幕間「未知への旅路」




-1-




 目の前には可視できるほどに強烈な大気の壁。見上げても空は見えず、嵐が広がるのみ。

 地は不毛の荒野。水や草どころか、一切の生命を感じさせない死の大地が広がっている。

 見渡せば人工的に見えなくもない構造物も見当たるが、そのほとんどは朽ちて原型を留めておらず、辛うじて形を保っている超巨大構造物のみがこの大地に存在する事を許されている状態だ。そして良く見れば建物がこの空間の中心であり、嵐を遮る障壁もその建物を中心に張られている事が分かるだろう。しかしそれは、結界内であれば真っ当な生物が存在できるという意味ではない。

 嵐を遮断し、気圧、重力、空気中の成分の調整を行ってなお超劣悪な環境で、辛うじて生きる事を許されるのは異形の超生物、龍のみだ。彼らは山のような巨体と脅威的な環境適性、そして食事も水も空気も必要ないという特性を持つからこそ、この死の大地で生きる事が許されている。


『なあ、最近外の嵐弱まってね?』

『……変わらないと思うが。数十年ぶりに発した言葉がそれか』

『いや、ずっと観察してたから分かるんだって。黒いのが見える頻度も上がってるし、これなら結界の範囲も伸ばせるんじゃ』

『伸ばしても意味はないだろう。兄者から聞いた限り、マジで何もないって話だぞ』


 二匹の龍がなにやら言葉を発してる。それは忠実に翻訳されたものであり、元々は日本語どころか人では正確に聞き取れない類の音らしい。

 仰々しく、威圧感のある巨体から発せられるには少々フランクな言動だが、翻訳はそれらのニュアンスも再現しているという話だ。技術的にはすごいのだろうが、何か間違っている気がしないでもない。


「……このように、私たちの母星は生命の住む場所にふさわしくない劣悪な環境です。過酷な環境でも生存可能な亜人はおろか、大多数のモンスターでも長期の生存は厳しいでしょう」


 スクリーンに映し出された映像に合わせ、壇上の隅から空龍が解説を入れる。解説の相手はシアタールームの席に座る冒険者だ。

 現在行われているのは航行中のオリエンテーションのようなもので、行く先の世界について知識の補足を行うために、映像を交えて現地人である空龍が解説をしている。また、これ自体が交流でもあるとも言えなくもない。

 俺はそのシアタールームの最後方、出入り口の近くで立ち見をしていた。意外にも盛況なのか自由参加にも拘らず席は満席で、俺たち以外にもチラホラと立ち見はいる状態だ。この遠征に参加する冒険者が真面目なのか、単純に異世界や異世界人に対しての好奇心の賜物なのか。


「とまあ、このように決して楽しい異世界旅行にはなると言えない場所ではありますが、我々はみなさんを歓迎します」


 薄々分かってはいたが、出席者の主な反応は絶句である。パンフレットに書いてある事ではあるのだが、こうして映像で見せられるとまた違った印象を受けるという事なのだろう。はっきり言って俺だって、用がなければ行きたい場所ではない。何故そんなところに根を張っているのかといえば無限回廊の入り口があるからなのだが、その理由を知っていても理解し難い地獄の環境だ。


「失礼。その生存云々は結界の外でという意味だろうか?」


 最前列にいた、特に真面目そうな冒険者が質問をする。


「あ、すいません。これは大結界内の話です。この外に出る場合は生存以前の問題で、一瞬でバラバラになるかと。これはみなさんだけでなく、この結界内に住む龍でも同じ事で、元々特殊な環境下で生きる事を想定して創られた個体か、龍の中でも上位に位置付けられる個体でないと通行する事も厳しいでしょう」


 龍のほとんどはこの大地で生まれ、結界の外を知らないまま育つという。一部の例外として、五龍将と呼ばれる幹部やそれに準ずる高位の龍は力技で突破可能らしく、スキルなどを使用して一時的に通行可能な通路を造る事も可能なようだ。

 それらを統括する皇龍も当然可能だが、あの巨大龍の場合は規格そのものが違う。生存どころか星そのものを消滅させる事も可能な存在を同列に語ってはいけない。

 あちらでも主力と第二グループの差は激しいという事だろう。ダンマスたちはその皇龍すら超越する怪物なわけだが、第二グループであるヴェルナーたちに星を壊せるほどの力はないだろうし。


「そ、そうですか……。では、つまり今回我々が活動可能な範囲もこの範囲に限られると」

「いえ、冒険者のみなさんが通常の人間と比べて頑強であっても、この結界内ですら生存は困難と考えられますので、この船に同乗している技術者が先行して住環境を整えた上で、という事になります。つまり、この第一便で移動できる範囲は極限られ……そうですね、あの建物内の数割が限界ではないでしょうか」


 空龍が指すのは龍の本拠である巨大建築物だ。

 せっかくの異世界旅行ではあるが、建物から出られない。それだって月サイズの大きさなわけだが、わずかでも旅行気分を抱いていた者はテンションが下がっただろう。いや、あの外の環境を知って尚出ていこうという好奇心を持つ者は少ないだろうが。


「最終的には結界内であれば移動可能な状態にはなるという話ですが、誤って結界外に出た場合はさすがに命の保証はしかねますので注意して下さい」


 だれが好き好んでそんなダイナミック自殺を試みるというのか。

 ……いや、そういう馬鹿だっているかもしれない。たとえば、修学旅行でこの世界に行った場合、なにかのノリでそんな頭悪い行動に出る学生がいないとは言い切れないだろう。若人というのは意味不明なレベルでノリを重視するところがあるからな。

 俺の前世の場合だと、本当に俺が死ぬか確認してみたいからちょっと突っ込んで来て、と言いかねない連中がいたのも確かだ。まあ、サラダ倶楽部っていうアホの集団なんだが。


「……海もないわけだし、ツナなら徒歩であの星一周できないかな?」

「おいやめろ」


 前世どころか現世でも隣にそういう奴がいた。ユキさんっていうんだが。


「このような環境下ですが、実のところ生命体が私たちだけというわけでもありません……あ、ないと思われています」


 どっちやねんという感じではあるが、空龍を始め、龍の知識の中でも不確定なものなのだろう。

 画面が切り替わり、一面の嵐が映し出される。結界の外だ。視覚補正をしてもギリギリ見えるかどうかというレベルだが、目を凝らせば嵐の中に巨大な黒い塊があるのが分かる。肉眼だと目視するのは厳しいだろう。

 アレが先ほどの映像に出てきた龍が言っていた"黒いの"だろうか。


「これは、おそらく植物の類と考えられています。母……皇龍がこの地に降り立つ以前より聳え立っていたらしいのですが、調査そのものが行われていないため、詳細については分かっていません」


 それはたとえるならば真っ黒な鉄柱だ。縮尺がおかしくなっているから判断は難しいが、優に数百メートルはあるであろう巨大樹が意味不明な嵐の中で直立しているという現実味のない光景である。


「日本語を取り入れて以降< 黒老樹 >と名付けられたこの樹は、このような悪環境の中にあっても存在し続けている唯一の原生生物と思われています。迷宮都市の技術者に聞いたところ、これまで確認されていたどの植物よりも強靭で建物や武具に利用可能ではないかという話でした。研究の進捗にもよりますが、いずれは私たちの世界から輸出できる物資の一つになると思われます」


 技術的な事は分からないが、これだけの悪環境、水も光もない状態で形を保っているというだけですさまじい生命力だ。ただの金属に見えない事もないが、樹と言い切っているからにはそう判断する何かがあったという事だろうし、まばらでも複数本存在が確認できる。惑星全体で見たら結構な数が生えているのかもしれない。


