第7話「消えゆく者たち」




 リガリティア帝国。オーレンディア王国と大陸を二分し、常に国境に戦線を抱える軍事国家。七百年、継承以前のものを含めるなら千年を超える歴史を持つオーレンディア王国とは違い、新興国故の不安定な基盤と勢いを持つ国である。

 帝国がその版図を広げるためにとった主な方法は乱立する国家の併合であり、結果、大陸で最も広大な領土を保つ巨大国家に至ったが、大陸の東部には未だ併合に抵抗を続ける小国家も多い。

 一方で、ここ十数年は過去千年単位で未踏とされていた北部開拓も行われている。対立するオーレンディア王国との国境の大部分が北部に集中している事が開拓に踏み切った根本的な理由だが、今後十年、二十年どころか、数世代に渡るような開拓も帝国の拡張政策の一環と呼べるだろう。その開拓事業もようやく芽が出始め、現地で新たに誕生した第二世代が労働力となり始めていた。


 未踏領域の開拓がこれまで行われてこなかったのは、当たり前だがそれ相応の理由が存在する。

 厳しい環境、未知の疫病、凶悪なモンスターや害獣、わずかな領域を切り開くのでさえ軍隊規模の動員が必要となる有様だ。そんな過酷な環境にあって、ここ十年で複数の集落が誕生したのは、とある都市の支援によるところが大きいらしい。

 とはいえ、開拓地に住む者たちはそれらの事情を知らない。住人たちに必要なのは、今を生きる糧と生活基盤なのである。




「とまあ、君は村長の娘なわけだから、開拓村が生まれた経緯くらいは知っていても損はないはずだ。どこかで役に立つかもしれない」


 木製のテーブルに広げられた地図にピンを刺しながら、仮面を着けた男……先生が言う。


「生まれてこの方、山を降りた事もありませんけど」

「さっきも言ったけど、村の外は危険だからね。軍隊か傭兵、冒険者みたいな戦う術を持った者以外は商隊に便乗でもしないと移動もままならない。あとは村の男衆とか」

「お父さんたち、強いですからねー」


 どれくらいという比較は難しいが、こんな秘境を開拓するだけあって、村に住む男は腕っぷしに自信のある人ばかりだ。例外は子供や目の前にいる先生くらいである。逆に、誰かにこういった知識を教える事ができるのは先生だけだ。

 直接的な労働力にはならないが、それ以外の分野では欠かせない貴重な人員といえるだろう。具体的には、先生がいなくなると村が壊滅する危険性がぐんと上がる。下手すると、近隣の集落すら巻き込んで。


「彼らは下手な冒険者よりは強いね。私たちが安全に暮らせているのも彼らのおかげだ。だからこうして数少ない村の子供に勉強を教える以外は研究に没頭できる。ありがたいね」


 先生は医者という立場でこの村に住んでいる。正確には医者兼薬師兼細工師で、ついでに子供たちの教師でもあるが、本来の職業は錬金術師らしい。錬金術師が何をする人なのかは良く分からないが、研究と言っているのもそれの事だ。

 いつも着けている仮面も、錬金術の実験で失敗した際の火傷を隠すものらしい。

 ……そういう用途で着けているはずなのだが、何故か部屋の一面にはたくさんの仮面が飾られていた。先生が言うにはオシャレらしいが、正直たくさんの仮面に囲まれるのは監視されているようで落ち着かない。

 村の基盤を支える貴重な職人ではあるが、一部の村人からは敬遠されているのも確かだ。話してみると、ちょっと変わった人というくらいなのだけど。


「先生は色々できるのに、どうしてこの村に来たんですか?」

「意見の食い違いかな。帝都は魔術士や学者が多くていろんな研究が活発なんだけど、その分派閥争いも多くてね。面倒になったんだ」

「喧嘩って事ですか?」

「いやー、そんな微笑ましいものではないかな。夜逃げしてなかったら、私も危うく縛り首になるところだったし」


 ちょっと想像がつかない物騒さだった。都会って怖い。


「まあ、この村に限らず、北部の開拓村はみんな何かしら事情を抱えてる」

「聞いた事ないですけど、ウチもそうなんでしょうか?」

「小さい開拓村とはいえ、代表を任されているくらいだから身元ははっきりしているだろうけどね。名前から察するに大陸南西部の出身だから、こんな遠く離れたところに来るにも事情はあるんだろう」


 私を含め、ウチの家族の名前は確かに変わっているらしい。大抵は略称で呼ばれるが、みんな二度読みするような名前だ。


「そういうわけだから、無闇矢鱈に詮索するのは好ましくない。私はいいが、みんなそうとは限らないからね」

「はーい」


 知っている限りでも、軽犯罪者とか元奴隷とか王国の敗残兵とかだしね。不要な闇を暴いてしまいかねない。とりあえず、普通に過ごしている分にはいい人たちばかりなのだから。




「あのー、すいません。ここで薬を作ってもらえるって聞いたんですけど……」


 そんな、いつもの授業から少し離れた雑談をしていると、小屋の入り口から見慣れない姿の女性が現れた。

 その重武装から察するに多分冒険者だろう。近隣のモンスターを大規模に間引きするとかで募集をかけていたから、その応募者かもしれない。

 だから、冒険者自体は珍しくない……のだけど、女性の冒険者って珍しいんじゃないだろうか。


「ああ、例の冒険者か。怪我人でも出たかな」

「あ、はい。ここに来る途中で商隊所属の傭兵さんがモンスター被害に遭って……。あと、余剰があるなら今後のために買い置きしておきたいんですが」


 先生の仮面に困惑しながら、それに触れるでもなく女冒険者さんは続ける。


「その様子だと急ぎではないようだが、被害に遭ったという傭兵の容態は?」

「主に打撲と裂傷です。大雑把に診断した限り、内蔵破裂はありません」

「このあたりのモンスターや植物は毒持ちが多いから、その対処も必要かもしれないな。ちょっと待っててくれ。ティリアはお客さんにお茶でも出してもらえるかな」


 と言って、先生は小屋の外へと出ていった。多分、屋外にある倉庫へ在庫確認に向かったのだろう。


「あ、とりあえず座って下さい」

「どうも……えーと、ティリアさん?」

「はい。ここの村長の娘です」


 冒険者さんは首を傾げていた。ティリアだけならそんなに珍しい名前でもないと思うんだけど。むしろ女の冒険者のほうが珍しいだろう。


「あの、何か……?」

「あ、いえ、私もティリアというのでちょっとびっくりして」

「ああ、そういう事ですか。初対面の人にいきなりお茶出せって言われたみたいですよね」


 当たり前だがお客さんにお茶を用意させるわけもなく、私が準備を始める。

 先生の家はいつもお湯が用意されているから便利だ。あ、クッキーがある。内緒で食べてしまおう。


「でも、女性の冒険者さんって珍しいですね。それとも傭兵さん?」

「冒険者です。女性冒険者は私も遭遇した事はないですね。師匠によれば、迷宮都市ってところにはたくさんいるらしいですけど」


 そんな街があるのか。女性ってだけで色々ハンデがありそうなものだけど。


「例の依頼なら、長期滞在ですよね? よかったら、時間がある時にでも色々お話聞かせて下さい」

「はい。じゃあ、暇な時があったら。代わりに情報収集代わりにこの辺の話も聞きたいですし。モンスターの出現情報とか、地形とか」


 仕事上、やはり冒険者さんはそこら辺が気になるらしい。


「はい、どうぞ。お茶請けが隠してあったので、これも」

「ど、どうも……」


 冒険者のティリアさんはいいんだろうかという顔をしているが、別に構わないだろう。ただの骨粉クッキーだし。決して、私が食べたいから冒険者さんをダシにして誤魔化すわけではない。


