Epilogue「囚われた兎」




「どうせ長旅になるんだから、自己紹介でもしておくか。俺はツナだ」

「ツナ……? 変な名前だね。僕はユキ……うん、ユキって呼んで欲しい」


 その出会いは朝靄の中。どこにでもありそうな、極普通の始まりだった。




-1-




 かつて、地球という星の日本という国に中澤雪という人間がいた。それは、前世でいうところの私の名前であり、すでに生涯を終えてしまった少女の名前である。

 日本基準でそこそこ豊かな家庭に生まれ育った彼女は、成人する事なく死を迎えた。

 癌で幼い頃から入退院を繰り返し、結局完治する事なく終わりを迎えた人生は、一般的に見て幸せとは言い難いものだ。……一般的にどころか、本人にしてみても幸せであったとは言い難いだろう。自分一人ならともかく、家族や周囲にまで不幸を撒き散らした人生は、ロクなもんじゃないと断言できるほどだ。命は無条件で祝福されるべきなどとは口が裂けても言えない。

 病気がもたらしたものは完全なる家庭崩壊で、末期の頃になるとそりゃもうひどいものだった。

 私の前で取り繕ってはいるけれど、幼い頃とても仲が良かった両親は互いに罵り合い、次第に距離を置くようになっていた。最終的に面会回数は激減し、両親が揃って最後に面会に来たのがいつだったか覚えていないほどだ。最終的に私の名字が『中澤』だったのかどうかすら怪しいだろう。

 私自身にしても体はボロボロで、鏡に映る老人のような自分を見るたびに絶望的な気分を味わわされたものだ。今世における《 容姿端麗 》のギフトは、こういった生前の体験から発現したものではないかと想像している。


 そんな前世の記憶が甦ったのはまだ赤ん坊だった頃だ。

 何かの物語の中に入りこんだのかというほどのテンプレ。ありきたりな、記憶を残したまま転生するという体験だった。

 これが悪役令嬢モノだったり、異世界恋愛モノの主人公だったら良かったのだけど、何故か男の子というオチまで付いていた。

 ……いやもう、ツナじゃないけど、なんでやねんという感じだ。せっかく目を見張るような美少女になったというのに、その実男の娘ですなんて本人には笑えないのである。それは根本的に美少女ではないという意見は却下する。

 ただ、問題があったのは私本人だけで、周りの環境は理想的といってもいいほどだった。

 この世界では転生自体が良くある事だから、誤魔化したり取り繕ったりする必要はない。名前が『ユキト』なのは認めたくないが、ユキと略せば前世そのままだ。体は健康そのもので、病気の一つもない。アルビノっぽい見た目に反して、この世界の基準よりもよほど頑丈で健康的だったといえる。何故かどれだけ鍛えても筋力が伸びず、女性のような体格は中身の問題なのかと勘ぐりもしたけれど。

 もちろん日本での生活レベルとは比較するべくもないけれど、家は平均よりもはるかに裕福で、少なくとも飢えて死ぬような事もない。家族も円満で、異世界転生モノのように興味本位で前世の知識を再現しようとした時も協力してくれた。王国の中でも大商人と呼んでいいほど大きい実家は、そういったものを再現する環境には最適だっただろう。……まあ、ちゃんとカタチになったのはいくつかだけで、実家が大きくなったのは父や兄二人の才覚によるものがほとんどなのだけど。

 ……いや、ほんと、何かを再現するのに土台って重要だよねって落ち込んだりもしたさ。別に作り方間違ってないのに、なんであんなにマヨネーズ不味いんだよとか、黒色火薬作って何に使うんだよとか。

 材料の品質とか需要とか生産性とかコストとか、ほんとすごく大事だよねって事だ。


『この簿記というのはいいな。大量の紙が必要になる以上、このままでは到底使いモノにならんが、その概念は有用性に満ちている』


 むしろ、重要視していなかったもののほうが喜ばれるという意味の分からない結果にもなり、家族の能力の高さに呆れたりもした。アレが本当のチートってもんじゃなかろうか。


 そんな幼少時の経験が原因なのか、そもそも生まれついての気質なのかは知らないが、王国の大商人の第三子であるユキト君はあまり素行がよろしくないと言われていた。スラム含む王都のいろんなところにアジトを構えていたり、別に望んだわけでもないのにチンピラの子分がいたり、ルールからはみ出したろくでなしを折檻したりと、表面上の情報だけ読み取ればどこのヤクザだと言わんばかりの素行の悪さである。

