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 これは一体誰のせいであろうか、布団の上の彼の頭には、突きつけられた状態の拳銃がくっついていた。


 そのせいで寝返りも打てず、早朝に目を覚ました。違和感を感じながらも、三十分経ってようやく鏡の前へ立った怠惰で愚鈍な彼は、右目から頭に沿って上がっていった、頭頂部のところにあるその物体をまだ見間違いだと信じていた。こんなに弱々しい、曇りの日の出の光だけだから、ちゃんと見えていないのだと、電球をつけたが、その光は年頃の少年が妄想するような形、彼が昔漫画か何かで読んだような形そのままの拳銃の黒光りを目立たせただけだった。

 彼はその脅迫と切迫の権化に、驚き恐れた。いつそれが放たれるものか、分かったものではなかった。それはずいぶん先になるかもしれないし、もうすぐかもしれない。

 拳銃という存在は彼の今までの人生の中で一番危険で劇的な物体であった。誰にとってもそうかもしれないが、無気力に生きてきた彼の人生の中に突然、川の流れがいきなりせき止められるように出てきたため、余計に衝撃的だった。

 髪をかき分け、突きつけられた銃の根元をみると、銃口と頭とが、まるでずっと前からの形だというように、見事に接着している。彼は何とかそれを取ろうと、ペンチや包丁などあらゆる道具を持ってきたものの、傷一つつかなかった。どれだけ力いっぱい引っ張ることも徒労に終わった。

 休日の昨日はいつものように布団から出る気が起きず、何も食べずに過ごしたため、混乱と空腹に打たれてふらふらとまたベッドに倒れこんだ。



 彼は自分の行く末のことを考えながら、布団の上で、昨日寝る前に火をつけた、壁際の香り付きキャンドルの弱々しい火を眺めていた。

 実家から、仕送りのついでに送られてきたものでであった。蝋の量についてはまだ消えそうにはなかったが、開いた窓から、風が吹くか、自分が風を起こしてしまうかして、いつの間にか消えてしまって、部屋が今日のような曇りの日の弱々しい日の光だけで満たされることが怖かった。もしくは、頭の拳銃も含めた、哀れな自分だけが、一切の飾り気無く、部屋に残るのが怖かったのかもしれないし、そのまま火と一緒に自分もろとも消えてしまうような気もした。

 とにかく、末期患者が散っていく桜をみるように、彼も火を見ていた。



 彼は数か月前に学校を卒業し、仕事を手にしたばかりだった。尤も、手にしたものの代わりにそこらに置いたものはいくつかあった。

 彼にとって、仕事から帰ってから寝るまでの数時間はないようなものであるらしい。何をするにしても鈍かった彼には、自分の家事労働をしなければいけないこともまた苦労の一つであった。生活を続けることだけで精一杯だった。

 しかし、時間がなく、忙しいことに関して言えば、彼は大人になるとはそういうものだと考えていた。多忙に身を任せ、人間として足りないものも隠すことで、大人になった気がした。

 どう上司に休みの連絡をしようか、事実をそのまま言えば、仕事のストレスに耐えられなくなった新人の気が違えたとしか思われないだろう。しかし、いつまで続くかわからないこの状況を、どうやって誤魔化すのかという問題を解決することは難しかった。

 彼は今までの人生でやってきたように、自分の手に負えないことを、完全に放棄した。完全に放棄といっても、自分の部屋の中で投げ捨てているだけだということは、彼も薄々勘づいていた。

 次に病院に行くことを考えたが、救急医療を受けるべき人間に当てはまるか疑ったし、行ったところでしてもらえることがあるとはあまり思えなかった。かといって病院が開いてから、頭に拳銃をつけたまま、街の中を歩いていく胆力も自分にはないことに気づいた。

 彼が考えうる最後に出来ることとして、友人に連絡を取って助けてもらうことを考え、携帯電話のふたを開けて連絡先に頼れる友を探したが、越してきたばかりの彼には、そんな者は全くいないと気づいたとき、考えは消えて、また部屋にの中に意識が戻った。

 

 右方の窓から吹く弱い風で揺れる、目の前の壁に貼り付けられたカレンダーに視線が吸い寄せられた。白い狭い部屋の、前方には紙の山が積んである机、その隣には、仕事以外に着ていく服などほとんど入っていないクローゼット、左方は短い廊下へとつながっていた。床には脱いだ服や、飲み終わったペットボトルなどが散乱していた。