「あとでウチにも案内しますね。名前言ったらびっくりすると思いますけど」

「あー、でも実はティリアは愛称でして。フルネームだとティリアティエルなんです。紛らわしいですから、滞在中はティエルとでも名乗りましょうか」

「は?」

「え?」


 自己紹介とそれに対する反応でお互いに固まった。ティリアさんは何かまずい事を言ったかなと不安そうな顔を見せる。冒険者なんてやってるのにちょっと気弱そうだ。


「えーと、実は、私もティリアティエルって名前でして……すごい偶然ですね」


 ……しかしこれは、どういう偶然なんだろうか。こんな珍しい名前で同名って、珍しいどころじゃないと思うけど。




 それは世界から忘れられた邂逅。

 隠蔽され、偽装され、誰の記憶からも抹消された、偶然の出会いである。




-1-




『ソウ、確かティリア。ティリアティエル。お前、回収スル』


 あまりにも唐突に出てきた名前に、何を言っているのか理解できなかった。言葉が脳に浸透した瞬間、何かの勘違いだと断じてしまうほどに脈絡のない単語。しかし、それを発したのが無数の顔だけでできた化け物の言う事だという事を加味しても、その名前は特徴的だった。

 《 翻訳 》で変換された言語なら何かしらの不備があってもおかしくないが、名前という固有名詞は基本的にそのままのはずだ。


「……へ?」


 一方で、名前を呼ばれた本人は間の抜けた反応をしていた。……これは、まったく心当たりがなさそうだ。しかし、単なる勘違いとも考え難い。


『神の一部とナル目的は達シタ。一方デ、オマエの存在は完全ナルイレギュラー。実ニ興味深い……面白イ、次の単位ヘト至る糧トナルかも知れナイ』


 神というのは……無量の貌の事か。まさか、こいつは好き好んで一体化したとでもいうのか。

 その言葉の端々に何者かの意思が浮かび上がって来るのを感じる。無秩序に折り重なり構成された無数の意思の中に統率する個体が存在し、こちらへと呼びかけている。あるいは、これこそが無量の貌としての最小単位だとでもいうように。この天体を覆い、俺たちが切り刻んできた顔の群れは最小単位にすら満たないとでもいうのか。


『全能との更なる一体感。そうして世界は一つとなる。アァ、神よ、私はより罪深キ存在で在る事を願う!』


 その姿は、多数の意思の共存体というよりもただ一人の狂信者の姿を思わせた。


――Action Magic《 貌無き者の晩餐 》――


 涅槃寂静と名乗った顔の集合体が膨張し、破裂した。

 慌てて迎撃態勢を整えるが、飛び散った破片は俺たちに攻撃を加えるでもなく、周りで蠢いてた顔と同化していく。

 何が起きたのかは分からないが、この状況で警戒を緩める理由にはならない。


「全員、密集隊形をとれっ!! 警戒しつつ、この広間を抜ける!」


 このままいなくなったのなら先に進めばいいが、あれだけ意味深な存在がただ破裂しに来たとか、そんなギャグみたいな事はない。

 破裂する直前、奴は何かのスキルを発動した。その効果は分からないが、状況的に周囲の顔へと影響を及ぼす何か……。

 全員が態勢を整える前に、飛び散った先に涅槃寂静と同じような顔の集合体が形を成す。一体一体は最初の集合体よりも小さいが、質量と見た目が一致しない。少なくとも、総量が減ったようには感じられなかった。だが、単純に個体を増やすだけのスキルとも思えない。


「……仮面?」


 起き上がるように直立し始める顔の集合体は体を構成するそれとは違う顔……仮面のようなものを着けている。それは、本来あるべき場所にあるべきモノを嵌め込んだような印象を抱かせた。


『貌無き者は《 名貌簒奪界 》の終焉とともに存在の根幹を失う』

『世界の終焉は神と一体化し、その一部となるための儀式である』

『破棄された抜け殻は人形』

『空虚なる穴を仮初めの貌で埋めよう』

『失った貌と名を求め、更なる回収を行う自動人形』

『やがて失われるものならば、私は有効利用しよう』

『涅槃の指として、我が手足として』


 何かの宣言めいた言葉と共に、顔の集合体がその姿を変えていく。

 それは人のカタチ。おそらくはカオナシと同じもの。しかし、何かが違う。存在しない顔部分に仮面を着けたというだけではない。自動的に動いていたカオナシと違って明確な意思を感じる。


「……冒険者」


 形作られたカオナシは人間。おそらくは俺たちと同じ迷宮都市の冒険者。おそらくは《 名貌簒奪界 》で顔を奪われた者たち。

 ただ冒険者のカオナシというだけならば、ここまでに何体も戦って来た。しかし、その立ち姿だけでも別物だと分かる。あきらかに何かの手が加えられている。

 すぐ近くで巨大な質量が床を叩く音がした。それは、俺の左後ろに構えていたベレンヴァールが鳴らした音だ。


「……ベレンヴァール」

「ああ、そうだろうっ!! そういう事になっていると想像はしていた! 大した付き合いではない。せいぜいが航行中に模擬戦に付き合った程度だ。だが、それだけの関係だとしても看過してたまるかっ!! こんな所業が許されていいはずがない!」


 俺たちの中でただ一人、暴力的なまでに感情を解き放つベレンヴァール。


「くそっ!! 何故俺なんだ。何故俺だけが覚えているっ!? 俺にこんなものを背負えというのか!?」


 爆発するようなその怒りに共感できない理由は分かる。

 目の前に立ちはだかるカオナシ……涅槃の指と呼ばれた人型は、きっと俺たちに縁深い者たちを材料にして作られたのだろう。

 俺たちは、おそらくそうだろうという認識しか持てない。それを悲しむ基盤そのものが簒奪されているから。

 ベレンヴァールはただ一人、悲しみを理解できない俺たちとの落差に苦しんでいる。


 長柄武器を持つ虎獣人が吠える。それが合図となって、複数の涅槃の指が動き出した。

 高下駄を履いた狐の獣人。細剣を持った女性騎士。遥か天井近くには弓をつがえる複数の弓手。同じ武装で統一された金色の騎士たち。魔術士らしき者も多く見られ、その中心で鴉のような翼を持った鳥人が巨大な魔法陣を展開していた。全周囲から圧殺するように距離を詰めて来る涅槃の指に見られるのは無秩序な行動ではなく、れっきとした部隊行動だ。

 その直後、全員が戦闘態勢へと移行する。


――Action Skill《 パワースラッシュ 》――

「っ!?」


 俺の正面へと肉薄して来たリザードマンのカオナシが、その曲刀に緑色の光を纏い、ウエポンスキルを放って来た。

 その動きは洗煉された冒険者のもので、見覚えのある動きだった。

 体が反応する。コレは何度も何度も繰り返し、その剣を受け、この身の血肉にしたものだと。

 最小の動きで剣を受け止めると、リザードマンはわずかな距離をとる。それは技後硬直の影響を最小限に留め、反撃を止めつつも更なる追撃を行うための動作だ。……良く知っている。なのに、知らない。

 視界がぼやける。ぼやけた視界で次々と繰り出される剣を受け流す。……俺は泣いているのか。


「ぁああああっ!!」


 声を上げて剣を振った。何か言いたいはずなのに言葉にならなかった。

 言いたい言葉はすべて消え去り、巨大な空洞へと変わっている。その空洞をいくら浚っても何も残っていない。


――Action Skill《 夢幻刃 》――


 放たれるのはあらゆる方向から襲いかかる可能性の刃。

 ……ああ、そのスキルは良く知っているぞ。対処は極めて困難。真正面から防いだところで、どれかは当たる。これはそういうものだ。

 だからこそ、そのすべてを受け流す。そのイメージは強く体に残っている。何物も寄せ付けない剣の結界。俺が< 四神練武 >で習得した《 剣結界 》は、そのイメージを体現したものなのだから。

 弾き、落とし、受け流す。ここは俺のテリトリーだと主張するが如く。未熟な俺がすべてを防げるはずはない。しかし、致命傷は受けない。受けてたまるか。そんな、人形が放ったものなど認めてたまるか!


