第9話「行き止まりに立つ悪意」




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 俺が目覚めたのはクーゲルシュライバーの内部と思われる一室。航行中に使っていた客室ではなく、家具も調度品もない空っぽの部屋だ。

 寝かされていたのも備え付けの寝台ではなくストレッチャーである。治療中、あるいは経過観察中というよりも、どこかへ運ぶ途中でとりあえずここに置いておかれたようにも見える。

 朦朧とした意識の中で見た景色は、ここに運ばれるまでに見たものだったのだろう。あのガウルたちが幻覚だったとは思いたくないが、今は周りに一人もいない。


「トマトとやらの実物は知らんが、迷宮都市ではずいぶんと変わった生物が存在しているらしいね。いや、今は私がそのものなわけだが」


 代わりに目の前に鎮座するのは、謎の不気味生命体。あの悪夢のような撤退戦、文字通りの死闘を潜り抜けた直後にこの不気味トマトちゃんである。

 いや、トマトちゃん自体はいいんだ。見かけこそアレだが、ここまでの旅路で一緒に戦ってくれた仲間でもあるのだから。

 問題は……なんで喋っとるねん。お前、半自律動作するロボットみたいなもんじゃなかったのか。あと、なんだその色は。


「以前の時はさして興味も惹かれなかったし、正直説明されるまで存在すら忘れていたわけだが、どうやら君はずいぶんと興味深い立場にいるらしい」


 ……以前の時?

 俺と面識があるっていうのか? というか、存在を忘れてたと言われても、こっちもお前がなんなのか分からない。むしろ、こんなに怪しい物体と関わり合いになりたくなかった。

 ……あ、これは夢か。やべえな、早く起きないと。寝てる間に何もかも手遅れでしたって事態は避けたい。どうせなら無量の貌が出現してからの事全部が夢だったら……。


「会話は可能ですか? 渡辺綱」


 直後、自動ドアが開き、セカンドが入室してきた。……どうやら夢ではなかったらしい。


「意識は混濁気味だが、会話は可能だ。……というか、このトマトちゃんは一体?」

「それはネームレスです」

「……は?」


 特に濁される事もなく回答が出てきたが、俺にはセカンドの言葉が理解できなかった。極限まで消耗した今の状態だから理解できないという事ではなく、多分素の状態でも意味不明だろう。


「なんだ、私が誰だか分かっていなかったのかね?」

「初見で分かる人がいたら、《 看破眼 》の持ち主でしょう。もしくは頭のおかしい人です」


 当の謎トマトちゃんも否定しない。

 ネームレスってのは名無しって事だ。山田太郎や権兵衛、ジョン・ドゥよりも更に明確な、まんま名無しという意味。

 だが、ここまで言われれば、そういう意味合いで使われているわけでない事は分かる。ダンマスと皇龍以外のダンジョンマスター権限を持ち、迷宮都市側で動向が把握できている奴、加えてこの局面で現れる可能性がある奴など一人……というか一匹しかいない。


「……無限回廊二〇〇層管理者の?」

「そのネームレスです」

「管理権限はほとんど制限されているがね。確かに名義上、私はまだダンジョンマスターだ」


 マジかよ……。なんてコミカルな存在になってしまったんだ。いや、不気味さでいえば大差ない気もするが、なんでトマトちゃん?

 いや、今はいい。めっちゃ気になるが、重要ではない。ネタでやっているのかもしれないが、付き合ってやる精神的余裕もない。どうせ、ダンマスあたりの仕業だろう。


「……色々気になる事はあるが、後回しだ。今はどういう状況だか説明をくれ。ゲルギアルはどうなった? 無量の貌は? 俺以外の連中はどうしてる? 空龍は無事か? そもそも時間はあるのか?」


 その上で関係あるのなら、そこの不気味トマトちゃんへの解説も追加願いたい。


「ここは急造のダンジョン内なので、多少時間に余裕はできました。といっても、まだ危機的状況に変わりはありませんが」

「ダンジョン……」


 そうだ。意識がなくなる前に見たシステムメッセージは[ 静止した時計塔 ]の時のものと同じだったはず。

 つまり、この不気味トマトちゃん……ネームレスがダンジョンを構築した? ……この世界の繋ぐ回廊に? まさか、これが時間稼ぎを要求された切り札だったというのか。……これでどう状況が好転するかは分からないが、少なくとも俺が無事でいる以上、意味はあったという事でいいのか。


「杵築の世界と皇龍の世界に挟まれた不安定な空間ではあるが、どうやら管理者不在という扱いらしい。ぶっつけ本番だから上手くいくか分からなかったが、やってみるものだ」


 ネームレスがすごく不安になるセリフを吐いているが、今は置いておく。……本当に大丈夫なのか、こいつ。


「ここがダンジョンって事は、ダンジョン外に比べて時間が加速してるって認識でいいのか?」

「いいや。現時点でダンジョンは完成していない。ダンジョン作成時にあの無数の顔も取り込んでしまったからね。今もダンジョン外の時間とは同期したままだ」


 答えたのはセカンドではなくネームレスだ。自分の言いたい事だけを言う印象があったから、ちゃんと説明してくれるのは意外だった。特にセカンドから否定が入る事もない。こいつが発言するだけなら裏を疑わないといけないが、どうやら少しは信用していいのかもしれない。


「じゃあ、時間があるっていうのは……」

「あの大量の顔どもは物理的に隔離された場所に移動させた。天体規模とかいう本体が何かしてくれば分からないが、連中に隔離領域を突破する能力は保有していない事が判明している」


 ……なるほど。ラディーネの言っていた空間の隔離ってのはこの事か。ダンジョンマスターがダンジョンに対しどこまで権限を持つのかは知らないが、ある程度自由に制御可能というだけでも顔の対策にはなり得る。加えて、ダンジョン外でも回廊を塞いでしまえば封鎖が可能だ。


「現在、戦闘可能な冒険者が臨時チームを組み、この対応に当たっています。排除が完了した時点で時間制御を行える見込みです」

「無量の貌に対して、冒険者がモンスター役のような事をしているって事か」

「その認識で間違いありません」


 これ以上増える事がないという前提があれば、いつかは排除もできるだろう。もちろん気を抜く事などできないが、全体の意思統一ができていなそうな無量の貌なら対応が遅れる事も期待できる。最低でも時間稼ぎにはなりそうだ。


「つまり、冒険者が死んだ場合でも復活可能と?」

「はい。すぐに復帰は難しいでしょうが、それでも数時間で戦線復帰が可能になる見込みです」

「あの簒奪とやらは危険だがね。これ以上の被害を出したくなければ、重々注意するといい」


 なら、状況は明確に好転していると考えていいのか?