今初めて、彼は、部屋がどうしようもなく散らかっていることに気付いた。



 もうすでに彼は自分の置かれた状況に対しては、嘆きもせず、怒りもしなかった。少し納得していた。確かに、自堕落であると分かっていながらも、何かに長ける自分になろうとすることもない、また、その長けていることがないという認識が自身の自信の無さに繋がっていると分かっていながらも、口先だけでしか直そうとしない自分には、ちょうどよい結末である。童話で怠け者の登場人物が最後に天罰を受けるようなものだと。それが彼の心を落ち着かせるための言い訳であるかどうかは分からない。

 ただ納得はしつつも、それでも死ぬかもしれないことを怖がった。いや、怖がったと言うよりは、立派な大人になるためにと、自分に投資されてきた金や、時間や、友情などに対して罪悪感があったのだと彼は気づいた。それぐらい、自分に全く期待せず、無関心であった。



 壁によりかかって全く動かないまま、ぼうっと、ただただ何も考えず、揺れる火と、それに照らされる壁を見ていると、だんだん視界が広くなり、その視界のすべてが火の柔らかい橙色に染まっていった。そのまま動かず火を見ていると、体さえも火に包まれ、宙に浮いて、そのまま、風に吹かれたら窓の外に飛んでいくか、ぱっと火のように消えるかしてしまいそうになった。

 この感覚は、いつか味わった事があっただろうか、いつだっただろうか、その時も今と変わらない心持だったと思う。思い出すべきものである気がしたから、もっともっと、火を見続けた。


すると、記憶の奥から、柔らかい青い風が吹いてきて、全ての感覚が空に飛んでいった。そのまま、ずっと遠くの場所に行った。彼は思い出す。




 俺はその時高校三年生だったから、多分十八才の時だ。


 放課後、川沿いの木に囲まれた公園で考え事をしていた。晴天の下の公園には、ブランコに乗る自分と、落ち葉や蝉の死骸やらを集めて燃やす老人だけだった。

 その視界で動くものは、老人と、風に吹かれて揺れる木漏れ日と木の葉、そして火だけだったから、自然と目立つ火のほうに視線が吸い寄せられた。ここから見ると、ちょうど部屋に置くキャンドルの火ぐらいの大きさだった。ぼうっとそれを見ながら、学校の課題も終わっていないのにもかかわらず、ずっと考え事をしていた。すると、


「おーい」


晴れた空に似合う高めの声が、聞こえた。

 彼女は、かなり人数の多い俺の学校の中でも、少し名の知れた奴だった。同じクラスで会話することもたびたびあったが、いつからかだんだん学校に来なくなり、一年が終わるころには全くだった。

 大学生とつるんでいたとかいう真偽に疑いのあるうわさ話を聞いたときも多々あったが、そういう人もいるかと思って、記憶からはだんだん薄れていっていた。

 しかし、心地よい良い声だったから、そのことについてすぐに思い出された。


「何してんの?」


 その声で俺に話しかける。


「なんだっていいでしょう。そっちこそ学校来ないで何やってんだよ。」


久しぶりに話す小恥ずかしさから、そう言ってしまったが、顔を見ると、少し、切ない目をしたように見えたから、余計なことを言ったかと思ったが、表情はすぐに戻って、


「うるさいよ。」


と返答が来た。それでもまだ、何か事情があったのなら申し訳ないと思ったから、贖罪とあうるつもりで正直に言った。


「将来、俺はどうなんのかなと思って」


「どうなんのかって、」


 少し眉をひそめる。そのまま、


「自分で決めたらいいじゃん。なんでそんな言い方するの。」


と多少不満な様子で続けて言った。


 それに対して俺は、なぜ自分が無気力で、受け身なのかというという理由、というより言い訳を述べる。今まで言い訳する相手などいなかったから、その代わりとするようにつらつらと語った。


「でも、俺は本当になるようになればいいんだ。決められた未来があるなら、それに沿って生きれば、それなりに幸せでいられると思うんだ。俺の親父の生活を毎日見続けてみればわかるさ。朝起きては夜帰ってくるの繰り返し、それでいて程々楽しそうな生活を見続けていたら、なんとなく、いまさら何をしようとしたところで、息子である自分もおおよそこうなるのだろうと思うようになる。そういう運命みたいなものを変えるほどの特技や才能があるわけでもない。小さい頃から何か特技を身につけるために特訓でもしてれば良かったと思うが、やったとしても何も上手くいかないとも思うんだ。実際いくつも挫折した。だからもうなるようにしかならないんだよ。決して仕事はまったく苦労しなくていいって言いたいわけじゃない。いつか苦労する時期が来たら、そのときに頑張ればいい。なのに、何かを無理矢理選ばされるような感じがするから、嫌なんだ。その時が来たら、それに対して何かをするだけなんだ。そうじゃなきゃ俺にはもっと悪い未来が来るんだ。」