 ……いや、ちゃうねん。確かになんかすごい事してるっぽい感じだけど、私はそんなチートがしたかったわけじゃないんだ。何故か街にチンピラが増えるたびに私へ忠誠を誓いにやって来るとか、事後報告でどこぞの地下組織を壊滅させましたとか言われても、私はそんなもの望んでいないのである。

 バレてはいないけど、ツナがここら辺の事情を知っていたら大爆笑かドン引きされる自信があるし、出身からしてフィロスは知っててもおかしくないし、ダンマスあたりは多分調査しているよなーと思ったりもするが、決して本人の意思そのままではないのだ。……ないったらないのだ。

 とまあ、性別の問題以外にも色々と決別したい過去だらけだった王都での暮らしだけど、前世に比べればよほど楽しい幼少期ではないかと思われる。……決して負け惜しみではなく、あとから振り返ってみればいい思い出なのだ。きっと。


 そんな生活に変化が訪れたのは第二次性徴期を迎えようという頃の事だ。

 それまで上手く誤魔化していた体と魂の性差が顕著になり始めていた。元々規格が合っていないだろう体が軋みを上げ、魂が情報の不一致に歪み始める。体の痛みではなく、物理的に存在しない部分が悲鳴を上げていた。

 もしも迷宮都市の話を聞いていなければ、そのままおかしな事になっていた可能性はある。平行世界の話を聞くあたり、ひょっとしたら案外環境に適応して男性として生きていたかもしれないけど、それはそれでゾッとしない話である。

 例の婚約話が出たのはいいきっかけだったのかもしれない。当時、少なくとも表面上はいい子だったレーネをこんな事情に巻き込みたくはなかったし、以前からどこかで決断すべきだと考えていた私は迷宮都市行きを決断した。

 それが多分すべての始まり。


 ツナと出会ったのは朝靄の中。迷宮都市行きの馬車がやって来る場所だった。

 私を連れ戻そうと張り込んでいた実家の私兵を昏倒させ、靄で隠せるくらいの場所に移動させた直後、なんかでっかい男の人が現れた。

 これが伏兵だったらまずいなと身構えたりしたが、話を聞くに私と同じように迷宮都市へ向かうつもりらしい。しかも、まさかの前世日本人である。色々ドン引きな経験もしているようだけど、同郷で同じ話題が通じる相手というのは貴重だ。初対面でも思わず話が弾むくらいには。

 ツナの第一印象は、なんかすごい変なでっかい人。本当に元日本人なのかと疑うようなバイタリティを持っていて、どんな逆境にあってもどうにかしてしまう気にさせる不思議な人。

 大らかというか大味というか、細かい事が目に入っているのに気にしない。多分頭は良くて、色々考えてはいるけれど、それ以上に勘がいい人。それと、適当に生きているわりにものすごく責任感の強い人。

 その強烈な個性と印象は、普通の……そう普通の半生を送ってきた私には鮮烈で、常識を書き換えるほど強烈に焼き付いた。

 本人はどう考えているかは知らないけど、歪な迷宮都市にあっても比較対象が存在しないほどに強烈な存在だろう。……普通? ないない。


 ツナの在り方は強靭で、強烈な人としての芯は周囲に人を惹き付けるだろうと感じていた。

 実際、ツナは迷宮都市を変え続けた。ツナやダンマスが言うには私の存在がトリガーではないかという話だったけど、それを成してきたのがツナ本人である事には違いない。結果として私がした事は、ただツナの背を押しただけ、その背に追いつこうと必死になっていただけだ。


 ツナは私に対して複雑な感情を抱いていたはずだ。それは友情であり、敬意でもあり、信頼なのだろうと思う。

 一方、私がツナに抱いていた感情も似たように友情であり、敬意であり、信頼。頼れる相棒というポジションは心地が良く、自らの成長を促すものでもあったから。

 ただ、それは表面上だけのもので、実際のところはまったく別のものだったと思う。

 確かにそれは友情であり、敬意であり、信頼だった。

 二人で攻略したトライアルダンジョンで感じたのは紛れもなくそういったものだ。ただし、それは同時に男性としての自分が抱いている感情であり、女性として在ろうとするほどに変質していくものであるという確信も抱いていたのだ。

