第11話「OVER THE INFINITE」




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「終わったあとの事を考えるなら、家に戻ってからのほうがいいと思うけど」


 リリカと手を繋ぎ、術を発動した次の瞬間には以前と変わりない白い空間が広がっていた。

 以前リリカと話した夢の内容から分かってはいたが、俺相手に《 魂の門 》を使うのは初めてではないらしい。


「……悪いな。最悪の場合はフィロス呼び戻すなりして運んでもらってくれ」

「いや、そこまでにはならないと思うけど。前の時もせいぜい吐くくらいだったし」


 どうやら、こちらの俺はそれほど無茶はしていないようだ。


 フィロスが公園から去った直後、駄目元でお願いしたところ、リリカは何も聞かずに《 魂の門 》を発動してくれた。

 どうやら元々昇格後の冒険者活動ができない時期に合わせて使用する予定ではあったようだが、いきなり外でと言われて疑問を持たないあたり、リリカはもう少し人を疑ったほうがいいんじゃないかと思う。怪しいとは思わなかったのか……。


「……戻ったらでいいから、ちゃんと説明して」

「ああ」


 いや、この状況で何も思わないほど無垢でも純朴でもないか。当たり前だ。

 リリカはとりあえず俺に合わせて状況に乗ってくれているだけなのだろう。そして、俺はそれを利用しているだけだ。


「やっぱり、なんか心境の変化があった? 門が前より大きいような」

「そうか?」


 時間を置いて彼方に出現した門は、こちらの渡辺綱のものとは違うのだろう。あまり覚えていないが、良く見れば俺が前回潜った門とも細部に違いがあるような気もする。

 ……同じ渡辺綱でも中身は別物みたいなもんだしな。精神状態によって変わるのか魂の在り方によって変わるのかは分からないが、同一の体に渡辺綱が二人いるようなものなのだから、違いがないほうが不自然というものだろう。


「ほとんど前例は知らないけど、こういう事も……ある、かな?」

「……まあ、色々心境の変化があったのは確かだからな。関係はあるのかも」


 答えが分かるはずもない。首を傾げているが、術者であるリリカにしても絶対にないと言い切れるほど《 魂の門 》を使っているわけではないだろう。


「じゃ、行って来る」

「あ……ちょっと」


 そうして、その場を離れようとする俺をリリカが引き止めた。俺は大人しく立ち止まる。


「えっと、ツナ君が何をしているのかの説明も欲しいけど、戻って来たら私からも大切な話があるの。時間作ってくれる?」

「……そうだな。なんとなく分かるけど、それも戻って来たあとのほうがいいと思う」

「あ、やっぱり分かるかな」


 予想と違っている可能性はあるだろうが、十中八九当たりだろう。

 なら、それを聞くのは俺の役目じゃない……その権利もない。


「バレバレだしな。……実をいうと、結構前から気付いてたんだと思う」


 どっちの俺も。

 フィロスの言うように、渡辺綱は割りかし勘のいいほうだ。少ない情報からでも、それを組み合わせて推察するくらいの頭脳もある。鈍感系主人公ならともかく、ここまで情報を出されていて気付かないのはおかしいのだ。

 ここまで散々言われたように、ただ目を逸しているだけ。表の渡辺綱は単に社会的責任とか現実を見ていないだけじゃないかとも思えるが、俺の場合は突き付けられた現実を直視するだけの勇気がない。

 ……それは、ある意味決定的なものとして自分に跳ね返って来るのだから。目を逸らそうと逸らさまいと結果に違いはないという現実が更に重く伸しかかって来る。


「そ、そうなんだ。じゃあ頑張って」

「……多分、すぐ戻ってくるぞ。心の準備はしておいたほうがいいんじゃないか?」

「そうなの? やっぱり心の整理をする時間が欲しいんだけど……」

「なんでお前がヘタれるんだよ」


 ここでリリカにすべてを話す事はできる。しかし、それは何も結果を伴わないただの自己満足だ。このリリカに《 魂の門 》以上の助力は期待できないし、してはいけない。

 断罪されたいというのも甘えなのだろう。いっそ殺してくれとも思うが、それも甘えなのだ。ここが、俺に許されるギリギリのライン。これ以上の干渉はすべきではないし、その資格もない。このリリカの隣に立つ事が許されているのは、在るべき渡辺綱だけなのだから。

 泣くな。笑ってなんでもないと誤魔化せ。門に向かって一歩踏み出してしまえば取り繕う必要もないのだから、今くらいは。

 おそらく、俺はもうここに戻ってくる事はない。遠くに見える巨大な門は一方通行で、決定的な決別。今になって尚、この状況を引っ繰り返す手段は分からないが、俺が現実に目を向ける向けないに関わらず、その先にあるのはある意味破局と呼べるものなのだろう。


 巨大な門。その奥に広がる漆黒を前に、顔を上げる。

 この先にあるのは俺の罪だ。決断するのは俺の役目で義務だ。二者択一……いや、おそらくそれ以上の不平等な犠牲を強いられる決断など、当事者である俺以外の誰にも強要してはいけない。


 漆黒に向かって足を踏み出す。この先に向かうのは俺一人。だから、ここでお別れだ。






「えーと、早過ぎないかな? それとも門くぐってなかったとか」


 俺が向かった道を渡辺綱が戻る。本来在るべき渡辺綱だけが戻る。


「門? ……ああ、ここ魂の門か……なんでこんなとこにいるんだ? というか、昇格式典は?」

「……どうしよう、またなんか変な事を言い出した」

「なんでじゃ」


 これが正しいカタチ。本来在るべき光景で、俺は異物に過ぎない。

 そこで並び立つのは在るべき渡辺綱で、リリカ・エーデンフェルデなのだから。


「昇格の手続きでどうせ休みになるから、時期的にはちょうどいいのかもしれないけど、唐突に過ぎるだろ。なんでいきなり門の前やねん」

「いや、必要ないならいいけど……なんなのもう」

「というか、確かお前何か大事な話があるとか言いかけてなかったっけ? まさか聞き逃した?」

「ああ……うん。……じゃあ、帰ってから話そうか。長期の休みも必要になるだろうし」


 そうして、どちらからというわけでもなく、在るべき二人は手をとり、在るべき世界へと戻って行った。

 残されたのは、あそこに立つ資格がないほうの渡辺綱ただ一人。




「……さて、久しぶりだな、エリカ」

「……はい」


 以前と同じ光景。無数の歪な門が並ぶ中、エリカ・エーデンフェルデが立っていた。




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 周辺の景色もお互いが立っている位置も前回とまったく同じだ。まるであの時の続きであるかのような錯覚さえ覚えるほどに。

