第8話「原初の龍人」




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 ゲルギアルは極々当たり前のように俺たちの前へと歩いて来た。

 それに対して俺たちは一切行動を起こせず、ただ棒立ちのまま傍観していた。行動を起こせば斬られるとか恐怖で動けなかったのではなく、そういう発想にすら至れなかった。眼の前にいるのは、この惨劇の口火を切り、おそらく皇龍を殺害した者だというのに。


「戦いの舞台が用意されたという事は、すなわち次のステージへ上がる準備が整ったという事だ。存在としての格が上がったという証明でもある。そう、想定できる十分以上に見積もっていたはずだった。……なのに、私はまだどこかで創り出した時の劣化龍のままと侮っていたのだろうな」


 どうする。どうする。どうする。

 この場にいる全員がいつ倒れてもおかしくないような状況で、こんな超常戦力と対峙しろというのか。

 最大戦力であるベレンヴァールは戦闘用の《 刻印術 》を使い果たし、空龍は魔力欠乏状態、多少マシなクラリスだって余力はないに等しい。俺に至っては辛うじて傷が塞がっているだけ。ベレンヴァールの治療がなかったら緩やかに死を迎えていたような有様で、《 飢餓の暴獣 》なんて使えば一瞬で死に至るだろう。

 戦力差をひっくり返し得る切り札は、すべて切られたあと。本気で手がない詰みの状態だ。


「アレは本来、龍と人を繋ぐ緩衝材として創られたモノだ。進歩などするはずがない、するとしても枠から大きくはみ出る事などないという侮りを抱いていたという事だ。因果の虜囚の試練として定められた条件が整った以上、そんなはずはないというのに」


 龍人の歩みが俺たちの手前数メートルのところで止まった。だらりと下げられた武器に注視しても、それが振られる気配はない。

 一般的な攻撃射程圏外。ただその場で武器を振るうだけでは届かない場所。俺たち冒険者や、目の前の怪物にはまったく意味を成さない距離ではあるが、この距離は龍人が元々は人であった事の証左なのか。

 そこまで来て、ようやく体が自然と警戒に入った。


「警戒せずとも、いきなり斬りかかったりはしない。話の通じる相手には、まず会話から入る性分なんでな」


 俺たちの警戒に対し、龍人が言う。

 ……そうだ。確かにこいつがその気ならすでに終わっている。その目的が空龍だろうが、俺たちの全滅だろうが、ただ剣を一振りするだけで終了なのだから。

 皇龍との戦いで多大な消耗をしているのは確かだろうが、それは俺たちも変わらない。そもそも、そんな消耗など関係ないと言わんばかりに、根本的な実力が違い過ぎる。……むしろ、皇龍がどうやってここまで追い詰めたのか理解できない。


「……この状況で何を話せと?」


 戦闘の意思がないからなのか、恐怖で声が出ないという事もない。少し戦意を向けられるだけで息が詰まる……下手すりゃショック死しかねないだろうが、今はまだ大丈夫だ。

 会話をお望みなら提供するべきだ。有無をいわさず襲いかかってくる無量の貌の印象があまりに強いが、この老人は最初から会話が成立していた。実力ではどうしようもない差があっても、そこに活路があるかもしれない。


「交渉だ。私からの要求はただ一つ……ソレを引き渡せ」


 ゲルギアルが指を向けるのは空龍。何故わざわざ、という疑問を除けば、それは簡単に想定できた話でもあるが……。


「呑むと思ってるのか?」


 当然呑めるはずはないし、直前の会話から空龍を逃がす事に皇龍の意図がある事も分かっているはずだ。

 しかし、わざわざ持ちかけて来た以上、これで交渉とやらが終わりとも考え難かった。現に、その答えを予想していたようにも見える。望まない事を相手に突きつけて苦悩する様を見て楽しむ趣味があるようにも見えない。


「思わん。どうやら貴様は因果の虜囚らしからぬ律儀な男のようだからな。暴力を向けられて、ただ要求を丸呑みするような事はしないだろう。私を信用できないという面もあるだろうが、誇り高いようで結構な事だ」


 褒められているのか、貶されているのか、あるいは皮肉なのか、判断が難しい言葉だった。

 どれだけ俺の事を理解しているのかは知らないが、俺の情報はある程度把握されていると考えるべきだ。少なくとも、表面上の情報は《 因果の虜囚 》を通じて共有されていてもおかしくはない。俺にはこの男の情報は流れてこないが、公開される情報が同じであるとも限らないのだから。


「……あんたの意図が分からない」

「会話や条件提示でお互いの意図を汲み取るのが交渉だろう? これが私から提示する唯一絶対の要求だ。そちらはそれを呑める対価を要求するといい。内容にもよるが、ある程度は検討しよう」

「交渉以前の問題だと言っているんだ。俺たちとあんたの戦力差でそれが成立するとでも?」


 絶対的な暴力を盾に要求を押し通すのは、交渉ではなく脅迫や恫喝の類だ。あまりに立場が違い過ぎる。俺たちにはその要求を跳ね除ける術は持たず、抗う事ができるかさえ怪しいというのに。

 そもそも、交渉以前に何を対価に出されようが空龍を差し出すつもりはなかった。即座に口に出さないのは、相手の出方を窺っているだけにすぎない。それが合理的で利口なのは分かっているが、それができるならここに立っていない。その先にあるのが全滅だとしても、無抵抗のまま差し出す選択肢はない。

 極力ゲルギアルから目を離さないよう、ベレンヴァールとクラリスの様子を窺う。

 クラリスは困惑する空龍の手を掴み、ベレンヴァールはただ頷いた。……おそらく、多少でもその気があるのは空龍本人だけだろう。


「……まあ、いいだろう。どのような結論を出すにせよ、それが決まるまでは手を出さないと誓おう」


 口約束とはいえ、一方的な譲歩だった。ますます意図が読み取れない。何故、この男はここまで交渉に拘るのか。


「理解できないという顔をしているな。……なに、ただの気まぐれよ。久しぶりに対話の成立しそうな相手と出会ったのだから、おかしな事でもあるまい」


 ……言っている事だけなら分からないでもないが、何故それが今で、俺なんだ。

 それだけなら人工衛星で皇龍と対峙した時だって同じだろう。


「永劫に等しい時間を生き、この身に龍の因子を取り込んだとしても、元々私は人である。無量の貌のような相手よりはよっぽど話が通じるとは思わないか?」

「アレを引き合いに出すのは反則だろ」


 壁に向かって話してたほうがまだマシなレベルだ。


「はははっ! 比較対象として適切でないか。いや尤も。確かにアレと比べれば、お前たちが唯一の悪意と呼ぶそれでさえ話が通じる。……そうだな。アレを比較対象としてしまうのに違和感を感じないほどに破綻しているのが因果の虜囚という存在なのだ。個としては隔絶した力を持つ以上、我が強くなるのは当然ともいえるが、むしろ私やあの劣化龍、そしてお前のほうが少数派だろう。妄執に囚われている分、ただの亜神よりもタチが悪い」


 タチが悪いのは自分や俺を含めてと言いそうな雰囲気だった。改めて自分を取り巻く絶望的な環境に目が眩みそうになる。


「貴様の事は分からんが、あの劣化龍でさえマシというだけで似たようなものよ。少なくとも人間のソレとはかけ離れている」

「……貴方にお母様の何が分かるというのです」


 看過できなかったのか、皇龍の評価に空龍が反応する。この隔絶した相手に怒気すら孕んで。

 確かに目の前の存在はこの世界における偉人なのだろう。超常の存在であり、皇龍たちを創り出した創造主ともいえる。だが、その内を評価するだけの情報は持っていないはずだ。内に秘めた本質は、情報だけで測れるほど安いものではない。


