き、床まで全力で振り切られた。まあ、普通ならこれで死ぬだろう。ベレンヴァールにもそう感じられているはずだ。


「……どういう事だ?」


 しかし、俺はベレンヴァールの後ろに立ち、その首筋に剣を突きつけている。もちろん、真っ二つにされてないし、最初の場所から動いてもいない。ベレンヴァールの困惑は、自分の立っている位置を理解した上での事だろう。

 本人からすれば、わざわざ相手に背後を晒しつつ見当違いのところに全力で攻撃したように感じるはずだ。そのズレた認識も能力の範疇である。もちろん幻術系の魔術を行使したわけではない。使えないし。


「こういう位置関係と認識になるよう改変した。ちなみに、避けるだけならもっと簡単だし、お前の武器が壊れるとかすっぽ抜けるってのも再現できる」


 事実を否定し、こういう事があったと上書きする。《 宣誓真言 》でも似たような事はできるだろうが、これに関しては恒常的で不可逆なものだ。操作だけでも同じような事はできるが、今回は分かり易いように改変である。


「多分、ユキにはお前が何もないところに全力で剣を振り下ろしたように見えるはずだ。何かしたっていうのは気付いてそうだけどな」


 訓練場隅を見れば、ただジッとこちらを見るユキがいる。……まあ、多分気付いてるだろう。


「それができるなら……どんな相手にでも問答無用で勝てるんじゃないのか?」

「そういうわけにもいかないんだな。俺とベレンヴァールならそこまで実力差があるわけでもないから、攻撃を避けるって現実も有り得る事象として存在してるが、これがたとえばゲルギアルくらい戦力差が広がるとそうもいかない。ある程度保険はかけられるが、《 土蜘蛛 》を使う間もなく殺されてもアウトだ」


 加えて、行動や認識を改変するだけならまだしも、スキルの存在や身体能力を否定するのは難しい。

 俺が素の状態でできる事なら、どれだけ困難でも消費コストは些細なものだ。そもそも有り得る事なのだから、改変せずとも因果操作だけで済む。しかし、これが有り得ない事象を創り出すとなると、膨大なコストでの帳尻合わせが必要になる。

 無量の貌をダンジョン化するのは有り得ない事だし、死んで生き返った直後の俺が< 地殻穿道 >にいるというのも有り得ない事で、《 土蜘蛛 》は、それを無理やり"そういうものだった"と改変してしまう力なのである。


「なるほど……確かに消費コストを度外視するなら、あの龍人も封殺できそうだ」


 それにしても勝率は楽観的に見て三割に満たない程度、おそらく本人もそれは分かっている。その上で、以降の勝率を上げるために無駄な事をする必要はないと戦闘を避けてもらったというわけだ。……ありがたいね、まったく。


「だから、俺の戦闘力がそのままでも、今回に限ってはそこまで勝敗に寄与するものじゃないって事だ。もちろん強くなれるならそのほうがいいに決まってるが、今の状況じゃ劇的な成長は厳しいからな」


 消費コストが誤差レベルで変化する程度ならまだしも、勝率の変わるほどの底上げとなると、もっと地道な成長が必要になるだろう。


「たとえば、お前は実はもっと強かったという改変は?」

「できるが、割に合わない。今回だけに状況を絞るのなら、戦闘中の事象改変が現実的だろうな」


 加えて、それをしてしまうと真っ当な俺の成長が閉ざされる気がする。今回を乗り切らないと始まらないのも確かだが、それはそれでまずい。




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「それで、考え事の役には立ったか」


 というところで、話を元に戻す。《 土蜘蛛 》の解説は本題ではないのだから。

 説明すればキリはないが、そこまで詳しく説明するつもりもなかった。これが俺のみの力で賄えるならともかく、無数の犠牲の上で成り立っているものである以上、誇る事も難しい。


「ああ、幾分かは整理ができた。……やはり、俺は余計な事を考える余地がないほうがいいのかもしれんな。過去に悩んだ時も、自分の中で区切りがつくのはいつも戦闘中だったような気がする」

「冒険者の職業病かもな」

「はは、違いない」


 俺も思い至る節はある。戦闘やダンジョン・アタックの極限状態が日常になり過ぎて、そういう場面で脳が活動するように最適化されてしまっているのかもしれない。これが行き着くところは、日常生活からの逸脱。戦争帰りの兵士が日常に馴染めなくなるのと同じである。


「……なるほど。今更ながら、杵築新吾が色々と考えていたのが分かる。俺たちに休暇は必要だな」


 中六日。実時間でいうところの週一のダンジョン・アタック制限は、精神的・肉体的な休暇以上に日常を忘れないためのものだ。ダンマスが実地で検討し続けた苦肉の策ともいえる。