 俺は、火を見ながら、一人で感じていたこと、考えていたことをつらつらと言った。


 彼女は黙って聞いていた。さっきとは打って変わって、今まで見たことのないような、冷静で穏やかな口調で、間を空けてから、口を開いた。


「そっか。私は、もしかしたら明日は来ないかもしれないのに、待つのはできない。」


 俺はぎょっとして、気遣いも忘れて直接言ってしまった。

「お前、病気かなんかなのか?」


「ふ、そんなんじゃないけど、誰だって明日、目が覚めないかもしれないよ」

 

 表情を切り替えて、半分冗談、半分本気のような口調で、彼女はそう言った。


「それはそうだけど、なんでここに来たんだ?」


「練習できる場所を探して散歩。家じゃうるさいからね」


 確かに、トレーナーとジーンズだけで、誰かと会うために着飾る様子はなかった。それでも、肩までは伸びていない髪は風に吹かれてさらさらと揺れ、とびきりの美人ではないが整った顔立ちで、綺麗な佇まいだった。背景も相まり、彼女の印象はしなやかな楓と重なった。


「だけど、なんの練習だ?」


 すると、彼女は、立ち上がり、優しく目をつぶって、歌い出す。音程の高いところも低いところも自由自在な、そのそよかぜのような声は、風に揺れて鳴る葉の音と重なったまま、俺の前から後ろへ流れて行く。火もゆらゆらと揺れていた。もう少し強く風が吹けば、かき消されてしまいそうな淡い声だったが、そうなったとしても、美しく感じただろう。そんな歌声だった。

 

 一方で、よく知っているその歌は俺の記憶の中でもう思い出すべきではないとしたものだった。そのことについていろいろ考えていると、彼女が歌うのを止めて、話を始めた。


「というわけで、歌の練習をできるところを探してたの。私、中学まで合唱やってて、大会では結構いいところまで行ったんだけど、高校でやめちゃってね。練習しないとすぐ下手になるから。そうしたら無理に遠征とかいかせてもらったのに悪い気がして。あの時、なにが良くなかったのかって今でも考えるんだけどね。」


 あと何が足りないかというのは、他人が聞けば明白だった。声は響いてはいたが、合唱での迫力には今一つ力が足りないだろう。なにせ今すぐにでも、消えそうなのだ。

 俺は、現状維持するだけでは、これから賞状やなど遠くなっていくだけではないかと余計な心配をしていた。夢が遠ざかるというのは、苦しく、決して不幸ではなかった人間の性格や人生をも変えてしまうものだと、身を持って感じていたからだ。

 思えば、あのときから少しずつ歯車がずれていったのだ。わざわざ今まで誰にも話すことなどなかったことだが、口にした。


「実は俺も、小学生の頃は合唱なんかをやってたんだ。たしか俺が最後に出た大会で,、その中でその歌も歌ったんだ。」


意を決してそう言うと、彼女は、ほう、といった関心はありそうな顔つきで、嫌そうには見えなかったため、そのまま自分のことについて話し続けた。


「たまたま地元の合唱団が強くて、確か小学四、五年生で入ったばっかりの頃、子供ながらに劣等感を感じたのを今でも覚えてるよ。そこの人たちと同じ練習についていけるように一生懸命やったんだ。そうして大概の人間よりは上手くなった。かなり大きな大会にも出た。でも俺は、一生懸命やる以外のことを知らなかっただけでね、休むことなく練習してたら、具合が悪くなった。他の人間に追い抜かされたらどうしようかと不安だったが、また間を空けて、体調はもとに戻った。そうして取り返すように練習を始めたら、次は喉を悪くした。半年は治らなかった。そこで俺は、絶望というものを知ってしまった。最後の大会には出られなくなった。最後に俺は諦めることを覚えてしまった。完全にやる気はなくなった。それは何もかもに対してだ。中学校に入って初めの数ヶ月も、なんにも手がつかなかった。もちろん部活なんかも入らない。そうして、何にも追いつけなくなって、ずれて、ずれてここまで来てしまった。多分、合唱じゃなくて何をやっても同じことになっただろうね。そうしたら、俺にとっては何もしないことが一番良くなるんだ。」 


 それが俺の人生の全てであった。俺は、動けば動くほどぬかるみにはまるような気がしていいた。そして本当は、いつか全てやり直せる時をずっと待っていた。だが誤算だったのは、人生というものは地続きだったことだ。幼い頃の失敗から、無気力の波に左右され続け、自分の理想に追いつくことは叶わなくなっていた。

 そんな俺の悲嘆は、公園の緩やかな風に流されていった。日は少し傾いている。肌寒くなってきた。


「それは辛いなあ。」消えそうな火をちらちら見ながら聞いていた彼女も、どう返せばいいのかわからないのだろうか、そう返事した。


「俺は、それで折れてから、全く歌ってこなかった。だから今更下手になるものもないけど、お前は練習してどうすることが目標なんだ?」

 

彼女は、にこやかに、少し切ない表情で、意外な答えを言った。


「いつか、またみんなで歌えたらいいなあ」


俺が形あるものだけを求めてきたのに対して、その夢はハードルの低いのにも関わらず、叶うか分からない言い方である。


「そんなんで良いのか?

