最終章

「旦那さま、朝ですよ。起きてください」

 桜子の明るい声が部屋中に響いた。枕元の眼鏡を手探りで探す。桜子がその指先の少し先の眼鏡をひょいと取って持ち主に渡した。


「はい、旦那さま」

「桜子、ありがとう」

「ごはん、よそいますね」

「うん」

「あっ、新聞です」

 そう言って、新聞を手渡す。

「ありがとう」

と、言って受け取る。

 すみれ子が桜子のかげから出てくる。

「おとうさま、おはようございます」

「すみれ子、おはよう。今日も早起きだな」

「はい、すみれ子はもうおねえさんですから」

 桜子と顔を見合わせて笑う。


「旦那さま、時間、大丈夫ですか?」

「ああ、もうこんな時間か。急がなくては」

「旦那さま、お弁当。玉子焼き入れてありますよ」

「ありがとう。桜子の玉子焼はうまいからなあ」


 バタバタと玄関に送り出す桜子。

「桜子、行ってらっしゃいのチューは?」

「すみれ子が見てますよ」

「いいじゃないか」

「もうわがままなんだから」

と、言って桜子がほっぺたに言葉とは裏腹に気持ちのこもった口付けをすると、満面の笑みを浮かべる。

「今晩はカレーですよ」

 桜子が言うと、心底幸せそうな表情に変わる。

「いってきます」

「いってらっしゃい」


 決して裕福とは言えない暮らしだが、桜子は今の暮らしに十分満足していた。親子3人それなりに食べていければそれでいい。あの何も食べる物がなかった戦時中を思うと胸が痛い。


 いつもと変わらない一日が始まろうとしている。戦争が終わり、少しずつ平凡なありふれた日常が返ってきた。戦争中の数えきれないつらかったこと、哀しかったこと、絶対に忘れてはならない。失ったものはもう取り返しがつかないが、日本は平和に向かって歩き出している。少しずつ気の遠くなるような努力が必要になるが、それもあの〝戦争〟という戦いの中でかけがえのない生命を犠牲にして戦った英霊たちのおかげである。その英霊たちに感謝を込めて、一日一日大切に生きていこうと思う。


 空はあの日と同じように青い。本当にたくさんの若者たちが「お国のために」と戦火の空に散っていった。愛する人のために、愛する家族のために。自分から特攻を志願した者、上からの命令により、自分の意志とは関係なく、特攻に行かざるをえなかった者、たくさんの夢や希望をあきらめてただ日本を守ること、それだけのために笑って行ってしまった。


 日本が植民地になることもなく、東西や南北に分断されることもなかった。沖縄は一時アメリカの統治下にあったが、日本に戻ってきた。

 今だに外国には何十年と戦い続けている国もある。日本が日本としてあること。敵国であったアメリカとも争うこともなく友好的である。〝奇跡〟だと思う。日本が今現在平和であること。戦争で亡くなった英霊たちのおかげだと思う。


 桜子の愛する義烈空挺隊はみんなさわやかな笑顔で手を振って行ってしまった。

「なぜ?」

 誰かが勝手に始めた戦争を前途有望な20代の若者が愚知ひとつこぼすことなく、まるで特攻に行くことが当たり前のように行ってしまった。

 沖縄がアメリカ軍に占領され、沖縄の人々や日本の人々をその攻撃からほんのしばらくでも反らすために自分たちの生命を投げ出して守ろうとした彼ら。いつも笑っていた。「つらい」とか「恐い」などという悲愴感を隠し、彼らは最後まで明るくてやさしくて真面目であった。

「ごめんなさい」

「ありがとうございました」

それにしても、と桜子は思う。日本の人たちは「義烈空挺隊」の存在を知らない人が多すぎる。特攻のための特攻と言われ、アメリカ軍に占領された沖縄の嘉手納飛行場と読谷飛行場を奪還するために敵飛行場に降り立ち、小銃を取って戦うというあまりに無謀な闘い。計画どおりいかないことも多かったが、彼らは勇敢だった。最後の最後まで、あきらめなかった。もっと多くの日本人に義烈空挺隊を知ってほしい。もちろん彼らが帰って来ることは決してないのだけれど。