――Action Skill《 パワースラッシュ 》――


 すべての剣撃を捌き切るのを待たず、強引に反撃に移る。放つのは意趣返しの《 パワースラッシュ 》。

 周りに多数敵がいる状況では良い手とはいえない。しかし、そうするべきだと感じた。


――Skill Chain《 ハイパワースラッシュ 》――


 多少強引でも、体が勝手に動く。まるで、そうしろと言われているように。

 ……ああ、なんでだろうな。なんで、こんなに悲しくなるんだろうな。たかが、基本的なウエポンスキルの連携を使っただけなのに。成長した俺を見せてやりたいだなんて思うんだろう。


――Skill Chain《 マキシマムパワースラッシュ 》――


 連撃を直撃させた事で体勢を崩すリザードマン。次に狙うのは誰が見ても分かる異質な箇所。全力を込めてリザードマンの仮面へと剣を叩きつける。

 通常のカオナシと涅槃の指の違いの最も大きな違いはこの仮面だ。ならば、これが何かしらの効果を持っていると考えるのは不自然じゃない。弱点かどうかはともかく、試してみる価値はあるだろう。

 そして、もしかしたらそれで元に戻るかもしれないと、どこか淡い願望も抱いていた。

 そんな都合のいい話があるわけがない。そんなお手軽な救済処置がない事など分かっている。あんな化け物が、一度簒奪したものを手放すはずはないのだから。

 しかし、そこに救いを求めずにいられなかった。容易な救済を求めていた。あまりにもひどい結末に、心が悲鳴を上げている。


 超常の存在が用意した仕掛けにも関わらず、あまりにもあっさりと仮面が砕け散った。

 手応えがあった。剣を通じて仮面の砕ける感触が伝わってくる。大した強度ではない。これはただの仮面だ……。

 叩きつけた剣の下から覗くのは、想像通りカオナシ。これが誰であるかの材料が存在しない。仮面を壊して元通りなんて、あるはずがない。

 期待していたわけじゃない。こんなに簡単に、失ったものが取り戻せるはずもない。分かってるよ。ああ、ちくしょう……。


 そのまま剣を振り切った。結構なダメージが入った手応えはあるが、涅槃の指を仕留めるには至らない。

 リザードマンは叩きつけられた勢いすら利用して跳ね上がり、俺へ向かい更に肉薄してくる。剣を使うでもなく、何かのスキルを使うでもなく、体当たりかと思うほどただ真っ直ぐに。

 そして、至近まで迫ったカオナシが爆散した。


「ちっ!!」


 狙いは爆発によるダメージではない。爆散したカオナシは無数の顔へと還り、そのすべてが簒奪の手を伸ばして来た。

 行動パターンだけ見れば、これまでの顔と同じ。しかし、より能動的かつ攻撃的な手段。自爆特攻というにも生温い、悪意に塗れた攻撃だ。


 伸びる手へ対処が間に合わず、後ろへと飛び退く。直前までに打ち合っていたリザードマンならともかく、ただの顔なら距離を稼げばなんとでもなる。あくまで警戒すべきは涅槃の指。そして、涅槃寂静の次なる手だ。

 飛び退きざま、簒奪の手を薙ぎ払ってやろうと力を込めたところで、それまで俺がいた場所へと大量の弾丸が通過した。

 ふと目をやれば、そこにはトマトちゃんがサブマシンガンを構えている。その近くにいた美弓は、俺を見てただ頷いた。




-2-




「可能な限り密集してこの広間を抜けるっ! 自爆特攻による簒奪に警戒っ! 美弓はそのまま顔と手だけを狙ってくれっ!!」


 全方位を囲まれているのに加え、奥に続く通路が塞がれている。

 こんな奴らの相手をする必要はない。なんとかして先に進まないといけない。

 特に、涅槃の指が現れたあたりから、ラディーネとの通信が完全に切断されているのが気がかりだ。


「ここまでのカオナシよりは強いが、連携は並以下だ。行動を切り離せばやってやれない事はねえ」


 軽装備の戦士を二体仕留めたらしいガウルが背中越しに言う。


「飛んでる奴はわずかでも隙を見せたら狙撃してきます。アレをなんとかしないと……」


 クラリスの言う天井近くの翼人は一斉射ではなく、あくまで個々への狙撃を狙っている。

 行動の度に不意を突くように放たれる矢はダメージよりも前衛の支援が目的だろう。あいつらが飛んでいるだけで俺たちの行動が制限される。

 ティリアと摩耶が二人がかりで止めている虎獣人や奥で大魔術を準備している鴉人も危険だが、まず上を処理するのが先だ。本来なら、天井近くを舞う弓手は飛び道具の専門家である美弓がやるべきだが、走るだけがやっとの奴に任せるわけにはいかない。しかし、放置するわけにもいかない。

 トマトちゃんでは火力が足りない。ベレンヴァールの《 刻印術 》は、ここに来る以前に射撃魔法は使い切っていたはず。となると、使える手は限られる。


「ユキ、摩耶、空龍! なんでもいい、空中の奴らを黙らせろっ!! ガウルは虎獣人相手のサポートに回れ!」


 次々と襲いかかる涅槃の指に対処しつつこなす追加要求としては厳しいが、やってもらうしかない。

 魔術による遠距離攻撃手段を持つ空龍はともかく、ユキと摩耶ができるのはせいぜい武器投擲だ。この距離なら《 クリア・ハンド 》も射程内だが、それを加味しても手数が足りない。


「ツナっ!! 飛んでる奴は俺とキメラで対処する!」


 ベレンヴァールがそう言うのと同時にキメラの背にワイバーンの翼が広がった。

 そうか……何も長距離攻撃で仕留めなければならないわけではない。直接接近できるならそれでもいいのだ。キメラなら飛べるし、制限はあるにしてもベレンヴァールなら天井を利用できる。


「頼む。気をつけろよ」


 キメラの背に乗ったベレンヴァールは、翼人が矢を放つと同時に離脱。そのまま天井へと移った。

 壁ならともかく天井ではそう長く張り付いていられないはずだが、そのまま方向転換して跳躍。翼人の一体を仕留めたあと、飛行してきたキメラに回収され、再度跳躍する。ベレンヴァールを回収するまでの間、キメラも壁や天井に触腕を伸ばし、急激な旋回を行いつつ翼人たちへ強襲を仕掛け続けていた。直線的かつトリッキーな二人の軌道は翼人たちを翻弄し、瞬く間に戦果を上げていく。