 切り札とはいえネームレスが介入したおかげっていうのも微妙な気分だが、聞く限り味方をしてくれているようだし、この際気にしても仕方ない。いや、コレが味方とか、どういう冗談だよって感じではあるが。


「俺以外の連中はどうなってる?」

「ベレンヴァール・イグムートとラディーネの二名はすでに意識を取り戻して別室で治療中。空龍、ディルク、セラフィーナ、クラリスは昏睡状態で、負傷や消耗具合から考えても即座の復帰は困難でしょう。ボーグはコアである顔こそは無事ですが、体の予備がありません。……渡辺綱も本来なら動かしていい状態ではありませんでしたが、状況が状況だけに治療は最低限で覚醒を優先させました。申し訳ありません」

「俺の事は構わない。……さっき、ガウルと摩耶の姿を見た気がするんだが」


 今この部屋にいるのは、俺とセカンドと不気味トマトちゃんだけだ。


「その二名を含め、ダンジョン構築時に範囲内にいた者に関しては回収しています。動ける者は対無量の貌のチームに編成されている状態です」


 つまり、あの時点であいつらは回廊に突入していたって事か。

 聞けばガウルと摩耶に加え、キメラも無事との事。しかし、美弓の安否が不明のままだ。

 名前や顔は覚えている。つまり、簒奪はされていないという事だが、それはイコール無事ではない。簒奪されずに死んだとしても同じなのだから。覚えているからといって安心はできない。


「現在、簒奪の影響がないというベレンヴァール・イグムートに情報をまとめてもらっています。これにより簒奪被害者以外の行方不明者、死者もある程度把握できる見込みです」

「……玄龍は?」

「死亡が確認されています。報告によればゲルギアル戦での死亡との事ですが」

「ただの確認だ。俺も見てる」

「……そうですか」


 ……くそ。あの時点で分かってはいた事だが、こうも明確に突き付けられるとキツイ。

 過去の痕跡を抹消され、誰も思い出せなくなる簒奪よりはマシなのだろうが、とてもそうは考えられない。


「……なら、ユキも離脱だ」

「遺体は確認できませんでしたが、死亡したという事でしょうか?」

「詳細は不明だが、ゲルギアルとの戦闘時に光の粒になって消えた。体ごと消滅したのか、未知の因果の虜囚である剥製職人とやらに回収されたのか、まったく別の場所へ飛ばされたのかは分からん」

「……無量の貌とゲルギアル・ハシャまでは報告を受けていますが、追加ですか」


 心なしか、セカンドの声に呆れが感じられる。

 まあ、冗談じゃないよな。対処困難な超常の存在が追加されるなど。……この上、下手したらイバラとやらも絡んで来るかもしれないんだぜ。ふざけるなよ。


「詳細不明とはいえ、そこら辺は個別に報告するが……肝心のゲルギアルはどうなった?」


 ここまでの話なら、予断を許さないとはいえ状況は安定し始めている。

 しかし、死にかけの俺を無理やり起こしたというからには何か理由はあるはずだ。その理由として真っ先に思い当たるのはあいつの存在だろう。


「無量の貌と同様、あの者もダンジョン内の隔離領域に閉じ込めてありますが……現在は、その場から動かずに沈黙しています」


 あいつが動いていない?


「意図は分かりかねますが、直接排除可能な戦力がない事と無量の貌の排除を優先している関係から、こちらからもアクションは起こしていない状態です」

「あいつは未知の移動手段を保有しているはずだ。隔離しているとはいえ、直接ここに乗り込んで来る事だってあり得る」


 空間ごと隔離したところで、意味があるかは分からない。やらないよりはマシだとは思うが。


「あなたを半ば無理やり覚醒させたのは、その確認のためです。先行して覚醒したベレンヴァール・イグムートによれば、渡辺綱が一番詳しいと。交戦の可能性があるなら、早急に対策を立てる必要があります」

「ちょっと待て。ラディーネから聞いたが、状況を打開するための切り札を切るって話じゃ……」


 その結果が、このダンジョンなんじゃないのか?

 ネームレスに視線を向けるが、まったく動かない半笑いでは判断が付かない。


「ネームレスの解凍処理に入る以前に想定していたのは、無量の貌の対策までです。他に手がないので強行しましたが、あの怪物の対策は含まれていません」

「大変だねえ」


 あまりに重大な発言。あくまでも他人事のように振る舞うネームレスだが、こいつだってここにいる以上は当事者……そういえば、こういう奴だった。


「……これだから、アテにしたくはなかったのですが」

「片手落ちなのは認めるが、助力を請われた際に言われた事態には対応していると思うんだがねえ」


 半笑いで固定されているトマトちゃんの表情が、急にネームレス本来の表情であるかのような錯覚に襲われた。

 こいつはあまりに摩耗し過ぎて、自身の生死でさえ重要性を見失っているような奴だ。先に待っているのが完全なる消滅であったとしても、その過程に何かしらの刺激があれば気にも留めないだろう。因果の虜囚でない以上、無限回廊の先に向かう妄執もない。……いや、そもそも目的だってないのかもしれない。


「……一応聞くが、お前に対策案はないのか?」

「別に進んで自滅したいわけでもないから、案があれば実行する事は吝かではないがね。……悪いが、アレは正真正銘の怪物だ。差があり過ぎて、杵築に相対している時と同じような印象さえ受ける」


 思ったよりもちゃんと考えてはいるようだが、手がないのは変わりない。

 ゲルギアルへの評価も妥当といえるだろう。皇龍を打倒した上で、その力のほとんどは未確認のままだ。ほぼ完成形である《 宣誓真言 》を行使している以上、ダンマスだって確実に対処できるとは言い難い。


「もちろん、倒す事も論外だな。仮に全力であったとしても太刀打ちできる要素が一つもない。無量の貌のほうだけだったら、寄生してなんとかなる可能性もありそうだがね。いや、その能力も制限されているから、言っても仕方ない事ではあるんだが」


 やべえな。無量の貌のほうがなんとかなりそうな分、ゲルギアル側の絶望的状況が克明に感じられる。


「そもそもの話、アレをどうにかする必要はあるのかね?」


 ……何言ってるんだ、こいつ。


「顔のほうは放っておくと全滅しかねない脅威だが、龍人のほうは問答無用というわけではないんだろう? 龍の娘の命が目的というのなら、くれてやればいい。こうしてダンジョンが構築された以上、皇龍の世界が滅んだところで明確な影響も……前例がないのはアレだが、まあ、ないんじゃないかね」