 しかし、俺を取り巻く状況はあまりにも変化していた。地獄を経験してきた俺も、それを見ていただろうエリカにしても同じだろう。


「どこまで把握してる?」


 お互い、再会の挨拶など不要だろう。単刀直入に本題から切り出す。まさかこのタイミングで現れて、あのエリカとは別人ですとは言うまい。


「渡辺綱を基点として観測していたので、おおよそは……。正直、天地が引っ繰り返ったような気分ですが、あくまで見ただけなので正確に把握しているとは言い難いと思います」


 以前、エリカに聞いた話を基準にするなら、それも仕方ないだろう。情報量が違い過ぎる。エリカが知ってるのは未来とはいえ在るべき世界のもので、その表面を知っていたに過ぎないのだから。

 だが、見ていたのなら今更エリカと答え合わせをする必要はないはずだ。しかし、ここでやらなければいけない事はある。……主導権を握るべきは俺でなくエリカだ。


「……い、いやー、すごいですねー。シャドウとはいえ、まさかLv60全員抜きするとか」


 しかし、何から切り出せばいいのか分からないのか、エリカはあきらかに直接本題に入る事を避けている。

 ここまで来れば時間は関係ないだろうと、俺も話に乗る事にした。


「Lv80には手も足も出なかったけどな。……なんだ、あの燐ちゃんの化け物っぷりは」


 次に顔を合わせたら燐さんって呼んでしまいかねない。……機会、あるかな。

 S6シミュレーターを使ったのは体感的にはつい数日前の事のはずなのに、それが遥か昔の事に感じるほどに色々な事があり過ぎた。


「他の人はそこまで違いませんけどね。燐さんだけは本当に私たちの中でも一つ二つ抜き出てたので」


 一つ二つで済んでしまうあたり、お前も他の連中も怪物だがな。


「s1が燐さん、s6が私って事は分かると思いますが、他のメンバーも興味ありますか? 良かったら画像付きで解説しますけど」

「……そうだな」


 正直、そこまで気にしていたわけではないが、すぐに本題に移る気も起こらない。時間経過が緩やかなここにいる以上、脱線しても問題はないだろう。……そもそも、術者であるリリカはすでに戻ってしまったし、ここが通常の《 魂の門 》であるのかも怪しいのだが。


「えーとですね……あ、やっぱり画像はなしでもいいですか? ちょうど切らしちゃってて」

「別に構わない」


 バツの悪そうな笑顔を見せるエリカだが、多分俺に画像を見せるのは不都合があったのだろう。とっさの話題変更でそれを忘れていたんじゃないだろうか。

 それからエリカの口から語られたのはどれも表面上の情報だけで、以前セカンドから聞いた解説と大差ないものだった。

 違うのはその正体がはっきりしているという事で、s5がセカンド本人という事もあきらかになった。それ以外にs4が摩耶の妹という事実に驚きもしたが、なるほどと納得もした。どことなく関係を窺わせるものを感じていたのだ。あと、摩耶と摩那で字が紛らわしい。

 ただ、s2とs3については俺の"知らない人物"らしい。s2はカミル、s3はルナという名で、冒険者になったのは星の崩壊後という話だ。説明の際に時々口調が鈍っていたのは、俺に言うと気にするような内容を避けているのではないかと思い至りもしたが、この場でそれを追求するつもりもなかった。


「その六人が未来でのトップって事か」


 人材が激減しているだろうにも拘らず、良くもそこまでのメンバーを揃えたものだと素直に感心する。

 単純比較などできないだろうが、元の世界の< アークセイバー >や< 流星騎士団 >を合わせても、あれ以上の六人パーティは作れないだろう。


「私たちの次になると、第一〇〇層を突破できるかできないかくらいでしたけどね」

「お前らの現時点での記録は何層なんだ? まさかダンマス超えてたりはしないだろ?」

「あはは……さすがにそれは。第……四四四層です」


 なんでそんな中途半端なところで攻略止めてるんだろうか。無限回廊深層の事なんて知らないから何かあるのかもしれないが……。まさか、ゾロ目でキリがいいっていうしょうもない理由じゃ……なさそうだな。そういえば、ダンマスだって似たようなもんだ。

 ……エリカの表情を見る限り、どうやらコレも言い難い理由があるらしい。地雷ばっかりだ。


「色々、話題に気を使ってもらうのもなんだ。……そろそろ本題に入ろうか」

「……はい」


 エリカが気を使わなければいけない理由などない。俺の事を案じてというのは分かるが、この先比較にならないほどロクでもない事を突き付けられるのが確定しているのだから。

 エリカに会話の主導権を渡すつもりでいたが、それなら俺から踏み込むべきだろう。


「まず、お前の問題からだ。星の崩壊は事象の連鎖の末端で、《 因果の虜囚 》に纏わるイベントの結果によるもの。直接的な原因はダンマスの暴走。暴走の原因は那由他さんの死亡。那由他さんを殺したのは俺の対存在であるイバラ。そのイバラは因果の虜囚である俺が死亡する事によって目覚める。それらすべては裏の世界で起きた事。……残念ながら、原因が分かったところで、未来で何かができるような問題じゃない」

「そう……ですね」

「星の崩壊だけで済んでいる以上ダンマスは死んでないんだろうが、行方不明なのは変わらず。見つけたとしても正気とは言い難い。助力を乞えるかどうかはかなり怪しい」


 脳裏にチラつくのは、あの時見たピエロの嘲笑。以前懸念していたように、もしもアレが表に出てきているのだとすれば、それはもう俺たちの知るダンマスではない。

 まさか、クーゲルシュライバー出港時に出現したのは、そろそろ自分が表に出るぞと主張していたとでもいうのだろうか。そんなバカなとは思うが、本体があのダンマスだけにないと言えないのが怖いところだ。


「お前がそれをできるかは分からないが、ここから過去に飛んでもイバラを止める事はできないだろう。そこに至る前提条件を崩すのも厳しいはずだ」

「あれだけ強烈な特異点なら、どのみち多少の干渉は修正されるでしょう。それ以前に私は現実世界に対して物理的に干渉する能力はありませんし、そのための力も残ってはいません。これが干渉できる最後のチャンスですから」


 そうだ。エリカは以前干渉ができるとしてもあと一回と言っていた。ならば、ここが最後の干渉だ。

 未来に戻って休息をとるなりして戻ってこれるというのなら話は別だが、わざわざ回数を明言しているあたり、この過去干渉にしてもかなりの制限が存在すると思っていいだろう。