「向こうでは、その現物を確認できるのかね?」

「はい。この他、星から産出可能な鉱石についても、すでにある程度は用意してあります。冒険者用の武具素材としても量を確保済みで、第一便の皆さんは検疫と安全確認後に先行して研究して頂く事も可能です」

「おお……」


 シアタールームの冒険者の大半は淡々としているが、新素材と聞いてあきらかに反応している者も複数見られる。

 ちなみに、その反応をしているのはだいたいヒゲだ。ドワーフだけでなく、何故か人間っぽいのも長いヒゲを生やしているあたり、鍛冶師のトレンドなのかもしれない。


「ち、ちなみに持って帰る事は……」

「安全確認の結果次第になりますが、問題がなければこの第一便の復路からでも」


 年齢は良く分からないが妙に貫禄のあるドワーフの質問にもきちんと答えているあたり、これらは前もって予測していた質問なのだろう。

 おそらくだが、これらは以前空龍が言っていた世界間で対等でいるための手段として模索したものなんじゃないかと思う。迷宮都市側では特に気にしないだろうが、少しでも対等であろうと考えるならこういった事も必要になるというわけだ。各種資源は分かり易い輸出品だから、第一歩としてはアリなんだろう。


「良く分からんが、鍛冶師連中にとっては興味深いのかもな」

「ボクらの活動にも直結するしね。あの樹とか、木製装備を愛用している冒険者からしたらいくら出しても欲しいものだと思うよ」

「木製装備の冒険者なんていたのか」


 冒険者の装備は金属か革か布、あるいは合成樹脂製ばっかりだと思ってた。

 あ、良く考えればモンスター由来の素材で作る装備なんかもあるわけだし、そういった素材をメインで使う理由あっての事かもしれない。単純に金属より頑丈で軽いだけでも俺たちにとっては有用だ。少なくとも、素材として自分たちの体を切り売りするよりはよほど健全だろう。


「え?」

「え?」


 なんだ、そのアホを見る目は。


「木製武器使う冒険者」


 ユキはそう言って、俺を指差した。


「……あ」


 何言ってんだ俺。< 不鬼切 >は木刀だって事が完全に頭から抜けてた。つい最近、ダンマスが< 膝丸 >使うって言った時に羨ましくなったのは、これが木刀だからじゃねーか。……< 不髭切 >時代から考えると随分な付き合いなのに、すまんな。




 そんな感じでオリエンテーションは続く。基本的にはあちらの世界の動画と空龍の質疑応答の繰り返しだ。

 中にはどうやったのか龍に直接インタビューもらった映像もあった。それ自体はいいのだが、イメージ狂うから凶悪な容貌をした異形の龍にフランクな翻訳をつけるのはもう少し検討すべきじゃなかろうか。


 Q.龍との意思疎通はどのように行うのか

 A.一部を除き、基本的な日本語は学習済みです。発声器官がない個体もいるので、その場合 念話 でお願いします。サイズ差の問題で筆談は現実的ではありません。


 Q.文化の違いなどで特に気をつけるべき点は

 A.止めても力試しと称して襲ってくる可能性があるので、その場合は殴り返して下さい。複数で囲んで袋叩きが理想的です。逆に皆さんから襲いかかると喜びます。


 Q.え、問題にならないの

 A.基本的に頑丈なので問題ありません。なので、迷宮都市側に被害を出しても多少大目に見て頂けると……



 どれだけ問題行動をとっても外交問題になりそうにないのは助かるが、もうちょっとなんとかならなかったのかという感じではある。

 とはいえ、こうして理知的……理知的に対応している空龍でも迷宮都市に来た頃は似たようなものだったらしいので、結局は相手の文化・常識に慣れが必要という事なのかもしれない。もっとも、彼女たち三体は特に他文明に興味を持っていたという下地もあるので、中には脳筋のまま変わらない龍もいるんだろうなとは思う。


 そうして、一時間程度のオリエンテーションは終了した。

 気疲れした様子ではあったが、空龍に公開放送の時のようなミスらしいミスは見られないのは練習の賜物だろう。多少拙い部分は見られたものの、この航海中にも数回、第二便、第三便でも同じ事をやるのだから、その中で慣れていくだろうし。

 終了後も個別に空龍へ質問している者はいるが、ほとんどの出席者は部屋から退出を始めている。シアタールームでは連続して何かしらの映画上映やオリエンテーションが続くので、そのまま残る者もいるようだ。


「このあとどうする?」

「クーゲルシュライバーの中枢までの移動許可が降りるまでって事だよね? 定期報告書の見直しはするとして……御飯でも食べる?」


 例のピエロ絡みの話については、定期報告に先行してデータを送信してもらえる事になっている。時間の流れが違う以上、せいぜい数分程度の差にしかならないだろうが、必要な事だと判断されたらしい。

 ただ、映像で確認したいとクーゲルシュライバーに残る映像データを検索してもそれらしき存在は見当たらない。ならばと、記憶そのものから映像を再現しようというなんとも超科学的な話になったのだが、この船でその手の技術を使うにはクーゲルシュライバー中枢の権限が必要になるらしい。出港前ならともかく航行中にホイホイと行ける場所でない以上、許可をもらうのにどうしても数時間は必要になるとの事だった。準備が整い次第、艦内放送で呼び出しがかかる予定だ。


「……ちょっと不安になってきたんだけど、見間違いじゃないよね、あれ?」

「俺たち二人とも見てるしな……お前のほうも、はっきりとピエロだったんだろ?」

「……うん」


 出港前に画面越しで見たピエロの姿が蘇る。不気味で無機質で、陽気な要素は欠片もないのに道化師だと主張する姿。これが事前に存在を聞かされている俺だけなら無意識に幻覚を作り出したなんて事も考えられるが、同様のものをユキも見ている以上、それはないだろう。二人揃って何かの干渉を受けた可能性もあるが、それでも報告すべき内容だ。


「このままシアタールームにいるのはどうだ? 上映されるのが二時間映画とかだと、中途半端になりかねないが」

「やだよ。こんな精神汚染されそうな上映会」


 一蹴されてしまったが、ユキから手渡されたパンフレットを確認してみるとそれも納得だった。


「えー、続きまして、十分後から迷宮都市SM研究会による『中・上級冒険者向け痛覚耐性訓練レポート』の上映を……」


 スクリーン前の解説席には我らがサージェスさんの姿があった。その周りには一見すると普通だが、その手のオーラを放つ同志たちの姿もある。これから始まるのが、冒険者にとって有用ではあっても人として何かを捨て去りかねないモノだという事を一瞬で理解した。

 逃げるようにシアタールームを出て行く冒険者の流れに合わせて、俺たちも外に出る。

 ……内容的に有用かもしれんが、何故こんなところでそんなものを見なければいけないのか。




-2-




 というわけで、食事をするにせよ何か飲み物を飲むにせよ、とりあえず食堂へ向かおうという事になった。

 宇宙船のような内装の廊下をユキと連れ立って歩く。


「まだ《 魂の門 》の後遺症は残ってるんだよね?」

「普通に訓練する分には問題ないけどな。さすがに実戦は厳しいし、模擬戦でも合わせるくらいしかできない。この航行中には戻るだろうが」

「羨ましくはあるけど、ちょっと不便だよね」

「デメリットに対してメリットがでかいからな。魔術もそうだが、難航してたHP操作の習得が大きい」


 相性の問題こそあるが、それとリリカの都合をクリアできるなら無条件で受けるべき修練である。俺の場合は極端かもしれないが、普通に足を踏み入れるだけでも魔術的には意味のある行為だろう。魔術でなく、HP操作に慣れるためだけでもいい。

 HP全損の状態で戦う事の多い俺ではあるが、素の状態では問答無用で貫通するような攻撃を防げるかもしれない技術はそれだけで有用だ。操作しようがHP総量のダメージは変わらないとしても、実体へのダメージが防げるのが大きいのは間違いない。