「てめぇ……」


 あまりに無責任な言葉に、足りない血が逆流しそうだった。

 しかし同時に、それがクーゲルシュライバー全体を見るなら正論である事も理解してしまった。

 確かに、あいつの目的は空龍の命だ。それが最優先で、クーゲルシュライバーをどうこうしようなどとは考えないだろう。事実、アレだけの戦力差があるにも関わらず、俺たちは玄龍以外の死者を出していない。

 ダンジョン展開前なら世界崩壊に伴う回廊への影響を考慮しなければならなかったが、その問題もすでに解決済みだ。

 一度明確に断ったあとで再度助力を請う事は心象を悪くするだろうが、それでも条件を呑ませる事は無理難題ではない。助力と言わず、ただ引くだけなら更に簡単だろう。

 あいつは理解し難い狂人ではあるが、話は通じるし誠実ではあるのだ。持ちかけたところで、無下にされる事はないと断言できるほどに。

 問題は俺の感情と空龍の身柄だけ。クーゲルシュライバーの生存者、迷宮都市の脅威、それらと天秤にかけるなど、普通に考えるなら考慮に値しないほど明確な差が存在する。

 ……何が無責任だ。俺のほうがよほど無責任だ。


「それはどうだろうな」


 短い沈黙のあと、話に割り込むようにしてドアが開いた。そこから入って来たのはベレンヴァールだ。




-2-




「ベレンヴァール・イグムート。リストはできましたか?」

「俺が把握している限り、簒奪の対象者の名前とその立場を列挙した。補足ならば認識できる事は確認済みだ」


 そう言ってベレンヴァールはセカンドへ複数枚の紙を手渡す。先ほどセカンドが言っていた簒奪被害者についてのリストだろう。

 ゲルギアルに斬られた腕は両方とも復元できているようだ。


「それで、少しは役に立つか?」

「はい。簒奪被害者の痕跡と合わせて、十分穴埋めできるくらいには。……でも、これは」

「目を覆いたくなる被害だからな。それで、まだ一部というのだから冗談ではない」

「討伐隊編成の参考にさせて頂きます。……あまりにも指揮をとれる人が少ないとは感じていましたが、軒並み脱落しているとは」


 俺が把握できているだけでも壊滅寸前の被害を受けているはずだ。再編しようにも、中核が欠けた状態ではロクに機能しない。

 ……ネームレスのダンジョン・クリエイトがなければ、クーゲルシュライバーの防衛はジリ貧だっただろう。


「情報提供ありがとうございます。……それで入室時に言っていたのはどういう意味でしょうか」


 触れる事ができないでいた俺に代わり、セカンドが問いかける。

 ベレンヴァールは一度だけ俺を見て、そのまま続けた。


「あの老人が最初に提案した交渉が、現時点で有効なのかどうかという意味だ」

「あいつの目的は空龍の殺害だ。因果の虜囚として、それは譲れない部分だと思うんだが」


 対存在を殺す事が第一の試練として提示されている以上、そこが覆る事はない。俺たちはそういう風にできているのだから。


「もちろん、それは実行するつもりだろう。俺もその前提が揺らぐとは思っていない。しかし、今時点だけ見れば、優先度はお前への執着へと傾いているように見えた」

「それは皇龍の約束を引き継ぐ云々の話じゃないのか?」


 その点で見れば、あいつが重要視しているのは皇龍と約束を交わした相手であって、渡辺綱個人ではない。肝心な部分を横に置いて優先されるとは思えない。俺との交渉だって気まぐれと言っていたくらいで、その言葉も嘘ではないだろう。


「遭遇した当初ならそうだったろう。しかし、お前は因果の虜囚として、渡辺綱としての在り方を宣言した。その上で、周りの助力があったとはいえ、こうして先延ばしを成功させている。手加減があったとはいえ、ここまで粘られるのはさすがに想定外だろう。……実際、正面から対峙し続けた者としてどう思う? あの老人の興味はお前に注がれてはいなかったか?」

「…………」


 思い浮かぶのは、《 宣誓真言 》を真似て強制起動させた時の奴の表情。

 あの時、あの一手は間違いなくゲルギアルを驚愕させたはずだ。あの瞬間、奴の知的好奇心は満たされていた。


「あの老人が空龍の殺害を諦めるかもしれないとか、そういう楽観的な意味で言っているんじゃない。それを完遂する事は当然として、その前段階としてお前に渡辺綱としての在り方を問うてくるんじゃないのか? それを阻むためにお前がどうするつもりか見せてみろ、とな」


 ……馬鹿な。

 しかし、因果の虜囚として逸脱しているあいつならそういう考えを持ち、一時的に優先度を変える可能性があるかもしれない。ゲルギアルは俺を追い詰めるたびに、『まだ何かあるか』と問いかけてきた。それは、俺が何か未知の事をしでかすのを"期待して"の行動なのか。


「そんな興味を惹いたお前が前言を撤回したところで、簡単に受け入れられるかどうか分からない。まだ何か隠し種があるんじゃないかと疑い、期待する。空龍を殺害するという因果の虜囚の宿業よりも、あいつ個人の興味を優先するような気がしてならない。お前の悪足掻きは、目的を果たしてしまえば見る事は叶わないのだから」


 あいつと遭遇した時点ですっからかんだったのだ。今更そんなものがあるはずがない。

 ……そこからアレだけ悪足掻きしておいて、何もないと言っても信用しないか。


「さっぱり理解できないね」

「……お前に理解できるとは思わない。ただ、俺はあの老人とわずかながらも相見えてそう感じた。そして、その勘が当たっているのなら、どうしてももう一戦交える必要がある」


 ベレンヴァールは、この時点に至ってまだ戦うつもりでいる。こいつの推測が正しいとしても、その場に立つ必要があるのは俺だけなのに。


「……ツナ。あいつが重視しているのはお前の意思だけかもしれん。だが、黙って空龍を殺させる気がないのは俺も同じだ。未だ目覚めていないが、クラリスだって同じだろう。直接関係ないと言われようが、舞台の端に追いやられようが、妥協の余地などない」


 そう言って俺を見るベレンヴァールの目は、これが俺の正義だと言わんばかりの強靭さを伝えている。

 実際、この状況に至った今でも空龍を差し出す意思はない。もちろん、空龍以外の誰でも進んで犠牲にする気はない。ベレンヴァールはその意思が俺だけではなく、あの場にいた全員の総意だと言っているのだ。


「それで、結局アレをどうにかする方法はあるのかね?」


 空気を読まないネームレスが問う。

 ……そんなもの、ありはしない。ベレンヴァールだって具体的なプランがあって言っているわけではないだろう。


「今のままでは実現不可能だが、あいつがこのまま動かないというのであれば一応手はある」


 しかし、その考えは本人に否定された。

 だが、思い至るものがない。俺ほどではないが、こいつだって満身創痍には変わりない。多少体力やMPが回復したところで、主力の一つである《 刻印術 》は使い果たしたままだ。アレは即座に発動できる分、長期の充填時間を必要とする。