 それからしばらくして、ある日のこと。

「おとうさま、おかあさまが泣いていたの」

 すみれ子は山岡の方へ近寄ると声をひそめて言った。

「いまかい?」

 今日は休日の昼さがり、桜子は庭の方で洗たく物を干している。泣いているようには見えない。

「ううん」

すみれ子がおかっぱ髪の小さな頭を振る。

「きのう、おふとんの中で」

「じゃあ、こわい夢でも見たんじゃないかな」

「あのね、あのね、『ななないで』『ななないで』って言ってた」

 すみれ子は母が泣いていたという姿を父に報告する自分を誇らしく思ったのか、少し自慢気に言った。

「ななないでって何のことだろう」

「わかんない」

「本当におかあさまは『ななないで』って言っていたのかい?」

「うん」

 山岡は口の中で「ななないで」の言葉を転がしてみる。

「ななないで」は山岡自身は使った覚えがないものの、どこか遠い記憶の彼方でその言葉を聞いたような気がした。山岡が少し考え込んでいると、すみれ子が

「ねえねえおとうさま」

と少し甘えた声を出した。

「このことはすみれ子とおとうさまとだけのひみつだよ。すみれ子はおかあさまにはないしょにしておくれ」

山岡は桜子ゆずりのすみれ子の愛らしい瞳を見つめていた。

「うん、わかった」

 すみれ子はこくんと小さな頭を振った。


 またある日のこと、庭の地面に石で絵を描いていたすみれ子が、ごきげんで調子はずれの声で歌を歌っている。

「まるめがねのたあいちょうさん、ふとっちょめがねのたいちょうさん」

「音痴なのは誰に似たんだ?」

 茶の間で山岡はお茶を飲みながら、桜子に言った。

「さあ誰でしょうね」

 桜子はいたずらっぽく笑っている。

「まるめがねのたいちょうさんって、何の歌だ?」

 山岡は不思議そうに頭をひねっている。

「さあ、何の歌でしょう」

 桜子はちょっと、とぼけてみせて、あわててすみれ子を呼んだ。

「すみれ子、もうすぐ暗くなるから、家の中に入りなさい」

「はあい」

 すみれ子がうれしそうに家の中に入ってくる。

「もう手も足も泥だらけじゃない」

 桜子が叱ると、

「ごめんなさい」

と、すみれ子は素直にあやまった。


 ある日の夕暮れ時、山岡が仕事から帰ると桜子は

「旦那さま、あとですみれ子と一緒に銭湯へ行ってきて下さいね」

と念を押した。いつものことであり、山岡もかわいい愛娘と銭湯に行くのも楽しい行事のひとつである。桜子は背中に古傷があるので銭湯には行かず、家族が寝静まってからお湯で身体を拭いている。山岡は桜子の背中の古傷とやらはまだ見たことがない。うら若い桜子のような年ごろでは人に見られるだけでもつらいことであろう。ましてやあの戦争で皆、心も身体も傷つき苦しんでいた。

 よく俺も生き残れたものだとつくづく山岡も思った。しかし山岡にとって何故か生々しい実感のようなものが思い出せずにいた。まるでオブラートか何かで遠くから実体のない自分自身を見ているようである。軍人として最前線に立って陣頭指揮を執っていたような気がする。

「一種の記憶喪失のようなものでしょう」

と医者は言った。

「あまりにも記憶が生々しく気持ちの中で目を逸らしていらっしゃるのでしょう」

 山岡自身も心の中に大きなブラックホールがあると思っている。その重大な記憶の中の何かに取りつかれ、逃れよう逃れようとするかのように。

 その時その瞬間、自分は何を思ったのだろう。大声で何か叫んだのか、それとも誰かの名前を呼んだのか、何かを祈ったのだろうか。「死にたくない」とでも言ったのか。一生このまま〝記憶のない状態〟の自分とつきあっていかなければならないのか。俺はあの頃、誰かを愛していたのか。戦争中、誰といっしょに戦っていたのか。友達、上司、部下、俺のそばには誰かいたのか、いっしょに笑ったり泣いたりした仲間がいたのだろうか。思い出した方がいいのか、このまま忘れてしまっていた方がいいのか、わからない。いい思い出だから思い出す、つらいいやな思い出だから思い出さない、そんなわけにはいかない。どんなに苦しくてもたぶん自分にとって大切な思い出であるはずだ。


 本当に自分が何者なのかわからないでいることのつらさ、手のひらのマメ、腕や脚の数えきれないほどのあざ、傷跡、打ち身、捻挫の跡、鍛え上げた筋肉、たぶん兵士であったと思う。

「山岡忠一」この名前にも異和感がある。「山岡」、何度も自分の中で呼んでもなじみがない。幼い頃から使っていた気がしない。なんとなくよそよそしさがある。

 それから妻。桜子は確かにかわいい。よく笑い、よく泣く。よく働く。俺なんかにはもったいないくらいである。年は俺よりかなり下らしい。「旦那さま、旦那さま」と何かにつけて俺を立ててくれている。俺は丸眼鏡をかけていて、少し太めで特に取り柄などない(と思う)。桜子ならかわいいし、もっと二枚目で金持ちでカッコイイ奴のところへ嫁に行けばいいのにと思う。そう桜子に言うと、「旦那さまがいいんです」とにっこり笑う。完全に完敗である。しかし「どこで知り合ったのか」と聞いても笑ってごまかしている。何か秘密めいている。たぶん俺が失くした記憶も桜子なら知っていることもあるはずである。知られまいとしているのは俺が知ればまずいこともあるのだろうか。それでも知りたいと思う。しかし俺が知ることで俺の前から桜子がいなくなったらと思うと、俺はあと一歩を踏み出す勇気がでない。


 そしてそれからまた数日が過ぎ、桜子が夕食の用意をしていると、一人でままごと遊びをしていたすみれ子が遊びに飽きて

「おかあさま、もうすぐおとうさまが帰ってくるからお迎えに行こう」

と言い出した。

「すみれ子、おもちゃのお片づけがまだですよ。お片づけが終わってからおとうさまのお迎えに行きますよ」

と桜子が言いきかせてもきかず、

「いいの。お片づけは帰ってからするの」

と言って、玄関でつっかけを履いている。

「待ちなさい」

桜子が声を掛けても知らんぷりで外に駆け出そうとしている。

「すみれ子、だめ。外に飛び出したらあぶないでしょ」

 あわてて桜子があとを追う。玄関から飛び出すすみれ子、家の角から猛スピードでつっ込んでくる車。咄嗟とっさに大きな黒い影が脱兎の勢いですみれ子を庇う。急ブレーキの音。「すみれ子」と叫ぶ声。