「根本的な問題をどうにかする方法はおそらく……ある。俺が目を逸しているだけで、それはあると提示されている。だが、間違いなくろくでもない方法で、ろくでもない代償を要求されるんだろう。……そして、お前にとって最大の問題は、俺がそれを行う事で在るべき世界がなくなる事だ」


 ゲルギアルが見た、唯一の悪意が言った、剥製職人からフィロスが識った、そして俺が目を逸している手段は、それらをすべて引っ繰り返す類のものなのだろう。どれだけの代償が必要になるか、俺の覚悟が必要になるかは分からないが、それに準ずる結果をもたらすものだ。

 しかし、そうして改変された世界が続くという事は、その表側であるこの世界が消失する事を意味する。

 それは即ち、目の前にいるエリカ・エーデンフェルデの存在を否定する事なのだ。


「……結局、渡辺綱はどうする……いえ、どうしたいんですか?」


 エリカから放たれたのは、それまでと打って変わって単刀直入な問いだった。


「分からない。どうしたいのかも分からない。ようやく自分の原罪とやらに目を向けるつもりになっただけだ。……ただ、その中身を思い出していないって事は、どこかでまだ目を背けているからなんだろう」

「その原罪というのは、この世界を否定する事……した事だけではないと?」

「……おそらくはな」


 俺がいた世界とこの世界は表裏一体。どちらかしか存在できない。

 俺のいた世界を残す。あの行き止まりの先に向かう、作り出すというのはそのままこの世界の否定に繋がる。それだけでもロクなもんじゃない。

 問題は……今の俺でも、それが理解できてしまうという事。つまり、目を逸している原罪はこれではないのだ。

 エリカや在るべき世界を丸ごと否定し、なかった事にするよりも、遥かに受け入れがたい何かがまだ眠っている。


「俺が在るべき世界を否定し、自分の望む改変を行った。その結果があの世界だ。今在るべき世界が存在しているのも、俺が殺されて改変が途中で中断されているから。この先を書き換え続ければ、元々あったこの世界がなくなるのは必然。平行世界として並び立てるならともかく、ダンジョンマスターが存在するこの世界に、そうであったかもしれない可能性以上の世界は存在し得ない」


 表と裏はそういうルールの上で成り立っている。でなければ、可能性が一つに収束する世界の改変などできはしない。

 つまり、俺が最初から在るべき世界がなくなる事を前提として改変を始めたのは認めざるを得ない。その罪はすでに自覚している。

 そして、こうして本来在るべきだった世界を見せつけられて、改めてその罪の大きさを突き付けられている。眼の前に立つエリカ・エーデンフェルデはその象徴ともいえるだろう。


「多分、お前にとっての最良は俺をここから進ませない事だ。足止めでもいいし、殺してもいい。……いや、お前が望むのなら、それだけで俺の足は止まる。……お前だけにはその資格があると思う」

「私を言い訳に使うつもりですか?」

「…………」


 断罪の斧を渡そうとして返って来た、より鋭利な言葉に心が抉られる。

 言い訳……その気持ちがなかったといえば嘘になるのだろう。俺の頭の中はぐちゃぐちゃで、罪の意識が渦を巻いている。断罪を望んでいる。その断罪者に最もふさわしいのはゲルギアルでもイバラでもなく、エリカだという自覚があるからこそ、こうして理由を付けて止めさせようとしているのだ。……俺にこの先へ進む理由は……価値はないのだと。

 ……浅ましいな。自分の矮小さに呆れ返るほどだ。


 一つ、大きく息を吐いてエリカは続ける。


「……私の事は気にする必要はありません」

「……お前だけの問題じゃないんだぞ」


 見苦しく言い訳に使おうとしている事も確かだが、世界が上書きされるのは事実なのだ。自分の世界が残るよう肯定するのならともかく否定するなど、エリカだけで容易く決断していい事とは思えない。

 この世界にこれから待ち受けているのは星の崩壊という破滅だ。しかし、それを生き延びて一定の文明を保っているからこそエリカがここにいる。世界を改変し上書きするという事は、それらをまとめて否定する事なのだから。


「本当は言うつもりはなかったんですけどね……。知る事で渡辺綱の重荷になるのは分かっていた事ですから」

「……なんの話だ」


 察するに、それはきっと俺にとっての知りたくなかった事実なのだろう。


「私は、未来に……月に戻るつもりはありません。初めからそのつもりはなかったんです」

「……何、言ってるんだ? お前が過去に来たのは……」

「ええ、私の目的は星の崩壊を止める事。それは変わりません。……でも、それはただの自己満足のようなもので、それによって何かを成そうというつもりはないんです」

「おかしいだろ。お前は崩壊の原因を調査して、未来での問題をどうにかする気だった……はず」

「そんな事言いましたっけ?」


 ……言ってない、のか? 俺が何か勘違いをしているとでも。


『正直なところ、どんな影響があるかは分かりません。ほとんど藁にも縋る思いで干渉しているというのが実情です。因果の流出で歴史自体が変わる、なんて都合のいい事はないでしょうが、せめて世界崩壊の原因でも分かれば対策の取り方も変わってきますし』


「いや、……明言してはいないが、それを前提とした会話はしていたはずだ」

「そうですね。わざと誤解を招くような発言をしました。……だって、そのほうが自然でしょう?」


 どういう事だ。意味が分からない。なんでそんな回りくどい事を。

 元々到底信じられないようなネタを伝えるためにやって来たのだから、それも含めて説明すればいいだけの話じゃ……。


「何か別の目的があるとか。それともまさか、警告をするためだけに過去へやって来たとでもいうのか?」

「はい」


 ……それを断言するのか。違う目的があって隠していたわけですらないと。


「納得できないでしょう? こんな、時間を遡ってまで滅亡の警告をする者が、なんの目的も持っていないなんて」

「……それは、当たり前だろ」

「まったくないってわけじゃないんですよ。星の崩壊を止めて、あんな未来が訪れない世界があって欲しいとは思っていたんですから。燐さんや……マナ、セカンド、会った事はなくても両親が幸せに過ごせる世界が在って欲しかった」


 そんな、ささやかな願いだけしかないというのか。


「そもそもの話、戻る手段なんてないんですよ。私がここにいるのは《 魂の門 》の第三門を開いた結果です。肉体を捨て、魂だけの存在となって初めて世界の理から解き放たれる。肉体を残したまま時間を遡る事なんて……少なくとも私にはできません。私には帰る場所などない」