「……何する気だ?」

「残った《 帰還術の刻印 》を使い、俺ごとダンジョン外へ放り出す。時間が同期している状態では放り出したところで無意味だろうが、無量の貌を排除すればダンジョン内時間の制御は利くはずだ」


 それは、いつか聞かされたダンジョン脱出のための《 刻印術 》だ。

 戦闘用の術ではないから戦力として考えてはいなかったが、確かに能力的にはそれを実現できるかもしれない。ゲルギアルにとって未知の術である可能性だってある。再突入するにしても、ダンジョン外との時間差があれば態勢を整える時間を捻出する事だって可能だろう。確かに有効な手ではある。

 ……それが達成不可能という前提を乗り越えた上でなら、だが。


「……そんな目をしなくても、これがほぼ実現不可能な大博打だという事は分かっている。発動開始から約三十秒、ほぼ無防備なままであいつとの距離を残したまま耐え切れるはずがない。瞬きをする間に文字通り壊滅させられる奴なんだからな」


 未体験だが、《 帰還術の刻印 》に関しての情報は把握している。

 ダンジョンからの脱出という迷宮都市でも類を見ない便利魔術だ。ただし充填時間は数ヶ月に渡る長期、発動から効果が現れるまでにも三十秒という時間を要求される。その性質上、自身かパーティくらいにしか使用用途がないから長い発動時間も本来問題にはならないが、今やろうとしている事を実現するには非現実的過ぎる。


「だが、決まれば時間を稼げるという手はあるという事だ。なら、無理やりでも非現実的でも、まだ他に手はあるんじゃないのか?」


 正直思いつかないが、戦闘の可能性がある以上、思考停止するわけにもいかない。

 そうでなくとも、ダンジョン内から無量の貌を排除する必要はあるのだ。他の冒険者が担当しているからといって、俺が座していていい理由にはならない。


「とりあえず、準備だけでもしておくべきだな。ベレンヴァール、ラディーネの強壮薬は持って来てるか?」

「ああ、汎用品だが予備装備も持って来ている」


 あいつが動くまでの時間が分からない以上、無理やりでも動ける状態にはしておかないといけない。キツイ反動のある強壮薬だろうが、今動ければいい。

 ベレンヴァールから受け取った薬を飲み下す。それだけでも重労働だが、薬が効けば動けるようにはなるはずだ。




 そうして、少しは動けるようになった段階で準備を始める。わずかでも戦力確保できるなら早いほうがいい。


「セカンド、腕を復元する手段はあるか?」

「それが可能な回復魔術士は数名いますが、戦線を離れられません。治療用のポッドはありますが、四肢の復元となると数時間はかかります」

「なら、時間を捻出できるまで左腕はこのままだな」


 幸い、左腕なしの戦闘は慣れている。今は《 豪腕 》もあるし、痛みがない分、< 鮮血の城 >の時よりマシなくらいだ。

 《 瞬装 》で予備の装備に着替えつつ、体の状況を確認していく。強壮薬とポーションだけでも、このまま回復すれば全力の三割程度なら動けるようになるだろう。残念ながら、それ以上は本格的な治療が必要なはずだ。

 ただ、予想以上に《 宣誓真言 》の反動が厳しい。物理的なもの以上に、全身を流れる魔力にひどい淀みを感じる。


「全体の戦力把握をしておきたい。無量の貌排除に割いている戦力情報をくれ。それと、ゲルギアルと戦闘が発生する事を前提として、戦力になりそうな冒険者はその中でどれくらいいる?」

「Bランクなら数名、それ以下も数えるほどしかいない上に、情報の上から彼我の戦力差を考慮するなら全員戦力外と言わざるを得ません」


 ……まあ、そうだろうな。俺もベレンヴァールも、あいつ相手じゃ戦闘の形すら整えられない。

 冒険者の一覧と現在の交戦状態が列記されたものが宙空ウインドウに表示される。

 ……想像していた以上に少ない。全体の人数もそうだが、重症で戦力に数えられない人数だけでも結構な人数だ。対ゲルギアルはもちろん、数が限定された無量の貌相手だって厳しいだろう。

 辛うじて戦力になりそうなディルクとセラフィーナも意識不明の重症……それも、《 念話 》ができた時のような状態ではなく、正真正銘の昏睡状態らしい。ガウル、摩耶、キメラは動けるようだが、正直全力を出せても戦力的には俺たちと大差ないだろう。


「一時的にクーゲルシュライバーの制御能力が低下する事になりますが、私も戦闘可能です。無量の貌の排除に目処が立つような状態であれば、参戦可能かと」

「そりゃありがたい」


 そういえば、セカンドも戦力として数えられるな。それどころか、想定可能な範囲内なら最上級に近い戦力だ。


「……一応聞くが、ネームレスは戦えるのか?」

「無理だね。杵築から最悪の状態を想定して一部ダンジョンマスター権限は解除されているが、それ以外はこの身一つだ。特攻して死ねと言われれば否とは言わんが、できれば面白そうな事に使ってもらいたいものだ」


 トマトちゃん状態で特攻するのに否はないのかよ。


「ネームレスが死んだ場合ダンジョンの制御機能を失うので、それはなしでお願いします。大人しくしていて下さい」

「そうかね。あの龍人と話をしてみたくはあったのだが」


 ……分かってて言ってるんだろうな、こいつ。


「必要になるか分かりませんが、こちらで把握している情報はすべて表示しておきます。クーゲルシュライバー側の状況推移など、疑問点がありましたら回答します」


 セカンドがそう言うと、宙空ウインドウが大量に表示された。

 さきほど表示された冒険者の情報に加え、俺がセカンドへ連絡してからクーゲルシュライバーで発生した状況の時系列と詳細が表示された。収容している一般市民の情報、武器・防具や消耗品などの物資情報、各種艦内設備の整備状態と現使用状況、ダンジョン内の簡易構造もある。

 表示内容が見ている内にも目まぐるしく変化しているのは、こうして会話している間もセカンドが裏で処理しているという事なのだろう。


「それと、これを渡しておきます」

「……なんだこれ」


 手渡されたのは謎の金属片だ。何かの記憶媒体のように見えなくもないが、コネクタがない。


「S6のシャドウデータを含む、未来人からの提供データのオリジナルです」

「なんでそんなものを?」


 シミュレーション用のデータは各機器にコピーされているし、それ以外の情報も穴が空くほど見直したもののはず。提供されたものから俺たちに開示されるまで抜けがあったとしても、この場で表示すればいいだけだろう。