「奥山隊長!」

桜子は我を忘れて、その名前を呼んでしまう。自分の中で封印し、もう二度と呼ぶことはないと思っていた、桜子にとって、最愛の人の名前である。

 間一髪ですみれ子は車にひかれることもなく間に合った。だが奥山は頭を打ったのか、その場に倒れている。

「旦那さま、死なないで。死んじゃいや」

 桜子の悲鳴にも似た叫び声を奥山は薄れゆく記憶の中で聞いていた。


 桜子は奥山にしがみついて泣いていた。あの戦火の中、必死に生き抜いてきたのは何だったのか。もちろん義烈空挺隊全員の命を救うことはできるはずもなく、せめて奥山と諏訪部だけは助けたいと、精一杯生命がけで桜子は戦かってきた。こんなところで奥山を死なせるわけにはいかない。絶対にできない。義烈空挺隊の他の人たちの分まで奥山には生きて生きて生き抜いてほしい。それでなければ桜子があの戦火の中、奥山を助けにいった意味がないではではないか。

 桜子が奥山の両手を握りしめると、奥山も微力ながら桜子の手を握り返してきた。

「旦那さま、死なないで。私とすみれ子のために、絶対に生きて! じゃないと、絶対に許さないから」

 奥山の眼から一筋、涙がこぼれていた。


「おとうさま、ごめんなさい。おとうさま、死なないで」

 すみれ子が泣きじゃくっている。奥山はまっ暗な世界を歩いていた。どちらに向かって歩いていけばいいのかわからない。ここはあの世か、地獄はたまた極楽。もうとっくに死んだはずだった。仲間たちはすでに目的地に到着しているはずだ。今頃のこのこ行っても「奥山さん、遅いよ」と怒られるだろう。急いで行かなくては。はて、仲間とは誰のことだ? どこにいる? みんなで戦っていたような気がする。ちゃんと覚えていたはずなのに。遠い遠い昔のことのような気がする。

 今は桜子がいて、すみれ子がいて。

 遠くで桜子の声がする。

「隊長、奥山隊長」

 桜子が目に涙をいっぱい溜めて、

「死なないで」

と言っていた。あの時はすみれ子はいなかった。桜子のとなりに誰かいたな。誰だったのだろう。思い出せない。俺と桜子ともう1人。よく3人で笑っていた。ふんどしの話をしていたような気がする。

「どっちが好きだ?」

と聞いたような気がする。すわべだ。諏訪部だ。

「奥山さん、まだ来てはいけないよ。桜子ちゃんと幸せになってくれ。こっちに来るのはもう少し先でいいから。その時あれから後の話を聞かせてくれ。またいっしょに酒でも飲みながら話しがしたいなあ」

「諏訪部」

「桜子ちゃんがまた泣いている。桜子ちゃんを幸せにできるのは奥山さんしかいないのだから」

 なつかしい諏訪部が笑っている。

「奥山さん、一勝負どうだ?」

 渡部が碁盤を持って待ちかねている。毎日きびしい訓練にを上げることもなく、「隊長」「隊長」と慕ってくれた隊員たちがいる。俺の「義烈空挺隊」の隊員たち。陸軍の精鋭部隊と言われ、エリート部隊と期待され、その結果、まだ若い彼らを無駄死にさせてしまったのだろうか。もう一度やり直せるなら彼らを決してこんな死なせ方はさせない。やり直せるなら。


「奥山さん」

 諏訪部が奥山の肩をポンと叩く。

「成るように成る。成るようにしか成らなかったんだ。奥山さんのせいじゃないよ。今の日本が平和で穏やかで、もう戦争におびえることもなくて、そのお役に少しでも、ほんのひとかけらでもお役に立てたなら、俺たちが戦ってきた意味はあるんだよ。歴史の片すみだろうと、名前も残らなくても、俺たちが生きてきたというあかしは確かにあったんだよ。自己満足にすぎなくても」

「諏訪部」

「でもちょっぴりうらやましいのも事実だ。『平和な時代』というのも少し味わってみたかった。俺たちの頃は、幼い時から軍国主義の風が吹き荒れていたからな。戦争を非難すれば〝非国民〟と言われるし、女の人と一緒に歩くこともできなかったし、デート? してみたかった。奥山さんがうらやましいよ」

「諏訪部」

「奥山さんに、今度会えるのを楽しみにしているよ、じゃあな」

 諏訪部は敬礼をしかけて、途中からパーにして手を振った。

「諏訪部、あの時代はつらいことばかりだったけど、楽しかった。お前がいてくれたから俺は最後まで頑張れたんだ」

 去り行く諏訪部の後ろ姿に向かってそう言うと、諏訪部がちょっと後ろを振り返って、にやりと笑ってみせた。

「諏訪部!」

と叫んだところで、奥山は目が覚めた。病院のベッドの上であった。

「おとうさま」

 すみれ子がまだ泣きじゃくっている。桜子も目をまっ赤にして泣きはらし、鼻水と涙でぐしゃぐしゃの顔をしている。

「旦那さま」

 ずっと心配していたのであろう、青白い顔をしている。

「軽いのうしんとうですって。本当に良かった。大したことがなくて」

「夢の中で諏訪部に会ったよ。渡部にも。義烈空挺隊のみんな全員に会って来た。やっと思い出したよ。自分の名前も、何もかも」

「記憶が戻ったんですか?」

「まあ、おぼろげなところもあるがな」

「良かった」

と桜子は言いかけて、自分が奥山に全部話してないことに気づいてハッとする。

「桜子、聞きたいことがある」

「はい」

 桜子はいつかはこの日が来ると覚悟をしていた。

「でもここは病院だし、すみれ子もいるので」

「そうだな。とりあえず俺は家に帰ってもいいのかな?」

「はい、検査の結果も異常はないみたいなので、何かあったらすぐ連絡するようにということでした」

「じゃあ、帰ろう」

 すみれ子もにっこり笑って、

「帰ろう、帰ろう」

と奥山の手を引っぱった。桜子だけが、奥山にどうやって説明しよう、奥山に隠していたことをあれこれ考えていた。


 家へ帰り、すみれ子は飛びだしてもう少しで車にひかれそうになった罰として「おしりペンペン10回」を受け、また大泣きに泣いて、泣き疲れたのか、ごはんを食べるといつもより随分早く寝てしまった。