 俺はエリカがどういう手段で過去へとやって来たのか聞いていない。こんなところに現れる以上、《 魂の門 》に関連する何かだとは思っていたが……。


「少し昔話をしましょうか。……といっても、ここから見れば未来の話ですが」


 聞かないわけにはいかない。それがエリカが俺のために隠していた事実で、目を逸したくなるような事実だと分かっていたとしても。……これ以上目を逸して、一体どこに向かえばいい。俺の前にはすでに行き止まりの壁しかないというのに。


「大崩壊のあと、次代のダンジョンマスター……エルシィさんが築き上げた月の都市は極めて歪な構造をしていました。冒険者が無限回廊を攻略するためだけに効率化された都市なんて正常であるはずがない。迷宮都市は上手く誤魔化していますが、月ではそれを取り繕うだけのリソースがなかったから、そうなるのは必然であったと言えます」


 迷宮都市の在り方が歪である事は、そこに住む住人を含めて誰もが自覚している事だ。しかし、それを隠さずに娯楽として表に出し、非現実性で迷彩する事によって、冒険者を含めた大衆の意識を誘導している。それには多大なリソースを必要とするのは明白で、星の崩壊なんていう大災害を経て、そんなリソースを確保する事などできはしない。どこかで問題が起きるのは明白だ。


「管理された社会でも、十分な食料、衛生、娯楽、休息が提供され、生きるのに不自由がなければ問題が表面化し辛い。とはいえ、歪な構造で作られた歪な社会は時間を追うごとにその形が歪んでいき、特有の社会問題も無数に発生していました。それでも、希望があればとりあえずの体裁は整えられた。自分たちがいるのが希望に至るための通過点という自覚があれば、不満を飲み込む事はできると」


 どれだけのディストピアだろうが、明日をも知れぬよりはいいだろう。それでも人が人として生きる以上、どこかで問題は発生する。満たされていれば、それ故に小さな不満が気になるのが人間なのだから。


「でも、その希望は砕け散ってしまった」

「砕け……た?」

「以前、火星にあるダンジョンの話をしましたが、その攻略とその後に続く移住が月の住人の希望となっていたんです。重力制御を間違えれば本星の崩壊に巻き込まれるような危険もなく、ダンジョンマスターも本来のポテンシャルを発揮できる。一からの出発になるとしても、それは確かな未来として人々の希望になった。そして、それを行う計画は私たち六人を旗頭として実行直前まで進んでいました」


 火星移住の話は、現実的なプランとして存在していたのか。


「でも、その計画が実行に移される事はなかった。……破局を迎えたのは無限回廊第四四四層。そこで私たち六人は終わりを迎えました」

「じゃあ、さっき言った現時点での攻略層は……」

「そのまま最終攻略層です。私はその先には踏み込んでいないので」


 現在の攻略層と聞かれて、言い淀んだのはそれが原因か。


「無限回廊第四四四層。ゾロ目というくらいで、特に何かの区切りでもない通常の層です。おそらく、管理者権限もここには存在しないでしょう。そんな層で私たちは一体の鬼と出会いました」




-2-




「……お……に?」


 ……なんだ、それは。この話の流れじゃ、まさかそれは……。


「《 看破 》できたわけではありませんが、今なら正体の想像はつきます。アレはおそらく渡辺綱の対存在……」

「……イバラ」


 エリカは黙って頷いた。

 あいつが未来にいた? 何故、イバラがそんなところにいる。いや、分からなくはない。星の崩壊が奴の産声だとするのなら、未来にいたとして何も不自然ではない。そんな事はどうでもいいんだ。今、重要なのは……。


「……その結果は?」

「私たちの完敗です。突き付けられたのは、無限回廊のシステムによる復活すら行えない文字通りの死。無事だったのは燐さんと私、そしてバックアップから復元できたセカンドの三名だけです。それ以外の三名は……鬼に捕食されました」

「ほ……食?」

「この鬼は映像資料があります。渡辺綱は見ておくべきでしょう」


 エリカがそう言うと、なにも無い空間に一体の人型が投影された。

 目算からして三メートル前後の巨躯。鋼のような分厚い筋肉とそれを包むどこか和風な甲冑は、凶悪な面構えと合わせて正しく鬼を体現しているといえるだろう。そして、得物は左手に持つ体躯よりも更に長い大太刀。そして、左肩から手にかけてを覆う甲冑と不揃いな腕甲は、俺の< 童子の右腕 >の対であるかのような異彩を放っている。


「これが……イバラ」


 そういった存在がいるという情報だけで、出会った記憶はない。しかし、俺の奥底にある何かが、これがイバラであると訴えている。……これが俺の死であると。


「相見えるつもりなら、右腕に気を付けて下さい。どんな仕組みかは分かりませんが、あらゆる防御を貫通してくる《 暴食の右腕 》に囚われたが最後、魂諸共粉砕され、捕食されます。那由他さんを殺害したのも、おそらくはこの右腕でしょう」


 脳裏に浮かぶのはシミュレーターで立ち会った六人のシャドウ。俺はその途中経過であるLv80に手も足も出なかったのに、その完成形を六人まとめて一蹴するというのか。


「じゃあ、あのS6のシャドウの元になった冒険者は……」

「私のいた時間軸ではすでに半数が故人です。そこが私たちの旅の終わり。半壊したパーティは機能しなくなり、予定されていた火星のダンジョン< マーズ・ディザスター >の攻略は白紙化されました」


 馬鹿な……。


「それは月の希望が潰えた事を意味します。住人の負の感情が伝染し、膨張して、社会構造は限界を迎える中、新しく別の何かを見出そうとするには無理があった。燐さんもセカンドも私も、そこから立ち上がる事はできなかった。ダンジョンマスターにしても同様……いや、あの人に関しては、最初から希望など持っていなかったかもしれない。杵築新吾が姿を消した時点で、ただ惰性のまま生きていたようにも感じます」


 ただ淡々と並べ立てられる結末に、言葉が出なかった。


「住人がすべて死滅したとか、都市が物理的に崩壊したという事実はありません。しかし、月の政府は反体制派が持ち出した冷凍睡眠による文明凍結を認め、ダンジョンマスターもそれを受諾。ほぼすべての住人は永い眠りにつきました。セカンドはダンジョンマスターの演算装置として直結され、その人格を封印。燐さんは唯一人、誰も伴わずに無限回廊の超深層へと旅立ちました」

「……お前は?」

「私も似たようなものです。今となっては自分の動機にも自信を持てませんが、行方不明になった母を追ったのか、魔道の深淵を求めたのか、あるいは逃避先としてちょうど良かったのか……。《 魂の門 》を起動し、第三の門へと至り、物理世界から消滅しました。……ここにいる私はその結果です」