「分かるさ。他でもない私だからこそ分かる」


 だが、返って来たのは意見は認めないとばかりの断言。皇龍を最も理解しているのは自分だと言わんばかりの言葉だった。


「アレと私は対となる存在であり、お互いの死そのもの。決して相容れぬし、存在を許容できない対極。しかし、それ故に最も近しい理解者でもあるのだ。戦っている間、我々は間違いなく生来の友と呼べる関係だった。互いに理解し合い、尊重し合い、されど反発し殺し合う。この感覚は同じ立場の存在しか理解できぬであろうよ」


 皇龍がどう考えていたかはともかく、少なくともこの男は本気でそう考えている。

 理解できないのは、俺が対存在と相対した事がないからなのか。


「そして、我々は決して共に歩む事はない対だ。交われば最後、どちらかが滅するのが運命。交差路の先に道などない。……だからこそ、アレが残したものを引き継ごうと思った」

「引き継ぐ……?」


 何を? 龍の事ではないだろうが。


「渡辺綱、お前との同盟よ。望むのなら、そこにお前の仲間や世界を含めても構わん」

「な……に、言ってるんだ……」


 あまりに突拍子もない話に理解が追いついていなかった。

 確かに皇龍と約束を交わしはしたが、それとこの男とは一切関係がないはずだ。それが、この場で言葉を交わす理由だとでもいうのか。


「そうだな。対価が思いつかないというのであれば、こういうのはどうだ? 私の要求を呑みさえすればこの窮地から助け出す手助けをし、無量の貌を排除してやろう。すでに簒奪された者はどうしようもないが、これだけでも破格の条件なはずだ」


 意味が分からないほどの好条件。力ずくでどうとでもできる状況で、空龍という個を差し出すだけでそれだけの見返りを提供すると。……この、どうしようもない、完全に詰んだような状況に手を貸すと。


「その上で望むのなら、他の因果の虜囚相手の共同戦線を張っても構わん。対存在との戦いに口を挟むのは避けるが、そのための準備に手を貸してもいい。無論、お前があの対存在に敗北するようならそこまでの話だがな」

「それのどこに、お前のメリットがあるっていうんだ」

「言っただろう? あの劣化龍が生きた証を残すため。その代役をやってやろうと言っているのだ。まあ、お前が対存在を破り、次のステージに上がれるだけの器量を持つというのなら、私にもメリットがあるかもしれんがね。加えて、もしもお前が唯一の悪意を排除できるようなら、この上ない取引だ。因果の虜囚である以上、その最低限の資格がある事は確定しているのだしな」


 正しく俺への全面協力だ。対存在に手を出さないのは、因果の虜囚の不文律に従っているに過ぎない。

 しかし、それではまるで……。


「唯一の悪意を滅ぼすのが自分でなくてもいいっていうのか」


 自分の手で成す事は決して譲れない、それは俺たちに共通する根幹部分のはずだ。

 因果の虜囚は究極的に別の虜囚の存在を許容できない。俺はもちろん、協力関係だった皇龍でさえその一点では譲れなかった。無量の貌ですらそれを匂わせる発言があった。

 この負の情念は、俺たちを突き動かす力だ。それを望まないという事は、前提から破綻していると言ってもいい。


「構わんよ」


 しかし、ゲルギアルは事もなさげに言ってのけた。


「憎悪や嫌悪の念がないとは言わんが、私にその理屈は通用しない。私は己の知識欲によってのみ動いている。唯一の悪意を排除するのも深層に至るのに必要だからであって、私がそれを成す事に拘りはない。私を妨げないのであれば、誰がアレを排除しようが気にする事ではないな」

「馬鹿な……」


 ありえない。同じ虜囚の身であるからこそ、理解できない。

 コレはそういう類のものではないのだ。言い表す言葉がないから負の情念などと表現しているが、コレは魂に刻まれた存在としての根幹に等しい。唯一の悪意に至り、滅ぼすためなら、自らの死どころか世界を滅ぼしても構わないと思えるほどに。たとえ欺瞞だとしても、アレに拘りがないなどと、そんな事は口走る事すら躊躇われるはずだ。

 そして、恐ろしい事にこいつはそれが異常であると理解している。理解した上で口にしている。


 ここに至り、俺は確信した。

 こいつは見かけこそ人間に近いが、まったくの別物。龍の在り方とも違う。いや、むしろ因果の虜囚とも異なる異形の存在。他の亜神よりも、皇龍よりも、無量の貌と比較してさえ理解の埒外にある怪物だ。

 俺以外……いや、因果の虜囚以外にはそこまでおかしな事を言っているようには感じないかもしれない。復讐より優先すべき事があるという極々真っ当な事を言っているだけなのだから。それを言うのが虜囚本人であるというだけで、こうも歪に聞こえる。

 なにが会話の成立する相手だ。成立するというだけで、その根幹部分がまるで違う。その正体に至っただけで、目の前の存在がまったく別の怪物に変貌したような錯覚に囚われるほどに。なまじ近しい姿をとり言葉を交わしている分、それが余計に恐ろしかった。


「……おかしいだろう。誰でもいいと言うのなら、皇龍と共に進む道だってあったはずだ。俺には貴様が因果の虜囚のルールに囚われているようにしか感じない」


 俺の心中をよそに、ベレンヴァールが言う。

 ……確かに関係者以外ならそう聞こえるかもしれない。だが、おそらくそこに矛盾はないのだ。


「囚われているとも。未だこの身は虜囚のそれである。私が他の虜囚と異なるのは最終目的の一点のみよ。その目的に合致し、道を用意してくれているのだから乗らない理由はない。そもそも、あの劣化龍にしたところで私を避けて通る事はできん。我々は共に望んで激突し、殺し合ったのだからな」

「何故、他の道を探そうとせずに殺し合う! それだけしか道がないというならともかく、お前は違うんだろう!?」

「見解の相違であり、価値観の相違である。そのような道はお互いに望んでいない。私は奴の存在を許容できないが、最大限敬意を評する相手であり、また、今もそう在ろうとしている。アレが認めた相手でなければ、こうして話をする事もなかっただろう」


 駄目だ、ベレンヴァール。その男とは絶対に噛み合わない。価値観が違い過ぎる。


「そもそも私はお前と問答を重ねるつもりはないぞ、異世界人。……それでどうだ渡辺綱、妥協点は存在するかね? お前なら、多少なりとも私の価値観が理解できるだろう」

「……ツナ」


 振り返り、俺を見たベレンヴァールは信じられない者を見るような目をしていた。

 ……お前のような化け物と一緒にするなと一蹴したいところではあるが、確かに俺の立ち位置はこの爺に近く、わずかでも理解できてしまう。


「理解したくないが、多少は理解できる。……その上で聞きたいが、お前は妥協点があるとでも思っているのか?」

「あるはずもない。そこを譲る事はお前の存在そのものを揺るがす事だろうしな」


 こいつは、俺たちに退路はないと分かっていて尚も問いかけているのだ。

 皇龍の協力関係を引き継ぐつもりはあるが、お前は自らを曲げる事ができるのかと。因果の虜囚であればそれができるはずがないと分かり切っているのに。……まさしく気まぐれなのだろう。