「……あれから俺なりに色々考えてみた」


 どうやら、そのまま本題に入るつもりらしい。


「結果、悩んでも答えなど出ないという事が分かった」

「そ、そうか……」


 と思ったら、出てきたのは少し気の抜ける言葉だった。

 一つの回答ではあるのだろう。実際、頭の中で考えて導き出せるものには限界がある。

 それは自分の中で折り合いをつける在り方のようなものだ。正解など存在せず、自分がどう在るべきかという哲学に近い。他人にどうこう言われて導き出せるものでもなく、逆に周りに対して押し付けるようなものでもない。あるいは美学と言い換えてもいい。


「やはり俺は頭が良くないらしい」


 実に反応に困る言葉である。個人的に別にそうは思わないし、実際そうだとしても肯定はしづらい。


「頭が良くない癖に、物事を複雑に捉えてしまう。結果、処理し切れず思考の堂々巡りに陥る。故郷には、そういった時に仮の答えをくれる変人がいたんだが、それが望めない以上、馬鹿なりでも自分で回答を出すしかないというわけだ」


 あまり語ろうとしない元の世界でのベレンヴァールの友人関係であるが、それでも皆無というわけではないだろう。

 単純に話すだけの友人関係がないだけかもしれないが、少なくとも過去にロクトルという男の事は聞いている。……いや、この話だってその男の事なのかもしれんが。


「そもそもの話、こんな宇宙規模を飛び越えた超スケールの話で、俺に納得のいく答えなど出せるはずがないんだ。ただ規模が大きくなっただけで価値観の近い者同士の問題だというのならまだしも、存在からして理解不能・意味不明な連中が中心にいるとなれば当然ともいえる」

「その意味不明な連中の中に俺が含まれているってオチはないよな」

「……お前は人間だよ。どうしようもなく人間だ。それがそもそもの不幸であり、だからこそ、そこに立っているのだろうが」


 アレらと同一視しないでくれという冗談のつもりだったのだが、予想以上に真理を突いた言葉が返って来た。

 ……そうか、俺は人間か。


「すべてにおいて絶対普遍の正義や悪など存在しない。それは長い間色々なモノを見て来て実感しているが、お前の抱えるものはスケールが逸脱し過ぎていて、呑み込んで咀嚼する事すら困難だ」

「まあ、そうだろうな」


 むしろ、分かると言われても正気を疑うしかない領域である。


「……そんな中ではっきりしている事は、お前のやった事は紛れもない悪であるという事で、それは否定すべきではないという事だ」

「否定はしないし、実際そうだと思う」


 物事を俯瞰して見る視点を持つならば、誰もがそう答えるだろう。


「それについては俺がどうこう言う話ではないのかもしれん……いや、ない。少なくとも俺にお前を裁く権利や資格はない。そんな資格を持つ者は存在しないのかもしれん。だからといって、ただそのままでいるには、あまりに救いがなさ過ぎる。捕食された世界も、……お前もだ」


 ベレンヴァールが手に持つ剣が持ち上げられ、俺へと向けられた。


「お前の抱える罪は清算も贖罪もままならないほどで、俺にはその方法を提案する事すらできない。だから、俺は俺として……部外者であるベレンヴァール・イグムートとして提案する。これが、俺の正義と現実の妥協点だ」


 俺は身動きせず、そのまま次の言葉を待つ。


「誓え、ツナ。己の罪を清算する方法を模索し続けると。……必ずしも完遂する必要はない。結果、無駄だったという回答しかなくても構わない。ただその方法を探し続けるだけでいい。お前がそれを諦めない限り、俺はお前と共に戦うと誓おう」


 それを聞いて、やはりベレンヴァールは極めて善性の存在であると確信した。

 直接関係のない問題。必要のない宣誓。これは、ただ自らが正義である事を誓う宣言だ。

 ベレンヴァールは、ほとんど無関係の正義を貫くために自らを超常の戦いへ投じようとしている。

 ここまで関わった以上、わずかなりとも因縁はあるだろう。惨劇を生み出し、今後も生み出し続けるであろう無量の貌が心情的に許せないのもあるだろう。しかし、それをする義務や必要性は皆無で、誰も強要はしない。望んですらいない。メリットなどないに等しい宣誓だ。

 ベレンヴァールは、俺が自らの罪を清算しようと模索するだけで……そんな他愛もない事だけを見返りに、悪意渦巻く果ての見えない超常の戦いに手を貸すと言っているのだ。

 ただの口約束だ。しかし、この男の口から放たれる誓約がどれほど重いものかは容易に想像が付く。


「……俺は」


 俺自身がどう考えていようと、軽く答えていい話ではない。ベレンヴァールの負担や俺が甘受するメリットだけで判断してはいけない。これは、ベレンヴァールが己の正義を見出すための決断なのだから。