「ツナ……あのさ」

「なんだ?」


 戦いの最中、不意にユキが話しかけてきた。普段おしゃべりな奴だが、戦闘中はあってもせいぜい一言二言でほとんど関係ない事は口にしない奴でもある。このタイミングで冗談でもないだろう。


「あいつ、最小単位って言ってたけど、目標がここだけって事はないよね?」

「……そうだな」


 思い至ってはいた。だけど、そうだとしても何かできるわけでもない。

 おそらくは、ここ以外で抵抗を続ける場所でも同じような光景が繰り広げられているのだろう。あるいは、俺たちが今戦っている冒険者は、そこにいた奴らという事だってありえる。

 おそらく涅槃の指はカオナシそのものではなく、それを模したものだ。簒奪した対象をコピーするくらい、すべてが繋がっているあいつらなら即実行できるんだろう。

 涅槃寂静が現れる場所として想像できるのはこことクーゲルシュライバー、残留組が避難しているというシェルター、あとはグレンさんと界龍が向かった遺跡中心部。どこを落とされても危険だ。

 そして、尚最悪な事にそれぞれの箇所に出現するのが一体と限るわけでもなく、それ以外の……道中にだって大量に出現している可能性だってある。つまり、今この場を切り抜けたとしても、撤退した先で別の個体が待ち構えている事だって有り得る。いや、ほぼそうなんだろう。

 なんせ、この世界にはターゲットとなる存在が少な過ぎる。天体規模で存在するような奴の手が足りないはずもない。

 しかし、それが分かっていても、ここを切り抜けて援軍に向かう余力はなかった。


 空中からの一方的な攻撃を止められた状況で、残るあきらかな脅威は二つ。

 ティリアと摩耶が二人がかりで止めている虎獣人と鴉。虎のほうは、防戦一方ではあるものの、ティリアが中心となって抑えられている。


「ユキ、目の前の奴を仕留めたら突っ込むぞっ!! あの大魔術を止めるっ!! 空龍とクラリスはフォロー!」

「分かった!!」


 この際、密集陣形を崩すのは仕方ない。アレを放置できるはずもないし、遠距離からどうこうする手段もない。

 空中の翼人たちとは違い、護衛も多い。ならば、多少強引でも正面から強襲を仕掛けて離脱する!


――Action Skill《 パワースラッシュ 》――

――Action Skill《 スピン・エッジ 》――


 トドメは必要ない。ただ行動を起こす時間を作り出すだけの攻撃。

 俺とユキがほぼ同時に、最小限の手数で目の前の金色戦士に隙を作り出した。あとは空龍とクラリスに任せる。

 足元に力を込める。このまま《 ブースト・ダッシュ 》で突っ込んで――


「……冗談でしょ」

「……キリがねーぞ、おい」


――しかし、その思惑は砕かれた。ユキも気付いたのか、その足を止める。

 俺たちの前方、駆け抜けるはずだった空白部分に再び涅槃の指が出現した。

 その姿は俺が仕留めたリザードマンをはじめ、これまで仮面を砕いたカオナシの姿。砕いたはずの仮面は元通りだ。


 すぐに再生してきた涅槃の指との乱戦が始まった。

 戦いの中、天井近くの様子を窺えば、やはりそちらも減っている様子がない。

 再生されるのは仮面を砕いた涅槃の指だけではない。同時に同じ者が出現する事はなさそうだが、ダメージを受けた段階で自爆して来た奴も同様に再生している。


 くそ、まずい。時間がかかり過ぎている。

 焦りの中、奥の魔法陣から光が溢れるのを見た。



――Action Magic《 ヘヴンズ・ピラー 》――


 結局阻害する事はできず、そのまま魔術を発動させてしまった。

 しかし、あれほど大規模な魔法陣を展開していたにも拘らず、何も起きてはいない。


「な、何かが来ます! とてつもない巨大質量が上からっ!!」


 一早く察知したのは空龍。俺も遅れて魔力の流れが天井を突き抜けて上へと伸びているのを感じた。


「全員集まれっ!!」


 俺が叫んだと同時に、巨大な振動が広間全体を揺さぶる。いや、揺れているのは広間だけではない。この地下通路そのものが振動している。

 次の瞬間。広間の中央部へ巨大な柱が出現し、広間の床から天井までそびえ立った。

 突然現れたように見えるが、これは上から降ってきたものだ。そして、これ一つではなく連続して無数の柱が落下してくる。


 まずい。地下道が崩落する。崩れ始めた床や天井で立つ事さえままならない。

 そんな状況にも拘らず、涅槃の指どもは構わず攻撃を仕掛けて来る。被害を構う事はないとでも言わんばかりに。


「くっそ……っ!!」


 再度襲来してきたリザードマンの剣撃を払う。その直後、数メートルの至近距離に柱が落下した。

 どこに逃げても危険には違わないが、ただじっとしてるのはもっと危険だ。柱の直撃を喰らった時点で死ぬ。

 すでに天井の一部から地上が覗いている。そこに見えたのは、流星群のように数え切れないほどの柱。


 一際巨大な音が響き、床に巨大な穴が空いた。

 ここが地下道であるにも拘らず、下に見えるのは空洞。底の見えない広大な空間が広がっている。

 何故こんな空洞があるのか分からないが、こんなところに落ちたらただでは済まない。


「がああっ!!」


 横合いからガウルの声が響いた。その方向では、猛威を振るう虎獣人の前に倒れ伏すガウルと摩耶の姿。尚も一人立つティリアも攻撃を捌き切れていない。


――Action Skill《 金剛爆砕陣 》――


 虎獣人の巨大な長柄武器が、崩落を続ける床に叩きつけられた。

 そこから円状に走る衝撃がトドメになったのか、広間全体の床が崩れ落ちていく。


「っ!?」


 体が宙を舞った。足場がない。

 落下の最中、俺が見たものは、降り続ける柱と崩落を続ける構造物の中、尚も俺たちへ追撃を仕掛けようとする涅槃の指と、上に繋がる穴から濁流のように雪崩れ込んで来る顔。そして、その顔から庇うようにして空龍を突き飛ばした美弓の姿だった。




-3-




「……ナっ!! ツナ!」


 途切れた意識が叫び声によって呼び起こされる。

 まるで、これまでの事が夢であったかのように、いつ気を失ったかも分からない。

 半覚醒状態で聞こえるユキの声は悲鳴じみていて、悠長に気絶している暇などない事を窺わせた。


「ユキ……っ!!」


 慌てて身を起こすと頭部に激しい頭痛が走る。頭でも打ったのか……いや、あの状況からすると生きている事を幸運というべきか。


「良かった。落ちる最中、そこら辺にぶつかってたから目を覚まさないかもって……」

「くそ……どれくらい気を失った? 今どういう状況なんだ」

「崩落してから一分くらいしか経ってない。ここは……多分地下道の更に地下。なんでこんな空洞があるのか分からないけど」


 暗いのは地下道の明かりが届いていないからか。アイテムか魔術か宙に浮かぶ発光体で辺りを見渡せるが、あまり視界は良くない。


「おそらく、■■……ここに来る途中に襲撃して来た五龍将の仕業だろう。故意か、何かの目的があったのかは知らんが、地中を移動していたはずだ」


 暗闇の奥からベレンヴァールが現れた。

 あk歪な四肢の五龍将が地面を穴だらけにしてたって事か。ひょっとしたら、ガウルと合流する直前の崩落もそれが原因……。


「おい、他の連中はどうした!?」

「ここにいるのはお前とユキと俺、ティリア、空龍とクラリスの六人だ。ガウルたちとは完全に分断された。崩落の直前でキメラに向かってもらったが、合流できたかも無事かどうかも分からん」