「ぶちょ……」

「空龍連れて下がれクラリス」


 何か言いたそうだったクラリスを押し止める。

 あるいは誰か一人でもそれを望む者がここにいたのなら分からなかったかもしれないが、生憎意見は一致してる。


「宣言する。この件に関して俺たちに妥協点などない。感情的な面はもちろんあるが、俺が渡辺綱である限り何一つ譲るつもりはない」


 抗う事がまったく無駄な行為であったとしても。斬られるのが空龍だけでなくこの場にいる全員になるだけだとしても。

 空龍以外に残された者を救う道を断つ事と同義であるとしても、譲るわけにはいかない。何よりも、それが渡辺綱だからだ。


「まあ、そうなるだろうな。因果の虜囚であるなら、その我も当然だ。むしろ安心したぞ」


 ゲルギアルが手に持つ細剣を握り直すのが分かった。


「この件については、すべてが終わったあとで再度問うとしよう。ああ、心配しなくてもいいぞ。ソレ以外は死なない程度に手加減してやろう」


 あきらかに舐められた言葉だ。しかし、それが当然であると言わんばかりの格差があるのも確かだった。

 事実、俺たちの誰一人として抗う術は残されていない。


「……というわけだ。交渉は決裂したが、いつまで覗いているつもりだ?」


 即座に襲いかかってくるかと思えば、ゲルギアルが何もない場所に向かって語りかけた。無量の貌相手に言っているのかとも思ったが、どうも様子が違う。


「……結果は分かってましたけど、もう少し時間を稼げないかな、と期待したんですがね」


 何もない場所に、ここにいないはずの少年がその姿を現した。


「ディルク……」




-2-





 《 隠れ身 》や魔術的なスキルではない。それはおそらくラディーネが作ったステルス・スーツのものだろう。俺たちが誰も気づかなかったのは、その上で更に気配を遮断する何かをしていたと思われる。

 ゲルギアルには筒抜けだったようだが。


「邪魔をするならまとめて斬って捨てるが、何か新しい観点で妥協点を提示してくれるのかね?」

「残念ですが、その要求は呑めません。仮に渡辺さんが了承したとしても」


 ディルクは肩を竦め、そう言いつつ、こちらへと歩いて来た。そして、そのまま俺たちとゲルギアルの間へと歩を進める。まるで、自分一人がゲルギアルと対峙すると言っているように。


――――《 反応も返答もなしでお願いします。クーゲルシュライバーがこの先で航行不能に陥りました 》――


 続けて《 念話 》で悪夢のような事実が語られた。

 それは、クーゲルシュライバーが未だに簒奪の脅威に晒されているという事。いや、原因すらそのものなのかもしれない。


――――《 この状況でダンジョンマスター死亡に伴う世界の概念崩壊が発生した場合、この空間も巻き込まれる可能性は高い。つまり、文字通り全滅です 》――


 つまり、ゲルギアルに空龍を引き渡そうが、その時点で全滅という事である。二重の意味でも呑める交渉ではなかったという事だ。だからといって、ディルクにこの窮地を切り抜ける妙案があるようにも見えない。


――――《 一分一秒でも時間稼ぎを…… 》――

――――《 《 隠蔽 》、《 偽装 》、《 暗号化 》、たかが《 念話 》一つだというのに、大した天禀を窺わせるな 》――


 《 念話 》の途中でゲルギアルが割り込んで来た。ディルクの表情に陰りが生まれる。

 ゲルギアルの指摘したそれは、ディルクの《 念話 》に使用している盗聴・改竄対策を指している。《 念話 》をただそのまま使うのではなく、自分と同じように《 情報魔術 》が得意な者を想定した対策を常に行っているらしいのだが……この様子だと、完全に看破されている。

 こいつは戦闘力だけの怪物ではない。


「どうした? 時間稼ぎをするつもりなら作戦会議は重要だろう?」


 気付いた上で、好きにしろと促す。それをしても関係ないと言わんばかりに。


「……はは、まいったな。さっきのステルスを看破した事といい、どれだけ超越してるのやら」

「なに、私の得意分野というだけの話だ。戦闘はともかく、こちらのほうは才能があったらしくてな。魔術的、科学的問わず、私を欺くのは困難を極めると思うぞ」


 続けて、ディルクが後ろ手でハンドサインを見せた。頭の中を覗かれてでもいない限り読まれる事のない、仲間内だけのサインだ。確かにこれなら伝わらないだろうが……。

 内容は……『隙を見て全員離脱』。

 どうやって? と言いたくなる内容だが、口には出せない。ついでに、このハンドサインを指定したのはクーゲルシュライバーの全体訓練時で、俺とベレンヴァールしか把握していない。空龍とクラリスはとっさの対応が難しいだろう。

 そんな事が分からないディルクではない。ならば、何か手を打つと考えるのが自然だが……。


「なかなか興味深いものを見せてもらったが、それだけでは時間稼ぎに付き合ってやるほどの対価にはならんな。私にとっての未知を示してくれるのであれば、時間稼ぎに乗るのも吝かではないが」

「この顔……無量の貌を排除してもらったあとに改めて交渉ってのは駄目ですかね?」

「呑むわけないだろう。そもそも、その交渉は渡辺綱とのもので、すでに決裂済みである。……他に語るべき言葉はないようだな。せいぜい足掻くといい」


 ゲルギアルが軽く剣を振る。ただ、それだけで回廊に巨大な亀裂が走った。


 この空間を構成しているものの強度など分からないが、そんな事は関係なく驚異的な一撃だ。その亀裂は先ほどまでディルクが"いた場所"を引き裂いている。

 本来ならそれだけで終わる一撃だったはずだ。意図的に外したわけでもない。……なのに、外れた。

 何が起きたのかは分からない。本人以外の誰も理解できていない。だが、ディルクが何かをしたのは分かった。

 その証拠に、ゲルギアルの気配が一変した。驚愕ではない。苛立ちでも憎悪でもない。感じるのは歓喜だ。

 ゲルギアルにとっては不意打ちともいえる回避行動、そして感情の発露により、対するディルクはほんのわずかな一瞬を手に入れた。


「《 我は迷宮の始祖の一であり、世界の理を変革する権利を持つ者であるとここに宣言する 》っっ!!」

――Action Skill《 極小の時間単位において、我は戦域の支配者である 》――


 告げられるのは高らかなる宣言。それは世界への宣誓であるのと同時にゲルギアルへ対する宣言でもあった。詳細は分からないが、アレは事前申告を信じるなら時間制限アリの能力向上スキルのはずだ。


「……《 宣誓真言 》」


 続いてゲルギアルが剣を横薙ぎに振る。宣言なき一閃は最小動作でディルクを排除するためのもの。

 俺では目視困難な……いや、反応できるかすら怪しい剣閃を、ディルクは杖で受け止め、受け流す。それに遅れて巨大な爆音が鳴り響いた。

 そこに、一挙一動が音を超える超人の戦場が生まれた。

 掠るだけでバラバラになりそうな剣撃を受ける事数発。それを受け止め続けたディルクの杖が歪み、粉々に砕け散る。


――Action Skill《 付喪の遺言 》――


 続けて、砕け散った杖の欠片がすべて爆発した。ディルクは至近距離で発生した爆風に乗り、ゲルギアルとの距離をわずかに離す。

 状況が一変した瞬間、俺とベレンヴァールも後ろへと距離をとった。あまりの事に状況を把握し切れていない空龍とクラリスの手を取って。

 ここに俺たちの出る幕はない。手を出したら最後、細切れにされる未来だけが見える。そんな事はディルクも望んでいない。

 この場、この瞬間に手を出せる者がいるとすれば、それはただ一人。ディルクが切り札と呼ぶ者だけだ。


「セェラああああっ!!」


――Action Skill《 刃の理に従い、契約者ディルクへと勝利を捧げる事を誓う 》――


 そのタイミングで、何もない場所からセラフィーナの姿が現れた。誰も感知していない……おそらくはゲルギアルですら認識していない、直上の好位置。そこから、完全なる奇襲が成立する。


「チィッ!!」

――Over Skill《 剣皇結界・攻勢転位 》――


 それに対し返すのは、超人の身体能力をしても不自然な動作。あきらかに物理法則を無視した動きで以て、セラフィーナの剣が弾かれる。

 そして、更に返す刃がセラフィーナを襲う。防御は間に合ったようだが、弾かれた体がそのままこちらのほうへと……って、おいっ!!