「お前みたいに素でできてればもっと効果的だったんだろうけどな」

「ボクはあんまり自覚ないんだけどね」


 俺自身がある程度習得した事で分かったのだが、ユキやサージェスは無意識でもかなり高精度の魔力操作を行っている。素質に加えて、使用しているスキルの差も大きいのだろう。魔術士連中は当然としても他のメンバーもある程度は行っているようで、実際のところ俺が一番下手だった可能性も高い。というか、今でも最下位かもしれないという有様だ。

 クラン内でもこんな感じではあるのだが、更に言うならフィロスはちょっと理解し難い精度で操作技術を体得している。HPだけでなくMPの操作も行っているのか、実体よりもリーチの長い《 魔装刃 》、攻撃した箇所だけピンポイントで硬い《 魔装盾 》、まだ使い物にならないとは言っていたが、追尾してくる《 エア・スラッシュ 》など対戦者には脅威以外の何物でもない。あいつの場合はそれらを意識して行っているというのが恐ろしいところだ。あいつも《 魂の門 》を潜ったんじゃなかろうかという成長ぶりである。


「そういえば、訓練所の予約はどうする? 不測の事態に備えて、少しでも鍛えておきたいところなんだけど」

「見学してたらどこかが混ぜてくれるんじゃないか? お前、冒険者連中にも人気あるし」


 ある意味順当ともいえるのだが、この船の施設で最も賑わっているのは訓練場らしい。

 設備自体は迷宮都市のものと大差ないのだが、乗客のほとんどが多彩なクランから選抜された準一線級のメンバーという環境は、普段は行えない相手との共同訓練を可能にする。実際、ウチにも普段目にしないクランから共同訓練の誘いがあった。俺はしばらく参加できないだろうが、模擬戦か何かをやってもいいかもしれない。


「ウチが予約するにしても艦内調整時間で深夜にすべきだろうな。S6シミュレーター使う気だろ?」

「それだけじゃないけど、そうだね」


 ウチのクランハウスに設置された訓練所同様、このクーゲルシュライバーの訓練所にもエリカたちのシャドウを再現可能な装置が備え付けられているのだが、その利用は一部に限られるらしい事が分かったのは出港後の話だった。

 正確に言えば機能自体は使えるのだが、認識阻害がかかっていて事情を知らない者にはその機能がある事を認識できないらしい。

 一から説明すれば問題ないのだろうが、今のところ全冒険者に周知するような話でもないので、当面は俺たちだけで使う予定だ。一応、俺たちの他、事情を知っている一部の幹部クラス……ヴェルナーやグレンさんも承知している。あと、美弓も使えるな。


「ん?」


 食堂に向かう通路を歩いていると、不意にコーヒーの匂いがした。

 少し後ろに下がって細めの通路の先を見ると、そこにはラディーネがコーヒー片手に一人船の外壁へと目を向けている。


「……こんなところで何見てるんだ?」

「ああ、ワタナベ君たちか。……ちょっと外の景色をね」

「外……って」


 廊下の壁を見ても何も映し出されていない。確か談話室に設置されたガラス……というか壁は常時何かしらの映像を映し出しているが、基本的には極普通の風景画像だったはずだ。

 だが、怪訝な表情を浮かべていた俺たちに手招きをするラディーネに歩み寄ると、そこには壁の一部だけだが船の外を覗くような映像が表示されていた。どうやら死角になっていたらしい。


「……これが世界の穴なの?」

「なんというか……思ったよりは普通だな」


 そこから見えるのはクーゲルシュライバーが掘削したと思われる空間だ。

 世界と世界に穴を開けるという話だから、外は転送ゲートの表面のような謎空間が広がっているものだとばかり思っていたのだが、広がっているのは奇妙ではあるものの歩けそうな通路に見える。様々な色が混じり淡く発光し、じっと一点を見ていると気が狂いそうになるが、そこから感じる印象はダンジョンに近い。無限回廊の深層ですと言われても信じてしまいそうだ。

 船との間にかなりの隙間があるのは、この船の掘削面積が実体以上に大きいという事なのだろう。落ちたら投身自殺になりそうな距離だ。

 ……あまり深く考えてなかったが、実は浮いてるんだな、このボールペン。


「詳しい事は分からんが、無限回廊の狭間と呼ばれる場所に近い特徴らしいね。通常の無限回廊ではなく、管理者層であるマイナス層でもない。時折口が開くダンジョンとして形成されていない世界だ」


 つまり、ダンジョンは世界の間にある空間に存在していて、その大部分はこういう謎空間だという事なんだろうか。

 ひょっとして、この壁の向こうに無限回廊が繋がってたりするのかも。実は階層のショートカットができたりして……なんて事も考えたが、そもそも不可能か何かしら多大なリスクがあるのだろう。そんな誰でも考えそうな事をダンマスが検討しないわけがない。


「……って事は、その狭間っていうのを確認した事例があるって事?」

「ダンジョンマスターが一度だけ足を踏み入れた事があるらしい。曰く、事故で世界に亀裂が入りでもしない限り、足を踏み入れる事はない、極めてイレギュラーな空間だという話だ。……ひょっとしたら、ワタナベ君の前世の話に出てきた空の亀裂というのは、こうした場所に繋がっているのかもしれないね」

「…………」


 確かに有り得そうな話ではあった。

 現世でダンジョンの存在を知った今だから言える事だが、あの亀裂が無限回廊の正式な入り口とは思えない。世界規模のパニックに至る前の情報しかないが、俺が向かった東京の他にも空間の亀裂は確認されていたはずだし。もしそうなら、俺も狭間とやらに足を踏み入れている事になるな。


「あの壁に開いてる横穴みたいなのは?」


 ユキが指差すのはところどころ存在する穴のようなものの事だ。

 こんな謎空間では視覚情報が信じられるかどうかも怪しいが、クーゲルシュライバーが掘削している以前から開いていたらしき横穴が見られる。


「ここが狭間と同様の空間という前提なら……大半は行き止まりらしいが、どこに繋がっているかも分からない異常空間らしい。戻って来れる保証はないし、同一の横穴に入っても同じ場所に出るかどうかすら分からない非常に不安定な穴という話だ。ダンジョンマスターですら奇跡的な確率で生還したような場所だから、我々ならまず死ぬだろうね。とりあえず、ワタシは挑戦したくない」

「うぇ……」


 つーか、あの人そんなところに入った経験があるのかよ。

 繋がっているのが別の空間なら、人間の生存可能な場所である保証はないどころか、下手したらその可能性は極小って確率だろうに。


「何かしらの事故でこの船から放り出されたら、横穴には入らずひたすらこの大穴を移動すべきという事だな」

「あんまり考えたくない事態だが、この下って歩けるのか? 一応地面っぽい何かはあるみたいだが」


 ヴェルナーが歩けるっぽい事を言っていたような気もするが、地面というには不安になる色合いだ。足を踏み入れたらそのまま沈んでいくような気がしないでもない。


「保証はできないが、掘削時に特殊な加工をして安定化させているから徒歩でも移動可能らしい。薄いが空気もある。どうも繋がっている先の空間に影響されるらしいから、半分程度は迷宮都市と同じ環境なんじゃないかな」