 桜子は夕ごはんの後片付けをし、奥山にお茶を淹れた。

「旦那さま、私は『おしりペンペン10回』でもいいですか?」

「ばかやろう。それですむわけないだろう」

 2人ともどこから話し始めたらいいのかわからず黙っていた。

「旦那さまはもう何もかもすっかり思い出されたのですか?」

 桜子は奥山の表情からその感情を読み取ろうとしたが、奥山が今何を考えているか、全くわからなかった。

「覚えていることもあるし、忘れていることもある。義烈空挺隊隊長として全員で沖縄へ出撃したんだよな。行く前に武器弾薬倉庫室の前で桜子にキスしたことは忘れてない」

「はい」

 桜子は少し恥ずかしそうな顔をした。奥山は桜子の表情を見て、やはり間違いではなかったと思った。

 先程の、気を失っていたときの諏訪部や渡部の存在が生々しくて、どこからどこまでが夢でどこからどこまでが現実なのか、だんだんわからなくなってきた。もしかして、全部、俺の夢にすぎなかったのかもしれない。

 今、ここにいる桜子さえ、手を伸ばせば、かすみのようにあとかたもなく消えてなくなってしまうのかもしれない。いや俺自身も。

「旦那さま?」

 奥山が手を伸ばして桜子の手を掴む。

「何が夢なのか、何が現実なのか、もうわからない。桜子の手を掴んでいないと、桜子も消えてしまいそうな気がする」

「私は消えません。ずっと旦那さまのそばにいます」


「まず、名前が変わっていたのはなぜだ」

「義烈空挺隊隊長奥山道郎は戦死しました。この世に奥山道郎は既に存在していなかったからです」

「この山岡忠一という人間は?」

「戦争で戸籍が焼失し、役所も混乱していたので、私が役所に届け出た戸籍です。奥山をひっくり返して〝山奥〟じゃあ、あんまりなので、〝山岡〟でいいかと」

「うん、では忠一は?」

「もし旦那さまの記憶が戻らなかったとしても、私が旦那さまとその人と2人、生命をかけて救けようとして救けられなかった人、私と旦那さまと絶対忘れてはいけない人の名前です」

「諏訪部だな」

「はい」

 桜子はそう言うと、泣きくずれた。

「諏訪部隊長は本当に旦那さまのことが大好きだったんですよね。最後の最後まで、生命尽きるまで旦那さまのことを気にしていらっしゃいました。『奥山、力いっぱい生きてくれ、桜子ちゃんを頼む』と」

「そうか」

 奥山は諏訪部のことを思うと胸が熱くなった。

 奥山を出撃させまいと武器弾薬倉庫室に閉じこめたのも、奥山を死なせたくない一心であったに違いない。

「諏訪部は桜子のことも大好きだったと思うよ。だけど俺に遠慮して自分の気持ちを押さえていたんだ。桜子のこともよく見てたし、俺に対しても『桜子ちゃんにやさしくしてやってくれ』と言っていた」

「本当におやさしい頭のいい方でした。あの暗い戦争中、旦那さまと諏訪部隊長といっしょに過ごした時間はかけがえのない大切な時間でした」

「そうだな」

 奥山も親友であり、恋敵であり、同じ隊長という苦境を乗り越えてきた仲間である諏訪部をなつかしく思い出していた。

「そう言えば、いつか百人一首のかるた取りをしてたことがあっただろ。俺は渡部と碁をしてたから気付かなかったけど、諏訪部が後で教えてくれたよ。桜子が『奥山に 紅葉ふみわけ鳴く鹿の こゑ聞くときぞ 秋は悲しき』の札を取って胸に抱きしめていたと。本当に今思えば俺よりもいつも諏訪部は桜子を見ていたんだな。俺のために桜子に何も言えなかったんだ。俺なんかのために」

「諏訪部隊長はちゃんと見ていたんですね」

 桜子が言った。

「諏訪部のことは明日の朝になっても語りつくせないから今日はもうこの辺でやめておこう。続きを頼む」

 奥山は桜子の肩を軽く抱いて励ました。

「と言っても何から聞けばいいのか、むしろ何もかもわからないと言えばいいのか」

「そうですね。私もどこから説明すればいいのかわかりません」


「私は旦那さまが出撃のとき、諏訪部隊長とにっこり笑って握手していた姿を一生忘れません」

 桜子は涙を流しながら言った。

「お2人とも胸の中ではどんなにおつらかったか。でもみじんもそんな気配も見せずにさわやかに手を振って出撃されました。絶対帰ってこられない死出の旅だとわかっているのに。しかもあろうことか、カメラマンの方に注文されると『千両役者はつらいなあ」なんて、旦那さまが千両役者のわけないじゃないですか! 太ってるし、顔もハンサムじゃないし」

「すまん」

 奥山は素直に謝った。

「私にとっては、世界一やさしくてカッコイイ旦那さまですけど」

 桜子が自分で言って照れていた。

「桜子」

 今度は奥山が照れくさそうに笑った。


「幸せそうな顔してうれしそうに今から出撃に行くなんて、あれは反則です。あとに残される者は一生忘れられないじゃないですか。奥山道郎という男の存在を私の心にしっかり刻みつけていくなんて」