「……クラマス、邪魔」

「うっさいわっ!!」


 俺目掛けて突っ込んで来たセラフィーナ相手に、有無をいわさずクッション役を務める羽目になった。

 辛うじて生きてる半死人のところに突っ込んで来るんじゃねーよ。ついでに叫ばせるな。痛えんだよっ!!


「どちらも妬ましいまでの才能の塊だな。そんな君たちが命を投げ出すような存在かね、渡辺綱は?」

「知らない。クラマスはディー君が認めたただ一人の冒険者だし。私にはそれだけで十分」


 その評価はセラフィーナからものとしては最上級なのだろう。本来、ディルク以外がどうこうって奴じゃないし。


「なるほど、興味深い回答だ」


――Action Magic《 エア・シュート 》――


 ディルクの放った魔術に合わせ、再びゲルギアルへと肉薄するセラフィーナ。

 視認困難な状況ではあるが、辛うじて戦闘にはなっているように見える。だが、それもどこまで保つか。


 わずか数秒。それだけの間に数え切れない剣撃が重ねられ、打ち合い、払われた。未だ有効打はない。


――Action Magic《 バイオレット・ソーン 》――


 合間でセラフィーナを補助するように放たれる大量の魔術もゲルギアルの動きを止めるには至らない。的確かつ、異様な高サイクルで放たれる魔術群だが、《 宣誓真言 》によって強化されているとはいえ、支援の域を出ていない。常にゲルギアルへと肉薄するセラフィーナに対し、ディルクは魔術による牽制、攻撃補助に徹している。

 確かにここまで超人的な戦闘になれば、役割分担として後衛に徹するのは戦術的に正しい。しかし、それがディルクの本命とは思えなかった。


 そうして刹那の永い戦闘が続く中、ディルクが動く。

 いつの間に展開されたのか、空中に投影される無数の立体魔法陣。複層に複層を重ね、すでに球状に近い構造となった魔法陣が唸り、発光する。


――Action Magic《 大噪音 》――


 世界が歪む。

 聞こえて来る音、視界に入る映像、嗅覚、聴覚、おそらくは触覚に至るまで、すべての感覚に余計な情報が差し込まれた。

 全身が機能不全に陥り、感じるすべての情報に違和感を感じる。そのまま続けば意識を保つのも困難なほどに強烈な不快感。

 強烈な一手だが、その効果は一瞬。ゲルギアルにも影響は与えたようだが、ほんの少し動作に戸惑いが生まれた程度だ。これは本命ではない。


「《 重ねて宣言する 》っっ!!」


 歪んだ景色の中、一切の影響が見られないセラフィーナが動いた。発せられるのは《 宣誓真言 》の前文と思しき短い言葉。


――Action Skill《 この身、この魂は一振りの剣。捧げられし手足は盟約の刃である 》――


 その瞬間、セラフィーナの姿が消えた。

 それはセラフィーナがディルクの切り札である証明。ほぼ同一内容の《 宣誓真言 》によって、多重の能力向上を実現した。

 ただでさえ極限まで高められた身体能力を振り切り、更に上の領域へと手を伸ばす。対峙していたゲルギアルでさえ、一瞬の間隙を突かれた超速の移動には意識が追いついていない。刹那の後、意識が向かったのは背後。そこにセラフィーナの剣が届いていた。

 背後から突き付けられた剣を払う。完全に意識外からの不意打ちとはいえ、それができるのがゲルギアルという怪物だ。

 ただし、そこにあったのは超速で飛来した剣のみ。セラフィーナの姿はそこになく、ディルクの近くにある。


 極限に加速した視界の中で、ディルクの口が動いたのを見た。

 これが狙い。このわずかな時間を稼ぎ出すのが目的だったと確信する。

 ゲルギアルの隙を突くのはセラフィーナでもディルクでもない。不安定な空間の壁を抜けて出現し、高速で撃ち出された巨大なドリルだった。

 多重に偽装され、隠蔽されていたであろうそれは、すでにゲルギアルの直前まで迫っていた。




-3-




 そのドリルに見覚えはないが、一つの可能性に思い至る。

 クーゲルシュライバー先頭部分に備え付けられた掘削機。概念ごと破壊し、世界の壁を掘削する超工作機械。その一部ではないかと。

 それを発射し、壁から出現したのは小型艇と一体化したボーグ。その機体は、弾丸のような加速でこちらへと走り出している。


「乗れっ! ワタナベ君っ!!」


 停止も減速もない。未だ加速を続けるボーグの乗車部のカバーが開き、中からラディーネの手が伸ばされた。その横には玄龍がいて、ベレンヴァールへと手を伸ばしている。

 とっさに空龍の手を引っ張り、反対側の手でラディーネの手を掴む。高速で移動する中で手を取るには頼りない体格ではあっても、そこは冒険者だ。そのまま車内へと引き込まれた。一方、反対側では玄龍がクラリスを抱えたベレンヴァールを引き上げている。

 ……そうだ。これがディルクの狙いか、とようやく思い至った。


「お、おいっ!! ディルクとセラフィーナはっ!?」


 しかし、離脱する中に二人の姿はない。振り返れば、その場に残った二人の後ろ姿が見える。


「概念崩壊の際に発生する発光現象が確認できない。残念だが、プランA続行……二人には続けて足止めしてもらう」

「そんな無茶な!!」


 あの二人が超人的な能力で渡り合っていたのはあくまで一過性のものだ。時間を限定された切り札を切って、二人がかりで、更には見えない奥の手を使って捻出した隙に過ぎない。それが過ぎてしまえば、優秀とはいえせいぜいが中級冒険者の能力しか持たない。

 しかし、それが分かってないはずもない。冷酷ともとれるラディーネに反論しようとするが、続く言葉が出ない。

 そうだ。……ゲルギアルが健在というのなら、小型艇の足などないも同然。これだけでは時間稼ぎにもならない。


「……わずかでも足止めできる可能性があったのはあの二人だけなんだ。掘削機での強襲が失敗した以上、他に手がない」


 くそ……駄目だ。飲み込め。冷静になれ。

 ターゲットである空龍は論外としても、今の消耗し切った俺たちが残ったところでなんの意味がある。それならば、ラディーネや玄龍のほうがよほど戦力になり得るだろう。その二人がここにいるという事は、そういう結論がすでに出ているという事なのだ。


「……状況報告を。なんの時間稼ぎを狙っている」


 湧き上がる激情を押さえつける。今、すべき事はディルクたちの処遇についてラディーネを詰問する事ではない。


「持ってきたアイテムで補給しつつ聞いてくれ。特にワタナベ君の状態がヤバ過ぎる。ボーグ、このまま全力で加速だ。燃料を気にするな」

『ハイ』


 自覚はあるが、周りと比べても尚ヤバいのが分かるらしい。

 車内には巨大なバッグが積まれ、そこには大量の冒険者用アイテムが無造作に放り込まれている。主に回復薬だが、武器などもカードで用意されているようだ。ほとんどがラディーネ印の商品化前の実験品ではあるが、今は信頼性や服用後の悪影響を懸念するよりも、その効果の高さの方が重要である。