 どう答えるべきか。答えはすでに己の内にある。しかし、それをそのまま口にするのは躊躇われる。




「ちゃんと説明してあげたほうがいいと思うけどな」

「……ユキ」


 いつの間にか近くに来ていたユキが口を挟んでくる。まるで、俺が説明する言葉を持っていると確信しているように。


「お前はツナから何か聞いているのか?」

「何も聞いてないよ。ボクだけなら聞く気もなかったし。……でもまあ、見てれば分かる事だしね」

「……おい」

「ここまで真摯に求められたらちゃんと応えるべきだと思うよ。……あるんでしょ? そういう罪の清算方法」


 これは完全に見透かされている。戦慄するほど正確に。……まさか、また女の勘ってやつじゃないだろうな。


「……なんでそう思うんだよ」

「再会してからここまで、ツナが普通過ぎる。巨大な精神的重圧を抱えて、それを隠そうとしているようには見えるけど、いくらツナでも演技だけでそこまで平静でいられるとは思えない」


 ……そういやこいつ、ダンマスの演技も一瞬で看破していたっけな。超怖いんだけど。


「そんな無茶な力を手に入れて尚、有り得ない見込みか、途方もなく低い可能性か、要求されるハードルが高いのか分からないけど、それでも何かしら希望を見出している。だから、表面上だけでもいつものツナでいられる……ってところじゃないのかな」

「……そうなのか?」


 追って確認するベレンヴァールは半信半疑だが、ユキは言い訳しようもないくらいに確信している。

 ここまで補足されてしまっては誤魔化すのもままならない。それがいい事か悪い事か別にしても、選択を強制されてしまった。


「……ああ。ユキの言うように、それで精神的重圧を緩和してるってのも含めて多分合ってる。とはいえ、あまりに現実味のない話だ」

「現実味のない事を現実にするなど、お前にとっては極ありふれた話だろう」


 そりゃお前の認識ならそうなるんだろうが、そんな簡単な話ではない。


「その俺からして尚、現実味がないんだよ」


 なるほど、確かに渡辺綱はこれまで散々無茶を押し通して来た。因果の虜囚には共通してそういう性質が見られるようだが、そもそもそういう特性を持った奴が選ばれているというのも頷ける話だ。そもそもの目的が無茶なのだから。

 しかし、俺が考えている帳尻合わせは、そんな元々の基盤に因果改変能力を加えた今でさえはっきり言い切れるほどに現実味がない。頭悪過ぎて、とてもそれで罪滅ぼししますなんて口に出せないような話だ。事実、ここまでリアナーサ以外の誰にも話していない。こんな事のためにベレンヴァールに対価を払わせるわけにはいかないと……説明する事さえ躊躇われるような夢物語である。……弱い弱い渡辺綱は、そんな夢物語に縋るしか自我を保つ方法がなかったのだ。


『オトコノコなら世界くらい救ってみせろ』


 在るべき世界のラディーネに投げつけられた言葉が蘇る。

 そもそもの原因や経緯、方法はともかく、確かに俺は危機に瀕した世界を救おうとしている。その目処も立っている。

 しかし、それはあのラディーネの世界ではない。あの世界に救いはなく、俺が世界を救うための犠牲になってしまった。

 そんな事で胸など張れない。あのラディーネの激励に応えるのならば……オトコノコなら、それごとまとめて救ってみせるべきなのだ。


「別に隠してたわけじゃない。あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎて、自分でも呆れるような話だから説明しなかっただけなんだ。今どうこうって話でもないしな」

「ツナがそう言うくらいだからよっぽどなんだろうね。でも、それでも不可能じゃないって判断したんでしょ?」

「不可能……じゃねえな。成立させる見込みが素粒子レベルで小さい可能性ではあるが、不可能じゃないって事だけは分かってるんだ」


 今回の特異点における因果改変など比べ物にならない、ひょっとしたら唯一の悪意を滅ぼすほうが楽かもしれない、実現するためにはそんな意味不明なハードルが聳え立っている。しかし、どれだけ現実味のない話でも方法はある。


「言うだけなら簡単で極めてシンプルな話だよ。俺を裁く奴も贖罪する相手もいないのなら、それごと元に戻してしまえばいい」

「……は?」


 ユキの間の抜けた声が響いた。ベレンヴァールはそのまま黙って俺の言葉を待っている。

 そういう考えがあるという事は見透かしていても、内容までは想像していなかったらしい。

 やりたい事は、捕食したものを元に戻す事。吐き出すって事じゃなく、元のカタチに戻す。覆水盆に返らず。普通に考えるなら、壊したものを元通りになんてできるわけがない。新しく作り直したところで、それが同じものであるはずもない。……そんな無理を通す。