 正直に言ってしまえば、私はツナに恋していた。……いや、いつか恋をするのだろうという予感があった。

 表に出さず、なんでもないフリを続けられたのは体が男性のものであったからに過ぎない。そんなものは、段階的に女性としての自分を取り戻していけば、簡単に剥がれ落ちる仮面のようなものだ。

 前世でも経験のない感情に困惑していた。しかし、嫌ではなかった。それが五つの試練に立ち向かう原動力の一つになった事も認めよう。

 "僕"のままなら友達でいられただろう。中途半端な"ボク"のままでも誤魔化せたはずだ。でも、"私"である事を自覚してしまえばきっと戻れない。そして、そうなればいいな、と思う自分は時間を経つごとに大きくなっていった。

 普通に考えれば気持ちの悪い事だと思う。たとえ完全に女性になったとしても、元が男性である事を考慮するならば受け入れられないのが普通だ。それはそれとして、まったく気にしなさそうなのがツナではあるのだけど。

 ……いや、20%だろうが40%だろうが、タガが外れれば関係なさそうなのはちょっと怖いかもしれない。だって、20%への変化が始まった段階ですでに目がおかしかったし。


 剥製職人などという意味不明な存在の干渉を受け、行動が誘導されていた事は確かなのだろう。それは、アレが興味を失い、観測を止めた時に理解した。しかし、少なくともこの感情は私のものだ。それは誰にも否定させない。

 ただ、それはあの終わってしまった世界が続いたらの、もしもの話。生きる世界をなくしてしまった私が見る事のできない夢。

 私はユキトではなく、中澤雪にもなれず、ここで朽ちていくだけの魂。そんな、もう終わってしまった存在だ。


 救いがあるとすれば、ユキの存在はただの観測用の端末であり、決して渡辺綱を陥れるための罠ではなかった事。

 ツナを殺したのが自分の存在でないというだけで、少しだけ救われる。最初から裏切っていて、これから好きになるはずだった人を殺す原因になったなら諦めもつかない。




-2-




 剥製職人が興味を失い、観測器としての存在意義を失った段階で、ユキという存在が消え去る事は確定した。

 与えられた力を使った事でそれが加速した。しかし、止められない消失とツナの命を天秤にかけて尚使わない選択はなかった。

 ゲルギアルと対峙したのはその最終段階で、消滅が秒読みに入ったような状況だ。ゲルギアルもそれは理解していたのか、時間稼ぎと分かっても律儀に付き合ってくれた。どちらにしても取るに足らない存在と思われていたのかもしれないけれど。

 ……そうして終わりを迎えたあと、気が付けばこんな場所にいた。


「……ゴミ捨て場かな」


 真っ暗な空間。無造作に放置されたガラクタが積み重なって山になっている。

 それは人形のようにも見えるけど、きっと剥製職人が捨てた手駒のなれの果てで、これからボクが辿る末路でもあるのだろう。おそらく、ここに積み重なっているのは、自分と同じように駒として利用された者たちなのだ。

 別にここで直接何かをされるわけではない。ただ、魂が朽ちていくまで放置されるだけ。

 剥製職人にとって、剥製とは最も価値あるもの。それを手に入れるための観測器などただの道具であって、処分するために手間をかける価値もない。不要になった道具はただ捨てられるという事なのだ。……おそらく、対象の剥製化が完了しても同じように捨てられるのだろうけど。

 話す相手もいない。どこまで行ってもガラクタが山になっているだけの空間は、これまでどれだけの歳月を重ねてきたのか。どれだけの時間、ここにいれば終わりが来るのだろうか。


 ゴミ捨て場には、私を含めてガラクタ以外のモノは存在しない。

 例外は観測用のモニターのような、宙に浮かぶ円状の光。そこには、捨てられたガラクタが観測し続けた映像が延々と流されている。意識しなければ視界に入る事もない。多分、観測器でなければこれを見る事もできないだろう。……まさか、朽ちるまでの暇潰しとして用意したとでもいうのだろうか。


「……違うな。これも不要になった記録……ガラクタなんだ」


 観測器も観測器が観測し続けた記録も、剥製職人にとっては等しく価値のないものだから、こうして捨てられたのだ。

 捨てられたガラクタが朽ちたあとも、収集された観測記録は延々と流され続けている。まるで、それだけが観測器の存在証明であるかのように。


 何もない。誰もいない。ガラクタしかない、ただのゴミ捨て場でやる事などない。自然と観測記録を眺め続ける時間が続く。

 それらは極めて主観的な記録映像だ。剥製職人の価値観など理解できないから、観測対象のどこに価値があるのかも分からない。対象が人間どころか人型であることも稀だし、形を持たないモノである事もあった。観測といっている以上映像ではあるのだが、人の目では認識できない意味不明なものも多かった。それが多少でも理解できたのは、この身が観測器であるからなのか。