 とりあえず錠剤を飲み薬で流し込む荒業で傷は塞がったが、内部の損傷が治るのは時間がかかりそうだ。


「まず、追撃してきた例の顔に飲み込まれかけてクーゲルシュライバーが航行機能を失った。ここからそう遠くない位置に不時着している」

「そこまではディルクから聞いて把握している」


 ゲルギアルの干渉があったために、そこまでだが。


「現在、涅槃寂静を名乗る顔の集合体が多数、艦を包囲し、冒険者が迎撃に当たっている。ただ、この対処はあくまでクーゲルシュライバー周囲のみの対応にしか手が回っていない。その上でこの回廊の侵食が進み、このまま放置すれば先行した小型艇や冒険者、果ては迷宮都市まで到達しかねないと判断した」


 想定し得る最悪の事態じゃねーか。

 入り口付近から先ほどの戦域まで顔の密度が低いと思っていたが、そちらに集中していたという事だ。

 あるいは、ゲルギアルの気配を察知して避けたという可能性もあるが……。


「セカンドはクーゲルシュライバーの航行機能を破棄、顔の侵食を止めるための手を打とうとした……が、そのタイミングであの化け物がやって来た」

「ゲルギアルか」


 ラディーネが頷く。


「放置できれば良かったんだが、会話を傍受した限り狙いは空龍君だ。皇龍殿の死亡はこちらで把握できていないが、少なくとも龍の世界における概念崩壊の兆候は未だ見られていない。その結果どんな現象が発生するのか、その範囲、崩壊の進行速度はまったくの未知数ではあるが、危険な事には変わりない。彼女がそれを引き起こすトリガーだとしたら、殺害を許すのは危険に過ぎる」


 対策としてディルクとセラフィーナが介入し、今に至るというわけか。


「時間稼ぎというのは?」

「セカンドからの指示だ。とにかく一分一秒でも長く時間を稼いで欲しいと。詳細は分からないが、侵食を止めるため空間を隔離するとか。ディルク君はその方法にあたりを付けていたようだが……」


 ……隔離。ようは、侵食を許しているのは空間が繋がっているからと判断したわけか。

 だが、それが上手くいったとして直接的な危機を脱出できるわけではない。無量の貌やゲルギアルを排除できず、俺たちやクーゲルシュライバーは孤立したままだ。


「……あのドリルの予備は?」

「ない。アレは完全なワンオフ品だ。しかし、あの場面では使うしかなかった」

「責めるつもりじゃない。判断自体は正しいと思う」


 問題はアレがない状態でこの回廊に孤立した場合、空間の掘削機能を失われたまま。能動的な脱出は困難という事だ。隔離というのがどういった手段で行われるのか分からない以上判断は難しいが、それをリカバリーする方法に目処がついているのか?

 隔離した上で先行した小型艇による救助を待つというのが最も現実的なプランと考えるべきか。……そんな単純で場当たり的な話なのか?

 もちろん、切羽詰まって他に手がなかったからという可能性はある。しかし、行動しているのはセカンドだ。加えて、ディルクも時間稼ぎを優先していた様子が見られた。ただの先延ばしのための行動とは考え難い。


「詳細な説明を受ける時間すら逼迫しているような状況だ。現時点でセカンドは通信に応じられず、ここに来たのだって無理やりに近いんだ」


 くそ、状況が把握し切れない。ならば、はっきりしている事だけでも処理するべきだ。


「とにかく、最優先事項は時間稼ぎだな?」

「そうだ。一分一秒でも長く」


 一秒を稼ぐため、足掻く。みっともなくとも、石に齧りついてでも。その結果がどうなるのかの詳細も分からないが、わずかでも好転すると信じて。ただ、問題はゲルギアル相手にそれが可能かどうか。


「距離をとる事は時間稼ぎにならない可能性が高い」

「把握している。いくらなんでも、あの龍人の出現は唐突に過ぎた。この逃避行だって、補給と情報整理くらいの意味しかないかもしれない」


 皇龍の死を空龍が把握した直後、宇宙空間で戦っているはずのあいつが現れた。それ以前、最初に現れた時もそうだ。つまり、何かしら特殊な移動手段を持っていると考えるべきだろう。だとすれば、こうして逃げる事で稼げる時間などたかが知れている。

 目的の一分一秒を稼ぎ出すためには有効だろうが、いくら距離をとっても過信はできない。


 すべての局面が綱渡り。巧遅は拙速に如かず、どころか、ミスなしで拙速を求められ、一つのミスですべてが崩壊する。

 わずかの間、沈黙が続いた。


「玄龍……結局、お前まで来たのか」

「ああ、姉上がいない場合の代役ではあるが、近くでその姉上が殺されかけているのに待機するわけにもいかん」


 その中で、ベレンヴァールが玄龍に対して言う。

 ゲルギアルに対しては龍であるというだけで危険ではあるが、どちらかといえば空龍が言いそうなセリフである。


「そういう事ではない。そんな事は分かってるんだ」


 だが、ベレンヴァールの口調が荒い。本当に言いたい事が伝わらないもどかしさのようなものを感じる。


「……お前、さっき結局と言ったな。まさか、"そういう事"なのか?」

「……そうだ。発着場で助けられ、飲み込まれた」


 多くを言わずとも分かってしまう。おそらくはここに至る道中、空龍と玄龍に近しい者ですでに簒奪された者がいるのだ。

 俺にその記憶はない。意識がなく立ち合っていない場面での出来事なのだろうが、その記憶ごと簒奪された可能性もある。


 続けて、ベレンヴァールのみが持つ特性で簒奪された名前と顔の記憶を保持できている事を含め、こちらの情報を共有する。

 記憶ごと簒奪されている以上、俺たちでは正確な被害は分からない。伝え聞いた情報でもどこかで歪んでいる可能性がある。この状況で、最も正確性があるのはベレンヴァールの体験談だ。