 くそ……。全滅じゃないだけでロクな状況じゃねえ。

 覚えてる。まだ覚えている。数だって合っているはずだ。顔に飲み込まれた美弓だって、まだ簒奪はされていない。


「あまり休める時間はないぞ。顔の数は少ないが、いつまた崩落するか知れたものではない。涅槃寂静に見つからないとも限らん」

「ああ……」


 ユキの手を借りて立ち上がるだけで立ちくらみがした。頭を始め、全身打撲もいいところだが、これくらいなら慣れてる。

 周囲を警戒しつつ移動する道を探していた空龍たちによれば、俺たちが落ちてきた穴は崩落によって完全に埋まっているらしい。

 移動できそうな道はいくつかあったそうだが、どこに繋がっているかも分からない。魔力探知で辛うじて方向は分かるが、その方向に移動できるかも怪しいところだ。


「最悪の場合は私が《 顕現 》で道を造るという手もありますが……生き埋めになる可能性が高いので」

「それは最終手段だな」


 生き埋めの危険もそうだが、空龍の魔力が枯渇するのも問題だ。この状況で戦闘以外にリソースを割くのは自殺行為だろう。

 何より、目立つ。できた道はあっという間に顔で埋め尽くされるだろう。


「そういえば、ティリアはなんで狙われてるか分からないの?」


 俺たちの前を歩くユキが問いかける。


「すいませんが、さっぱり……でも」

「でも?」

「あの仮面は……見覚えがあるような……ないような」


 要領を得ない反応ではあるが、まったくの無関係という線は薄いのだろう。相手は常識の通じない超常の存在なのだから、本人が覚えていないだけで関わっていた可能性だってある。

 そもそも、あいつはティリアを回収しに来たと言っていたが、可能なら全員回収するつもりだったはずだ。ついでに、あいつ以外の個体がいるならそいつらが見逃してくれるとも思えない。あいつの思惑がどうあれ、戦い、抗うだけだ。


「ベレンヴァール……お前の記憶の中で、簒奪されてヤバイやつはあの場にいたか? どんな意味でもいい」

「いた。あそこで戦った連中のほとんどはクーゲルシュライバーの主力だ。戦闘力だけなら■■■■……あの虎獣人が三番手のはずだ。あいつがカオナシとしてあそこにいた以上、防衛に当たっていたというシェルターもどうなっているか……いや、クーゲルシュライバーすら」


 摩耶とガウルとティリアの三人がかりを圧倒していた奴か。

 くそ、誰が犠牲になっているのかが分からないのは厄介だ。ベレンヴァールが答え合わせをできるとしても、当の本人は覚えているのが当たり前なのだ。時間さえあればどうにでもなるが、そんな事をしている暇も惜しい。


「……虎が三番手なら、その上はグレンさんと…………誰だ?」


 ベレンヴァールが立ち止まった。

 まずい……思い出せない。誰か強烈な戦闘力を持つ奴がいた事だけは分かるが、それがどんな奴だか記憶が抜け落ちている。


「馬鹿な……■■■■■まで簒奪されたというのか。冗談じゃないぞ」

「……そんなにまずい相手なのか?」

「ああくそ。……最悪だ。あんなのを相手にできるはずがない。五龍将すべてを相手にして圧倒するような奴だぞ」


 なんだそれは……そんな奴がいていいのか。

 ……いや、それより格上はいる。この世界にすら皇龍やゲルギアル、無量の貌がいるくらいだ。問題は、上にそんな奴しかないような奴が敵として現れる可能性があるという事。コピーだろうが、どれだけスペックダウンしてようが勝負になどならない。


「俺と同程度の身長で細身の男。見た目は人間と変わらんが、吸血鬼だ。もしそいつの涅槃の指が現れたら逃げの一手……それすらも許してくれないだろうが、間違っても戦おうなどと考えるな」


 吸血鬼……。種族だけならロッテとの戦闘経験はあるものの、それを比較してはいけないんだろう。

 ここに来ているくらいなら、元モンスターの冒険者かギルド職員って事か。




「ヒ……ッ!!」


 そうして先を進んでいると、先行していたクラリスが詰まった悲鳴を上げた。

 近づいてみれば、その先には俺たちが通っていた地下道と思われる空間があった。崩落して落ちたのに通路が眼下に広がっているのは、おそらくいつの間にか上へと登っていたからなのだろう。……それはどうでもいいが、少なくとも通路は移動に使えそうな状況ではない。

 通路は中ほどまでが顔の濁流で埋まっている。あんな中を移動するのは、それこそ界龍の結界でもないと不可能だ。


「少し手前に亀裂のような空間があったはずだ。回り道するぞ」


 もはや洞窟とも呼べない、ただの地面の隙間を抜けるようにして進む。


「大丈夫、大丈夫、美弓は死んでない。まだ覚えてる……」


 クラリスが呪文のように呟く。記憶を反芻する事で忘れないように抵抗しているのだろう。


「大丈夫だ。あいつは自分の安全確保に関して俺以上だからな。どんな方法でかは分からないが、逃げ切る奴だよ」

「ぶちょ……頭に手載せないで下さい」

「いや、ちょうどいい位置にあったもんでつい」


 少しは元気になったかな。表情を見る限り、こちらの思惑も分かってそうだが。


「よし、クーゲルシュライバーの発着場だ」


 道ならぬ道に立ち往生という可能性も考えていたが、意外なほどにあっさりと目的地へと辿り着いた。

 クーゲルシュライバーの発着場地下。その壁の亀裂へと繋がっていたらしい。

 シェルターとして使う目的故か、通路に犇めいていた顔の数は少ない。おそらく入り口の隔壁で塞き止められているのだろう。結果として回り道は正解だったという事だ。

 壁に空いたわずかな隙間をベレンヴァールがこじ開ける。頑丈な素材にかなり手こずったが、なんとか人が通れそうな大きさは確保できた。


「一度下に降りたほうが早そうだな。俺が先行して顔を蹴散らそう」


 地上まで距離はあるが、俺たちなら飛び降りられない事もない。一応着地時の安全確保のためにとベレンヴァールが先行する事になった。

 エレベーターはおそらく動いていない。確認しなければ分からないが、その可能性は低いと考えるべきた。全員が降りたあとはそのまま階段へ直行するのが無難だろう。


 ベレンヴァールが壁に張り付きつつ、ある程度の距離まで降りたところで跳躍。床にいた顔を薙ぎ払うと無言でこちらへ手招きをした。

 俺たちはその場所に向かって飛ぶ。この状況に至って、躊躇する奴はいない。そのまま全員が着地するのを待ち、階段の方向へと駆け出す。

 ……その瞬間だった。


『ミツケタ』


 ゾワリと、全身を悪寒が走る。

 待ち構えていたようなタイミングでシェルターの隔壁が開かれ、その奥から文字通り津波のような顔の群れが流れ込んで来た。


「走れっ!!」


 俺に言われずとも全員が走っているが、叫ばずにいられなかった。あんなものに飲み込まれたらどうしようもない。

 瞬く間に顔が満ちる。埋め尽くされていく。

 辛うじて外壁部の階段には辿り着き、そのまま駆け上がり始めたが、顔の洪水は足元のすぐそばまで迫っていた。


「ベレンヴァール! 空龍! 先行して安全確保だっ!! この分だと上に何があるか分からん!!」


 俺の言葉を聞くなり、ベレンヴァールと空龍が階段など必要ないとばかりの身のこなしで登って行く。

 この分なら、同じ量の顔が雪崩込んでくる事だって有り得る。そうなってしまったら逃げ場はないが、何かしらの障害を警戒すべきだろう。そもそも階段や途中にある踊り場程度の面積では連携しての戦闘など望めない。


 走る。戦闘など考えずにただ走る。後ろから、下から迫る脅威はすでに災害の域。振り返るわずかな隙すら危険だ。

 その最中、何故か走馬灯のように記憶が蘇る。

 思い出したのは< 四神練武 >。そういえば、この状況はジェノサイド・マンティスと死闘を繰り広げたあの階段に似ている。あの時先行したのはサージェスだったが、それを除けば……そういえば、あいつどこにいるんだ?