「…………」

「だから、終わった世界……終わる世界の事を持ち出して言い訳にする必要はありません。無論、生きている人はいますが、少なくとも私は反論を認めない。誰にも認めさせない」


 そう言い放つエリカの言葉に、自分が追い詰められているのを感じていた。

 そして、俺はこの後に及んで目を逸し続ける……続けざるを得ない言い訳を探していた事を自覚していた。


「平行世界とはいえ、可能性があるのなら足掻きたかった。会った事もないとはいえ、両親が生きる世界を一つでも残したいと思うのはおかしな事でしょうか? 終わった世界とはいえ、それを差し出すのは罪深き事でしょうか? いえ、これが罪だとしても構いません。その結果が、あとには繋がらない自己満足の死でもいいじゃないですか」


 やめろ。これ以上、俺を追い詰めるな。

 エリカにも燐ちゃんにも未来の月都市にも、そしてそこへ至るだろう在るべき世界の迷宮都市にも救いはないなどと、俺の行為をわずかにでも肯定するような言葉を言わないでくれ。


「この先で渡辺綱が何をするのか、その結果どんな事が起きるのかは分かりません。ですが、改変されずとも私の道はここで終わり。《 魂の門 》に存在する無数の魂に溶けてなくなるだけの存在です。そんな存在を気にかける必要などない。……だけど、あなたの道が続けば、少なくともあなただけはここに私がいたと覚えていてくれる。それは多分、私にとっての救いになる」


 俺の罪深き決断に意味を持たせないでくれ。


「渡辺綱。……どうか、私の名を忘れないで下さい」

「……エリカ」

「そう。……私はエリカです。エリカ・エーデンフェルデ。もう一つの名前は渡辺エリカっていうんですけどね」


 気付いていた。気付いていたのに、目を背けていた。情報を集めれば簡単に分かる答えだ。だって、それしか有り得ない。

 そして、それを認めてしまえば、俺は自らの娘ですら存在を否定しなければならなくなる。

 この先に待っているのは、そんな悪魔の選択なのだから。


「渡辺綱。あなたに託すものがあります」

「……なんだ」


 そう言って、エリカの手に出現したのは光だ。


「《 OVER THE INFINITE 》、無限回廊虚数層へと至るための鍵です」


 形状が珠でないものの、この光はスキルオーブと同種のものという事だろう。フィロスが《 因果への反逆 》を用意したように、エリカも何かを託そうというのか。


「虚数層?」


 だが、虚数層とはなんだ。管理者に用意されたというマイナス層とも違う何かなのか。


「無限回廊内部からでは決して辿りつけない、存在しないはずの場所。このスキルを持つ者だけがそこへアクセスする権限を持ち得ます。辿り着いただけではなんの意味もないでしょうが、あなたには必要になるでしょう」


 それは、暗に自分にはもう必要のないものだからと言っているのと同じだった。どちらにせよ、自分にこの先はないと。

 だから黙って手を伸ばす。無駄にする事はできないと。この子の決断と存在がわずかにでも残るようにと。


 俺はいつでも誰かに背を押されて歩いて来た。きっとそれは自分一人では立てない弱い存在である事の証明なのだろう。

 そうやって無数の何かを背負い込み、潰されないようにその重みで歩き続けるのだ。

 ……いつか、耐えられなくなるその時までの無限に等しい道のりを。


[ スキル《 OVER THE INFINITE 》を習得しました ]


 その瞬間、スキルの本質を理解した。

 これは《 オーバーシステム 》ツリーに存在するスキルの一つ。《 オーバースキル 》や《 オーバークラス 》、ユキが使用した《 オーバードライブ 》と同カテゴリのスキルだ。

 これ自体はただの鍵。虚数層に足を踏み入れるための権限に過ぎない。しかし、それは同時に無限回廊システムの深部へと到達し、限界を超えるための力でもある。……そして、エリカの存在そのものともいえるのだろう。

 ……こんなものを受け取って尚、足を止める事などできるはずがない。


「……さあ、もう行って下さい。この先にあるのはきっと、私にも想像が付かないような過酷な現実でしょうけど……そこでどんな決断をしても私はそれを肯定します」

「……背負ったものに押し潰されて、耐え切れずにすべてを投げ捨てても?」

「それでもいいじゃないですか。渡辺綱がこれから背負うものすべて……いえ、ここまでで背負ったものだけだって、受け止め切れる人間はどこにもいません。私は両親が少しでも幸福に過ごせる世界が欲しかったのであって、重荷に潰されて欲しかったわけじゃない」


 もう取り繕う事も誤魔化す事のない言葉。


 光が溢れる。それはエリカの存在が消えゆく光なのだろう。

 涙で視界が滲む。しかし、目を逸らす事などできるはずがなかった。

 手を伸ばし、抱きしめる事はできる。しかし、俺にはその資格がない。それが許されるのは在るべき世界の渡辺綱とリリカ・エーデンフェルデだけなのだから。

 俺がそう考えている事は分かっているかのようにエリカは微笑んだ。


「それでも尚立てるというのなら、渡辺綱……どうか、世界をお願いします」

「エリカ……」




 そうして、エリカ・エーデンフェルデは消失した。




-3-




 ただ一人残された空間でどれだけ立ち尽くしたのか。感傷に浸る事など許されないと、そんな資格はないと歩き始める。

 目指すは本来の第一の門。リリカが帰還済みな今、《 魂の門 》が正常に機能するかどうかは賭けに等しいかと思ったが、どうやら門は以前と変わらずに存在していた。


 正確な事は分からないが、《 魂の門 》はあくまで精神世界への接続を行うための補助ツールなのだ。術者とのリンクも、負荷分散兼命綱のようなもので、そういった補助が必要ないのなら精神世界はそのまま存在している。

 術者がいない以上、万が一の保険は存在しない。この世界での死はそのまま魂の死を意味する。しかし、元より今の俺には体がない。ここに至るために間借りしたのは表の世界の渡辺綱の体であって、俺のものではない。俺の体は裏の改変世界でゲルギアルに惨殺されて、そこで終わりを迎えている。だからこそ、行き場のなくなった魂が本来在るべき世界の俺へと移動したのだろう。


 おそらく、《 魂の門 》は世界を超えて繋がっている。それは元の改変世界も同様で、魂のみになる事を許容するのなら、第三の門の先で世界移動する事も可能なのだろう。それだけでなく同一世界の過去へとアクセスする事すら可能なのは、エリカが実演して見せた通りだ。

 ならば、俺は元の世界に戻る事ができるのか。……戻るだけなら可能だろう。

 しかし、戻ったところで干渉するための体がない。エリカと同じように《 魂の門 》を経由して干渉するくらいなら可能かもしれないが、それは大した意味がない。それではせいぜいリリカに対して警告をするくらいしかできない。