「半分て……」


 だがまあ……一応生存可能ではあるんだろうか。長時間は厳しいだろうが、冒険者ならある程度はなんとかなりそうではある。宇宙空間よりはマシって程度かも知れんが。


「先生、そろそろエラーチェック終わりますよ……って、渡辺さん? 何やってるんですか?」


 近くの扉が開き、中から白衣のディルクが現れた。いつも監視するが如く付きまとっているセラフィーナの姿はない……いや、部屋の中で寝てるな。


「コーヒーの匂いに釣られた通りがかりだ。というか、お前も何してるんだ? ラディーネとは管轄違うんじゃ」

「元々予定がないのに参加した手前、情報局のほうに僕の仕事はないんですよね。なんで、先生の手伝いです」


 ああ、あの会議のあとに予定変更したんだったか。


「ちなみに何をやっているのかという回答ですが、この船に搭載してる小型艇にボーグさんを直結する実験をしてまして。上手くいけば、半自動操縦を全自動操縦にできます」


 それは全自動と言うのだろうか。……ボーグが操縦してるだけなんじゃ。


「理想としては小型艇だけで世界を行き来できるようにする事ですが、不確定要素が多いですし、なかなか難しそうです。とりあえずは……外の坑道内で戦闘行動がとれる程度には仕上げておきたいところですね」


 チラリとディルクが俺を見た。


「……なるほど、そういうケースも想定できるか。あまりやりたくないけど、ツナならありそう」


 ユキさんのその反応は遺憾ではあるが、実際にそんな事態は有り得ないとは言い難いので反論はしないでおく。


「そういえばあとで伺うつもりだったんですが、お二人とも……というか可能な限りクランメンバーのスケジュールを空けてもらってもいいですかね? 船内調整時間でいう夜十時あたりから」


 一応ユキの顔を窺うが、特に問題はなさそうだ。


「とりあえず俺たちは問題ないが、何するつもりだ?」

「基本的には連携訓練ですが……付け焼き刃の戦力アップですかね? 訓練場の予約は僕が入れておきますんで」


 何故疑問系かは分からんが、つまり訓練か。元々、何かしらはやるつもりだったが、明確なビジョンがあるというのなら乗るべきだろうな。

 そんな事を話していると、艦内放送が鳴り響いた。もう少し時間がかかると思っていたが、重要性故か早めの対応をしてくれたらしい。




-3-




 放送で指定された場所へ赴くと、そこにはヴェルナーとクーゲルシュライバー君の姿があった。

 向かう先は前回訪れた中枢部ではないのだが、それでも機密に近い部分にあり、責任者の同行が必須らしい。クーゲルシュライバー君は単純に道案内だ。


「実はこの船の中枢近くは、私も構造を把握し切れていないんですよね」


 一般乗客はもちろん責任者のヴェルナーであっても、ほとんど自動操縦されているこの船の中枢部分に触れる機会は少ない。権限云々以前に人が利用する事を考慮していないために複雑怪奇な構造をしていて、迷子になりかねないそうだ。以前訪れた中枢も近い印象を受けたが、そこから離れると確かに迷子になりそうな造りになっている。利便性は考えずに如何にも突貫で造りましたと言わんばかりの雑然さである。

 俺だと迷子になったら元の道も辿れずにそのまま遭難するな。その場合はユキさんの記憶力に頼りたいところだ。


「そういえばさ、クーゲルシュライバー君の名前ってもうちょっとどうにかならないかな?」


 移動中、不意にユキがそんな事を言い始めた。

 口に出してしまったものは仕方ないが、致命的な自己矛盾を引き起こす可能性があるのだから、もう少し配慮すべきではないだろうか。船が事故ったらどうすんねん。


「意図が分かりかねます」

「あーいや、……ちょっと長くて呼び辛い」


 適当にでっち上げた理由なのだろうが、確かにそれももっともである。

 ……ドイツ人も普段からボールペンの事をクーゲルシュライバーって呼んでるんだろうか。単純に使い辛い気がするんだが。


「といいましても、クーゲルもシュライバーも元となる方がいらっしゃるので」

「そこで分けるのが普通っぽいけど、他に何か愛称とかないの?」

「では、LC302-X5012-2と」

「……それは型番とかじゃないのかな。むしろ長くなってるし」

「実に難しい注文です」


 たかだか自分の呼び名の事なのに、AIにとっては難題らしい。

 ……まさかクーゲルシュライバー以外の名前を名乗らないように制限かけられてないよな?


「……では、セカンドかツヴァイとでも」


 無機質極まりないが、それでもクーゲルシュライバーよりはマシな気がする。短いし。


「二番目なのは何か意味があるの? ファーストが別にいるとか」

「はい。エルシィというオリジナルが別個にいますので」


 容姿的に関係あるとは思っていたが、本格的に元になった存在という事らしい。


「あ、そっくりだもんね」

「容姿はほぼコピーです。電子データ上では性別はありませんが、専用に用意されている義体も女性型ですし」

「じゃあツヴァ……ドイツ語は駄目だ。セカンドって呼ぶよ」


 問題のクーゲルシュライバーがドイツだからな。俺もセカンドって呼ぼう。


 そんなやり取りをしつつ、目的の部屋まで移動する。

 途中経路は覚える気にならないほど雑然としていて、人が通るのに適さない場所も多かった。ユキは小柄だからヒョイヒョイ移動していたが、俺とヴェルナーは大変なんだからもう少し気を使ってほしい。


「それでは記憶の読み取りを行うので、一人ずつその個室の中でバイザーを装着願います」

「はーい」


 特に順番などは決めていなかったのだが、セカンドに言われるまま個室に入って行くユキ。

 専用のモニタで内部の様子を確認すると、何もない部屋にテーブルと椅子が設置されているのみで、その上にバイザーがポツンと置かれている。

 バイザーの見た目はヘッドマウントディスプレイに見えなくもないが、装着しても目は隠れていない。こうやって隔離するのは余計な情報を拾わないためなのだろうが、睡眠状態に入るわけでも目隠しするわけでもないという事はそこまで厳密な環境は必要ないという事なのかもしれない。

 ……これを使えば自分の妄想を映像に変換できるのだろうか。もしそうだとしたら、妄想力逞しい人にとっては極上のエログッズにもなりそうな気がする……と思っていたのだが、再現できるのはせいぜい静止画でギリギリ確認に耐えられる程度で、鮮明な映像化は難しいらしい。今後の技術革新に期待である。

 読み取り時間は数十分程度らしいが、順番待ちの俺はその間手持ち無沙汰だ。

 そういえばと、ここまであまり発言しなかったヴェルナーに目をやると、なんとも奇妙な表情をしていた。


「……何か気になる事でもあったのか?」

「ああすいません、ちょっと考え事を……。自己嫌悪というか」


 あまりそういった性格に見えないが、吸血鬼には吸血鬼なりに抱えている問題があるのかもしれない。


「もう少し成長していたつもりですが、例のピエロの話は思ったより堪えているようです」

「ダンマスから聞かされていなかったって話なら、気にしなくていいと思うが。嫁さんたちやアレインさんにも言ってなかったくらいだし」


 どうやら吸血鬼などは関係なく、現状に則した悩みだったらしい。

 とはいえ、俺に話したのは単にタイミングと会話の流れ上の問題だ。むしろ身内に近しい存在ほど打ち明け辛い話だろう。


「ピエロの存在は憂慮すべき問題ですが、ダンジョンマスターがそれを言わなかったのは理解できます。それ自体を気にしているわけでなく、そこから派生する自分の思考に呆れているところでして」


 自分の知らないダンマスの情報を俺が知っている事に嫉妬しているとか、そういう事ではないようだ。


「まあ……私だけに限った話ではないんですが、モンスターというものはその出自上どうしても自己の概念が希薄です」

「……そう、か?」


 一瞬頷きそうになったが、まったくそう思えなかった。俺の知っているモンスターたちは目の前のヴェルナー含めて個性的だ。

 アクの強い知人の中でもむしろ個性強い……強過ぎる部類だろう。この吸血鬼、娼館に自分のトレードマーク持ってるんだぞ。


「我々は基本的にダンジョンマスターの意思に反しません」

「命令に忠実ってのはプラス材料に聞こえるが」

「その他大勢でいるつもりならそれでいい。けれどダンジョンマスターの力になりたいと考えるなら、言われた事に疑問を持たず、意味を考えず、盲目的に従うだけの駒は不要だと、そう突き付けられています」


 厳しい事だ。ダンマスが自分でできない事をできる存在を求めているのは知っているが、ただの駒なら不要と切り捨てるのは極端だろう。

 ……いや、この場合はむしろ優しいのかもしれない。単純に切り捨てたわけじゃなく、そうなれと成長を促しているのか。……幹部研修?