 この記録のどれもが悲劇なのだろう。剥製職人が興味を失うにせよ対象が剥製にされるにせよ、ロクな結末ではないのだから当然だ。


 長い間無数の記録を鑑賞し続けて、多少なりとも剥製職人についての情報が集まってきた。

 基本的に剥製職人が直接干渉する事はない。干渉はあくまで観測器を通してのものに限られている。観測器たちが得る情報も、些細な断片のようなものだ。剥製職人は、そうやって最小限のコストで事象を、因果を誘導している。

 しかし、それぞれは小さな断片でも、このゴミ捨て場のように集まればカタチになる。元々、隠しているわけでもない情報ならば尚更だ。

 ここには、朧げながら剥製職人の輪郭を浮かび上がらせるモノが揃っていた。


 剥製職人の起源は剥製そのものだ。それは永い年月を経て、付喪神のように無機物が意思を持ったものらしい。

 起源が魂の宿らぬモノである以上、生物の意思など理解できない。理解しても共感はできない。

 そんな彼女が最初に興味を抱いたのは、自分以外の他者。

 彼女は常に観察していた。人間ならば気が遠くなるような永い年月をかけ、自分以外のものを理解すべく観続けた。

 彼女は孤独だ。誰も指摘する者がいなければ、その理解が間違った解釈である事に気付きはしない。それは唯一の悪意との接触によって我を持つまで積み重なり、歪んだ美意識を形成した。

 美しいと思ったものは感情。強い感情は、その個を最も美しく飾り立てるものであると信じていた。

 しかし、美しいモノは朽ちる運命にある。自身が永遠を生きる剥製であるからこそ、それが認められなかった。

 だから、美しいモノを美しいまま保存しようと思った。自らと同じになれば、共に永遠を過ごす事ができるだろうと。

 彼女は剥製職人だ。彼女は美しいと感じたモノを生きたまま剥製にする。彼女は自分と同じである事が美しいと感じている。

 彼女は……美しいと感じた感情をそのままに剥製化する。それがどんな感情であっても優劣はない。ただ在るがままのカタチで、愛は愛のまま、怨念は怨念のまま、強い情念を劣化させないように永遠に閉じ込め、残し続けるのだ。

 彼女が剥製化する対象に因果の虜囚が多いのはそのためだ。負の情念によって支えられる因果の虜囚は、彼女にとっての美に映ったのだろう。


 そして、これほどまでに歪な彼女の行動原理は善意である。自分が対象にとって良かれと思う事を実現しているに過ぎない。


 それを知って、身震いが止まらなかった。

 歪んでいるし狂っている。在るがままがすでに歪だから矯正の術もない。

 歪な行動原理で歪なまま動き続ける孤独な存在に恐怖しか覚えなかった。歪み切ったものが正常であると信じて疑わない善の存在は、ただ悪だけでカタチ作られるモノよりもよほど恐ろしく感じられた。

 そんな、あまりに異なる価値観を持つモノが私を誘導し、ツナを狙っていたのだ。

 それは途中で頓挫した計画ではあるけれど、こんなモノを相手に戦い続けるよりはマシな結果だったのかもしれない。




-3-




 このガラクタ置き場に来て、一体どれくらいの時間が流れたのか。

 この空間がどういった時間の流れにあるのかは分からないけど、睡眠も食事も必要なく、排泄も行わず、新陳代謝すら存在しないのでは体感時間などあてにならない。そもそも時間を気にする必要もないと考え始めたのは、多分終焉への第一歩なのだろう。

 人が人として在るためには、人としての営みが必要だ。何もない時間を過ごせば過ごすほど、人らしさを失っていく。

 そういった思考に至り、ダンマスたちが如何に苦しんでいたのかをわずかなりとも理解できた気がした。人であった頃の自分を真似、自分は人で在ると言い張る事は、人をやめないために必要な事なのだと。必要ないからといって、営みを捨ててしまえば簡単に忘れてしまう。そういう脆い、危うい価値観の元に生きていたのだろう。