 だから、どこかでこの大前提を覆す必要がある。

 やらなければいけない最低限は、干渉可能な手段を持って元の世界へと戻る事、その上で那由他さんを救うなりイバラを殺害するなりで星の崩壊を止める事。言葉にすれば二つだけだが、途方もないハードルだ。現実味がなさ過ぎて笑えてくる。


 しかし、手段はある。あるという事だけははっきりしている。

 それがどんなものなのかが分からないのは、ここに至って尚俺にその資格がないから。

 臆病な渡辺綱は、まだ目を逸している。だが、どこの世界に自分の娘を世界ごと消し去る以上の罪があるというのか。


 明確に道筋を覚えていたわけではないが、第一の門へと辿り着いた。

 門から放たれるプレッシャーは変わらず。しかし、そんなものは屁でもないと足を踏み入れる。




 視界が切り替わった。

 それは前回同様に山道だ。多分、同じ道を辿れという事なのだろう。

 ただし、俺はすでにその光景があり得ないものだと識っている。ここが群馬のどこかは分からないが、山道らしき道は崩れ、周りの樹と共に変質している。これが、本来在った惨劇の形だと突き付けられている。

 急ぐ必要はない。距離も気にする必要はない。ただ、足を動かして再度東京を目指す。それだけで目的地には辿り着くだろう。


「しかし、ひでえ光景だ」


 改めて見てもロクなもんじゃない。唯一の悪意が出現し、それに便乗して無量の貌が干渉した世界は地獄と呼んで差し支えないものだ。

 あらゆるものが歪み、空が罅割れ、顔と名前を失った存在が跋扈し、命ある者が等しく殺し合った絶望の爪痕とでも呼ぶべきか。心弱い者はこの光景を目にするだけで発狂しかねない、そんな絶望の世界を歩いて行く。


 こうして歩き、観察する事で、以前は気付けなかった情報も確認できた。それもまた恐怖故に目を逸していた事の一つなのだろう。

 ここにはいないが、かつて異形と呼んでいたものはやはり俺が知る情報の中に含まれない事も確信できた。

 アレはカオナシでも悪意で歪んだ現地の生命体でもなく、完全に起源を別とする存在だ。悪意に歪んだところで人は人、動物は動物、モノはモノ。何かしらの痕跡は残る。犬が凶暴化しようが巨大化しようが、それが犬である本質には変わりがない。あの起源の異なる異形の生命体は、そういった痕跡を持たなかった。もっと無機質で、俺たちの知る生命とは根源からして違うものなのだ。いや、唯一の悪意の起源が情報体などという意味不明なモノである以上、生命体であるかどうかも怪しい。今にして思えば俺の左腕だったものも、そういう未知の存在に感染していた可能性が高いだろう。

 ……つまり、無量の貌とは別にそうやって世界を滅ぼしている因果の虜囚が別にいる。しかも、おそらくは複数。俺たちが異形と呼んでいたモノはまったく未知の存在を一括りにしているに過ぎないのだから。

 俺はここまでに皇龍、ゲルギアル、無量の貌と、三体の因果の虜囚に出会っている。そして、出会ってこそいないものの、剥製職人やイバラという存在がいる事を認識している。そこに俺を加えて六体。これが俺の知る因果の虜囚の数だ。

 しかし、唯一の悪意が数多の世界を股にかけて虜囚の候補者を探しているのなら、それはあまりに少ない数といえる。当たり前だが、これだけのはずがない。前世の地球に干渉してきた存在にしても、膨大な数が存在する未知の虜囚の内、数体にしか過ぎないのだろう。

 無数に存在する宇宙には、同じように無数の虜囚が存在している。俺が知る六体など、その一端にも過ぎない。

 因果の虜囚はお互いが殺し合うべく定められた存在だ。その構造上、すべての虜囚と相見える事はあり得ないが、唯一の悪意に辿り着くつもりなら、数え切れないほどの因果の虜囚と対峙する必要がある。


 悪意に囚われ、妄執に固執する虜囚のほとんどは、ベレンヴァールが掲げているような正義の元に断罪されるべき存在なのだろう。

 そこに至る理由があったとしても、そんなものは言い訳にすらできないほど明確な悪。俺を含め、それほどに罪深い存在が因果の虜囚なのだ。俺はそんな連中と張り合うためのステージに立とうとしている。


『誰に聞いても、何よりお前自身がお前を罪人と呼ぶだろうよ』


 記憶の底で唯一の悪意が囁きかける。その声は俺が目を逸している罪の断片だ。

 足取りが重くなって行く。世界の亀裂に向かうにつれて、俺の罪が背に伸しかかってくるかのような錯覚を覚えている。

 この重みは俺の弱さ。散々目を逸し続けた、贖罪すら許されぬ罪の重さそのものなのだ。


――それは、一人の人間が背負うにはあまりにも重すぎる業である――


 因果の獣の声が聞こえる。第二の門の手前で待つ俺自身の声が。


――唯一の悪意はあまりにも巨大で、それを討伐するために人間という器はあまりに小さ過ぎた――


 そうだ。数多の世界を股にかけ、存在するだけで世界を滅ぼすような巨大な存在に対し、人間はあまりに貧弱だ。

 皇龍しかり、無量の貌しかり、並び立たなければいけない存在は生物としての格が違い過ぎる。いや、むしろそういった数万年を平気で生きるような存在こそが基準で、人間などが同じステージに立てると思う事のほうが愚かといえる。

 原初の龍人ゲルギアル・ハシャは元人間だが、その在り方は人のそれを凌駕している。そのゲルギアルにしたところで、龍の因子を取り込み、その身を龍人へと作り変える事でようやく他の因果の虜囚と並び立てている。そういった意味ではネームレスのほうがよほど向いていると言っていいだろう。

 ダンマスのような例外が存在する以上、土台としての生命の格は絶対ではない。しかし、あきらかに優劣は存在する。

 ……本来、そんな矮小な存在が因果の虜囚として選ばれるはずはない。


――元々、渡辺綱は亀裂の先で何も成せずに死ぬ運命だった――


 唯一の悪意とも邂逅せず、因果の虜囚になる事もない。それが本来在るべき渡辺綱の末路。

 平行世界に存在する《 因果の虜囚 》を持たない渡辺綱の姿はその結果で、無数に存在する可能性によって様々な人生を歩んでいた。

 そう、それが最初の形。星の崩壊も発生せず、ただただ平凡な人生を送るだけの存在が在るべきだった渡辺綱のカタチ。

 その中には迷宮都市で冒険者として生きる渡辺綱もいた。その渡辺綱はリリカ・エーデンフェルデと結ばれ、一人の娘を授かったのだろう。ダンジョンマスターの存在する可能性が収束する世界だから、それしか有り得ない平凡な世界といえる。