「無限回廊虚数層には、その管理下に存在する世界すべての情報が眠っている……らしい。発生から現在に至るまで、あるいはその世界が終わるまでの情報がまるごと死蔵されているそうだ。……つまり、俺が滅ぼした世界の情報もそのまま残っている」


 直接見たわけじゃない。リアナーサにしても、それに触れる権限を持っているわけではないようだった。

 それでも、情報自体は残っているはずなのだ。無限回廊の仕組み上、残っていないとおかしいというのは俺とリアナーサの共通意見だ。


「それらの情報をサルベージした上で世界を復元し、捕食以前の状態に戻す。理屈の上では可能なはずだ。元通りにしたところで俺の中の捕食したという事実が消えるわけじゃないが、それでも犠牲の補填はできる」


 その事実が残るのは俺の中にだけだとしても、罪は残る。残すべきだ。しかし、やった事実は消えないにしても贖罪にはなるだろう。ユキの言う通り、この事実によって俺が救われている部分は少なからず存在している。


「バックアップからの復元とはいえ、やる事は世界の創造と変わらない。神様かって話だが、文字通りそれくらいしないといけないほど馬鹿馬鹿しい罪悪を背負ってるのが俺だからな」

「《 土蜘蛛 》を使えば、それも可能なの?」

「理屈の上ならな。今の俺には不可能だし、どうやればそんな領域に至れるのかも想像がつかない。もちろん目処なんて立ちっこない。そもそも今のこの状況……無量の貌とイバラを止めない事には始まりもしない。だが、時間の制限を受け難い冒険者なら、可能性としてはゼロじゃない」


 能力的なハードルもそうだが、消費コストを賄う方法はもっと思いつかない。

 世界を食い滅ぼす事と、バックアップがあるとはいえ世界を創造する事は一対一の対比にはなり得ない。世界を救うと言いつつ、その代償に十倍、百倍の世界を食い潰していたらまったく意味がないし、そんな事は俺自身が認めない。

 散々無茶苦茶やってきた俺だが、これはその中でもとびっきりの無茶だ。目標が高過ぎて、掲げるだけでも気が遠くなる。

 こんな事を考えてますって言うだけでもドン引きされる事請け合いである。当然の如く、身内にすら説明する気もなかった。


「……極めて頭の悪い話だが、こんな感じの回答でもいいか?」

「ああ、十分だ。……むしろ、ユキのようにお前ならそれくらいは考えるかもと思い至るべきだったのかもな」


 いや、ユキさん基準にするのはどうかと思うが。


「世の中、もっと単純で分かり易いといいんだがな。ただ無条件で斬る事のできる悪であればただ剣を振るえばいいのに、現実にはそんな一つの世界、一つの種族、一つの陣営の立場に立ってみてもままならない。明確な悪などそうはいない」

「明確な悪がいて欲しいって事? そもそも、そんなのいないほうがいいんじゃない?」

「……あまり考えた事はなかったが、実のところそういう独り善がりな理屈の上に立っているのかもしれんな」


 正義で在るために絶対悪が欲しい。独善的ともとれるが、そういう在り方を否定する気もない。実際のところ、悪という存在はそんな考えに関係なく生まれるのだから。




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 そして、数日が経過した。現時点で一般人や最初からあきらかに戦力外と判断された冒険者を除いて、作戦へ向けた活動を開始している。ほぼ丸投げに等しい形になってしまったが、冒険者グループの編成やそれぞれの説明もほぼ完了に近いそうだ。

 他の冒険者と協調できなかった者、取り戻した記憶に押し潰されて折れた者、あまりに情報の乏しい作戦に納得できず参加に踏み切れなかった冒険者もいたが、全体としては極めて順調といえる内容といっていいだろう。

 代表の一人であるサイガーさんの提案で作戦に参加する冒険者を俺たちや代表者を除いて百名までと絞ったのも、結果的に良い方向に転がったといえる。冒険者としての数字に現れる実力よりも精神性を重視したいという意見から始まったのだが、どうしても救出したい者がいる者を重視すべきなのは、作戦内容からいっても当然の事であるからだ。さすがに露骨にやる気のない奴はほとんどいなかったが、それでもモチベーションの差は大きい。

 どのみち非冒険者組や職人クラスの冒険者、あるいは戦闘力に劣る者はバックアップとしての活動を期待されているのだから、その割合が変わるだけの事だ。実力があるのだから頑張れとは誰も言わない。

 当初、俺が理想として掲げていた一週間は難しそうだが、遅くとも十日目くらいには作戦が開始できる見込みだ。いつかユキとも話したが、順調過ぎて不安になるほど順調である。