 この空間ではそれすらも叶わない。誰とも出会わず、話さず、触れず、眠らず、食べず、排泄せず、ロクに動く必要もなく、人としての最低限の活動も行えない。時間制限があるのならともかく、これが永遠に続くと分かっている以上、抗う事すら愚かだと理解できてしまう。

 同じように観測器として使われ、破棄されたモノが現れる可能性もあるが、剥製職人の時間感覚ではそれも期待できそうにない。

 この、無数に積み重なった観測器の成れの果ての中には、人間よりも遥かに寿命の長い生物もいたはずだ。なのに、それらがまとめて終焉を迎えているという事は、人間などでは到底耐えきれない時間を過ごす事を定められているといえる。

 隅々まで調べたわけではないが、このゴミ捨て場はどことも繋がっていない独立した空間だ。どことも接続する必要のない終わった空間なのだから、放り込む手段だけがあればいいのだろう。

 つまり、ここは牢獄のようなもので、私はツナと同じ虜囚のようなもの。そんなつまらない共通点に喜びを感じるほどに刺激が存在しない。


 そんな観測結果だけを見続ける生活が続き、体感時間にして数ヶ月経った頃、とある事に気付いた。

 ユキとしての体に変化が生じている。おそらく、外界でそうあったように、体感時間に合わせて女性化が進んでいるのだ。

 元々、最初の急激な変化を除けば極めて緩やかな変化だ。徐々に骨格や筋肉、脳が変化し続けたとして体感できるものでもない。

 それに気付いたのは、区切りである20%の変化が終了したからなのだろう。少しずつ続けてきた変化がようやく五分の一だけ終了したという事だ。……こんなところでそうなったところで、それがどうしたという感じではあるのだが。

 そういえば、40%までの権利はもらっていたなと思い出したのは、それから少し経っての事だ。変化が収まっていない。緩やかにだが、女性化は進んでいる。


「……40%女性化したら、ユキ40%になったりしてね」


 ダンマスなら予め設定していてもおかしくはないだろう。

 そんな考えに至り、何気なしにステータスカードを確認してみたが、そこにあったのはより頭の悪い結果だった。


「ユキ21%って、なんじゃそら」


 名前の変化が1%刻みになっていた。一体全体どういう意図があるのかと疑問に思ったりもしたが、多分ただのイタズラだろう。

 まったく、ダンマスは人の名前をどれだけおもちゃにすればいいのか。


「ほんと、バカだなあ……」


 二度と会えない人に文句を言っても仕方ない。実際、文句を言ったところで躱されるか逃げられるだけだろう。

 ツナを介して抗議してもらってもいいが、ツナでは多分丸め込まれるだろうし、ツナ自身は多分分かりやすくて便利じゃないかとか言い出しそうだ。


「ふへへ……」


 そんな有り得ない妄想が心地良かった。けれど、その心地良さは徐々に摩耗していくものだろう事も理解できてしまった。

 そうして何も感じなくなったら、それがユキの終わりなのだろうと。




 何もない時間がただ過ぎていく。時間感覚はすでに故障していて、体感時間は一切あてにならない。観測情報を見ていても、それが正しい時間で確認できているかも自信がなかった。唯一、それらしい情報といえば、体と名前の変化だ。それだけが指標となり得た。


 21%が22%になり、23%になる。

 体感時間があやふや過ぎて定期的な変化かどうかも分からないけれど、それがわずかにでも時間を体感できる情報だった。


 25%、26%、27%……。

 1%の変化を確認する間、ずっとカードを眺めていた事もあった。


 30%、32%、35%……。

 そこまで行くと、パーセンテージの変化がカウントダウンにも見えてくる。五つの試練で権利を得ていたのは40%までなのだから、そこまでいけばそれで終了なのだ。


 ユキ40%の表示を見て、何かが終わった気もしていた。

 ここまで永遠にも等しい体感時間があったように感じていたが、指標があるだけでも精神的な摩耗はずいぶん避けられていたように思える。元々の予定を前提にするなら、一年程度。たった一年の経過ですら、こんなにも長いのだ。これから先、確かな指標もなく、どれだけの時間自我を保てるのか。……ユキでなくなる日が近付いているのを感じる。