 忘れていないという事は簒奪はされていないという事だが、動向が分からない。

 セラフィーナはおそらく動けないディルクに張り付いているのだろうが……。銀龍や玄龍もそうだが、把握できていない奴らは全員クーゲルシュライバーに乗っていると考えるべきか。

 ……いや、それは今考える事じゃない。今はただ走れ!


 地上まで半分程度というところで、辛うじて顔との距離が空いた。

 ティリアに若干の遅れが見られるが、単純に足の速さや装備の重量の問題であって疲労で動けないというほどではなさそうだ。

 俺はその後ろで殿に付き、最悪の場合に備える。よし、このまま……。


 そんなわずかな楽観的感情すら許す間もなく、再び悪寒が走る。

 極限の中で研ぎ澄まされた察知能力は死への危険を警鐘するもの。かつてない死の予感が迫っている。


 遥か上方で爆発音が鳴る。

 目を離すな。爆風など無視して危険を直視しろ。一瞬の気の油断が正に命取りだ。


 爆風の中、上方から舞い降りたのは巨大な鎌を携え、背に蝙蝠の羽を持つ仮面の男。

 その周りには見覚えのある……しかし、既知のそれとは似ても似つかぬ量と大きさの紅い杭が展開されている。




-4-




――Action Skill《 真紅の血杭 》――



 放たれたのは、かつて< 鮮血の城 >でロッテが放ったスキルと同じもの。

 目視すら不可能なスピードで杭が襲来する。


「があああああっ!!」


 暴雨のような密度で射出された杭が俺の体を容赦なく抉っていく。切り払う隙さえ存在しない凶悪さを以て。

 その余波で階段が崩れ落ちる。足場がなくなった。落下する寸前、俺の手にロープが絡みつくのを感じ、それを握り返す。

 ロープの先には血塗れのユキ。その手前には盾が半壊したティリアが膝をついている。その後ろでは、ティリアを助け起こそうと苦闘するクラリス。

 たった一発のスキルだけ。それだけで俺たちは全滅の危機に陥った。


――Over Skill《 真紅の三日月・猛牙 》――


 視界の隅で紅い光が瞬いた。血の色に似たその光は暴力的な形状で、俺の命を刈り取るべく飛来して来た。

 見ただけで防ぐ方法はないと理解してしまう。あまりにも圧倒的な力の差。戦闘に向かない環境やコンディションなど関係なく、埋め難い差が存在している。真っ当な方法では覆せない差だ。

 眼の前に立ちはだかるのは、かつてない強敵。真っ向からの殺し合いという条件において、ありえないほどの実力差を持つ脅威。

 ベレンヴァールの評価によるなら五龍将をまとめて相手取れる怪物。界龍やグレンさんたちいない状態で、そんな化け物を相手取らないといけない。


「ァァァアアアアアッッ!!!!」

――Action Skill《 強制起動:飢餓の暴獣 》――


 俺の内に在る因果の獣が看過できるはずもなく、その差をわずかでも縮めるために咆哮を上げた。

 ユキのロープを手放し、壁に深く突き刺さっていた杭を蹴り、猛烈な脚力で生まれた速度で以て、滞空する吸血鬼へと肉薄する。

 強制的に起動したものとはいえ、かつてない一体感を感じる。同時に、魂さえも削るような消耗も感じていた。

 それほどまでに遠い。……そして、それでは足りない。コレは今の俺が打倒できる相手ではないと獣が叫んでいる。

 だが、知った事か!


――Action Skill《 瞬装:不鬼切 - 鬼神撃 》――


 吸血鬼に対して俺が用意できる最大火力。そのすべてを叩き込むべく< 不鬼切 >を叩きつける。どんな妨害をされようと、もろとも砕く意思を以て。

 だが、警戒していた迎撃がない。< 不鬼切 >はそのまま吸血鬼の肩へと喰い込み、心臓にすら届きそうなほどに体を抉る。

 < 不鬼切 >から感じる反応は吸血鬼の胴体が焼ける感触。《 鬼特攻 》は有効だ。

 だが、だがしかし。あまりに簡単に通った攻撃に、俺は激情の中で戦慄していた。


 吸血鬼の仮面に描かれた口が釣り上がったように見えた。


――Action Magic《 ヴァンパイア・テリトリー 》――


 体に< 不鬼切 >を受けたまま、吸血鬼がスキルを発動する。

 おそらく最初からそれが狙い。俺の全力攻撃など躱す必要も防御する必要もないと、そういう意図を持った行動なのだ。

 腕を掴まれる。振り払えない。掴まれた部分に力が一切入らない。いや、そこから急速に全身へと脱力感が広がっていく。

 これは《 吸血 》だ。おそらく、こいつを中心として周囲の血を無差別に吸収し始めている。

 《 飢餓の暴獣 》の消耗と合わさり、俺の生命力が急速に失われていく。


――Action Skill《 ペイン・ザッパー 》――


 死を覚悟した次の瞬間、吸血鬼の直上からベレンヴァールが舞い降りた。

 その姿は血と裂傷に塗れ、直前に吸血鬼とやり合っていたであろう事を示している。

 しかし、決死の覚悟で放たれたであろう剣は片手で振るわれた鎌に遮られた。いや、遮られただけではなく両断された。


 ベレンヴァールはそのまま剣を放棄し、俺の腕を掴んだかと思うと放り投げられた。もう少し手心を加えてくれと言いたいところだが、そんな余裕がないのは分かる。

 おかげで、ギリギリ階段には届いた。届いたが、俺の体はもうどうしようもない状態に陥っていた。

 《 飢餓の暴獣 》の効果はすでに切れた。しかも、ここはまだ《 ヴァンパイア・テリトリー 》の影響範囲内だ。


「最後の残弾だ。持っていけっ!!」

――Action Skill《 刻印術:終焔の纏 》――


 ベレンヴァールの体から黒い炎が昇る。全身に炎を纏う近接戦用の魔術。ダメージを目的としたものではなく、離脱のための一手だろう。


「空龍っ!!」


 ベレンヴァールによってもたらされたわずかな足止め。そのタイミングで、龍の雄叫びが鳴り響く。

 上を見れば、きっと空龍の本体が顔を覗かせている事だろう。


――Action Skill《 虚無へ還る撃咆 》――


 龍の口より放たれたブレスが直線状のすべてを巻き込んで、吸血鬼に直撃した。

 シェルターの壁を穿ち、下部に迫る大量の顔を消滅させる一撃。文字通り、空龍の魔力すべてを注ぎ込んだ切り札だが、これ以上の温存は不可能だっただろう。これ以上ないタイミングと威力だ。