「カウントダウン開始します。10、9、8、7……」


 巨大なモニターの設置された部屋で、セカンドが秒読みを始める。

 これは作戦終了の合図であり、事前に行っている疑似ダンジョン・アタックの秒読みだ。


「……0。状況終了。強制脱出処理を行います」


 直後、部屋の隅に設置されていた転送ゲートから人影が現れる。その姿は、テストに志願したガウルのものだ。


「……終わりか」


 あまりにイレギュラーな環境であるからか、ダンジョン・アタック中の光景は外部からモニタリングできなかった。だから、ガウルが中でどんな体験をしたのかは確認するまで分からない。しかし、そのガウルはあまりいい回答を期待できそうにないほど憔悴しているように見えた。


「はい、水」

「ああ、ありがとよ」


 フラフラとラディーネの仮眠用ベッドに腰掛けたガウルに、ユキが水を差し出す。


「で、どうだった?」

「……上手く表現する言葉が見つからねえ。まず確実なのは、俺たち冒険者の知るダンジョンじゃねえって事だ。アレだな……誰かの夢にそのまま入り込んだような、奇妙な感覚が終始続く。時間の感覚はほぼないに等しい。テストは外部同期ありの三十分を予定してたはずだが、何ヶ月も中にいたような、数分で終わったような、走馬灯でも見ているかのような変な気分だ」

「だが、君は内部から通信で受け答えしていただろう? はっきりとはいわないが、そこそこ明瞭な会話だったはずだ」


 通信機器の前に座るラディーネが問う通り、この三十分で数回、合計五分程度の通信テストを行い、問題なく行えるという結果が出ている。ついさっきの事で、その場には俺もいて聞いていたのだから間違いない。


「悪い、正直細かい部分は覚えてねえ。その時々では確かに会話したはずなんだが、どうにも意識がボヤけてる」

「通信した事自体は覚えていると。これでは、せいぜい保険か状況確認程度にしか使えんな。通信できるだけでも御の字というべきかもしれんが……」


 問題は大きそうだが、良く分からないモノの中に入って通信ができるというのははっきり言って僥倖というべきだろう。

 ならば、ダンジョン外とのやり取りではなく、直接ガウルに持っていってもらったカメラはどうかというと……。


「何かが写っている形跡はありますが、これが内部であるかどうかも分析できません。操作ログすらおかしな事になっています」


 視線を向けたセカンドがそう答えた。

 解析したところによると、三十分どころか数日は撮影を続けられるはずの容量がすべて埋まっていて、そのすべてが奇っ怪な出来損ないの抽象画のような光景になっているらしい。


「とりあえず、なんでもいいから中であった事を羅列してみてくれ。思い出せた順でいい」

「ああ。……まず、中に広がっていたのはその映像みたいな気持ち悪い光景じゃねえな。もっとこう……普通の、探せばどこかにありそうな屋外の風景が広がってた。だが、確実に俺の知らない光景で、植物も、動物も、建物も……建物? ……奇妙な形をしたものばかりだった」

「生き物がいて、建物があったのか?」

「いた……ような気がする。……そう、接触できなかったんだ。そこにいるのにいない、それどころか俺自身の存在が希薄で、何やってるのか分からないまま過ごしてた気がする。あとは……そう、カオナシだ。何か巨大な違和感があると思っていたが、あそこにいたのは全部顔がなかった。この指輪をしていても認識できないカオナシだ」


 カオナシが中にいた? アレは、顔と名前を奪われたあとに残る残骸のようなもので、そのものは《 名貌簒奪界 》で取り込む対象ではないはずだが……。

 テストに際してガウルに持たせたのは、簒奪の影響を阻害する効果を持たせた指輪だ。記憶を取り戻す部屋と同様に剥製職人のスキルオーブから効果を分離し、鍛冶師連中の手によって作り出したものである。これによって無量の貌の干渉を阻害、特異点で簒奪された者の記憶を維持し易くなる事を期待していた。

 それが効かないという事はすでに簒奪完了しているカオナシ? まったく関係ない、無量の貌の体内のみに存在するギミックって事も有り得るが……。


「空間も時間も断絶したような……誰かが見ている夢をすぐ近くで覗き見しているような感覚だ。……ひょっとしたら、涅槃寂静の元になった奴の夢なのかもしれねえ」


 無数の顔や涅槃寂静は、無量の貌に取り込まれた生物の成れの果てだろうとは思っていたが、ダンジョンがそいつの夢か過去の記憶で構成されてるって事か。


「そう、自我を強く持てば干渉はできる……できた。だが、それも限定的で、意味のない事のような……そうか、世界自体がボヤケててあやふやだから、干渉しようにも手出しができないと思ったんだ」