 しかし、そのすぐあとになって違和感を感じていた。

 わずかにであるが、体の変化は続いている。カードを見れば、名前欄にはユキ41%の文字。

 困惑しつつ、思考は娯楽だからとその意味を考える。

 おそらくだが、どこかのタイミングで制限は外されていたのかもしれない。あるいは最初から五段階の制限などなく、時間経過で100%まで変化する仕組みになっていたのかもしれない。よくよく考えてみれば、40%の制限解除……水神エルゼルこと蛇口マンにその事を提示された際にはなんの処置も受けていない。

 ダンマスの事だから、五つの試練は五つの試練として提案されただろう事は想像できるけど、もしリタイヤしていても願いが叶うようにという考えがあったのかもしれない。ダンマスが求めていたのはあくまでモチベーションと口実だけだ。途中でリタイヤするような奴は必要としていないのだから、わざわざ制限を設ける必要などなかったのかもしれない。それが達観なのか優しさなのか、あるいは別の思惑があったのかは分からないけれど、ダンマスならありそうだとも思える。


 50%……。

 半分が女性化した。徐々に変化していったからあまり自覚はないが、体付きは以前よりも遥かに女性らしくなったといえる。

 これくらい胸があればツナを悩殺できそうだなどと考えてみたりもしたが、ツナならなくても気にしなさそうだとも思ったりした。……紛れもない雑食だし。


 70%……。

 体の変化よりも、髪が伸びている事のほうが気になる。動かないからそこまでではないが、邪魔になってきた。


 90%……。

 本当に終わりが近付いている。いくらダンマスでも120%とか意味不明な延長戦は用意していないだろう。


 100%……。

 終わってしまった。延長戦のように感じていた変化はこれで終わり、確かな指標は完全に失われた。

 どれだけ待ってみても体は微量にも変化せず、カードの名前欄もユキ100%から変化はない。


「というか、……100%が付いたままなのはどういう事なのか」


 そう、パーセンテージは表示されたままだ。最後までダンマスのいたずらに振り回されるのか。久々に出した声がこれってどういう事なの。


「ははは……もう、何がなんだか……」


 発した声は以前とはっきり違いが分かるほどに高い。体も自分で見て確認できる範囲では相当に女性らしいといえる。

 もしもこの状態でツナに会えるのなら、想いを伝えるのに躊躇いなどないのに。……ほんと、ままならない。




-4-




 ただ無為に時間が流れていく。瞬きするのを忘れ、呼吸するのを忘れても苦にならない。このままでは、臓器が停止しても変わらないだろう。

 パーセンテージという指標がなくなった今、唯一の娯楽は観測結果の閲覧だった。

 初めは物珍しさに色々な記録を見たりもしたが、理解できないものを見続ける気も起きない。そうして、最終的には自分の残した記録を繰り返し閲覧し続けるようになった。

 繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し……すべてが摩耗し切って、ガラクタになるまで自らの記録を閲覧し続ける。


 画面の向こう側には感情豊かなユキがいた。ツナがいた。

 クローシェがいて、ダンマスがいて、ミユミさんがいた。チッタさんがいた。ついでにブリーフさんも。

 サージェスと出会い、新人戦でアーシャさんと戦って、フィロスと、ゴーウェンと、ガウルと、ティリアと、摩耶と鮮血の城を戦い抜いた。

 水凪やラディーネ、ボーグ、キメラ、ディルクとセラフィーナ、リリカ、あと何故かパンダたちが加わって、遠征から帰って来たツナを追うようにベレンヴァールとサンゴロ、サティナが加わった。