「事実上お守り……のようなものですが、それには解析不可能、コピー不可能なブラックボックスが存在しています。まったく意味のないデータという可能性もありますが、なんらかの思惑が隠されている可能性も否定できません。ならば、渡辺綱が持っているべきでしょう」

「……分かった」


 エリカが何を考えていたのかは分からないが、この状況で何かあるとすれば俺を中心としたものなのだろう。これが現在進行形で必要なものならともかく、オリジナルという意味以上のものがないのなら俺が持っていても問題はないはずだ。


 薬の効果が出るまでの時間、準備をしながらセカンドが表示したウインドウを確認する。

 戦況把握はもちろんだが、様々な未確認情報の中に何かヒントになるようなものがないかという思惑もあった。

 ダンマスとの交信履歴もあるが、俺の把握している情報と大差はなく、完全に途絶したタイミングがはっきりしたくらいだ。セカンドが直前に送信したという状況報告のデータもちゃんと届いたかどうか分からない。向こう側の状況にしても、例の光の脈動が継続的に大きくなっているという既知の情報が最後である。

 俺たちの連絡した情報に合わせてまとめられた、クーゲルシュライバー側の時系列情報も確認する。


 情報は俺がセカンドに連絡した直後から始まっている。

 連絡直後からクーゲルシュライバーの発進準備を整えつつ、避難訓練と称して艦内への収容を開始。同時に、残留滞在者向けに一般市民用シェルターへの避難訓練も実施。元々事前連絡なしに突飛な事をやる事態に慣れている迷宮都市の住人は、特に疑問も持たずに避難を開始したそうだ。むしろこの時点での問題は近隣にいた龍への伝達方法であり、避難訓練という概念すら理解していない彼らの収容はかなり遅延が見られたらしい。

 一般住人がシェルターに移動完了した段階で、時刻的には俺たちが人工衛星へ移動した前後くらいだろうか。この時点で特に問題は発生していないため、セカンドは一部冒険者に依頼して発着場とシェルター間の安全確保を行う。事態を深刻に捉えていた冒険者がシェルターへと急行し、できる限り不自然さが露呈しないよう住人への説明・誘導を行ったそうだ。その後、何も起きなかったとしても発着場までの移動、艦内への収容という訓練に移行するつもりだったらしい。

 事態が動いたのはその直後だ。情報を合わせてみると、このタイミングで無量の貌が《 名貌簒奪界 》を発動した。地上にも突然、大量の顔が出現。一般市民はもちろん、ほとんどの冒険者もパニックに陥った。

 まともな統制などとりようもない。顔と名前を簒奪されるという攻撃手段も、簒奪された被害者の事を忘れてしまえば認識もできない。その場に居合わせた者にとっては、隣にいた人が簒奪された事にも気付けずに突然カオナシが出現したように見えてしまう。

 《 看破 》しようとして、情報量にそのまま脳を焼かれた者も多い。この時点でディルクはある程度詳細を掴んでいたものの、通信や《 念話 》の不通により警告が遅れた。幸いと言っていいのか分からないが、脳を焼かれた者は簒奪されずにそのまま死亡した事から、《 看破 》の危険性には気付けたようだが、無視できない数の被害者が発生している。

 シェルターは大量の一般市民と一部冒険者を抱えたまま孤立した。クーゲルシュライバーは冒険者と龍のカオナシが暴れた事により出港不可能になった。状況把握すらままならないまま、内部から出現したように見えるカオナシ相手の防衛戦が開始する。

 小型艇が先行したのもこの前後で、選抜した六名が乗り込んで救援要請のために出港した。地獄を離れられるとはいえ前例のない移動手段だった事、防衛の手を割くわけにもいかない事から、冒険者一名が護衛の一般職員五名という構成だ。この六名の安否は不明だが、名簿に名前は残っている事から少なくとも簒奪はされていない事が分かる。

 混乱に次ぐ混乱。そんな中で曲りなりにも戦線が安定し始めた頃、俺とディルクの通信が繋がった。この頃にはラディーネや冒険者以外の職員の手によって辛うじて通信手段が確保できていたため、クーゲルシュライバー内の情報伝達は上手くいったらしい。

 問題は孤立したシェルター側への対応だ。通信手段がなく、移動路も顔で塞がれている状況では対応できる手段は限られている。

 かといって放置すれば全滅しかねないと、一部冒険者がシェルターへと強行した。強行した冒険者の名簿は残されているが、その総人数がまったく一致せず、名前にも抜けが多い。おそらく、ほとんどの冒険者は強行中かシェルターでの防衛戦で簒奪されたという事だ。

 一般客の名簿を見てもその数は少ない。総数と比較すればほぼ全滅という有様だ。

 ……だが、全滅ではない。簒奪前に死亡した可能性はもちろんあるが、一部名簿に名前の残っている冒険者の数を見れば極少数でも生き残っている可能性は否定できない。もしそうなら、彼らは今も尚、シェルターで終わりの見えない防衛戦を強いられている。

 そうして、クーゲルシュライバーの緊急発進準備が整った。

 可能な限り人員を収容し、カオナシを排除した上で出港が成功するものの、船体に張り付いた大量の顔を振り切る事はできなかったようだ。

 その異常に気付いたものの、対策は存在しない。そして、世界間の回廊をわずかに進んだところで新たなる一手……涅槃寂静が現れる。俺たちが遭遇したような一体ではなく、複数の涅槃寂静に襲撃されたクーゲルシュライバーは再度航行不能に陥った。

 このままでは迷宮都市にまで被害が及ぶ可能性があると、セカンドはネームレスを開放する準備に入る。

 元々使う事を想定せず、念のためという事で用意されていたような奥の手だ。厳重な封印解除に時間がかかる中、回廊に俺たちが突入し、それを追ってゲルギアルが現れた。

 その後の記述は俺たちが体験した事がほとんどだ。一早く覚醒したベレンヴァールが報告したものだろう。


「……悲惨なんてもんじゃねえな」


 ただの事実を列挙しただけのものではあるが、それだけでも目を覆わんばかりの惨劇が想像できた。簒奪によって確認のできない情報が抜けているのだから、正確な被害は相当にひどい事になるだろう。迷宮都市の被害もひどいが、龍などはほとんど全滅である。

 希望はダンジョンを展開できた事と、そこから無量の貌の影響を排除できそうだという事、あとは先行した小型艇くらいだ。


「ここまで思考を戦闘以外に割く余裕はなかったが、無量の貌の簒奪についていくつか不可解な点がある。話したところで何も好転しない可能性は高いが……お前は知っておいたほうがいいだろう」