「実体験した身としては、もう一度潜るのはアリだと思うか?」

「判断に困るな……そりゃ事前にテストできるならしたほうがいいとは思うが、結構消耗するんだろ?」

「まあな、正直何回もやるには厳しい消費だったが、何か有用そうなものが掴めるなら、あと一、二回くらいなら……」


 今回のテストは予め計画していたものではなく、突発的な提案によって実現したものだ。

 無量の貌の体をダンジョン化して内部に突入するといっても、内部の状況は一切分からない。可能ならば、事前にわずかでも情報を得られないかと悩んでいたところに、見学人であるはずのゲルギアルから提案を受けたのである。

 《 宣誓真言 》で涅槃寂静の一体を完全に切り離した上で、限定的なダンジョンを創ってみてはどうかと。

 理解し難い提案ではあるものの、メリットから考えれば断る事は難しいと、心にもやっとしたものを残しつつ承諾。被験者として立候補したガウルを放り込んで、とりあえずのテスト終了を迎えたのが今というわけである。

 元は無量の貌の一部だったとはいえ、すでに切り離したものである以上、中身だって同じものであるという保証はないが、ある程度の特徴なら捉えられるかもしれない。実際に取っ掛かりは得た。ならばどこまでテストを許容するか。

 どうせならば、少しでも有益な情報が欲しい。より情報収集しやすい人選や環境なら、その価値も……。


「ならば、私が立候補してもいいかね?」


 ……そう、見学人を自称しているにも拘らず、こんな良く分からないもののテストに手を上げるジジイならばうってつけだろう。万が一があっても容易に切り捨てられるというメリットは大きい。

 しかし、このテストを提案された時にも思った事だが、一切意図が掴めない。会議への参加からずっと、場を引っ掻き回して困惑する俺を見たいがためにやっているのではないかと疑うほどだ。


「不満そうな顔をしているな」


 よほど顔に出ていたらしい。そりゃ、気持ち悪くてしょうがないに決まってる。


「確かにあんたなら俺たちの誰が潜るよりも有益な情報を持ち帰ってこれるだろう。立候補してくれるなら大助かりだが、正直思惑が分からない。そんな事をしなくとも、あんたに支障はないだろう?」

「単純に興味があるというのでは駄目かね? いや、実際そのままなのだが」


 実に反応に困る回答を提示されてしまった。完全に見学者の気分だから余力を気にする必要はないし、興味がある事に手を出すというのも理屈としては分からなくはないが。


「ふむ……私が言う事ではないが、お前は少し認識がズレているようだな、渡辺綱」

「認識?」

「以前、私が味方のつもりと言ったのは、そのまま裏もなく味方だという意味だ。戦力として手を貸すつもりはないが、それ以外であれば協力を惜しむつもりはないぞ。私にマイナスとなる事を要求されるなら話は別だが、嫌ならば断るだけの事だしな」


 そんな事を言われても、そのまま鵜呑みにする事などできはしない。そんな信頼関係を築けるような間柄ではないのだ。

 しかし、そんな懸念を差し引いてもメリットだらけなのがまた実にタチが悪い。


「確かに私は一時的にお前たちに敵対し、殺害までに至ったが、今現在敵対する理由など欠片もない。そちらから敵対するのであれば話は別だが、こうして休戦状態にある時点でそのつもりはないだろう? 無論、状況が変わる事などいくらでもあるが、少なくともこの作戦中に前提条件が変わるとも思えんしな。どの道、それはこの大博打にお前が勝利した上での未来の話だ」

「…………」

「ああ、ならばこう考えるといい。私としても無量の貌は唾棄すべき、極めて邪魔な存在である。誰かが挑み、その手の内をわずかにでも暴いてくれるのなら歓迎する。その結果、滅んでくれるのなら喝采すべき事態だ」

「つまり、無量の貌と戦う事はあんたとしても歓迎すべき事で、この実験や今回の作戦で情報が得られるのなら、それが助力の対価になると」

「そういう事だ。強要するつもりはないが、お前への貸しという事にしても構わないぞ。加えていうのなら、この先私とお前が敵対するような状況はまずないと思うがね」


 言われなくとも、そうなるだろうという考えはあった。

 皇龍とは同盟状態になるが、それがゲルギアルと敵対する理由にならないのは以前から指摘されている事だし、仕切り直しの上で皇龍が敗北したとしても、それは双方納得の上での事になる。その結果、俺が仇討ちをする事はないだろう。

 しかも、因果の虜囚が持つ強迫観念すら無視するゲルギアルの場合、唯一の悪意に届き得る他の虜囚を邪魔する必要もない。それは、究極的には利害が対立する皇龍以上に敵対関係が生まれ難い存在であるという事だ。