 《 因果の虜囚 》となる渡辺綱は、その未来を見せつけられた。

 地球を、大切な人たちを蹂躙した唯一の悪意に抗おうともせず、ただ平凡に過ごす男の姿を。


――それが、唯一の悪意が望んだ心の隙だ――


 唯一の悪意は死の直前にあった渡辺綱に囁きかける。憎くはないのかと。

 当然だ。消し去ってやりたいほどに憎いに決まっている。それが意図的に増幅された悪意である事には当の昔に気付いている。だが、その土台にはやはり憎しみは存在するのだ。そうして黒く塗り潰された悪意に触れても、矮小なる人の魂では足りない。転生のシステムを利用し、繰り返してもまだ届かないだろう。渡辺綱は《 因果の虜囚 》になるための器を持ち得ない。それが結論だったはずだ。


『世界を食らえ。食らって次のステージへと進め』


 それを超える手段として唯一の悪意から提示されたのは、あまりにも巨大な罪だった。

 眼の前に存在する世界を捕食し、その因果ごとすべてを取り込み、存在としての格を上げろと。


『なに、どうせこの世界は終わる。唯一の悪意が接触した時点で抗う事のできない終末が定められている。ならば、それを捕食したところで結果は変わらない。むしろ、無駄になるモノを有効活用してやっていると言ってもいい。お前はただトリガーを引くだけ。そうして取り込んだ因果が、悪意が、激情がお前を強くするだろう』


 馬鹿げている。どれだけ憎かろうが、そんな個人の感情で世界を滅ぼしていいはずがない。


『いい事を教えてやろう。唯一の悪意が因果の虜囚を掬い上げるのはその世界群でただ一つだ。平行世界がいくつあろうと、多様性の観点で見ればそれ以上は不要という自ら定めたルールに従っている。逆に考えるならば、拒絶した候補者がいるのならその手は平行世界まで伸びる。無数に存在する渡辺綱の内、一人くらいはその要求を呑むだろう。お前の代わりはいくらでもいる』


 突き付けられたのは、俺がトリガーを引かなれければ引く俺を探すだけ、そうして平行世界を滅ぼし続けるという脅迫だった。

 いや、この時点ですでに繰り返された要求なのかもしれない。見せられた転生後の渡辺綱は、あるいはトリガーを引かなかった渡辺綱の姿ではないのか。


『さあ、食えよ渡辺綱。世界と因果を食い千切り、挑戦者としての資格を手に入れろ』


――そうして、渡辺綱の捕食器官としての我が生まれた――


 誕生した因果の獣が世界を食らい。そこに存在する因果を食らい。渡辺綱は因果の虜囚としてステージへ上がった。

 それこそが渡辺綱の原罪。唯一の悪意憎さに自らが生きた世界を食らった外道が俺……因果の虜囚である渡辺綱だ。


 因果の虜囚となった事で左腕だったモノが更に変質し、イバラが生まれたのもこの時。

 俺は自らが滅ぼした世界の最後を見ながら、イバラに捕食され、死んだのだ。




-4-




 眼の前にある世界の亀裂を見上げる。

 ここに来るまでに思い出した、自覚させられた渡辺綱の罪はあまりにも重く、取り返しのつかないものだった。

 あまりの重さに何度足が止まりかけただろう。しかし、結局はここに立っている。

 この背に抱えたものの重さは、決して立ち止まる事を許してはくれない。重いからこそ立ち止まれない。それを無駄なモノにするわけにはいなかったから。


 一歩、亀裂に向かって足を踏み出す。

 見えているのに果てしなく遠く感じられる。辿り着けないのは、こうして苦しんでいるのは、未だ原罪のすべてを認めていないからと言われているようでもあった。

 ……そうだ。これらはあくまで原罪。世界を食らい、滅ぼしたのは罪の根源に過ぎない。

 何故ならば、俺はそれ以外の罪のカタチを知っている。ここまで幾度となく見てきた、消失した平行世界、歯型の痕跡は繰り返されてきた罪のカタチそのものなのだから。


――その通りだ――


 ふと、顔を上げれば、そこに因果の獣がいた。蜘蛛のような複数の手足を持つ、俺の罪のカタチが。


――自らの生まれた世界を食らい、因果の虜囚となった渡辺綱はその罪に耐えられずに壊れた。取り込み、逆流した因果の重さに押し潰された。我は、そういった罪を直視できない渡辺綱の弱さを体現している――


 ずいぶんと強そうな弱さもあったものだ。まあ、おそらくその外見は土蜘蛛を連想した結果なんだろうが。


「言え、因果の獣。何をすればチャンスに手が届くのかを」


 そのためにここまで来た。表の世界と決別し、エリカの存在を否定し、積み重ねた罪の一端に目を向けて。


――お膳立ては済んでいる。お前はただ罪に目を向け、受け入れればいい。それで最低限には手が届く――


 まだ、見ていない罪がある。ここまでで向き合ったのは、あくまで俺が因果の虜囚となった経緯のみなのだから。


――順に語ろう。最初に在るべき世界があった。お前が見てきた因果の流出した表世界ではなく、星の崩壊が発生しない世界だ――


 それはすでに失われた世界。ひょっとしたら、リリカと結ばれ、エリカが生まれ、幸せなままに老衰して死ぬだけだったかもしれない世界。痕跡しか残されていない、俺が否定した世界だ。


――因果の虜囚となった渡辺綱は、世界の改変を始める。求めたのは唯一の悪意へと辿り着ける可能性。代償はその平行世界の因果。都合のいい世界をカタチ創るために、その周りに存在した平行世界を犠牲にした――


「ダンジョンマスターが存在し、可能性が収束する世界は因果の収集に都合が良かった」


――そう、泡のように発生して消えていく隣接世界はそういった因果を捕食するのに最適な構造をしていた――


「そうやって最適化を続け、迎えた限界点がゲルギアルに惨殺されるという結果だった」


――いくら可能性を探っても、アレ以上に唯一の悪意へと近づく最適解は有り得ない。剥製職人が関与した部分を加味しても、あそこが限界点。そして、複数の因果の虜囚が干渉する特異点へと至ったのが……至ってしまえたのが悲劇の始まりだ――