 ……問題は、この究極の一撃を以てしても奴を仕留めるには足りないという事だろう。

 空龍のブレスがどれくらいの攻撃力を持つのかは未だに分からないが、そんな事は関係なしにあいつには効かない。そんな確信がある。


 吸血鬼は何事もなかったかのようにブレスの照射範囲から抜け出して来た。本人どころか、身に纏う装備すら無傷という有様。

 そして、再度展開される紅の杭。狙いは……俺を中心とした全員だ。


 すでに、体力は底をついた。《 飢餓の暴獣 》ならば治せるはずの傷も再生しない。立ち上がる事さえ不可能に思えるような絶体絶命っぷりだ。とても、あんな大量の杭を避け切る事はできない。奇跡が起きて全弾避けたところで、攻撃を一手切り抜けただけという有様だ。次に繋がらない。

 どうする。どうする。手は出し尽くした。杭はすぐにでも放たれ、俺たちを抉るだろう。すぐ下には顔の濁流が迫っている。


――Action Skill《 真紅の血杭 》――


 杭が放たれると同時に、俺の前へと立ちはだかる姿があった。砕けかけのタワーシールドとプレートアーマー、生身のほうも血塗れで、俺と同じく立っている事すら困難な状態のはずなのに。


「知ってますか、リーダーさん。タンクの役割は、自分がやられるまで誰も死なせない事だそうです」

「ティ……りあ、やめ……」

「少し、思い出しました。……私は、ティリアティエルじゃないといけない」


 無数の杭がティリアの盾を削り、鎧を砕き、体を穿っていく。

 杭の雨が止んだ時、ティリアはまだ俺の前に立っていた。いくつもの杭が突き刺さり、貫通しているような状態で。

 まるで、《 真紅の血杭 》が防げれば役目は終わりとばかりに、その体が崩れ落ち、階段の端から転落していった。


「ああ……。あああああああっ!!」


 ティリアの体が顔に飲み込まれていく。簒奪される。俺にはもう、それを止める術はなく、ただ救われた無力感に責められる事しかできない。

 ただ攻撃を放っただけの吸血鬼は健在。《 虚無へ還る撃咆 》のダメージすらないように見える。

 ティリアが最後の力で掴みとったのはただ数秒の先延ばしに過ぎないと、目の前の現実に突き付けられていた。


「ツナ……」


 気付けば、ユキが近くにいた。同じようにボロボロで、ロクに歩けもしない状態で。


「ツナ」

「ツナ」

「渡辺綱」


 幾度も繰り返し俺の名を呼ぶユキ。あきらかに様子がおかしい。


「……ユキ?」

『渡辺綱の観測は限界と判断。これより観測者権限を行使します』

「お前……何言って……」


 赤い眼光が揺らめいた。次の瞬間、ユキは何事もなかったかのように立ち上がり、武器を逆手に握る。

 一瞬だけ肩越しに見せた表情は良く知るユキのものではなく、どこか機械じみた、蝋人形のような印象を抱かせた。


――Action Skill《 オーバードライブ 》――


 強烈な魔力が立ち上る。それは、魔術士のそれと比べても濃密で、強烈な光を放っていた。

 完全に未知のスキルだ。今覚えたというには違和感があり過ぎる。


 次の瞬間、ユキの体が消え、光が弾けた。


――Action Skill《 ソニック・アクション 》――


 認識できないほどの速度を以て、吸血鬼の眼の前に出現したユキが剣を払う。

 寸前で反応した吸血鬼はそれを迎撃すべく鎌を振り上げた。ただそれだけの行動で、再展開されていた杭が消失する。


 なんだ……何が起きている。観測者ってなんだ。ユキは何をしているんだ。


――Action Skill《 サイクロン・ラッシュ 》――


 吸血鬼の鎌が舞う。暴風の如く振るわれる鎌が、近付くものをすべて斬り落とす無情の刃と化す。

 しかし、ユキは何もない宙を蹴り、そのすべてを剣で払い続ける。


――Action Skill《 ラピッド・ストーム 》――


 《 サイクロン・ラッシュ 》の返しとばかりに発動する連続攻撃。白兎が赤い光を放ちながら空を駆ける。

 そんなものは知らない。ユキはそんなものを覚えていないはずなのに。

 まるで、自ら別人だと主張しているかのように現実味がない光景だった。


 不意に巨大な振動がシェルター全体を襲った。

 原因は分からない。これだけ破壊を続ければどこかがイカレるのも当然だ。そして、辛うじて形を保っているだけだった階段が振動に耐え切れずに崩落するのも当然。

 顔へと落下していく最中、俺が感じていたのは恐怖でも絶望でもなく、あまりに多くのものを失った喪失感だった。

 顔に飲み込まれるまでの数瞬が永遠のように感じられる。その中で見たユキの姿は、見た目が同じだけの、まったく別の存在に思えた。




 顔の濁流が俺を飲み込んでいく。

 すでに抵抗する気力すら失っていた俺は、ただ流されるままに簒奪の時を待っていた。


――ここが汝の終着点か?――


 因果の獣が語りかけてくるのを感じる。


――すべてを諦めるのか?――


 あるいは、それは俺自身の言葉なのかもしれない。


――それもいいだろう。誰も止めはしない。それも一つの決断ではあるのだから――


 その声に非難の色は感じられない。もしかしたら、本当にそれでいいと思っているのかもしれない。


――どちらにせよ、渡辺綱のゲーム盤は崩壊している。あと少し抗ったところで、苦痛が続くだけの事だ――


 一体どうしろというのか。どうすれば良かったのか。この結末を回避する方法があったとでもいうのか。


――ない。諦めずに進んだところで、この先に待つのは更なる絶望だけだ――


 これ以上、何があるというんだ。


――それは、抗い続ける者だけが知るべき事――


 ならば、ここが俺の終焉なんだろう。


――そうかもしれない。しかし、お前が諦めても、抗い続ける者はいる――




 薄れゆく意識。薄れゆく存在。薄れゆく魂を感じながら、俺は見てしまった。このどうしようもない状況にあって、尚も抗い続ける者の姿を。


「サーじぇ……」


 顔の濁流の中、俺はそこにいるはずのない、見知らぬ男の姿を見たのだ。




-5-




「……ここは?」


 目覚めたのは、尚も地獄の続きだった。

 見上げる天には顔が蠢き、俺の体もボロボロのまま。そして心には大きな穴がぽっかりと空いている。


「起きたか」

「……ベレンヴァール」


 同じようにボロボロで、何故立っているのかが不思議なほどに消耗した男が俺を見下ろしている。


「アイテムと《 刻印術 》の回復魔術では完治にはほど遠い治療しかできなかった。手持ちはほとんど打ち止めだ」


 どうやら、これでも幾分かは回復した結果らしい。


「一体、何があった。ユキはどうした」


 ユキ……そうだ、まだ覚えている。ユキはどうなったんだ。


「……あいつが何をしたのかは分からん。■■■■■との戦闘も最後まで見れたわけじゃない」


 認識できないのはあの吸血鬼の名前だろう。補足する気力もないほどに、ベレンヴァールもまた打ちひしがれている。


「起きたなら行くぞ」

「……どこへ?」


 これ以上、どこへ逃げようというのか。


「クーゲルシュライバーは発進したようだ。小型艇はすべて確認したが壊れていた。世界間の回廊に逃げ込むとしても生身だな」

「無茶言うなって感じだな」


 だが、これまでの無茶よりは幾分かマシに聞こえてしまうのが怖い。それに、クーゲルシュライバーが発進済みならまだ救いはあった。

 世界間の回廊はダンジョンと同じ性質だ。つまり、一度入ってしまえば時間のズレが生まれる。たとえ数瞬でも遅れれば追撃されるような事もないだろう。問題は迷宮都市側でも何かが起きていた場合だが……。