「不可解?」


 そんな情報確認の傍ら、ベレンヴァールが口を開いた。

 不可解といえば簒奪やあいつの存在そのものが不可解だが、わざわざ口にする以上はもう少しはっきりしたものだろう。


「《 名貌簒奪界 》発動以降、あの顔から伸びる手や涅槃の指によって簒奪が行われて来たが、俺に簒奪の被害は認識できない」

「ずっとそう言ってきたな」


 俺たちにとってカオナシは突然出現した謎の敵性存在だが、ベレンヴァールには元々の顔や名前が見え、その記憶も残ったままだと。


「俺の特性云々は置いておくとしても、顔や名前はそこにあるままだ。簒奪前後で何も変わりはない」

「……そうだな」


 そこまで聞いても、ベレンヴァールが何を言おうとしているのかが分からなかった。ベレンヴァールの認識上がどうあれ、俺たちにとって簒奪された事実は変わらないのだから。


「俺が考えたのは、実は簒奪などされていないのではないかという事だ。……《 名貌簒奪界 》終了後は分からんが、少なくとも現時点では」

「…………」

「だから《 名貌簒奪界 》が終了するまでは取り返す術があるかもしれないなどとは言えんし、思えん。だが、アレは直接簒奪するのではなく、何かしらの手順を踏んで成立するものである可能性がある」


 確かに覚えておくべき事かもしれない。今どうこうという話ではないが、影響を受けない観点からの情報は"やがてあいつを滅ぼすために"必要な情報だ。


「もう一つある。ガウルから聞いた話だが、あの白い手は簒奪までに若干のタイムラグが存在するらしい。掴まれても、即座に斬り落とすなり、振り払うなりで簒奪を免れられるそうだ。顔に飲み込まれたミユミが簒奪されていない事や、お前があの濁流に飲み込まれて無事だったのもそれが理由だろう」

「ベレンヴァール……お前、あいつを打倒するつもりなのか?」


 これは、今を好転させる情報ではなく、未来においてあいつと対峙するために必要な情報……戦力分析だ。

 ベレンヴァールはアレを抗う術のない災害ではなく、倒すべき敵として認識している。


「当然だ。無量の貌は滅ぼすべき悪であり、存在を許してはいけない外道だ。俺の正義にあの存在を許容する隙間などない」


 因果の虜囚だとかそういうものは関係なしに、ベレンヴァールはアレと戦うと言っているのだ。

 そして、死のうが転生しようが抗い続ける事が因果の虜囚の業だというのなら、俺が覚えておかないといけない情報でもある。


「……さて、そろそろ動けるか?」

「ああ……」


 右手を開閉して感触を確かめる。……大丈夫だ。戦闘行動はとれる。


「……大丈夫だ。とりあえず、無量の貌の排除に参加するぞ。セカンド、ゲルギアルの監視は続けてくれ。なにか変化があればすぐに連絡を」

「了解しました」

「私は何かやる事はあるかね? 最近は小間使いも慣れてきたから、なんでも言うといい」

「いや、ネームレスは大人しくしててくれ」


 戦力にはならないし、下手に動かれても困る。悪の首魁みたいな奴を小間使いにするつもりもないし。


「では、クーゲルシュライバー機関室に設置した転送ゲートに向かって下さい。そこから、現在ガウルと摩耶が対応中の区画へ……渡辺綱っ!!」



 突然、平坦な言葉で話すセカンドから悲鳴のような声が上がった。

 ベレンヴァールの目が大きく開かれているのが分かる。その目が見ているのは俺だ。

 しかし、視線が向いているのは俺の顔ではなくもっと下……腹部のあたり。そこから、何かの刃物が飛び出している。

 俺の背中から腹部へと貫通したそれは、何度か見たゲルギアルの細剣のものに見えた。


 その剣が横薙ぎに振られ、俺の胴体が半分切断される。


 一体どこから攻撃されたのか。確かめるために振り向く間もなく、今度は後ろから首を掴まれた。


「ツナっ!!」


 ベレンヴァールが叫びながら近寄って来る。

 大して広くもない部屋にも拘らず、ベレンヴァールとの距離が遠く感じられた。

 ……いや、実際に遠ざかっている。俺は首を掴まれた手によって、後ろへと引き寄せられている。

 あまりに突発的に事態を把握する間もなく、俺はほとんど無抵抗のまま、何もないはずの背後へと引きずり込まれた。




-3-




「っが!!」


 次の瞬間、視界が回転し、俺は床へと投げ出された。それはさきほどまでいた部屋の床ではなく、石造りの床だ。

 ……何が起きた。


「……さて、まだ何かあるかね、渡辺綱」


 顔を上げれば、そこには最優先で警戒すべき老人の姿がある。問いかける言葉は、ここがあの戦いの続きと言わんばかりだ。


「げ……るギアル」


 そこは四方を石で囲まれた密室だった。

 どういう手段だかは分からないが、強制的に移動させられたというのか。

 室内にはベレンヴァールもセカンドもネームレスもいない。まるで、最初から俺とゲルギアルだけが対峙していたような構図だ。

 腹部から流れる血が床を染め、急速に広がっていく。ただでさえ足りない血が失われ、今にも意識が途絶しそうだった。


「いや失敬。抵抗されても面倒なので死なない程度に攻撃を加えさせてもらった。深刻なようなら治療するが、いるかね?」

「てめぇ……」


 あきらかに敵とは考えていないというセリフと態度だ。

 空龍よりも優先して俺を狙うというベレンヴァールの推察は当たったが、こいつは俺が何かするのを期待しているんじゃないのか?


「救援なら期待しないほうがいい。この部屋はダンジョンから切り離した。今は座標も特定できず、観測もできないだろう。もちろん転送も不可能だし、死亡による生還もされんから自殺も無駄だ。偽装工作は、なかなか骨が折れたがね」


 それが事実なら、なんの前触れもなく窮地に立たされたという事だ。こいつにできない事はないのかというほどの化け物ぶりだ。


「さて、常識的に考えてあとがない状況なわけだが、ここまで二転三転と私の手をすり抜けてきたのだ。まだ何かあるんじゃないかね?」

「ある……わけねーだろ、クソが」


 息ができない。意識を保つだけで精一杯だ。

 全快の状態からの負傷ならともかく、多少回復しただけのところにコレでは立ち上がる事さえままならない。


「……ふむ」


 突然、蹴り飛ばされた。

 俺は抵抗する事もままならず、そのまま壁へと叩きつけられる。くそ、何しやがる。


「這い蹲られたままでは目を見れんのでな。蹴り殺そうとか、お前を痛めつけてやろうという思惑はない」


 ゲルギアルが歩き、壁にもたれかかる俺の手前までやって来た。


「なかなか面白かったぞ、渡辺綱。《 宣誓真言 》を使う救援の登場。ほぼ同一内容の《 宣誓真言 》の重ねがけに、概念崩壊すら引き起こす掘削機、剥製職人の観測器の乱入に、私の《 宣誓真言 》をそのまま強制発動させ、あげくはこのダンジョンだ」