 桜子はしゃくり上げながらまた泣き始めた。


「最後の通信『オクオクオクツイタツイタツイタ』かっこつけないで下さい。私がどんな想いでそれを聞いたか。胸が張り裂けそうだったのに」

「悪かったな。最後くらいかっこつけさせてくれよ」

 奥山が少しふてくされてみせた。


「で、結局『義烈空挺隊』はどうなったんだ」

 奥山は先を促した。

「義烈空挺隊は全滅しました」

「そうか、全滅したか。残念だ」

 奥山はがっくりと肩を落とした。

「昭和二〇年五月二四日、義烈空挺隊一三六名、熊本の『健軍飛行場』から九七式重爆撃機一二機で出撃しました。途中エンジントラブルで四機が引き返し、残り六機が読谷飛行場へ、二機が嘉手納飛行場に突入しました。読谷飛行場では六機のうち五機が激しい対空砲火によって撃墜されました。残る一機が、滑走路に胴体着陸。パイロットの方は着陸と同時に戦死されたそうですが、最後まで操縦桿を離さなかったそうです」

 奥山は黙って聞いていた。桜子はそのまま続けた。

「強行着陸した搭乗員一四名のうち、空挺隊員は一二名、敵兵に応戦しつつ、敵航空機三三機破壊損壊、米兵二〇名死傷、さらに航空燃料用七万ガロンを炎上、さらに八時間に渡って飛行場を完全に機能停止に陥らせました」

 そこまで言うと、桜子は口を閉じた。


 奥山は「無念だ。残念だ」をくり返し、泣きながら自分のこぶしで太ももを何度も叩いていた。桜子も泣きながら、

「ご自分を責めるのはもうやめて下さい。旦那さまはご自分のできることを精一杯なさったのですから。誰も悪くない、みんなあの食料難、物資不足の中、苦しくてもきびしい訓練に泣き言ひとつ言わず、頑張ってきたんです。旦那さまが一番よく知っていらっしゃるじゃないですか。いつもどんなにつらくてもさわやかに笑っていた彼らを否定するようなことだけはやめてください。むしろ褒めてあげてください」

「うん、よくやった。頑張った。一人ずつ抱きしめてやりたい。俺は、俺は何もできなかった。えらそうに会議、会議と言いながら、沖縄の土を踏むことさえできずに」

「それはあんなオンボロの飛行機で行ったからです。自隊に整備員を持っていなかったことも敗因のひとつです」

 ぴしゃりと桜子は言った。

「せめて飛行機だけでもまともだったら、義烈空挺隊は他の誰にも引けを取らない陸軍の精鋭部隊でした」

「桜子がこんな鬼軍曹とわかっていたら俺の代わりに司令部の作戦会議に出席させたのに」

「旦那さま、茶化さないで下さい」

 桜子は言った。

「義烈空挺隊が突撃し、嘉手納そして読谷飛行場方面で火の手が上がるのを目撃していた陸軍第三二軍の高級参謀であった八原博通大佐の言葉ですが、『軍の防御戦闘には痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北、中飛行場ではなく、小禄飛行場に降下し、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである』と言われています。


 また、桜子は言った。

「沖縄で、沖縄戦の体験を語る会で、死を覚悟した学徒看護隊や多数の民間人が義烈空挺隊の義号作戦で生じたすきを突いて、首里から脱出できたと語られたそうです。義烈空挺隊は決して無駄死になんかじゃない。沖縄の人々をちゃんと自分たちの命を懸けて守ったんです。最後まで勇敢でたくましくて、優しい私の大好きな義烈空挺隊でした。

 日本は戦争に敗けました。戦争で本当にたくさんの人たちが犠牲になりました。でも日本の国が分断されることもなく、人種差別に合うこともなく、世界の他の国々と対等に渡り合って生きてます。本当に奇跡だと思います。でも自分たちの生命を懸けて一所懸命に戦ってくれた英霊たちのことは決して忘れてはいけないと思うのです。本当に日本を守ってくれてありがとうございました。お疲れさまでした」

「うん、うん」

 奥山は子供のように止めどなく流れる涙を拭っていた。


「それにしてもあの燃えさかる九七の中で俺は桜子の幻を見ていた。いつ爆発するかわからない九七の中、桜子は戦いの女神さまのように神々しかった」

 奥山ははるか彼方の夢の話しをしているようである。


「じゃあ、俺は何故、生きているんだ?」

 あのすさまじい戦火の中、地上からの猛烈な対空砲火を浴び、一機また一機と沖縄の読谷飛行場に墜落し、爆破されたことが今まさにまざまざと思い出される。あちらこちらで火の手が上がり目もくらむような閃光が幾重にも右に左に貫く。あの地獄絵を何故失念してしまっていたのか。