 感情的なものを除けば、理想的な同盟相手に成り得るだろう。


「というわけで、私が潜ってみようじゃないか。さすがに保証まではできんが、有益な情報が得られる可能性は高いと思うぞ」

「…………」


 くそ、見事に引っ掻き回されてるな。……いや、ゲルギアルの言が本当ならば、俺が勝手に空回りしているだけだ。


「……ディルク」

「嘘は言ってないみたいですよ。もっとも、僕の探知能力で見破れる相手でもない気はしますが」


 声をかけたディルクは、俺が望んだ回答を、そうだろうという予想そのまま返してきた。

 ……まあいいだろう。それが最良なのは確かで、俺にはこの状況から騙し討ちをする方法も理由も思いつかない。この爺さんがただ単に遊んでると信じてみてもいい。




-4-




 ゲルギアル、そして本作戦に参加できないディルクが志願して計三回のダンジョン・アタックが行われた。そうして、相互で確認がとれた事実は以下の通り。


・このダンジョンは極めて不安定な空間であり、対象となったモノ……今回の場合は涅槃寂静の精神状態によって形を変える。

・その中で、過去の記憶らしきものが展開されている。

・テストの範囲ではモンスターは出現しなかったが、複数のカオナシを確認。といっても、襲いかかってくるわけではない。

・ダンジョン外との通信は可能。しかし、常に繋がるわけではない。

・内部の記録は困難。ディルクがメモ書きは残す事に成功したが、電子データはほぼ全損。

・冒険者としての身体能力、スキルなどは問題なく使用できる。

・内部の空間は見た目通りのものではなく、不自然な形で歪んでいる。移動はおろか、自分の位置情報すら把握するのは難しい。

・時間もあやふやで、時計もステータスカードの時間表記もバグってる

・体感的に、内部では簒奪された記憶が失われる速度が加速する

・自我を保つのが難しく、時間経過と共に意識障害が発生する可能性が高い。

・空間が不安定なため限定的だが、内部で魔力探知などのスキルは使用可能。

・死亡時の帰還は未確認だが、外部からの強制終了は受け付けた。




「それで、確認のとれない事実というのは?」


 情報共有のための定期ミーティングでこの件について説明したあと、紅葉さんから挙がった質問は当然の如くそれだった。


「ほとんどはこの爺さんの予想だ。本人にも確信のない情報ではあるが、参考程度には聞く価値はある」

「あいつの体内など、私にしても未知の塊だからな。実に興味深い体験であったが、自信を持ってそうだといえるものでないのも事実だ」

「わずかでも情報が増えるのでしたら、聞きたいところですが」


 一応、会議室の全員に視線を向けるが、同じ意見のようだった。

 まあ、そうだろう。情報が増える事によって発生する混乱よりも、情報そのものを増やすべき段階だ。


「まず最初に、さきほど時間経過による意識障害について説明があったが、その原因についてだ。おそらく、更に長期に滞在した場合、簒奪と同じ現象が発生すると思われる。推測ではあるが、これは体感的にほぼ間違いない」


 《 名貌簒奪界 》で発生する現象について、どういった手順で簒奪が行われるのかは未だ不明瞭だが、顔と名前が簒奪された状態では簒奪しておらず、体内でその完了処理を行っているものと思われる。そこまでなら以前から予想していた通りで、簒奪された者を救出できるという根拠でもあるのだが、この完了処理がダンジョン化したあとも全体で発生しているのではないかという話だ。

 ……胃の中に入って消化されるが如く、ダンジョンに長期滞在し続ければ簒奪される。そんな状況になれば生還は難しいだろう。その懸念があるだけで、外側から強制的に脱出させる制限時間を明確にする必要がある。とりあえず、三十分は実績がある。体感では倍の一時間でもなんとかなるだろうという報告もある。しかし、犠牲者が増える事を考えるなら、挑戦する冒険者の安全は十分以上に余裕を持たせるべきである。


「次に、私が潜った時の事だが、何者かの視線を感じた。状況的に切り離した涅槃寂静のものなのだろうが、中に入った時点で侵入した事は知覚されていると思ったほうがいいだろう。何かあれば戦闘になる可能性は高いな。同時に、救出行動を邪魔される可能性もある」


 やはり戦闘能力に乏しい者の参加は見送るべきという事だ。最低限、涅槃寂静を相手にして対処できる者が好ましい。


「最後に、まったく確証のない推論になるが、簒奪の仕組みを想像する上で考えられる懸念がある。不安材料になるから、聞くかどうかの判断は任せるが、どうかね?」


 もちろん俺は事前に聞いているが、ありそうな話という認識を抱いている。

 判断を会議参加メンバーに委ねたところ、全員一致で聞く事になった。


「あのダンジョンは、おそらく涅槃寂静を含む過去に取り込まれた者の記憶を元に再現されている夢のようなものだ。中にいたのはカオナシばかりとはいえ、基本的には平穏な光景が広がっている。私は、これを簒奪された者にとっての都合の良い夢なのではないかと考えた。自発的に無量の貌の一部となる事を選択するような夢だとな」