 なんにも、なんなくても良いのか?」


 思わずそう言った。


「なんにもなんない訳じゃない。結果なんかなくたって、楽しく感じられたって思えたなら、いいんだ。」


 そう言う彼女に賛同するように、葉はさわさわと揺れながら地平線に近づいてきた日のひかりを纏い、彼女の肌も柔らかくそれを反射して、輪郭をぼやかした。


「みんなっていっても、今は2人しかいないけどね。」


彼女はこっちを向いてそう言った。


「俺もやるのか?音程さえまともにとれる気がしないぞ?」


と、一度は言ったが、


「いや、だけど、今から少しずつ練習すれば、またある程度できるようになるかもな。先にはなると思うが。」


と、続けて言った。


彼女はにこりと笑いつつも、少し沈黙し、無言の時間のあとに、


「じゃあ、約束!いつか、歌を歌えるように練習しておくこと。今すぐにじゃなくてもいい。少しずつ。」


彼女はそう言い始め、不自然に元気になって立ち上がり、うろうろと木の葉や木の枝を集め始めた。

 消えそうな火に、それを入れていった。ひとひら、木から落ちる楓の葉がその中に入って燃えた。


「そして、いつ死んでもいいように、暮らすこと。」


彼女は続けて言いながら、火にぽんぽんと木の枝やらを入れていったが、入れ過ぎで酸素の通り道が無くなり、火は消えてしまった。少し肌寒い感じが際立った。


「いい?」


火が消えたのを気にしない様子で彼女は言う。


「うん。」


俺は返事をした。


「じゃあね。」


「じゃあね。」


別れはあっけなく、彼女は公園から出ていった。俺は、少しさみしいような気がして、走って追いかけて、公園を出、自分の帰る方向とは反対に行く彼女を見送る。

 彼女の行く方向では、ちょうど夕日が沈むところであった。太陽を中心に、空には放射状に光が放たれていて、全てが赤や橙色に染まっていた。彼女も、大きな赤い光に照らされて、ぼうっと、音を立てて燃え尽きてしまいそうだった。

 そうして、彼女が見えなくなっても、夕日が落ちきるまで、ずっとその景色を見ていた。


それ以来、彼女と会うことはなかった。噂も、全く聞かなくなった。これから彼女に会うことがあるかどうかも、わからない。たしかに残ったものは、記憶と、人間の弱さの自覚と、心に突きつけられた約束であった。


俺は、そのことを、もはや果たす相手のいない約束であり、自分以外の誰からも責められることのない最も大事な約束を、記憶と重なる毎日の奥に隠してしまっていた。

忘れてしまったのではない、だから、これから、人間の生活の繰り返しの中で、くだらないことで、自分で投げ捨てたもので、心の一番中心にあることを隠してしまわないようにしなくては......そうだ、今から......


ガシャン。


 その瞬間、火があたり一面に広がり。暗い部屋は赤く染まった。積みあがった紙の山から風で吹かれてきて、飛んできたものに、火が移ったのだ。その火は一瞬にして部屋のあらゆる散らばったものに移っていった。どんどん火は壁や床を這い、灰色で、空気が淀むようだった内側を、燃やしていく。彼は、頭の銃をぶつけないように気を付けながら、急いで走った。


 玄関から飛び出すと、黄金色の朝明けが広く、視界の淵まで広がっていった。道路に出て、もう大丈夫だというところに来て、振り返った。

アパートは空を背景にして天高く火を立ち上げていく。日の光よりずっと、その燃える火は、明るかった。雲はすべて火に溶かされて消えたような空だった。

 アパートのほかの住民も次々に出てきており、あたりは騒がしくなっていった。彼が向く方向とは逆に、沢山の人が走っていったが、彼は立ち止まったまま、ずっと燃える火を見ていた。

 走っていく人のうちの一人が、立ち止まる彼のことを気にして、彼の視線の先のほうへ振り返った。


その火はまだ全く、消えそうには無かった。








 




 













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