「桜子、俺はあの時死んでいたのではなかったのか」

 桜子は苦しそうに遠くの方を見つめている。

「俺は幽霊なのか、生き霊とでも言うべきなのか」


「旦那さま、お話があります。これからする話は信じられないと思いますが、本当の話です」

「うん」

 ごくりと奥山がつばを飲み込んだ。

「コーヒーでも淹れましょうか」

 桜子が立ち上がった。しばらくしてマグカップにコーヒーをなみなみと淹れて戻ってくる。奥山が一口飲んで、

「おいしい。桜子の淹れてくれるコーヒーが一番美味しい」

と言った。

「諏訪部隊長にも飲んでいただきたかった。義烈空挺隊のみなさんにも飲んでいただきたかった」

「そうだな。お茶といっても薄い、ただ色がついているだけの味もないやつだったな」

「カレーライスでもハンバーグでも焼肉でもラーメンでも何でも食べてもらいたかった」

「そりゃあ、あの時代何もないから無理だろ」

「毎日白いごはんを食べているだけで『愚劣食放題』だなんて、全然ぜいたくなんてしていないのに」

 また涙があふれそうになるのを桜子はぐっとこらえる。

「私ならできたんです」

「どういう意味だ?」

「お芋ふかして持っていったこと覚えていますか?」

「もちろん、おいしかった」

「ぜんざい持っていったことは?」

「あれもおいしかった。諏訪部ともちや砂糖や小豆はどこから持ってきたのだろうと不思議に思っていた」


 桜子はぐっとコーヒーを飲むと意を決したかのように言った。

「私はあの時代の人間ではありませんでした」

「うん? どういう意味だ」

「この時代の人間でもありません。ずっとずっとはるか彼方から時を越えて来たのです」

 奥山があわてて桜子の手を掴んだ。

「桜子、まぼろしだなんて言わないでくれ。俺の前からいなくならないでくれ。諏訪部や渡部や義烈空挺隊のみんなが俺の目の前からいなくなって、今また桜子までいなくなったら、俺はたぶんもう生きていけない。桜子がいてすみれ子がいて、毎日のほんのささやかな幸せが俺にとってどんなにかけがえのない大切な日々か改めて実感しているところだ。桜子、好きだ、大好きだ。義烈空挺隊のあの時代、毎日〝死〟を目の前にして自分らしく冷静さを保っていられたのは桜子がいつもそばにいてくれたおかげだ」

 奥山は掴んだ桜子の手を強く握りしめた。

「旦那さま」

 桜子は奥山の気持ちが痛いほどわかった。でも話し始めた以上、最後まで話すと決めたので、やめるわけにはいかなかった。

「信じてもらえないと思いますが、私は時間を旅する『時の旅人』です。でしたと言うべきなのかもしれません。もっと未来から過去の時間のゆがみとかひずみを直すために時の流れを旅していました」

 奥山はうーんと唸っている。

「時間のき裂が大きくなると、ふつうの人が時間の穴に吸い込まれたり、他の時間帯に飛ばされて、二度と元の場所に帰れなくなってしまうこともあります」

「よく人が行方不明になったり、飛行機が跡形もなく消えたという話があるな」

「全部とは言えませんが、かなりの確率で起こり得ることですね」

「桜子はそんな仕事をしていたのか」

「戦争の影響で時間のゆがみやき裂がたくさん出ていました」

「それはそのままにしておいてはいけないのか?」

「もしそれを悪用する人が出てくると、社会のしくみが目茶苦茶になってしまう。例えば、宝くじやギャンブル。悪い人が一日前に行って、当たりくじや当たり馬券を買って戻ってくれば、大金を手にすることができる」

「聞けば聞くほどすごい話だ。それで俺はどこで出てくるんだ」

 桜子はにっこり笑って、

「今からです」

と言った。

「いつもなら〝時間〟のほつれを繕うとか、上下左右に縮んだリ伸びたりした〝時間〟をアイロンのようなものをかけてぴんと伸ばすとか、そんな作業ばかりなのですが、『特命』が出たんです」

 奥山が身をのりだす。

「『特命』とは?」

「『特命』とは『奥山道郎の生命を救けること』」

「何?」

 奥山が口をぱくぱくさせている。

「奥山道郎はあの戦争で死なすには惜しい。必ず後世に役に立つ。いやむしろ戦後の日本になくてはならない存在である。ありとあらゆる手段を使って奥山道郎を救け出す。多少のリスクは目をつぶる」

「リスクって何だ?」

「ふつうはのちの時代の機械とか食料とか、発明された物を昔の時代に持っていくと、時間の流れが変わってしまうから禁止なんですが、それを考慮しても奥山道郎の生命だけは絶対に救けること」

「それを桜子が命令されたのか?」

「はい」

「桜子はいくつなんだ? こんなまだ若い桜子にそんな危険な任務を命令するなんて」

「私はこう見えてもマスターなので。大学院の修士課程を修了しています。これがうまく行っていたらプロフェッサーになる予定でした」

「プロフェッサーとは」

「教授です」

 桜子はきっぱりと言った。

「話しがそれてしまいました。私の使命は、〝それ〟以前に義烈空挺隊に潜入し、義烈空挺隊のみなさんと親しくなり、油断させ、当日エンジントラブルでも何でもいいから奥山隊長機を出撃させないことでした」

「義烈空挺隊は女スパイにたぶらかされていたのか!」

「違います。それができていたら全て簡単でした。私は日本を守るために、沖縄を守るために、生命がけで戦っている義烈空挺隊のみなさんのことが大好きになってしまったんです。あの時のみなさんと交わした会話もおいももぜんざいも全部私の真心から出たものです」

「桜子、俺に対する気持ちは? あれはうそだったのか」

「そんなはずありません。うそいつわりなんかかけらもありません」

「うん、わかった、それでどうした?」

「奥山隊長を行かせないことはできるけど、そうなったら奥山隊長は絶対に私を許さないと思ったのです」

「うん、そうだな」

「方法はただひとつ。あの地獄のような戦場から奥山隊長を救けだすこと」

「そんなことが」

 奥山は次の言葉が出なかった。

「砲弾、銃弾の飛び交うなか、全ての、何もかもの時間を止めて、安全な場所に連れ出そうとしました。でもそのときにはもう旦那さまの心臓は止まっていたんです。仕方がないので少しだけ時間をさかのぼって旦那さまがまだ生きていた、元気な頃に時間を戻したのです」