「いっつ……」


 痛む体を無理やり起こす。正直、なんで生きているのか分からない状態だが、痛みがあるって事は死んでないんだろう。


「渡辺様、良かった……」


 どうやら空龍もなんとか無事だったらしい。だが、一見無事に見えても魔力は枯渇状態のはずだ。俺たちと同じように戦力の期待はできない。

 空龍に遅れて近づいて来たのはクラリスだ。無言のまま俯いている。あれだけの事があれば仕方ないだろう。

 ……四人だ。四人しかいない。


 短い沈黙が流れる。

 その空気を破ったのは、遠くで起きた光だ。


「結界……お兄様が……」


 空龍が呟く。どうやら、界龍が結界を張り直すのに成功したらしい。

 ……あいつすげえな。不死身じみたカオナシ五龍将を振り切って、"単独で"結界を張り直すなんて。


 それが意味のある事なのかどうかは分からない。あると信じたいが、そう楽観的にも捉えられなかった。

 あまりにも多くの犠牲が出た。その詳細は記憶ごと簒奪され、一体どれだけの犠牲があったのか見当もつかない。

 しかし、心に空いた穴の大きさがその犠牲を物語っている。


 そして何故だかは分からないが、その空虚さの中で、この絶望の中にあってさえ諦めるなと言われているような気がしていた。

 ……決して足を止めるなと。


「……行くぞ。撤退の続きだ。意味があるのか分からないが、ここでじっと終わりを待つよりはマシだろう」


 ほとんど無言のまま、世界の穴へと向かう。

 ここ周辺だけなのか、あるいはもっと広範囲なのかは分からないが、あれだけいた顔の群れは見当たらなかった。

 歪に溶解した金属のような何か……おそらく基地の壁や床だったモノに埋もれるように無数の肉片が見えるものの、どういう状況かかは分からないし、それを追求する気力もなかった。


 ここまでの悪夢のような道中はなんだったのかと思うほどにあっさりと、巨大ゲートに辿り着いた。

 クーゲルシュライバー用ではあるがそれは大きさだけの事で、潜れば迷宮都市へと繋がる回廊へ繋がっているはずだ。


「一応、宇宙用装備は使えるようにしておけ」


 空龍は大丈夫かもしれないが、この中はかなり特異な環境になっているはずだ。宇宙用装備で意味があるのかも分からないが、用意しておくのにこした事はない。……一応、ラディーネから生身でも死にはしないと聞いてはいるが。




 ゲートの縁をよじ登り、中へと足を踏み出すと、いつかこの世界に来た時に見たものと同じ、奇妙な色彩の空間が待っていた。


「これは……想像していたのと違う意味でキツイな」


 とりあえず死にはしないだろう。一応、薄いながらも空気はある。無重力で身動きがとれないわけでもない。これらは迷宮都市に繋がっている故に、それに合わせた環境になった結果だろう。

 ただ、それ以外にも活動を妨げる要素が多かった。

 地面に足をつき、歩行できる程度に引力があるが、空間全体から異なる引力や斥力を感じる。ただ立っているだけなのに、ミキサーにでもかけられているような不快感。強く意思を持たないと倒れ込みそうだ。迷宮都市まで踏破するのには万全の状態でも厳しそうだというのに。


「……おかしい」


 四方八方から引っ張られるような感覚に辟易していると、空龍が呟いた。


「クラリスさん。一度ここから出て入って来てもらえますか?」

「え? あ、はい」


 ちょっと待て。そんな事したら、どれだけ長い時間待たなければいけないと……と止める間もなくクラリスがゲートを抜けてしまった。

 ……そして、数秒後に戻って来た。


「…………」

「えーと、これで何か?」


 当の本人以外は無言だった。

 ……これはどういう事だ。何故、時間の流れが外と一緒なんだ?


「ッ!」


 ベレンヴァールが予備用の剣を振った。そこには、あってはいけないものが存在していた。


「……顔」


 切断された顔が消える。そして、それを認識した瞬間、洞窟の奥から無数の視線を感じた。

 ……まさか、無量の貌がここまで入り込んでいるのか。


「これが原因……一体化した部位だから、回廊と世界が連動して同期したままに……」


 空龍の言葉は、忘れかけていた恐怖を呼び覚ます。そう認識してしまえば、回廊の到るところに顔が浮かんでいるのが分かった。

 ……冗談じゃないぞ。こんなところまで侵食されていたら撤退どころの騒ぎじゃない。……いや、問題はそれだけじゃない。


「……急ぐぞ。クーゲルシュライバーが危ない」


 全員が無言で頷き、走り出す。

 何故、ゲート前に顔がいなかったのか。何故、ここに少数しか見られないのか。最大の防壁である時間の壁が存在しないのなら、逃げ込んだクーゲルシュライバーに安全保障はない。予想は最悪の事態を告げている。


 走る。吐きそうになるような環境を無視して走る。襲って来る顔は少数で散発的だ。ここまでの道中に比べるまでもなく、こんなものは脅威ではない。

 走っても走っても目標は見えない。それはいい。距離があるだけ危険は遠ざかっている事の証左でもあるのだ。

 しかし、進むほどに不安が肥大化していく。


――ない。諦めずに進んだところで、この先に待つのは更なる絶望だけだ――


 俺は、この先に待っているのが絶望であると確信してしまっている。

 だけど、足を止めてはいけない。知らない何かに突き動かされるように、先へと進んだ。


「……空龍?」


 そんな中、空龍の足が止まる。その顔に浮かぶのは疲労や怪我からくるものではなく、何か知りたくない事を知ってしまったような表情。

 困惑する俺たちをよそに、空龍が崩れ落ちた。


「おいっ! どうした」

「……お母様が……亡くなりました」


 その言葉が浸透するのに、若干の時間を要した。それほどに受け入れがたい事実であったから。

 どうやって知ったのかとか、そういう事はいい。何かしら、伝達する能力があるんだろう。問題はその事実だ。

 ……皇龍の世界が崩壊する。いや、空間が繋がったままというのならこの回廊だって……。


「それが、真実であるかどうかは判断がつかないが、やる事は変わらない。行くぞ」

「し、しかし……」

「お前連れて逃げろって言われてんだよっ!! せめてそれくらい果たさせろっ!!」


 それに何の意味があるのかは知らない。ここに至ってただ約束を守るつもりもない。

 俺は、空龍を動かすための口実が欲しかっただけだ。このまま、ここで蹲っていたところで状況は何も好転しないのだから。






「……なるほど、やはり何かカラクリがあったという事か」




 しかし、反応したのは空龍ではなかった。

 その声の主は、俺たちが入ってきた方向……ロクに視界も確保できない場所からゆっくりと歩いて来た。


「あの劣化龍は仕留めた。なのに、試練は終わっていないと感じた。ステージが上がっていないと」


 除々にだが、姿が露わになっていく。


「……どうやら、あいつは私の常識を遥かに超えた保険を用意していたらしい」

「ゲル……ギアル」



 原初の龍人が姿を現す。


 その姿は万全とは言い難い。いくつか部位が欠け、回復も再生もしていない姿は皇龍との激闘を語るものなのだろう。

 そして同時に、皇龍の死が真実であると語っているようでもあった。



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