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「旦那さま、今日もいいお天気ですね」
「今年も何とか桜子と桜の花見に行く約束が守れてうれしいよ」
奥山もさすがに寄る年波には勝てず、足腰もかなり弱くなってきて、桜子が押す車椅子に乗っている。
本当は杖をついて歩いていくと言って聞かなかったのだが、膝の具合も思わしくなく、万一途中で倒れでもしたら奥山の少し太めの巨体を桜子が支えることなど到底できそうもない。
「あれからもう何年だ?」
「旦那さまが戦死されたのが26歳の時ですから、もう80年になりますか」
「早いものだな」
「本当に、日本全国いろいろなところへ行きましたね」
「義烈空挺隊の遺族の人のところへ行って、話しを聞くのは正直本当につらかった。隊長の奥山ですと名乗ることもできず、奥山の弟で養子に行ったので、兄とは名字が違うのですと説明しなければならなかった。機体のエンジントラブルで戻ってきた、義烈空挺隊の生き残りの連中は『さすがは兄弟ですね。目元がそっくりです』と言われても、本人ですと種明かしをするわけにもいかず、桜子も義烈空挺隊のお手伝いに来ていた、桜子さんによく似ていますねと言われて、冷や汗をかいたな」
「本当になつかしい方々もいっぱいお会いできたのに、言えないことだらけでしたね」
「諏訪部の実家に行ったときもつらかった。出撃のときの様子など口まで出かかっていたが、本人同士しか知らないことばかりだから言うに言えなかった」
「私もあの九七式の中での諏訪部隊長の今わの際、最期まで美しくたくましくご立派なお姿をお伝えしたかったです」
奥山と桜子は80年前の年月がつい昨日のことのように、なつかしく新鮮に思い出すことができた。
「楽しかったな、桜子はまるで女学生のように若々しくて、輝いていた」
「旦那さまだってあの頃は笑顔がすてきな紅顔の美青年でした」
「桜子、お前眼が悪いと言われたことはないか?」
「私にとっては旦那さまは永遠の二枚目です。そりゃあ、少しはお年を召して、髪も白くなったり薄くなったりしたところはありますが」
ぽつりぽつりと桜の花が咲いている。川辺の桜のためか、少し肌寒くて、満開というのにはまだ少し時間がかかりそうだ。
「桜子に謝らなければならないことがある」
「何でしょう」
「〝奥山〟だったら軍人恩給もあったし、少しはお金の不自由もかけずにすんだのだが、〝山岡〟では何ももらえるものがなくて、本当に苦労ばかりかけてしまった」
「旦那さま、私は旦那さまが生きてくださって、こんなに長く私と共にいっしょにいてくれただけで、本当に本当に幸せでした。旦那さまの幸せそうな笑顔を毎日見られたことが私の幸せでした。
カレーライス作ったらうれしそうに食べてくださって、お弁当の卵焼きも喜んでくださって。桜子は旦那さまと一緒にいられることがどんなに幸せだったことか」
「桜子」
「旦那さま」
「いつも思っていた。本当は桜子は桜子の生きていた時代に帰してやって、桜子のやりたいことや仕事を思う存分やらせてやった方がいいのではないかと。俺のために桜子の才能を縛り付けて、この時代に閉じ込めておくのは俺のわがままにすぎないのではないかと」
「旦那さま、本当は出逢うはずのない二人が何十年という時を越えてめぐり逢って、私の想いをしっかりと旦那さまが受け止めてくれたから、あの戦争で二人の絆が切れることがなかったから、こうして今もずっと一緒にいられるのですよね」
「桜子があの日、命懸けで俺を守ってくれたから、俺は今日まで生きることができた。人としての幸せを実感することができた。もう思い残すことはない」
「いやです。まだずっとずっといっしょにいたいです。私は旦那さまに会うために生まれてきました。これからも一日でも長く旦那さまといっしょにいます」
「桜子は『時の旅人』だから本当は俺の寿命も知っているんだろ?」
「知ることはできますが、私の生命は旦那さまと共にありますから、旦那さまが死ぬときは私もいっしょに死にます。だから死なないで。一日一日大切にその日まで生きていきましょう」
「桜子、俺はもうガマンができない」
「えっ! おトイレですか? この近くにトイレはあったかしら」
きょろきょろと、桜子は周りを見わたしている。
「違う! トイレじゃない」
奥山は車イスから立とうとする。
「あっ、旦那さま待って下さい。あぶないです。今、車イスのストッパーをかけますから」
あわてて桜子が車イスのストッパーをかける。間髪を入れずに奥山がすくっと立ち上がると、桜子を強く抱きしめた。
「旦那さま? どうしたのですか? どこか痛いところはありますか? 昨日お酒飲み過ぎたんでしょうか」
「桜子、いつも本当にありがとう。これからも俺は桜子といっしょに生きていく。一年になるか、一ヵ月になるか、それとも一日かもしれない。いや一時間、一分、一秒かもしれない。だが俺には桜子しかいない。俺の生命が続く限り、お前を愛し続けていく。だからずっとずっと俺のそばにいてくれ」
「旦那さま、私の想いはいっしょです。来年もきっと桜の花見に二人で行きましょうね」
「キスしてもいいか」
「ここでですか?」
「だからガマンができないと」
「もう、いつもわがままなんだから」
「だめか?」
ちょっとふてくされ気味の奥山の横顔を見つめて、桜子はそれをかわいいと思った。
「仕方がないから許してあげます」
「桜子、愛している」
「旦那さま、愛しています」
奥山は桜子をしっかり抱きしめると、その口びるに自分の口びるをかさねた。
二人の頭上には、桜のつぼみがもうすぐ咲く日を待ちかねている。
空はどこまでもどこまでも澄みわたり、青く青く輝いていた。
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