 そうして情報を整理してみれば、断片的な情報だけでも目を覆いたくなるような被害がベレンヴァールの口から告げられた。

 紐づく情報すべてが失われていない以上、ある程度は認識しているが、それを遥かに超えるものだ。壊滅なんてものじゃない。


「……呆れるほど好材料がないな」


 ラディーネの呟きに誰も反論できない。

 空龍の回収に失敗していれば、現時点で世界の崩壊が始まっていてもおかしくはない。

 界龍が結界を貼り直せなければ、環境の変化で脱出路の確保ができず死亡。加えて、この回廊に影響があった可能性も高い。

 涅槃寂静から逃げる事ができたのもほとんど奇跡のようなもの。ユキの変貌だって、誰も把握していないイレギュラーだ。

 ゲルギアルの気まぐれか皇龍の置き土産か、あの問答がなければ即座に命運は尽きていたし、ここにいるのもディルクたちの常識外の力によるところが大きい。

 本当に綱渡りもいいところだ。一つミスをすれば……どころか、風向きが少し変わっただけで即終了という道のりを、想像を絶する犠牲の上で踏破しているような状況である。


「ともあれ、今やるべきは時間稼ぎだ。可能ならこのままクーゲルシュライバーに合流したいところだが……そろそろ地形が変わっている場所に出るな。揺れるぞ」


 ラディーネがそう言った直後、車外の景色が一変する。

 ここまではただ円状にくり貫かれただけの巨大な回廊だったのが、急に不自然な地形に変貌した。

 クーゲルシュライバーが掘り進んだだけの状態なら、こんな形にはならない。戦闘の結果ならば、隆起しているのはおかしい。

 良く見れば、それらはすべて顔だ。ボーグが進む方向に向けて同じように移動を続けている。


「まさか、こいつらはクーゲルシュライバーに向かっているのか」

「その通りだ。このあたりはまだマシだが、中心部は穴を空けて突き抜けるしかない。涅槃寂静らしい個体も複数確認されている」


 最悪だ。しかし、大目標に目を眩ませているのか、こちらに積極的に向かって来ない分まだマシと考えているあたり、そろそろ感覚がマヒしてきている。


「いつ龍人が追いついてくるか分からん。可能な限り急げ! 多少の損耗は気にするなっ!!」


 顔の流れは方向も速度も一律ではない。妙な動きでこちらの経路を妨げる事もあれば、獲物に気付いたのか直接こちらへ向かってくる固体もあった。

 基本的にはすべて無視。緊急で取り付けたという搭載兵器で蹴散らし、蠢く顔の隙間を縫うように走行を続ける。

 進むごとに密度を増し、走行は困難になっていく。いよいよとなれば、俺たちが車上から直接戦闘する必要が出てくるかもしれない。

 ここまででクーゲルシュライバーまでの距離は三分の二程度。残り三分の一が厳しいものになる事を予感させた。


 そして、その途中に奇妙なまでに顔の密度の低い空間がスポット的に出現した。顔の行動に一貫性がない事を見れば、偶然と見えなくもない。走りやすい経路ができた事でボーグもスピードを上げた。


「馬鹿っ!! 止まれボーグっ!!」


 叫ぶ。そんなはずはない。この流れで都合の良い偶然などない。これはあきらかに危険信号だった。

 しかし俺の警告も虚しく、ボーグが行動に移る前にそれは起きた。

 ドリルがなくとも、現在のボーグの装甲であれば顔の群れを突っ切るくらいの事はできる。回廊の壁に垂直にぶつかりでもしない限り、車体の危険はないのだから、むしろこの状況ならスピードを上げたほうが安全といえるだろう。


 だから、車体ごとバラバラにされて投げ出されるなど、想定していない。


「かっ……」


 強烈な速度で投げ出され、受け身を取る暇もなく地面へと叩きつけられる。そして、投げ出された場所に顔はなかった。

 バラバラになりそうな痛みの中、わずかに上げた視界の先には……。


「さて、まだ出し物の続きはあるかね? 渡辺綱」


 ……細剣を携えつつ、悠然と立ち塞がるゲルギアルの姿があった。




-4-




 ここにゲルギアルがいるという事実は、ディルクたちの敗北を意味している。

 ……いや、わずかでも時間を稼げた時点で作戦自体は成功している。問題はその時間が足りなかったという事。そして、こいつの足を止める事などやはり無理難題だという事だ。どういう手段かは知らないが、ゲルギアルは距離が意味を成さないような移動手段を保有している。

 フリーハンドを得た時点で逃走など許さない。おそらくはそういう類のものだろう。

 こいつ相手に時間を稼ぐなら、それを上回る妨害手段を用意するか……正面から殴り合って捻出する必要がある。


 しかしその直後、それが無理筋である事を理解させられた。

 この化け物相手に戦闘の形を成立させたディルクとセラフィーナが例外中の例外なのだ。


 そこから発生した戦闘のような何か、一方的な蹂躙が行われるのに要した時間はわずか数瞬。

 車中から警戒していたのか、直後にゲルギアルへと切り込んだベレンヴァールの腕が武器ごと切断された。

 続き、ベレンヴァールが生み出した死角より攻撃を仕掛けた玄龍の胴体が真横に分断された。

 少し離れた場所に落下し、受け身すらとらずに狙撃態勢に入ったラディーネが構えた銃ごと袈裟斬りにされた。

 空龍が扇を投げた先にゲルギアルの姿はなく、庇おうとしたクラリスごと大きく切り刻まれた。

 俺はといえば、立ち上がった直後に放たれた斬撃を回避し切れず、左腕を落とされたあとに胴体を切り裂かれた。……即座に死なない程度に絶妙な加減を加えられて。

 たった数瞬。瞬きをするのと変わらない時間で、これだけの蹂躙が行われた。


「まだやるかね?」


 それは、瀕死の俺に向けられた言葉なのだろう。

 あまりの事に声が出ない。返事をするどころか、状況を理解するだけでも追いつかない悪夢の数瞬。


「一つ教示をしてやろう。《 宣誓真言 》に距離など関係ない。物理的な制限も魔力的な力も障害になりはしない。あの才気溢れる生意気な小僧共に良く言っておけ。お前たちのそれは、まだ入り口にも至っていないとな」


 それは、ディルクたちですら殺さず、無力化しただけに留めてある事を意味する。あくまで殺害するターゲットは龍のみであると。


「私の知的好奇心を刺激するものがあるのなら、もう少し遊んでやってもいいが……ネタ切れなら、ここで終了だぞ」


 空龍にトドメを刺していないのは、まだ何か切り札があるかもしれないと警戒……いや、期待しているのか。

 そんなもの、ありはしない。随分と前から俺自身はからっけつのままだ。


「……な、めんな」


 そう言って立ち上がったのも俺ではなくクラリスだ。

 比較的傷が浅かったのか、すでに身動きとれない空龍の前に立ちはだかり、ゲルギアルへ細剣を構えている。


「ほう……先ほどの小僧共といい、渡辺綱本人よりもその周囲のほうがよほど意外性があるな。それで、何を見せてくれる」

「そんなもの、あるわけないでしょ……こちとら、その場にいただけで、なんでここまで生きてるのかも分かんないのに……」


 息も絶え絶えに言葉を交わす。

 ゲルギアルの放つ気配はすでに戦闘用のそれだ。俺でも対峙しているだけで膝をつきたくなるような気配に対し、根本的にはほぼ無関係なクラリスが引かずにいる。まるで、そこが自分の戦場であると主張するように。


「合理性の欠片もない行動ではあるが、その胆力だけで称賛に値するな」

「合理性なんか知るかっ! サラダ倶楽部は創設者の時点からその場のノリと勢いだけで生きてるのよ!! ツンデレなめんなぁっ!!」


 奇しくも携えるのは同じ細剣。しかし、彼我の間には途方もない差が存在した。


――Action Skill《 ニードル・ストライク 》――


 放つのも中級冒険者なりに洗練されているとはいえ、ただの《 突剣技 》。ゲルギアルならば、それが直撃する寸前に動いたとしても対処可能な攻撃だ。

 それに対しゲルギアルがとった選択は剣を真っ二つに切り裂いての一閃だ。それだけでクラリスの意地が崩れ去った。


「ガァァアアアアアッッッ!!」


 その隙を突いたのか、ゲルギアルの周囲に黒い霧のようなものが渦を巻き、その姿を覆い尽くす。

 初めて見る現象だが、俺は何故かそれが玄龍の本体ではないかと思い当たった。


――Action Skill《 輝ける闇 》――


 駄目だ玄龍。それがどんなものかは知らないが、お前が前に出るのはまずいんだ。


「龍であるなら、手加減の必要はないな」

――Action Skill《 我が剣はすべてを切り裂く刃である 》――


 何かのスキルを放とうとした直前、無残にも黒い霧はバラバラに引き裂かれた。


 これは……死だ。無量の貌の簒奪とは違う、明確な死が目の前にあった。

 何事もなかったように立つゲルギアルの姿は、玄龍の行動も、死も、すべては無価値であると断じているようにも見えた。

 あまりに無残な死に魂が悲鳴を上げる。

 一体、どこまでの差があるというのか。ここまでの犠牲を強いられた上で、俺たちはロクな時間稼ぎすら行えていない。ディルクたちが稼ぎ出したわずかな時間さえ無駄にしようとしている。