「知らなかった、いや、信じられない」

 奥山は言葉を失った。今まで信じていたもの、確固たるものとして存在していたはずのものががらがらと音をたてて崩れていくような気がした。もちろん桜子がうそを言っているとは思えない。しばらく2人とも黙ったままだった。奥山はふと気がついて、口を開いた。

「桜子もしかして、おまえの背中の傷はそのときのものなのか?」

「はい」

「見てもいいか?」

「はい」

 桜子は静かにうなずいた。ゆっくりと奥山に背を向ける。うす紫色のブラウスのボタンを外し、静かにブラウスを下に落とす。ちらりと見ただけで奥山は胸を締めつけられそうになった。急いでブラウスを桜子の肩にかけると、そのまま桜子の背中を抱きしめていた。桜子が自分の生命を賭けて奥山の生命を救けようとしたことが充分すぎるほど理解できて、あとはもう言葉にならなかった。しばらくして奥山は涙ながらに言った。

「桜子、すまん。痛かっただろう、怖かっただろう、つらかっただろう。俺は桜子のつらさをひとつも知らないで。全然わかっていなかった。俺は桜子にあやまってもあやまってもあやまりつくせないことをしてしまった。俺が悪かった。とりかえしのつかないことをしてしまった」

「旦那さま、もうあやまらないで下さい。私が好きでしたことだから。私にとって大切な、奥山道郎の生命を救けたくて、結果、傷が残ったというだけのことですから」

「それは俺のときのように、時間をさかのぼってもとに戻すというわけにはいかなかったのか」

「はい。私はあのとき未来から過去へ飛び、過去から現在へ飛び、もう身も心もボロボロでした。旦那さまも生命に別状がないとは言え、心身ともにかなりのダメージを負っていました。それに記憶障害もどの程度かわからない。そんな旦那さまを1人置き去りにして私だけ過去に戻ることなど到底できるはずもなかったのです。これでよかったんです」

 にっこり笑う桜子が奥山にとっては、いとおしくていとおしくてたまらなかった。


 少しの間があって、桜子がまた話し始めた。

「旦那さまを支えていくつもの時間の障壁かべをくぐり抜けるとき、時間の流れは一定ではなく、時には嵐の中、さかまくどとうの波、押しつぶされそうになったり、竜巻で吹きとばされそうになりました」

「俺が太っていたからか?」

「いえ、時の流れの中は無重力ですから、大丈夫です。でも強い意志を持っていないと、時の亡霊となり、永遠に時の流れを彷徨さまよってしまいます」

「そうか、今の幸せは桜子が献身的に俺に尽してくれていたからなんだな」


「旦那さま」

 桜子は改まって正座をして畳に手をつくと、奥山に言った

「長らくお世話になりました。桜子は今日限りおいとまを頂戴いたします」

「桜子、何を言うんだ」

 奥山はあわてて言った。

「例え、有事とは言え、旦那さまに真実を隠していたこと、旦那さまの名前も人生も本当の事を言うことができなかったこと。私は何もかもぶちまけて、2人でその秘密を隠して生きていこうと何度も思いました。でもそうしたら旦那さまがどんなに傷ついてどんなに苦しむかと思うと言えませんでした。妻として失格です。離縁して下さい」

「ばかやろう」

 奥山は一言そう言うと、次の言葉が出てこなかった。

 しばらく2人とも手を取り合って泣き崩れていた。

「生命がけで俺を守ってくれてありがとう。俺はあの時死んでいたはずなのに、おまえがあそこから俺を救い出してくれたおかげでふつうの人並みの幸せな生活を送れるんだ。あの頃、口には出さなかったけれど、自分たちが死ぬのが当たり前だと、人として結婚して子供に恵まれて、そんな平凡な幸せを願うことは許されないのだとあきらめていた。死んでいった戦友たちには本当に申し訳ないけれど、彼らの分まで精一杯生きる。桜子がいて、すみれ子がいて、今の俺の幸せがある。こんな勇気のあるやさしい嫁さんはいない。きっと必ず幸せにするからいつまでも俺のそばにいてくれないか」