「強過ぎる因果が流出し、流出した因果は未だ改変される前の表世界、そして平行世界を汚染した。原因がなくとも星の崩壊が発生する、滅亡が約束された世界が完成してしまった」


 俺が改変した世界以外、どの世界を探してもイバラは存在しないはずだ。原因が存在しないのに、星の崩壊という事象だけが発生する構造が出来上がってしまっている。


「俺が賢明で、自らの罪に目を向けていたならそれで終わりだった。しかし、お前という半自律した器官が逆転の目を探した」


――我はある意味独立した捕食器官だ。最適解を求め、そのために因果を捕食する。本体が止めない以上、自動的にそうするように創られている――


 逆転の目はすでに用意されている。因果の獣は、あのどん詰まり、先の存在しない行き止まりを打開すべく、自動的に代償を求めた。存在し得ない隣接世界のみならず、遠く平行世界にまで捕食の歯型が残されているのがその代償だ。

 そう、すでに代償は支払われてしまっている。数多の平行世界の中で、この世界の周囲に何もないのは獣が……俺が捕食した結果なのだ。

 俺は自分の弱さ故に、有り得ないほどの冒涜を積み重ねている。そして、その弱さから目を逸し、因果の獣だけにそれを背負わせてしまっている。

 ……これが罪でなくてなんだというのか。


――世界を食らい因果を食らう事は、そこに在ったはずの世界、可能性を否定し、なかった事にする……わけではない。それに留まらない。因果を食らうというのは、そこに在り、そこから生まれるはずだった数多の可能性を奪い、糧とする事。すでに在るものを壊し、自らの血肉へと変える行為だ――


「それは罪だ。非難する存在すら根こそぎ食らうのだから、誰が責めるわけでもない。責められる事すら許されない。それは己自身にのみ課せられる罪に他ならない」


 両者は似て非なるものだ。否定し、なかった事にするのなら幾分かは楽だろう。だが、在ると知って尚自覚を持って"食う"のは世界を滅ぼすのと変わりない。だから、その罪をなかった事になどできない。なかった事にしてはいけない。

 それは確かに存在していたもので、俺が踏み躙ったものなのだから。


――故に我が汝を責めよう。貴様はあの無量の貌と同じ外道である、と――


「……そうだな」


 ……最悪最低の烙印を刻まれた気分だ。しかし、それは認めなければならない。

 現実から目を逸し、半ば自動的に行った所業とはいえ、渡辺綱が外道である事は紛れもない事実なのだから。


『内側で閉じて自己崩壊でも狙っているのか? それとも、それほどに懺悔がしたいのか? おお、私は罪深き捕食者です、と。嗚咽し、泣きながら喰らう罪の味はさぞかし美味かろう』


 ゲルギアルの罵倒が蘇る。

 しかし、それは非難されて然るべき罪なのだ。むしろ、指摘してくれる他者がいる事に感謝すらしなければならないだろう。


「……俺の愚かさ故に、周りに被害をもたらすような行為はもう止めだ。すべてを清算しないといけない」


 どこかで止めないといけない。誰にも指摘されず、非難されず、ただ必要だからと世界を食らい続ければ、その末路は無量の貌と同じ。

 唆されたとはいえ、本来ならば最初から手を出してはいけない。引き金など引いてはいけない。

 過ちと気付き、嘆くにしても最初の段階であるべきだ。それを自らの弱さ故にここまで続け、被害を拡大させてしまった。

 断罪されるならそれでもいいが、それができる存在はいない。それはすべて食らってしまったのだから。


――それが、人の身に余る行為だとしても?――


「散々人の身に余る罪を重ねてきた俺が、贖罪はできないと投げ出すわけにはいかない。何より、すでに支払われてしまった代償を無駄にするわけにはいかない」


 脳裏を過ぎるのはエリカの姿だ。俺はあの子の意思を背負ってしまった。


――まずは及第点といったところか。この先に挑む資格はあると認めよう――


 ここまで覚悟してようやく最低限度。壊れたゲーム盤に指を引っ掛ける程度でしかない。


――汝も知っての通り、状況はこれ以上ないほどに悪い。あとがない……どころではなく、道は存在しない。盤面ごと壊されたゲームを続けるつもりなら、再び舞台を作り上げるしかない――


「お前がここまで食らい、積み重ねて来た代償ですべてを引っ繰り返す」


――そうだ。世界の改変にはそれだけの大きな代償が必要だった。ましてや、あれだけの特異点で起きた事を覆すなど――


 だが、俺の弱さ故にそれをさせてしまった。


――改変すべきはあの特異点で起きた事象。それ以前に発生した事象を改変しても、特異点の強固な因果はそれを修正してしまうだろう――


 だから、改変すべきは特異点発生の直後。ゲルギアルと無量の貌介入からの事象をすべて改変する。


――幸い、世界の改変は特異点の中で留まっている。もし、わずかにでも条件が足りなければ、どれだけ代償を支払ったところで改変そのものが行えなかっただろう――


 おそらく、《 名貌簒奪界 》が終了すればそれで終了だった。

 空龍が死んでゲルギアルの勝利が決まっていてもアウト。俺があそこで殺される事すら、特異点の中から改変を行うには必要な事象だった。

 ……ゲルギアルはすべてを把握した上で俺を殺した。あいつは、条件を整えてやるからこの大博打を成功させてみせろと言っているのだ。


――選択の時だ、渡辺綱。我を食らい、渡辺綱の原罪と正面から向かい合い、認め、その上で新たな闘争の舞台へと向かえ。それが引き金を引き、挑戦権を得た者の歩むべき煉獄の道だ――


 因果の獣の奥にある世界の亀裂は第二の門などではない。因果の獣を食らい、原罪を受け入れる事が俺にとっての第二門なのだ。


 そこまでの覚悟をして、得られるのは挑戦権だけ。すべてを覆すにはまるで足りない。

 ここからはどん詰まりの壁を穿ち、開かれるのはひたすら続く一本道だ。途方もなく険しく、細く、先まで続いているかどうかも分からない最後の手段。それを踏破し切ったとしても、ようやく始まり。因果の虜囚として同じ土俵に上がれたというだけに過ぎない。

 最悪の運命。比類する事なき煉獄の道。だが、その道を選択したのは俺で、今求められてるのは続けるかどうかの確認でしかない。



 あの日、終わった世界ですべてを食らったあの瞬間、引き金はすでに引かれていた。

 ……最早引き返す道はない。いや、最初から存在しない。すべてを清算し、贖罪を果たすまで止まる事は許されない。

 誰もこの罪を糾弾はしない。非難すべき存在はすべて食らってしまった。だから、せめて俺自身だけは決してそれを許してはいけないのだ。



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