「……先ほどユキさんが話していた名前の話ですが、渡辺さんはどのような印象を受けました?」

「名前がアレなのは同感だが、危ない会話はするなって思ったな」

「はは、確かに。……私の場合は、別の呼び名をつける必要はないと思っていました。長く、呼び辛い名前と思っていても、改善の必要性を感じていなかったわけですね。……何故かと言えば、ダンジョンマスターが付けた名前だからです」


 関係ない話にシフトしたと思ったが、どうやらアレが考え事の発端だったらしい。


「これが我々の悪癖であり、ダンジョンマスターの不満であり、乗り越えるべき壁です」

「……この場合、たかが名前一つって話にはならないんだろうな」

「名前だけなら別段問題はないんですがね。そこから思考して、今回の惑星崩壊に関して致命的な問題に気付きました」


 妙な連想ゲームだ。俺では理解できない思考の繋がりである。


「もしもの話です。たとえば、ダンジョンマスターが自らの意思で星を壊そうと考えた場合、我々にそれを止める行動はとれない。そこに一切の正当性がないとしても、我々はダンジョンマスターの行動を肯定してしまうでしょう」


 ……そういう話に結びつくのか。


「完全肯定なんて、ダンマスは望まないと思うが……まあ、分かった上での話なんだろうな」


 分かっているからこそ、こうして話をするわけだし。


「……度し難い悪癖です。分かっていて尚止められないのがまた悪質だ。ある程度客観的に見れるようになった私でさえこの有様。他の大多数のモンスターなど推して知るべしという話です」


 ダンマスを絶対視するモンスターでは、そんなもしもの最悪を止められない。


「……ダンジョンマスターは自分が死んで道化師が残ったら、という話をしたと言いましたよね?」

「ああ。あくまで雑談で、根拠なんてほとんどない仮定だけど」


 今回の話を伝える上で、ヴェルナーとクーゲ……セカンドには、道化師の話は伝えてある。当然、大まかながらいつかの電話の内容も込みだ。


『ただの幻覚だから、表に出る事はない。俺が死ねば当然一緒に消える。摩耗し切ってネームレスみたいになっても消えるだろう。……そう思ってたが、俺が死んでこいつだけ残ったらって想像したんだ。……めっちゃホラーだろ?』


 あれは、エリカのいた未来世界でダンマスが死んでいた場合、星どころか世界ごと崩壊してないのは不自然だという疑問から出た話だった。

 道化師とやらがダンマスにしか見えていないあの時はそこまで真剣に捉えていなかったが、こうして俺とユキという第三者が目視してしまった以上、どれだけ根拠が薄かろうがそんな事態になる可能性を考慮しないわけにはいかない。


「渡辺さん、私はね、例の道化師がダンジョンマスターの一部であるというのなら、それだけですべてを無条件で肯定し兼ねないと思っています」

「…………」

「もちろんダンジョンマスターが崩壊の原因になるなんて可能性は低いでしょうが、そんな最悪の事態に陥った場合は我々はストッパーになり得ないという事は覚えておいたほうがいいでしょうね」

「……分かった」


 荒唐無稽な話だ。荒唐無稽でそうなる根拠なんてないに等しい。

 しかし、無視はできない。"ダンマスの力なら星を破壊できる"という、その一点の要素があるだけで、絶対に無視はできない可能性なのだ。


「……ダンマスに逆らおうとか考えないのか? そこまで行かなくても反抗期とか」

「リーリア……家内との結婚を私の意思抜きで進められた時は反抗しましたね。もはや黒歴史ですが」


 なんか以前に聞いたような気もするが、それで黒歴史というあたり、本当に反抗心はささやかなようだ。

 もし特攻服を着たりリーゼントキメたり、深夜の学校で窓を壊して回る類の反抗期なら大爆笑なんだが、さすがにそんな事はないだろう。


「あの時は極悪難易度のダンジョンで冒険者を虐めたりと色々やらかしました。本当にお恥ずかしい限りで」


 ……駄目だ。ささやかどころか、反抗の矛先がダンマスに直接向かってない。




「あー、そうそう、こんな感じ」


 記憶の読み取り処理が完了したあと、画面に映った不気味ピエロを見てユキが言う。

 これは、ユキの記憶を読み取って再現した画像だ。かなりぼやけてはいるが、それだと分かる程度には輪郭もはっきりしている。

 その後、もう一つの画像……俺の記憶から再現した画像へと切り替えても同じ容姿のピエロがダンマスの後ろに映っていた。

 若干細部に違いがあるような気もするが、ピンぼけな上にそもそも遠隔からの視点なので誤差の範疇だろう。記憶違いという線もある。


「……クーゲルシュライバー、本当にこれと一致する映像データはないと? お二人にはここまではっきり認識しているのに?」

「はい。ダンジョンマスターがいた建物の監視映像を含め、このような存在は一切確認できません。幻術や科学的隠蔽の類もです」

「そうですか……」


 事前の説明をしてアレほどの懸念を話し合ったあとでも、いざ目にしたピエロはヴェルナーにとって信じ難かったのか何度も確認が入った。しかし事実は変わらない。少なくとも、俺とユキの視界にはこうして映っている。


「しかし、これがなにを意味するのかはさっぱりですね。これがダンジョンマスターの意識とは別に動く存在だとして、何か意図があって姿を見せたのか、何故このタイミングなのか」


 先ほどの懸念じゃないが、まるで星の崩壊に関係ありますといわんばかりのタイミングである。幻覚と切り捨てるわけにもいかない。

 かといって特別何ができるわけでもないし、何が起きるかの予想もつかない。星の崩壊に関わる事なのかも不明だ。容姿含めて気持ちの悪い奴である。


「なんか夢に見そうだよね」


 ユキさんの意見に同感だ。

 ただ不気味なだけならこれ以上はいくらでもいる。生理的な嫌悪感なら、前世で見たカオナシや異形のほうがよっぽどだ。

 しかし、こいつはそれらとは違う。悪意を想起させるだけではなく心の隙間に入り込んで嘲笑するような、方向性の異なる気持ち悪さを感じるのだ。こんなボケた画像からですら、それを感じさせる。

 以前聞いたように、これがダンマスが生み出したもので心の一部なのだとしたら、それは一体どれほどの心の闇だというのか。




-4-




 そうこうしているウチに時間は流れ、夜を迎える。あくまで出港から調整した時間の上ではだが。

 現在はディルクの指定した十時までには余裕はあるものの、他に何かするほどでもないという微妙な時間だ。仕方ないので、俺とユキは早めに訓練場へと足を運んでいた。

 基本二十四時間体制の冒険者だが、あえて深夜帯に訓練をしようという者も少ないらしく、訓練場の利用者はまばらである。


「あ、センパイ、ユキちゃん、チーッス」


 頭悪そうな挨拶で近付いて来たのはトマトさんだった。心なしか近付いてくる様もチンピラのそれに見える気がした。


「こんにちは、ミユミさん」

「よう。一人で何やってんの、お前」


 特に訓練に参加している風でもなく、誰かと一緒でもない。俺を待ち構えていた様子というわけでもなさそうだ。


「そりゃ戦闘訓練ですよ。と言っても、あたしはまだ全力戦闘できないんで見学ですが」


 そう言って訓練場の奥のほうへと視線を向ける美弓。その視線の先には同じくハーフエルフの少女がレイピア片手に戦っている姿があった。……促成栽培のツンデレこと、クラリスだ。