 戦闘の形すら整えられない一方的な蹂躙。ゲルギアルは対象の生死すら手玉に取り、未だその実力の一端しか見せていない。繰り広げられているのは、完全に舐められた、戦闘のような何かでしかない。

 あいつは油断しているわけじゃない。ただ、それだけの余裕を見せてもどうしようもないほどの差が存在しているのだ。


 バラバラになりそうな体を右腕で支え、立つ。

 体の奥から湧き上がる情念だけがこの体を突き動かす。それは、奇しくも因果の虜囚としての在り方そのものだった。

 いかにダメージが大きかろうと、俺の意識はまだある。ならば、どれだけ無謀でも立ち上がれ。体が発する悲鳴など無視しろ。

 そうして視線を上げれば、ゲルギアルと目が合った。

 こいつの興味の対象は俺だ。空龍はターゲットではあるが、それを前にして俺が何をするのか確認しようとしている。ならば、俺が立っている限り終わりではない。


「……驚いたな。貴様まで介入しているというのか」


 いや、違う。ゲルギアルの視線……俺を見ていると思ったそれは、更に後方へと向けられていた。

 背後に何かがいる。


「介入しているのはボクじゃない」

「……ユ、キ?」


 俺の横から庇うようにして前に出たのは、吸血鬼との戦闘で行方の分からなくなったユキだった。

 ユキは一瞬だけ俺と視線を合わせ、逸した。


「貴様は観測器であろうよ。ならばそれは剥製職人の介入と同義である」

「アレはもう興味を失った。ここにいるのはただの抜け殻……ただの人間だ」


 なんだこれは。……ユキは何を言っている。


「……ユキ、お前一体」

「ごめんツナ、何も話せない。話す権限がない。……時間稼ぎが必要なんだよね?」

「いや、そうだが……待てっ!!」


 痛みも忘れて叫ぶが、ユキは止まらない。そのまま俺の正面へと立つ。


「最後までもう少し時間がある。その間はアレを引き受けるよ。……それでお別れ。ここまで来たのも、それを言いたかったんだ」

「お前、何するつもりだっ!? おいっ!!」


――Action Skill《 オーバードライブ 》――


 ちらりと振り返ったユキの表情は、これまで見た事がないほどに哀しそうだった。


「ぁぁあああああっ!!」


 悲鳴のような雄叫びを上げつつ、ユキがゲルギアルへと迫る。

 その速度は《 宣誓真言 》で強化されたセラフィーナに酷似したもので、ゲルギアルとの戦闘が成立する事を予感させた。

 数合剣が交わされる。刃がゲルギアルに届く事はないが、返すゲルギアルの剣もユキへ届かない。

 無数の剣閃が光となり、二人の戦闘が如何に高みにあるのかを主張していた。


 優勢ではないが、決して劣勢でもない。決着のつかない天上の殺陣を演じている。

 これなら確かに時間は稼げるだろう。しかし、あいつはもう少し時間があると言った。つまり、これが長く続かない事を意味している。

 それがディルクたちの《 宣誓真言 》のような、スキルの時間制限でない事は分かる。

 これは、あいつの最後の灯火なのだと。


 フラフラと足を進める。

 あそこは俺の立てる戦場ではない。手を出せば、その瞬間に砕けて散るような儚さがある。

 あいつに何があったのかは分からない。吸血鬼の時の反応やゲルギアルとの問答から、何か別の超常の存在が見え隠れしているのを感じる。

 剥製職人……おそらくは、そいつが何かしらの手を加えていると。


 ユキの猛攻に対応していたゲルギアルが目を閉じた。

 それは、敗北を受け入れたわけではなく、ユキの刃が届かない事を知ったからだ。


「悪趣味だな……いずれ斬りに行くと伝えてくれ」

「知らないよ。……会った事もないし」


 そんな簡単なやり取りのあと、ユキの体が光の粒子となって消えた。死とは違う、無量の貌の簒奪でもない。何か別のものだ。

 ゲルギアルは光の粒子が完全に消えてなくなるまでじっと見つめていた。




 ユキは唐突に現れ、その身に残された最後の時間を使い切った。

 それがどういった類のものであるかは分からないが、お別れを言う必要がある時点で別離を意味しているのは明確だろう。

 その最後が悲しいかと問われれば、良く分からない。感情がオーバーフローを起こし、正確に測れていないだけかもしれないが、それよりもあいつの最後があまりに幻想的で現実味がなかった事が原因だろう。

 今の俺にあるのは、ただ使命感に似た感情。ユキの挺身を、ここまでの犠牲を無駄にするなという心の悲鳴が俺を立たせている。


「あの劣化龍と対存在である私、そしてトリガーであり協力者であるお前はいいだろう。そこに無量の貌が割り込んだ。無軌道なあいつが何かの意図を持っているかは分からんが、ありえんとまでは言わん。この分だとお前の対存在すら関わってくるのではないか疑うような特異点と化しているな」

「…………」

「その上、剥製職人まで介入してきたとなると、さすがに何らかの意思を感じざるを得ない。因果の虜囚五体、あるいは六体が関わるなど、本来ならありえんと断じられるほどの特異点だ」


 どうやら、剥製職人とやらも因果の虜囚らしい。それがユキを動かしていたとなれば、それはもう偶然とはいえないだろう。


「さて、この絵を描いているのは誰だ? 少なくとも私ではない。劣化龍の奴でもないだろう。無量の貌がこんな回りくどい事をするとも思えん。……となれば怪しいのは剥製職人。あるいはお前の対存在であるイバラか。……それとも、まさかお前がこの舞台を用意したという事はあるまいな、渡辺綱」