 そのほとんどは俺じゃねえよ。

 言い返してやりたいが声が出ない。代わりに、意思を込めて睨みつける。


「全部が全部、お前が隠し持っていた手とは思わんが、窮地でこそ何かを起こすのが因果の虜囚の本質だからな。それにしてもしぶといとは思うが、それがお前の持つ本質なのだろうよ」


 ゲルギアルがしゃがみ込み、俺の髪を掴んで顔を上げさせた。


「故に、今お前がどう思っていようが、ここから引っ繰り返す何かが起きる可能性がある。何かあるというのなら、確実に私の理解を超えているな。さあ、どうかな?」

「知……るか」

「あの観測器が現れた際にも言ったが、この特異点は誰かの意思によって創られたものに思えてならない」


 確かに不自然だ。あまりに無数の因果が絡み合い過ぎている。

 あの時言われたように、これは誰かの意思によって創られていると感じる。

 それは皇龍か、ゲルギアルか、無量の貌か、剥製職人か、俺の対存在であるという鬼か。あるいは……。


「……だがな、渡辺綱。私は、これはお前によって描かれたものだと半ば確信に近いものを抱いているのだ。……ああ、別に答えは求めていない。表層的な意思に関わりなく状況を動かすなど、我らにとって良くある事なのだから」


 なんだそれは……。


「だから、見せてみろ」


 ゲルギアルが俺の目を覗き込む。何か、得体の知れない超常の力で以て俺の本質を覗こうとしている。


「や……めろ」

「断る」


 強烈な何かが浸透していくのが分かる。俺の知らない俺が丸ごと覗き込まれ、暴かれていくのを感じる。

 真実を暴く視線が、俺の底に眠る因果の獣を飛び越えて、俺の"原罪"へと至るのを感じる。

 これまでに感じた事のない恐怖を感じる。泣き叫んで、いっそ殺せといわんばかりに心が砕かれる。こいつはただ見ているだけなのに。


「く……」


 髪を掴む手が離れる。俺は抵抗する気も起きないまま、床へと転がった。


「くっ、くはははははははははっ!!!!」


 それは、これまでのゲルギアルからは想像も付かないような笑い声であり、感情の発露だった。


「ゲル……ギアル」

「くくくくくっ! いやいや、なかなかどうして……ここまでとは思わなかったぞ、渡辺綱。貴様は面白い」


 こいつは一体何を見た。ここまでロクに感情を表さなかったこいつが高笑いを上げるほどの何かが、俺の中にあったというのか?


「なるほど、貴様の対存在であるイバラがどうしてあそこまで強力な魂を抱えているのか理解した。根幹からして矛盾しているのも無理からぬ事よ」

「……む……じゅん?」

「そうだ渡辺綱。貴様の対存在が目覚めるトリガーはな……貴様の死だ。お前が因果の虜囚としてステージを上がるために用意された対は、お前が舞台から降りる事によって生まれる。決して交差しない道の先でお前を待っているというわけだ」


 何を……言っているんだ。


「やはり、この特異点を演出したのは貴様だ。あり得ない代償を払い、あり得ない事象を引き起こすため、矛盾を引っ繰り返し、それを利用までするという大それた行いだ」

「……俺、が?」


 ……この惨劇を創り出した?


「内側で閉じて自己崩壊でも狙っているのか? それとも、それほどに懺悔がしたいのか? おお、私は罪深き捕食者です、と。嗚咽し、泣きながら喰らう罪の味はさぞかし美味かろう」


 ゲルギアルは罵倒とも皮肉とも判断し辛い言葉を並べ立てる。


「いやいや、素晴らしい。本当に人間なのかと疑いたくなるな。これで未だ亜神にすら至っていないのだから恐れ入る。剥製職人がわざわざ手駒を創って観測するのも理解できようというものだ」


 この、無数の被害の上でゲルギアルに追いつめられる状況が、俺の自作自演だとでもいうのか。


「いいだろう、渡辺綱。お前の思惑は完全に私を超えていると認めよう。その上で乗ってやる。この煉獄の果てでお前がそれを為せるのか確かめてみろ」

「何、言ってんだ」


 一人で理解して、勝手に結論付けてるんじゃねーよ。


「ああ、悪いな。貴様は知らないフリをしているのだったか。そんな貴様でも分かり易く言ってやろう。……ここがお前の到達点。ここがお前の行き止まり。ここでお前に死を与える事が、お前の演出した舞台の終焉だ」

「な……に……?」


 ゲルギアルの剣が高らかに掲げられる。

 その切っ先は、確かに俺へと向けられていて……。


「さようなら、渡辺綱。とりあえずはここで終わりだ。……続きを期待しているぞ」



 そのまま、振り下ろされた。














-死-




「かくして渡辺綱は死に、自作自演によって整えられた舞台から引き摺り降ろされました」


 気付けば、何もない空間にいた。それは、かつて新人戦の時に見た、忘れられた光景に似ている。


「めでたし、めでたし……ってな。渡辺綱の物語はこれで終わり。ここから先に道はない」


 あるいは、別の場所でも同じ光景を見た気がする。体験し、理解し、その度に忘れられた記憶だ。


「……ようするに、ここがお前の限界ってわけだ」


 そこに立つのは一人の男。あまりにも見覚えのある姿は、どうしようもなく俺の激情を誘発するものだ。


「元々、渡辺綱に先へ向かうための道などなかった。絶対に勝ち筋の存在しないゲーム盤だ。そこで諦めればよかったのに、多大な代償を払って無理やり勝ち筋を創り出そうとした。その結果がお前の追想した世界。改変され、歪んだ裏側の世界だ」


 それは、目の前に存在する事さえ許せない、悪意に塗れた姿だ。俺だけが嫌悪する、世界で最も許せない者の姿を形取っている。


「改変の結果、あの特異点にはあまりに多くの存在が干渉し、絡み合い、通常ならあり得ないほど強固な因果が発生した。強すぎる因果はあの世界だけに留まらず、本来在るべき世界、そしてその平行世界へと流れ出す。そうして、どの世界でも星が崩壊する因果が定着してしまった。見事な因果の逆転現象だ」


 その言葉は真実だ。俺がすでに知っていた事実を並べ立てているに過ぎない。

 ……そうだ。俺の死がすべての起点。存在しない道を無理やり抉じ開け、本来在り得なかった地獄を創り出した。


「つまり、お前が改変した世界で、お前が敗北し、お前が死んだ事で直接関係のない世界まで巻き込んで自爆する事になったわけだ。すげぇなあ、オイ。大体、お前のせいだぞ。やっぱり、死んで正解だったんじゃねーか? そもそも、こんな事態を引き起こす前に大人しく死んどけって話だけどな」