「ああ、パインたんの付き添いみたいなもんか」

「ですです」


 所属メンバーのうち、俺がその実力を知っているのは目の前の赤い野菜とニンジンさんの二人だけだが、< エルフだらけ >は中級冒険者の中でも実力派という評価で知られているらしいパーティだ。エルフ系種族しか所属していないという特異さはあるものの、種族として強烈な個性や弱点を抱えているわけでもないエルフなら戦力的にも問題にはならないだろう。最大の弱点である数が少ないという問題はそもそもクリア済みだし、他種族よりも非力で体格に恵まれ難いという特徴も戦っているクラリスを見る限りそこまでのハンデには見えない。


「……強いね」


 クラリスの戦闘を見て、ユキが呟く。

 さすがに差は詰まりつつあるが、現在の俺たちから見れば美弓たちのパーティは結構な格上だ。強いのも当然である。

 クラリスの戦闘はこうして見たところ、速度、手数重視。あと多分だが、攻撃の一つ一つが点で弱点を狙う精密性重視のサブアタッカーというタイプだろうか。ユキほど派手に動きこそしないが、その代わりに無駄は少なく動きが正確だ。つまり正統派である。


「センパイのところでいうとユキちゃんみたいなポジションです。元々後衛志望だったんですけど、今じゃ生粋の本職と較べても遜色ない前衛に仕上がりました。素直なんで、飲み込み早いんですよね。代わりに、いつまで経ってもツンデレとしては未熟ですが」


 素直なツンデレとは一体……。


「前衛っていうと、どうしてもあっちで暴れている虎さんみたいなイメージを抱きがちですけど、ウチはあたしの火力とヴィヴィアンの補助魔術が軸なんで、めっちゃありがたい存在なんですよ」


 戦力の中心にはならないが、パーティの穴を埋め、相手の穴を突くポジション。枠が空いてれば、とりあえず放り込んでおくだけでどんなパーティでもそれなりの動きができそうな便利屋だな。非力でも、クリティカルの一発があるのは相手としては怖いだろうし。


 ちなみに比較対象にされた虎こと、< 流星騎士団 >のリグレスは更に奥のほうで銀色の狼さん相手に暴れている。……まあガウルなんだが。

 仲悪いというわりには早速コミュニケーションを取っているというわけだ。すさまじい形相で罵倒しているようにも見えるが、そういう男の友情を育む的なアレだと信じたい。なんかやたらガウルという単語が聞こえるが、きっと名前を呼んでいるのだ。


「センパイたちも訓練ですか? ユキちゃんはともかく、センパイはまだ本調子じゃないんですよね?」

「十時から一角を借り切って全体訓練だ。ウチのディー君主催で何かするらしい」

「あー、あの。昔良くおねショタ本のモデルになってもらいました」

「……お前、それセラフィーナが黙ってないんじゃないか?」

「その本で買収しました。おねの部分をセラフィーナさん本人と言い張って」

「……そうか」


 ……あいつ実は調教に失敗してるんじゃないだろうか。いや、本質的な意味では絶対に裏切ったりしないのだろうが、あきらかに手綱を握り切れていない。というか、背はともかくセラフィーナは年下なのに。

 しかしこう……アレだな。身内を題材にしたエロ本って心惹かれないよな。盗撮とかそういうプレイならアリなんだが、フィクションを前面に出されると急に目を背けたくなる。……ティリアのアレとか。俺もまだまだ修行が足りない。




 ユキがクラリスと模擬戦したり、ガウルが視界の隅でなんか色々吹っ飛んでたりしたが、予定時間が近づくにつれて次第に利用者は少なくなっていく。

 そして、予定時間の数分前となれば一部参加できない者を除き全員が揃っていた。ボーグは実験で小型艇と合体しているために不参加である。

 それに加えて龍人の三人と、そのままの流れで残った美弓とクラリスの二人、あとは何故かグレンさんがいた。飛び入りのようなものだが、貸し切りとはいえ隠す気はないので問題はない。


「なんか流れで参加しちゃいましたけど、あたしたちはここにいていいんですかね?」

「お前は事情を知ってるし、クランに限定する理由もないしな。あ、クラリスにはお前から説明しろよ」


 美弓の横で?を浮かべているクラリスは現状の流れについて知らないが、説明の匙加減含めて美弓に放り投げる事にした。


「私は見学だから気にしなくていい。置物だと思ってくれ」


 グレンさんに関しては事情も知っているので、本人がいいなら問題はない。聞いてみれば、単なる興味本位らしい。


「で、何する気なんだ? 俺はまだフルで戦闘できないぞ」

「今日やろうと思っていたのは、複数人のチームに分かれての模擬戦です。もちろんただのチーム戦ではなく、僕の《 情報魔術 》をフルで利用した環境での戦闘を想定しています」


 ディルクの《 情報魔術 》っていうとアレか。ゲームの情報ウインドウ的な。


「……アレか」


 何故かベレンヴァールが遠い目をしていた。意図するところは分からないが、四神練武で何かあったのだろう。


「冒険者の成長という観点で見た場合、《 情報魔術 》への依存は決して望ましいものではないんですが、現状はそうも言ってられません。とびきりの格上と相対する事を想定して、多少限定的でも戦力を引き上げたいというわけです」


 格上云々は、どうせ俺の前に現れる敵ならそうだという決めつけだろうが、まあ想定としては否定しない。


「あのー、例の事情はともかく、あたしには何の事やらさっぱりなんですが」


 ディルクの《 情報魔術 》について予備知識のない美弓から質問が入る。


「ミユミさんたちもいますし、見た方が早いですね。……ようはこういった環境で戦闘を行う事を想定しています」


 と言いつつ、ディルクが魔術を展開した。視界に映る大量の情報ウインドウ。おそらく全員が同じように見えているのだろう。


「な、ななな、なんじゃこらーーーっ!?」


 過剰反応する美弓だが、クラリスやグレンさんも絶句している。

 コンピューターゲームの経験があれば、この光景が如何に反則染みたものか理解できるだろう。


「え……ちょっ、センパイ、これ……え? 超既視感を感じるウインドウが」

「……すさまじいとは聞いていたが……これほどか」

「表示可能な情報はすべて可視状態にしてありますが、人によって必要な情報は異なるかと思いますので、とりあえずはこの状態で模擬戦を繰り返して、各員不要な情報を削っていきたいと思います」


 リアルタイム更新される詳細情報が視覚的に見れるのは利点だが、あまりに多い情報はマイナスに繋がる。特に戦闘時はそれが顕著で、戦闘での役割、本人の資質、あるいは戦況によっても必要になる情報は異なるという事だ。

 たとえるなら、勘で動く奴は元々情報に頼らないし、なまじ見えてしまう事で勘が鈍るという事もあるだろう。あと、単純に邪魔である。

 情報の発信元はディルクなので、不要なものがあればその都度不可視化してもらう。自分でも表示位置などは移動可能らしい。

 というわけで、各員軽くウインドウの内容確認と位置調整を行った上でチーム分け、模擬戦を開始した。


「渡辺さんは戦闘に参加せず、全体の戦況把握訓練をしましょう。その上で《 念話 》による指示出しまでできれば理想的です」

「お前が全体統括するのが効率的な気もするが」


 今はともかくとして、戦闘における俺のポジションは純前衛だ。その役割をこなす上で戦況を把握して指示出しまでこなすのには限界がある。

 無理とは言わないが、それで俺自身の戦闘力が激減してしまっては意味がない。


「もちろん、僕含めて適性のある人はパーティ単位の戦況把握と指揮の訓練を行う予定ですが、渡辺さんは常に全体を見通して把握していてもらわないと」

「……リーダーでクランマスターだもんな。ごもっとも」


 ポジション的にも常に指示を出す事は不可能に近いが、せめて戦況の把握はしておくべきという意見だ。


「とりあえず、今日はこのまま慣熟訓練と情報の最適化を続ける感じか?」

「基本的には。ただ渡辺さんだけは、もう一つ伝えておくべき事があります。まあこっちは急ぐ理由もないので、とりあえずはこのまま続けて、全員ある程度慣れてきてからにしましょうか」