 かつて戦ったロッテちゃんが弟分のゴブサーティワンを連れて来た。最初は肉壁という評価に戸惑ったけど、確かに肉壁だった。

 王都からレーネが追いかけてきたりもした。

 異世界からやって来た空龍たちはとても純真で、無垢だった。


 星の崩壊に立ち向かうとツナが言い、平行世界の話を告げられた。

 なんでもないフリをしたが、嬉しくて仕方なかった。話を聞く限り怪しさ満点の私を信頼し、すべてを打ち明けたのだから。

 ……あのマスクがなければ満点だったと思う。


 崩壊は止められなかった。剥製職人から流れて来た情報を信じるなら、私が消えた直後にすべてが終わっているはずだ。

 権限の関係から今の私は影響を受けていないようだけど、サージェスたちは名前も顔も簒奪された。

 そして、ツナは死んだ。剥製職人が興味を失ったあと、惰性で続いた観測記録もそれで終わり。

 観測したわけではないけれど、ダンマスは壊れ、星も崩壊したらしい。当然、先に待っているのは未来人が語った世界なのだろう。

 私たちは失敗した。取り返しのつかない結末を避けられなかった。

 どれだけツナが規格外でもここからの逆転は有り得ない。そういう完全な終わりを見せつけられた。


「……でも」


 ……ああ、楽しかったな。こんな救いのない結末でも、そこに至るまでのすべては楽しかった。

 もうすぐ私は消えるだろう。……この輝かしい記憶だけを胸にガラクタになる。

 ひどい結末の中で、胸に抱いていける宝石があるだけでも、私の人生に意味はあったのだと思う。


 もう、抗う必要はないだろう。抗う意味はないだろう。

 ただ終わりに向かって朽ち果てるだけなのだから。






-第六章「終わる世界、」完-





























「そこで諦めんじゃねーよ」


 それは懐かしい、ツナの声だ。トライアルの時からずっと、すぐに諦めそうになる私……ボクを立ち上がらせた声だ。


「ゲームは完膚なきまでに俺たちの負けで終わった。ゲーム盤は砕けちり、世界もろとも消え去った。残ったのは敗北者の残骸だけだ」


 暗闇の向こう側から足跡が聞こえる。声が聞こえる。

 聞き間違えるはずなんかない。それは私の好きな人の奏でる音なのだから。


「……ツ、ナ?」


 ずいぶんと長い事動かさなかった顔を上げた。

 眼の前に、ツナがいる。手を伸ばせば届きそうな距離に立って、私を見下ろしている。

 何故、こんなところにツナがいるのだろうか。どうやってこんなところに来たのだろうか。


「おう、敗残者の渡辺綱だよ。前世からこの方負けてばっかりの負け犬ツナ君だ」

「な……んで……」


 朽ち果てる寸前に見る走馬灯のような何か、夢か幻かと思ったが、それはあまりにリアルで、非現実的過ぎた。

 こんなところにツナがいるはずはない。だけど、ツナならもしかしたらそんな非常識すら飛び越えて現れるかもしれないと。

 現に、そんな都合のいい話を信じたくなってしまっていた。もしもこれが悪辣な幻であったとしても、縋り付いてしまいたくなるほどに。


「だがなユキ、俺は負けて終わりなんて真っ平ごめんなんだ。卑怯だろうが、反則だろうが、最後には勝たないと気が済まない」


 でも、もう何もかもが遅い。すべてが終わってしまったあとなんだ。

 ここは用済みになった残骸が廃棄されるゴミ捨て場のようなもので、そんなところに破棄されたガラクタを拾い上げて何かできるはずもない。私たちの戦うゲーム盤は完膚なきまでに壊され、その先に道などありはしないのだから。


「負けたっていうなら次に勝てばいい。次がないっていうなら無理矢理次を作るまでだ。世界のルールなど知った事か。チート行為は転生者の十八番だろうが」

「……こんな状況から何をする気だよ」

「決まってんだろ。反則技で世界を引っ繰り返す。引っ繰り返したあと、何食わぬ顔で再びゲームの席について、対戦相手をぶっ飛ばして終了だ」


 なんてツナらしい提案だろう。消えかけていた感情すら蘇るほどに、目の前に立つ存在はツナだった。


「ははっ、そこはゲームで勝つところじゃないのかな」

「残念ながら対戦相手は強くて手が出そうにない。ここはダンマスを場外から呼び出して、奇襲をかけてもらうところだな」

「なるほど、それができるなら反則だね」

「……だからユキ、寝てるんじゃねえ。俺たち二人で世界を引っ繰り返しに行くぞ」


 その言葉は厳しくて、自分にできない部分を埋める相棒にだけ向けられる言葉だ。

 まだ続きがある。……いや、ツナは続きを創るつもりなのだ。


「しかしアレだな。……お前、ソレやばいな」

「何が?」

「なんで全裸やねん。というか、それパーフェクトユキじゃないのか? 男の部分どこにもねーぞ」

「……は?」


 言われるまで忘れていたけれど、そういえば何も着ていなかった。


「いや、ちょっ……そんな真正面からマジマジと見られるのはちょっと……というか、見なかったフリとかできないの?」

「それは紳士のとる態度ではない」

「なんなんだよーもうっ!!」


 恥ずかしい。慌てて隠すけど、そもそもこんな体をしていた過去はないからどうやって隠せばいいのかパニックだった。

 なんだこの胸。ユキ100%の魔性が詰まっているというのか。ああもう、なんて格好悪い。というかとっさで慌てたけど、別にツナになら見られたって構……いや構うよ!