 星の崩壊ですら、俺の死を起点としている。俺が死に、それをトリガーとしてイバラが目覚めた。

 鬼が直接手を下したわけでないにせよ、星が崩壊する原因となったのは事実だ。

 そもそも、イバラはここがゲームオーバーになるようにあそこにいたのだから。目覚めさせた時点で負けだと。


「ダンマスもいい迷惑だろうな。こんな事に巻き込まれて、唯一の存在意義だった嫁さん殺されてな」


 そうだ……星の崩壊はダンマス……杵築新吾の暴走によるものだ。

 その暴走を引き起こしたきっかけは迷宮都市領主、那由他の死によるもの。


「どう始末つけるつもりだ、おい。黙ってないで何か言えよ渡辺綱。……ああ、俺も見た目だけは渡辺綱だったな」

「……俺は」


 眼の前の男は渡辺綱だった。今の俺ではなく、前世の俺を似せて創られた悪意の姿だ。


「逆転の目があるんだろ? それしかないから、こんな回りくどい事してるんだろ? てめえの罪悪感など知った事か。どうせ、文句言う奴なんざお前自身しかいねえよ」

「……黙れ」

「黙らねえよ。俺は唯一の悪意だからな。唯一、お前を無限の先へ向かわせるよう唆せる存在だ。剥製職人が出張って画策したそれだって、それに付随したオマケのようなものだ」

「……黙れよっ!!」


 叫んでも、渡辺綱は何食わぬ顔をしている。


「どの道、ここが行き止まりで終着点だ。見て見ぬフリはもう限界。これ以上、目を逸し続けるならすべてが無駄になるだけだ。お前が犯した罪も、巻き添えにされた奴らも、糧になった世界も全部無駄になる」


 当たり前だ。自分自身の遠吠えなど、心に響くはずもない。


「死んでも諦めるなって美弓が言ってたな。アレは正論だ。そして諦めずに地獄を創り出したからこそ、こうして最後の分岐路が用意された。あり得ない選択肢を提示されて、お前はどちらを選ぶ?」

「俺は……」

「ちょっと目を向けるだけでいい。自分が大罪人だと認めるだけで、道は開かれる。無限の先に至るための、更なる煉獄の始まりだ」


 思い出す。忘れたフリを止める。ただそれだけの事があまりに重い。


「決断しろ、渡辺綱。決断して、俺を殺す道を切り開けよ。お前にはもうあとがないんだから。さあ!」


 唯一の悪意は囁くだけ。ただ、それだけでこんなにも俺を悪意に染め上げる。

 ここが在り得ざる手段で創られた、最後の分岐路だと。
















-5-




「……って聞いてるの? もう、人がせっかく真剣に話をしようって言ってるのに」


 ゲルギアルの剣が振り下ろされた直後、唐突に景色が切り替わった。どこか見覚えのあるような、ないような華々しい光景。そんな場所に立っている。


「いや、本当に大真面目な話だから。ちょっとツナ君の人生観とかその他もろもろが変わっちゃうくらい。あと、ついでに人生設計とか」


 眼の前にいて、しきりに俺へと話しかけているのは……。


「……リリカ?」

「え? あ、うん」


 見間違えようもない、リリカ・エーデンフェルデだ。

 しかし、ここにいるはずはない。リリカはクーゲルシュライバーに乗らず、今も迷宮都市にいる。迷宮都市にいて……冒険者の中級昇格式典に出ているはず……。


「……昇格……式典?」


 華やかな装飾に彩られたパーティ会場。俺は似合わないスーツで、リリカも初めて見るようなドレス。

 奥にある壇上では誰かが挨拶をしていて、その奥に飾られた横断幕には『中級昇格式典』の文字。……俺やユキが参加した時のものと同じものだ。


「馬鹿な……」


 なんだコレは。……なんで俺はこんなところにいる?

 まさか、ゲルギアルに殺されるタイミングで迷宮都市に戻って来たとでもいうのか。

 ダンジョンで死んだにしても不自然極まるだろう。そもそも、あいつは死んでも生還しないようにダンジョンから切り離したと言っていたはず。


「あ、あれ? どうしたの?」


 不安そうな顔で俺へと話しかけてくるリリカ。よほど変な顔をしていたのだろう。

 リリカがここにいるのは何も不思議な事ではない。元々昇格対象者で、参加予定だったのだから。

 ……不思議なのはここにいる俺の存在だ。何故、リリカは俺がここにいる事を疑問に思っていないのか。


「まさか具合悪いとか? 慣れないスーツ着て気持ち悪くなったとか」

「慣れないのは確かにそうだが……そもそも、なんで俺がスーツ着てるんだ?」

「は?」


 何言ってるんだこいつはって目をされてしまった。最近は、どっちかといえば俺がしていた反応だったはずなんだが。


「……いやいい。一つずつはっきりさせよう」

「う、うん。なんなの……一体」


 眼の前のリリカが幻影や偽物とは思えない。何故か距離感が近い気もするが、リリカには違いないだろう。

 夢か? そうだとしても、なんでこんな夢を……。

 いや、夢じゃない。この体に伝わってくる生々しい感覚は夢なんかではない。


「……まず、ここはどこだ?」

「式典会場だけど。……えーと、中級冒険者になった人をお祝いする?会場だよね」

「なんで疑問系よ」

「いや、こんなパーティみたいなの想像してなかったというか……むしろ実家のパーティより盛大というか」


 ああ……なんか本物っぽいな、おい。


「なんで俺はここにいる?」

「なんでって……中級冒険者に昇格したからじゃ」

「……パンダたちはどうした?」

「ぱんだ? ……パンダ……、パンダって十層で出てきた……ああ、そういえば冒険者になったパンダがいるって聞いたような……え、もう中級昇格してるの?」


 やべえ、話が噛み合わない。

 ……だが、なんとなくだが状況が掴めて来た。あまり認めたくない推測ではあるが……くそ、冗談だろ。


「……じゃあ、"フィロスたち"はどこにいった?」

「え? えええ……と」


 予想は合っているようだが、なんで言い淀むんだよ。思ってた反応と違うぞ。


「えーと、ちょっと席を外しているというか……外してもらっているというか」

「お前の反応は良く分からんが、あいつもこの式典に参加してるって事だな?」

「そりゃ同じパーティメンバーなんだし……うん」


 なんとなくだが分かった。いや、なんでここにいるのかはさっぱりだが……。

 ここまでロクでもない現象に塗れて来たんだ。意味不明な事があろうが、この程度じゃ驚きはしない。


 ……ここは平行世界だ。



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