「おー、了解」


 俺、これだけでも頭パンクしそうなんだけどな。

 目まぐるしく推移するデータ群を俯瞰しつつ、全体の戦況把握に努める。ゲームのように見えてもこの情報はすべて目の前の出来事だ。

 必須なのは各員のHP、MPなどのリソース情報。ただ、デジタルな数字表示よりも《 看破 》で見るようなゲージのほうが直感的に判断し易いだろう。その他は……状態異常、損傷位置。HPの分布情報まで可視化してやがる。

 位置と地形情報は必須に近いが、ただでさえ速い冒険者の動きを3Dで把握し続けるのは思ったよりもハードだ。

 ……敵側はともかく味方の耐性情報は必須じゃないな。バフデバフの干渉位置や影響度、効果時間についても詳細過ぎる。

 推定でもスキルの溜め時間、硬直時間まで分かるのか。感覚的にやってる武器技はともかくとして、リキャストタイムが長くかかる魔術系スキルの情報は把握すべきかもしれない。

 各種装備の耐久値を把握し続けるのは厳しい。アーシャさんならこれらを把握して《 鍛冶魔術 》で修復を行うのだろうが、俺が必要なのは全損したかしていないかの情報くらいで……いや、敵装備の耐久が分かれば装備破壊系スキルも使い易く……。

 ……表示対象を削り切れない。状況によって必要になるかもっていう微妙な情報が多過ぎる。なきゃないでなんとでもなる情報も、こうして突き付けられると残しておきたいという欲が出てしまう。


「ディルク、これ一時的に可視不可視の切り替えってできるのか? 戦闘中とか」

「意識するだけで切り替えられますが、不可視化はともかく可視化は慣れが必要ですね。余計な情報まで表示してしまう事があります」


 言われてみればそんな事になりそうな気もする。


 そんなわけで、戦闘による疲労も然ることながら脳への過負荷で消耗した連中の休憩スパンは短くなる。情報に気をとられて戦闘力を落としては本末転倒だが、これらも次第に慣熟していく事だろう。

 慣れたとは言い難いが、全体を把握しているとはいえ戦闘に参加するわけでもない俺は多少余裕が出てきた。


「どうですかね? 指揮官やる事の多いグレンさん的に何か助言とかありますか?」


 訓練開始以降、特に口を挟むでもなく表示された情報ウインドウを眺めながら唸っていたグレンさんに声をかけた。ちなみに美弓たち二人も似たようなもので、こちらは二人であーでもないこーでもないと話している。意外と真面目な雰囲気だ。


「……個人的な感想を言うなら、興味本位で顔を出すんじゃなかったと少し後悔してる。ウチの場合、他の連中なら違う意見も出るだろうが、私のような部隊指揮官には嫌というほど理解できてしまうものでね」


 そりゃ超一線級の指揮官に分からないはずがないよな。


「たとえばこれら情報群を持ったパーティと戦う場合、多少の力量差は意味をなさない。それほどに反則的な情報量だ。……ただ、これが本当の意味で真価を発揮するのはレイドなど大規模パーティ、地形や天候などが複雑な環境下になるだろうな」


 戦況把握が困難になるほど有用性を発揮するか。道理だな。


「もちろん、そういう大規模な戦場では術者の負担は計り知れない。本来なら複数人で分担すべきなんだろうが……ディルク君の恐るべきは、これらの情報収集を一人でやってのけているところだ。まさか、レイド規模でも同じように処理し切れるんじゃないだろうな」


 目の前に展開された大量のウインドウを見る。

 それは俺たちだけではなく、訓練に参加しないグレンさんや美弓たちにも同様に展開されている。つまり、本人のリソースにはまだ余裕があるという事だ。しかも、あいつ自身は普通に戦闘へ参加しているのである。

 ……レイドどころか、しれっと軍団規模で処理できますと言い出しかねないな。なんだあいつ。




 ある程度模擬戦を繰り返し、各自出力情報の取捨選択を行う。自分にとって必要な情報はなにか、あるいはこのポジションの人にはこの情報を把握して欲しいなど、実際の戦闘経験を元に調整していく。

 四神練武ではほぼ常時展開していたため、Dチームのメンバーに関してはある程度調整済み。特にセラフィーナは慣れたもので、ほとんど手を加える必要はないようだ。

 全体として前衛は少なく後衛は多めにという傾向は見られるが、個人の資質にもよるのか必要とする情報には結構な差があるようだった。

 たとえばガウルはこの中で最もウインドウの数が少なく、表示する情報種も必要最小限。前衛かつ運動量の多い戦闘スタイル、本人も戦闘勘を重視しているからこその選択だろう。

 一方で盾役のティリアの情報量は多目だ。特に他メンバーの相対位置、HPを含めた被害状況の把握を重視している感がある。

 ユキなどは動き回るポジションにも拘らず、極端に情報量が多い。そんな量を把握できるのかと不安になるが、あいつの場合はとにかく情報量を増やして、取れる選択肢を増やしたいという思惑があるらしい。

 元々、広い範囲で戦況を把握していた摩耶は地形情報の更なる拡大・詳細化を選択した。模擬戦では検証できないが、本職でしか看破できないようなトラップや設置型魔術の情報を相互補完するつもりらしい。ディルクが魔術で取得する情報の精度は高いが、本職のそれには及ばない部分もあるという事なのだろう。

 ただ、これらはすべて個人として処理している情報に過ぎない。

 唯一、情報の起点であり中継役であるディルクは情報の取捨選択を行うどころか、地形などの環境情報や敵味方含めた対象の情報を取得した上で各メンバーへの伝達を行っている。その上、自身は普通に戦闘に参加しているのだから驚嘆する他ないという話だ。ある程度はスキルで自動化しているという事だが、渡された情報を閲覧・把握するだけで頭がフットーしそうになってる俺たちとはもはや次元が違う。

 ……これは資質の問題によるところが大きそうだ。それこそが以前あいつの言っていた《 情報魔術 》の適性であり、研鑽してどうにかなる領域の話ではないという事なのだろう。……そりゃグレンさんも戦慄するわ。


「さて、最初に言った渡辺さんへの要件ですが……」


 死屍累々といった状況の中を涼しい顔で近付いてくるディルク。ついでに横にいるセラフィーナにも疲れは見えない。なんとなくだが、この要件をあとにずらしたのも、早い段階で参加者がノックダウンするのが分かっていたのだろう。


「ここまでは、これから遭遇するかもしれない未知の脅威に抗うための悪足掻きです」

「そうな」


 こんなディルクがいないだけで瓦解しかねない対策を取るのもそれが目的で、条件付きでも最大戦力の底上げを目指したというわけだ。こういった特定の人員に依存する方法は、本来だったらもっとゆっくり浸透させて、戦闘によって切り替えるような使い方が望ましい。ディルクが一人である以上、クラン内すべてのパーティをカバーするのは不可能に近いのだから。


「これから話す内容は、それよりも更に悪足掻きです。形になる事は期待できないし、期待すべきではない。これが必要になる事態なんて本当の逆境で、他に一切手がないという状況でしか有り得ないでしょう」