「旦那さま」

 桜子はそれ以上何も言えなかった。


「お願いがあります。いつか義烈空挺隊のお墓参りに行きたいのです。靖国神社にも。それから奥山家のお墓参りにも」

「うん、そうだな。桜子は言いたくても本当のことがずっと言えなかったからがまんしていたのだな」

「はい」

「じゃあ俺からもお願いがある」

「何でしょう?」

 桜子は頭をひねる。

「頑張って働くから、家に風呂を作る」

「旦那さま」

「そしたら桜子は誰にも気兼ねなくお風呂に入れる。そしたらたまには…」

 奥山は言葉を切った。

「旦那さま、今、いやらしいこと考えたでしょ」

 奥山はしどろもどろになってあわてて付け加えた。

「いやたまには俺の背中を洗ってもらえるかなと、言おうとしただけだ」

「私は旦那さまとすみれ子と3人でお風呂に入りたいです」

「えっ? いいのか」

「はい」

 奥山があせりながら照れている顔がかわいくて、桜子は笑顔で答えた。涙が止まらなかった。今までのつらい涙とうれし涙が同時に流れて、桜子の心はいっぱいになっていた。


 次の日、今日は休みなので少しのんびりしようと思った桜子だったが、奥山の悲鳴が部屋中にとどろいた。

「桜子助けてくれ」

「旦那さま、どうされたのですか?」

「すみれ子がもうおとうさまとはいっしょにあそびませんって言うんだ」

「昨日の『おしりぺんぺん10回』を根に持っているんでしょ」

「俺は『おしりぺんぺん10回』は言っただけで、叩いてないからな。大事な愛する娘に絶対に手を上げたりなんかしてない。俺は無実だからな」

「もうどっちが子供なんだか」

と桜子は一人言を言った。

「今日はお天気もいいのであとで公園でも遊びに行きましょうか」

「そうだな、久しぶりに3人で出かけるとするか」


 公園へ行く途中もすみれ子は

「もうおとうさまとは手をつなぎません」

と宣言し、奥山を困らせた。

 桜子は空を見上げる。青い空に義烈空挺隊のみんなの顔が浮かんでくる。

「ありがとうございます」

 日本の平和な空がかけがえのないものに思える。平凡な毎日が本当にいとおしく思えてくる。

「諏訪部隊長、ありがとうございます。私は今、幸せです」

 諏訪部がにっこり笑って手を振っているように見える。


 むこうで、

「すみれ子はおとうさまがきらいです」

と言い放つすみれ子の声がする。あの勝ち気な性格は旦那さまに似たのか、それとも私かしらと桜子が考えながら駆けつける。すみれ子の言葉に奥山は哀しそうな表情になる。

「おとうさまはすみれ子が大好きなんだが」

「すみれ子、いいかげんにしなさい。昨日のことはおとうさまはすみれ子が大好きだから叱ったんですよ。生命は一人にひとつずつしかないの。もし病気や事故で死んじゃったらもうもとには戻らない。おとうさまもおかあさまもその生命の大切さを誰よりも知っているのです。だからすみれ子も自分の生命は大切にしてね」

 すみれ子は桜子にまで叱られて、よくわからないながらもこれ以上敵の人数を増やすのはまずいと思ったのか、

「ごめんなさい」

と、小さな声であやまった。

「わが家は女性陣が気が強いから戦況はいつも不利だな」

と奥山。

「もう一人くらい欲しいですね。…旦那さまに似た男の子」

「桜子」

 奥山はうれしそうにうなずいた。


 うららかな昼さがり、奥山と桜子は公園のベンチに座り、すみれ子は花を摘んだりしている。これまでの駆けぬけてきた暗い戦時下のことがうそのような気がした。

「聞こうと思っていたんだが、桜子はいつか自分の時代に還らなくていいのか? そのずっと未来に」

「還りたかったら還れますけど」

「よくあるじゃないか、〝はごろも伝説〟とか〝雪女伝説〟とか」

「還りましょうか?」

「それは困る」

 奥山はあわてて手を振る。

「ずっと俺のそばにいてくれ。もう桜子のいない人生なんて考えられない」

 奥山は視線を落として足元を見ている。

「これは一生言うことはないと思っていたが…自分の気持ちを殺したまま、特攻に行くつもりだったから、桜子は俺にとって一目ボレだったんだ。はじめて桜子を見たとき、この世にこんなにかわいい人がいるのかと思った。いつも『好きだ』という気持ちを押さえていた。桜子を傷つけてしまうだけだから」

 桜子もまた遠い日のできごとを手繰たぐりよせるように、なつかしそうに話し始めた。

「旦那さまに初めてお会いしたとき、第一印象は〝クマ〟でした。大きくてメガネかけてて大声でどなられそうで恐かったです」

「〝クマ〟はひどいなあ」

「でも少しずつ少しずつ旦那さまのやさしさにふれていくうちに…」

「それから」

「いい人だなあって」

「それだけか」

「小さい頃、お気に入りのくまのぬいぐるみがあって、その子がいないと夜眠られなくて。その子に似ているんですよね、旦那さま」

「俺はくまのぬいぐるみか」

 奥山は少しがっかりした。奥山のがっかりした姿を見て桜子はかわいそうになった。

「旦那さま、ないしょ話」

 周りには誰もいないのに、桜子は奥山の耳もとに口びるを寄せる。

「旦那さま好きです。大好きです。旦那さまは私の初恋の人です」

「桜子」

 奥山はその一言で胸がいっぱいになる。桜子も奥山への想いで胸がいっぱいになる。すみれ子がそれを見ていて、今摘んだばかりの花を抱えて駆けてくる。

「すみれ子もおなかまになる」

「はい、おとうさま、はい、おかあさま」

 摘んだばかりの花をそれぞれに手渡している。


「桜子、前に言ったよな」

 奥山はふと思い出して話し始める。

「春にはお花見行って『桜がきれいですね』て言ったら俺が『桜子だってきれいだよ』って言わなければいけないんだよな」

「旦那さま!」

「夏は花火、秋はお祭り、冬は雪だるま、すみれ子と桜子といっぱい思い出を作ろう。毎日を大切に生きるんだ。あいつらの分まで」

 奥山はそう言うと空を見上げた。

「今度あいつらに会える日まで」

「はい」

 桜子も空を見上げる。そこには義烈空挺隊の隊員ひとりひとりがさわやかな笑顔で笑いかけてくる。

「今度あいつらに会ったら冷やかされるぞ、今から覚悟しておけ」

「はい」

 桜子は止めどなく流れ落ちる涙を押さえきれなかった。奥山も男泣きに涙を流していた。


 空はあの日のように限りなく青く澄みわたっていた。

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