「《 容姿端麗 》やべえな。……お前、100%になるまでになんか対策考えておけよ。街中歩くだけで大惨事になりかねないぞ。全裸ならもっとだ」

「いや、そんなサージェスみたいな……」


 そんなの、《 容姿端麗 》関係なく大惨事だよ!


「……というか、え? 100%になるまでというか……そもそもこれが……」

「お前、五つの試練クリアしてねーだろ。40%までの権利しかもらってないはずだ」

「いや、それはそうだけどさ……」


 すでにこうして100%なのはどうしようもないというか……。

 そんな困惑の極みにある中、ツナが手を伸ばしてきた。一瞬躊躇したけれど、片手でその手を取る。

 手を伸ばしたあとで気付いたけど、まさかこれは片手で上手く隠せない事を利用したツナの罠とか……。


「うわわわっ! ……あれ?」


 手を引っ張られ、立ち上がらされたと思ったら、いつの間にか服を着ていた。

 それは、観測器として消えるまで着用していた冒険者としての装備だ。……というか、伸び切っていたはずの髪が短くなっている。


「う、うんっ? ちょ……何したの?」

「ユキ40%に戻した。それが一番"自然な可能性"のはずだからな。元々制限なかったのかもしれんが、ちゃんと権利は勝ち取れ。……まあ、イタズラしたダンマスは張り倒していいから」

「……何がなんだかわけわかんないけど……うん、そうだね」


 やっている事は無茶苦茶だけど、言っている事は正しいような気がした。

 というか、40%か……うん、胸も40%あるかな。ペタペタと自分の胸部をさすれば、そこには以前よりも強く主張する丘がある。


「さて、お前をこんなところに閉じ込めてた剥製職人もいつかは殴り飛ばしてやらないと気が済まんが……とりあえずは、星の崩壊を止めに行くぞ」


 ツナは極自然に超存在を相手取り、戦うと言う。ここまで完全に失敗したのに、諦めずに引っ繰り返してみせるという。

 どうすればそれが叶うのかは分からないけれど、他に分からない事だらけで何から聞いていいのか分からない。

 崩壊を止める方法、どうやってここに来たのか、今はどういう状況なのか、そもそも死んだんじゃなかったのかとか……。


「……どうやってって、説明はあるんだよね?」

「まあ、長くなるがな」


 ツナの手をとった以上、きっと私の……ボクの想像もつかないような無茶苦茶をやらされるんだろうなと確信があるけれど、胸が高鳴るのを感じていた。

 鼓動すら止めた心臓が早鐘のように鳴り響く。ツナに聞こえるんじゃないかというほどに強く、高らかに。


 ツナの手が離れ、ボクたちは並んで歩き始める。それは、いつか二人で歩いた迷宮都市を思い出させる距離感だった。


「ねえ、ツナ……いつまた言えなくなるかもしれないから言っておくね」


 ボクにはまだ立ち続けていられる自信はない。だから、伝えておくべきだと思った。

 長い長いガラクタとしての時間で後悔し続けた事を。


「……なんだ、愛の告白か何かか?」

「うん。……ツナ、好きだよ」


 いついなくなっても大丈夫なようにと、少しだけ後ろ向きな覚悟で。


「…………そうか」


 それを聞いたツナが見せた表情は驚愕でも嫌悪でも困惑でもなく、何故だかとても哀しそうだった。

 少しでも笑顔を見せようとしているのがあまりにも辛そうだった。

 多分、ボクがどうこうという話ではなく、もっと別の……どうしようもないものが口を噤ませたのだと察した。それはきっと、とても重いもので、容易に踏み込めないようなものなのだろうと。


「でも、返事はいらない。まだいらない。……そうだね、ボクがちゃんと100%になったら答えが欲しいな」

「……ああ、分かった」


 でも、この感情は変わらないのだから、嘘を付くつもりもなかった。気恥ずかしさ故の誤魔化しなど必要ない。

 これは未来に繋がる約束だから。




 想いを告げて、それで満足なんて結末は認めない。

 だけど今はただ、ツナの背を追おう。まずは世界を救って……いつか、ちゃんと答えがもらえるように。




-第六章「終わる世界、続く世界」-



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