「それでも、お前は意味があるかもしれないと思ったわけだよな?」

「渡辺さんならあるいはと思いました。まっとうな方法では不可能でも、《 飢餓の暴獣 》に組み込まれているであろうスキルの強制発動能力前提なら、形になるかもしれない」


 ベレンヴァールとの戦いで使ったアレの事だろう。確かに、アレは未習得のスキルをマイナス補正を許容して発動する。

 それは、現状の俺の実力をある程度無視した戦力を期待できるという事でもあるのだから。


「強制発動って事は、その悪足掻きはアクションスキルか。確かに見るだけでも見ておけば、強制発動できる可能性はあるな。……お前たちの習得してるスキルは把握してるが、どれだ?」


 ディルクとセラフィーナのスキルは効果の分かり辛いものが多い。

 それこそ、本人ですら効果を把握し切れていない、開発途中のスキルをそのまま使ってますと言わんばかりのものがいくつかあったはずだ。


「これはスキル一覧には載りません」

「……魔術の行使同様、スキルとして習得していなくても発動可能なものがあるのは分かるが、まさか素の状態で使えって事なのか?」


 リリカがやっているように一から十まで自力で魔術を構築・発動するなら、それはスキルでなくとも発動する。

 俺に素の状態で魔術を構築しろなどとは間違っても言わないだろうから、同じような手段でウエポンスキルなどが発動できるかもしれない。それを強制発動できるかと言われれば、かなり疑問ではあるが。


「いえ、そういうわけでもなく……ちょっと特殊なスキルなんです。渡辺さん含め、他の人も見た事はありますよ」

「あっ……」


 思い至った事があるのか、黙ったまま俺の足元に転がっていたユキが声を上げた。


「アレだ。四神練武でセラフィーナが使ってた、なんか呪文詠唱みたいなやつ。秘匿事項って言ってた」

「正解です」

「……アレか」


 四神練武の動画でも複数回確認しているが、初見はそれより以前の冒険者学校での対戦だ。途中で止められたがアレも同様のものだろう。確かにアレはスキル一覧に記載されていない。だって、文章だし。


「だが、アレお前の説明じゃ理解できなかったんだが」

「説明下手なのは自覚してますが、あの時は他の説明ミスで動揺してまして……」


 そうな。確かにお前何言っても伝わらなくて、しどろもどろだったな。


「ええ、今回はバッチリですよ。ようするに、アレは決まった形のないスキルなんです」

「……いきなり分からんが」


 全然バッチリじゃない。なんでお前そんな自信満々なの?


「あー……っと、そうですね。……これはこうだって言い張る事で嘘を本当にするようなもので……言い張る内容がスキル名になります。斬れない物を斬る、壊せない物を壊す、殺せないものを殺す、世界に定着した概念を嘘で塗り潰すんです」


 なんか無茶苦茶言ってる気がするが、これは説明下手故ではなく、スキルそのものが無茶苦茶っぽいな。


「つまり、たとえばカラスは白いって言い張るのを現実にする?」

「面白いたとえですが、言ってしまえばそうですね」


 そんな事が実現可能な気はしないが、言いたい事はなんとなく分かった。


「そのスキルを使ってユキが100%女だって言えば、こいつが女になると」

「おお」


 いや、悲願かもしれんが素直に喜ぶところじゃないと思うぞ。ダンマスだって一気に変化させるリスクを考慮して段階的に変化させてるわけだし、それを簡単に実現できるとも思えない。……いや、悪足掻きと言っている以上、簡単じゃないのか。


「白カラスも100%女性のユキさんも理屈の上では可能です。ただ、もちろんそう簡単にはいかないわけでして」

「ま、まあそうだよね。そんな期待なんてしてないし」


 期待してたのか。


「このスキルは発動者本人がどれだけその言葉を信じているか、世界に向けて主張するかによって効果が変わります。不変であるはずの概念を個人の嘘で塗り替えようというわけですから、生半可な主張では世界に無視されるのがオチです。更に言うなら、上手くいったとしても効果時間は極わずかで、あっという間に元の概念へと回帰します」

「……それじゃあんまり意味ないかな」

「いや、今の目的はお前の性別変更じゃないからな」


 ただ一瞬だけ世界を騙すスキルって事か。その言葉からだけでも、それが如何に反則気味なものか分かる。

 一瞬だけでもあらゆる概念を思うままに書き換えられるなら、有用性は計り知れない。極論を言うなら、ダンマスだろうが皇龍だろうが……それこそ唯一の悪意ですら滅し得る可能性を秘めているという事なのだから。


「一度見てみたほうが早いですね」

「あたしが手本見せるの?」

「いや、とりあえずは僕がやるよ。セラにもあとでお願いすると思うけど」

「分かった」


 臨時講師の時も四神練武の時も、それを使っていたのはセラフィーナだったのだが、この様子だとディルクも使えるようだ。だが、どうも戦闘で実演するという雰囲気ではない。


「ではこれを……」

「……りんご?」


 ディルクがどこからともなく取り出したのはリンゴだ。

 これがトマトだったら動き出すかもしれないと警戒するところだが、迷宮都市のスーパーならどこでも買えそうな普通のりんごである。それを掌に載せて、前方へと突き出した。


「常識的な話として、僕が手を離したらこのリンゴはどうなると思いますか? 前提として、この船は僕らの足元に向けて引力が発生していて、離したあとは物理的、魔術的に手を加えないものとします」

「そりゃ、地面に落ちるだろ」

「そうです。落ちます」


 手から離れたリンゴは極当たり前に訓練場の地面へと落ちた。ディルクはそのリンゴを拾い、地面の砂を払う。

 魔術やスキルで手を加えるなら浮かせたり爆発させたりもできるだろうが、何もしないならニュートンさんの天下だ。


「では次に、同じようにリンゴから手を離しますが、今度はスキルを使って概念を書き換えます。何か起こるか"感じて下さい"」


 見るではなく感じる。それは、視覚的な現象以上の要素が発生するという意味している。


「《 我は迷宮の始祖の一であり、世界の理を変革する権利を持つ者であるとここに宣言する 》」


――Action Skill《 この林檎は決して落ちない林檎である 》――


 ディルクの手から離れたリンゴが空中に浮かび、制止。しかし、その状態は一秒も経たず地面に落ちた。

 その現象自体はいい。奇妙ではあるが、そうすると宣言した上で起きたのだから。それだけなら再現可能な手段はいくらでもあるだろう。

 しかし、その事実以上に奇妙な違和感を感じていた。


「なんだ、これは……」


 俺は今、何を考えた? ……あの一瞬、リンゴは"落ちないのが当たり前"だと考えなかったか?

 ユキを見ると、同じように呆然としている。言わなくても分かる。こいつが感じているのも俺と同じものだ。


「これが現状提供できる最大の悪足掻き。今のところダンジョンマスターも行使できない僕とセラの切り札。理論上"上限や不可能が存在しない"、世界を書き換えるスキル。一体どんな概念を以て創り上げたのか推察すら困難な、形があってないもの。汎用的なスキル名すら存在せず、すべてがユニークスキルとなる異色のスキルです」


 こいつがやったのは、引力を無視してリンゴを浮かせたとかそういう単純な事じゃない。


「といっても、ツリースキルとして分類上の名前はちゃんと存在するようで、僕のギフトでスキルを《 看破 》する事で、辛うじて読み取れました。それも、スキル一覧には表示されない名前ではありますが……」


 このリンゴは落ちないリンゴだ、という概念で世界を侵食した。

 それを見ている者を含めて、文字通り常識を改変した。ディルクは、世界にそれが正しいカタチだと信じさせたのだ。




「その名を《 宣誓真言 》といいます」




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