 知るか、と言いたいところだが、本音としては分からない、だ。

 大量の既視感、失われた記憶の中に無数の因果を感じざるを得ない。ここは定められたどん詰まりだと。


「いいだろう。どういう意図があるかは知らんが、私の前に立ち塞がる者なら斬るだけよ。今は眼の前の目的を完遂するとしよう」


 ゲルギアルがこちらに向かって歩いてくる。その先には俺と、倒れ伏した空龍。


「悪趣味な面もあるが、なかなかに興味深い趣向だった。それで、まだ何かあるかね?」

「ねえよ、そんなもん」


 俺がここに立っているのは意地だ。後輩のクラリスにできて部長の俺が意地を張れない道理はないと意地を張った。

 ユキが稼いだ時間を使って俺ができたのは、ただ空龍の伏す場所への移動のみ。

 ラディーネの薬が遅れて効いたのか左腕からの大量出血は止まっているが、それ以外もポンコツだ。こんな状況で動ける奴など冒険者でもそうはいないだろう。


――Action Skill《 瞬装:紅 》――


 手にしたのは、かつてバラバラにしてしまった< 紅桜 >と対である小太刀。

 < 紅 >である事自体に意味はない。これを選択したのは片手で扱える事、俺が持つ装備の中で最も軽く、小さく、速く振れる事が理由だ。

 基本的に両手装備をメインに扱う俺には、これ以上の選択肢がなかった。コンマ以下何桁という世界に、わずかでも最適化させるための選択である。

 それを見て、ゲルギアルの動きがわずかだけ止まった。

 何かするのかと期待したのかもしれないが、俺ができる事といえば、せいぜいこれを一度振るくらいだ。

 加えて、《 宣誓真言 》を使われれば対処のしようもない……と、ゲルギアル本人も思い至ったようだ。


「……何もないのならこれで終わりだ」


 ゲルギアルが掲げた剣を振り下ろす。

 狙いは俺ではない。こいつは俺を無視し、後ろの空龍にトドメを刺そうとしている。

 すべてを斬る概念の前に、俺の体は壁にすら成り得ない。……本来ならば。


――Action Skill《 我が剣はすべてを切り裂く刃である 》――


 大仰な動作であるにも拘らず、その速度は俺の反応速度を大きく上回り、認識すら困難な領域へと到達した。

 あまりにも速い動作は認識不可能。それが放たれる事を事前に確信していた事で、辛うじてタイミングをとれるかもしれないという大博打に挑む。


 終わりではない。まだ詰んでいない。チェックではあっても、チェックメイトではない。

 俺の中にある未来の記憶は、ここが行き止まりと告げてはいない。悪夢にはまだ続きがあるという確信がある。

 ユキが、玄龍が、クラリスが、ここに来るまでに払った大量の犠牲が無駄であると認めるつもりはない。


――Passive Skill《 飢餓の暴獣 》――


 引き伸ばされた永遠にも等しい一瞬の中、因果の獣が唸りを上げる。

 発動すると確信していた。俺に残されたわずかな力、在り得ざる数瞬を実現するために獣が応えると。


 見ろ、原初の龍人! 俺の大博打は成功する事が確定しているぞ!!


「《 我が剣はすべてを切り裂く刃である 》っっ!!」

――Action Skill《 強制起動:我が剣はすべてを切り裂く刃である 》――

――System Alert《 強制起動によりスキルレベルにマイナス10の修正 》――


 紅を振る。

 本来なら攻撃とも呼べぬ動作だが、この瞬間、このスキルを再現するだけならばそれだけで十分なのだ。


 ここに来て初めて見た、ゲルギアルの驚愕に歪む表情。

 概念などというあやふやなものを扱う以上、同一のものが存在し得ないはずの《 宣誓真言 》で、劣化版とはいえ同じものを再現した。ならば、その表情も当然といえる。


 同種の概念がぶつかり合う。世界ではなく、龍人が創り出し、人が真似た歪な法則が。

 同質のものであるなら、勝つのはより強固な概念だ。それは良く考えなくても分かる絶対のルール。しかし、同じものをぶつければ、その分だけ概念も減衰し揺らぐのではないかと考えた。

 異なる概念ではいけない。それでは強い概念が勝つだけだ。わずかでも相殺を発生させるにはまったく同じものでないといけない。


 確信した通り、ゲルギアルのすべてを断つ概念は減衰した。

 減衰して尚強固な刃の宣誓は俺を飛び越え、背後の空龍を斬るだろう。

 空龍が致命傷を負うのは変わらない。確実に死をもたらす必殺の一撃がわずかに弱まっただけ。この瞬間で死んでいなくとも、"数秒後"には死に至ってもおかしくないダメージだ。


 俺に至っては、無理を押して、道理を飛び越えた《 飢餓の暴獣 》の負荷により多大な反動が発生した。直接攻撃されたわけでもないのに、むしろ空龍よりもダメージが大きいんじゃないかという有様だ。

 加えて、《 宣誓真言 》の揺り戻しが襲いかかる。元々、世界の概念を捻じ曲げるような異形のスキルだ。その反動が大きいのは承知している。しかし、他人の概念を無理やり真似て強制起動した反動は、想定したそれよりも遥かに大きなものだった。


 ここまでの代償を支払って捻出した数瞬の時間稼ぎに意味があるのか。

 ……意味はある。意味があると確定している。




――System Command《 ダンジョン・クリエイト 》――


 意識の片隅で、システムメッセージが流れるのを見た。










-5-




 正直、何が起きたのかは俺には良く分からない。

 ラディーネの言った通り一分でも一秒でも時間稼ぎをしただけの事で、分かったのはそれで間一髪何かの準備が間に合ったのだろうという事だけだ。

 途切れかけた意識の中で見たあのシステムメッセージはダンジョンマスター系統の権限を利用したもののはずだ。

 それを根拠にダンマスが何かをした……と考えるのは安易だろう。あの人が間に合っていたのなら、それ以前に力技でどうにかしてしまう気もする。それ以前に、あの人が知り得ただけの情報で、俺の対存在であろう《 地殻穿道 》の光を放置してここに来るとは考え難い。異常事態という事は理解できても、ここまでの窮地だとは考えが及ばないはずだ。もしもこれで分かってましたと言われたら、むしろダンマス黒幕説を疑うべきだ。

 となれば、ダンマス以外の手が空きそうな誰か……アレインさんか、アルテリアさん、スーパー爺のガルスあたりが救援として強行してくれたと考えるのが妥当だろう。あるいは、ゴブタロウさんやテラワロスという線も有り得る。

 ただ、それすら楽観的に過ぎると思ってしまうのは、あまりにも絶望的な状況に見舞われ過ぎたためか。


 ……現実的に考えるなら、以前セカンドが言っていた最悪の場合に備えての切り札を切ったと考えるのが無難なのだろう。ダンマスから事前にダンジョンマスター権限を一部受け取っていて、それを発動したとか。委譲できる類のものかは分からないが、そうでもしない限り《 ダンジョン・クリエイト 》なんてものが使えるとも思えないのだ。

 いや、ダンジョン絡みなら、皇龍が事前に仕込んでいたというケースも……。


 ……などと、わずかな時間で色々思考を巡らせていた。

 文字通りすべてを出し切った状況で、ゲルギアルの一閃を正面から受け止め、減衰させたのだ。今この一瞬が走馬灯のようなものでもおかしくはない。あるいは生きていたとしても、このまま死ぬ可能性だってあるだろう。

 そもそも、意識があるのかさえ朧気なのだ。そんな俺ができる事といえば、思考の及ぶ限り状況を把握し、整理する事くらいである。

 いざ行動がとれるようになった時、冷静に立ち回れるように……。







 結果から言えば、やはり俺は気を失っていたらしい。


「お、目覚めたかね?」


 生きてはいるようだが、左半身の感覚がない。おそらくゲルギアルに切断された時のまま、応急処置だけされたのだろう。

 麻酔が効いているだろうにも関わらず尚も強烈な激痛が走り、深刻なまでに血が足りない。常人なら確実に死ぬし、冒険者でも意識を覚醒させたのは奇跡的といえるだろう。


「しかし、まったく人使いの荒い事だ。目覚めさせたかと思えばいきなりダンジョンを創れなどと……」


 不明瞭な視界に映るのは、何もない硬質な空間。そこに複数の人影が見えた。

 ほとんどは俺と同じように倒れている状態。それを動ける奴が応急処置をしてるのが見える。

 ……あれは、摩耶か? ガウルもいる。……あいつら、無事だったのか。


「ああ、この場合人使いではないな。失敬。蟲使いが荒いとでもいうか……それとも、この身を考慮してトマト使いが荒いというべきか」


 その中で、さっきから俺に対して妙な事を口走っているのは……。


「……トマト、ちゃん?」


 やたら見覚えのある、不気味な半笑い顔のトマト。

 いや、知っているそれより遥かに奇っ怪な、紫色に変色したトマトちゃん型の何かだった。



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