 無量の貌は無数の生命が共生する事で構成されている。つまり、意識は複数……それも数え切れないほど大量にあって、厳密な意思統一がされているわけでもない。しかし、一定の大まかな統制は取れていて、少なくとも自ら分離しようとしていた顔は見られなかったというのが、ここまでの戦いで得たイメージだ。

 洗脳か、誘導か、精神操作か、とにかくなんらかの形で無量の貌が一つの総体であるという状況を保っている。だから、常に内部でそういった干渉が行われているというのも有り得なくはないと思う。


「これを前提とする場合、今回の救出対象である者たちは無量の貌と同化する事を自発的に望むような、そんな夢を見せられている可能性がある。その者にとって都合のいい夢、幸せな夢、気持ちのいい夢、失ってしまった過去や願望なども含まれるかもしれない。ただ囚われているのではなく、自発的に同化しようとしている者を引き剥がすのはなかなかに骨が折れるだろう」


 そうして自発的に同化した結果が涅槃寂静であり、無数の顔なのではないかという話である。

 最悪、救助しに行った相手に敵対されるような事さえ可能性としては有り得るのというわけだ。




「あと一点、俺が簒奪の影響から外れた事で発覚が遅れた情報があるんだが……転生者の場合、《 名貌簒奪界 》で簒奪される対象は、個別に扱われている可能性がある」


 これは、美弓とサージェスに関する記憶から判明した事実だ。


 発着場での戦いのあと、顔の濁流に飲み込まれた俺は何者かに助けられた。簒奪の影響から外れた事で、それがサージェスである事を思い出したのだが、どうにもそれが別人であったような気もしていたのだ。俺の知っているサージェスの顔ではないと。

 初めはただの違和感。あんな状況での記憶など見間違いの可能性が高いのも確かだ。

 しかし、少しでも情報が欲しい今の状況にあって、ただの違和感で済ませるわけにもいかない。できれば見間違いなら見間違い、本当に別人であったのならどんな理由でそうなったのかはっきりさせたい。


 そんな中、決定打になったのは美弓だ。生死は別にしても、俺やクラリスは美弓の事を覚えていた。俺はこれが不完全な状態で簒奪されたケースなのではないかと思い至った。

 本質的なものは魂の回収なのかもしれないが、《 名貌簒奪界 》で簒奪しているのは名前と顔だ。異なる二つの情報を別々に簒奪している。別々ならば、これがどちらか片方だけというケースだって有り得るのではないか。そして、転生者は更にもう一つずつ顔と名前を保有している。少なくとも情報としては残っている以上、それも個別の対象として扱われるのではないかと。


 これを確かめるために一時的に剥製職人の影響を無効化、無量の貌の簒奪の影響下に戻ってみたところ、案の定だった。

 ミユミは簒奪されておらず、岡本美弓の存在だけが簒奪されていたのだ。

 わざわざゲルギアルに頼んで剥製職人の影響のみを斬ってもらうという、微妙な状況などどうでも良くなるほどに問題視すべき情報だった。


「つまり、要救助者の数が増える。最悪、今世の分だけでも支障はないのかもしれないが、魂に紐付いた情報である以上無視もできない。悪いが、作戦に参加する冒険者に周知してもらいたい」

「それはまた……確かに前世持ちの冒険者は多いが、同じクランでもそこまで正確に把握している奴は少ないぞ。名前はまだしも、顔など見た事ないだろう」


 真っ先に反応したのはガルディス。前世の記憶が残っている事の多い人間メインのクラン故の反応だろう。

 しかし、記憶が残っていないケースは多いにしても亜人種だって転生者自体はいる。


「さすがに顔やどういった人物であるかまでは分からないが、転生者であるかどうか、一部は名前までなら迷宮都市のデータベース上から参照できた。前回配布した要救助者リストに追加したものを再度配布するから、これについてもグループ内で共有・説明を……」



 新たに判明した情報の共有、懸念点の洗い出し、クーゲルシュライバー内での問題の報告、各問題に対しての対策やその役割分担、作戦開始までのスケジュール調整や、連携訓練の計画など、会議で決める事は山ほどある。

 そうやって地味で大変な作業を繰り返し、冒険者グループ内での統制もある程度とれたところで作戦決行の日時を決定する。










 部屋や廊下、共有施設などに設置された時計に実時間と併記で表示し始めた時間。

 24:00からカウントダウンを始めた数字が、作戦開始までの残り時間である。


 現在、その表示はちょうど[12:00]を過ぎようとしていた。



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