第九章

 諏訪部は燃えさかる九七式重爆撃機の中で目を覚ました。九七は対空砲火により炎上し、いつ爆発しても不思議ではないくらい燃え盛っていた。

「もはやこれまでか」

 たくさんのうめき声が聞こえる。かろうじて首を動かす。苦悶の表情を浮かべている者、顔や頭から血を流している者、地獄の炎もこの阿鼻叫喚とそれほど変わりあるまい。諏訪部は「はっ」と気がついて、「奥山さん」と呼んだ。声を出したとたん、口から大量の血を吐いた。それにもかまわず、

「奥山さん、生きているなら、ここから脱出してくれ。生きて桜子ちゃんのもとに帰るんだ、早く!」

と言ったつもりが、もう声にならなかった。

 狭い搭乗機の中、各自、拳銃、機関銃、小銃、手榴弾と重装備で皆中腰姿勢のまま、ほとんど身動きひとつできる状態ではなかった。それでも諏訪部は後ろを振り向こうとしたが、足や手が折れているのか、武器のベルトなどで雁字がんじがらめになっていて、手を伸ばすこともできなかった。

「ここで終わりか、せめて沖縄の飛行場の土ぐらいは踏みたかった。アメリカ軍に機関銃の一発、爆弾の一発くらいはお見舞いしてやりたかった。それでも奥山さんとあの世でまた酒を酌み交わすのも悪くない」

 諏訪部がそんなことを考えていたとき、突然、近くで声がした。

「諏訪部隊長、起きてください」

 諏訪部は最初、夢かと思った。しかしその次にもうあの世とやらに到着してしまったのかと思った。

 だが目の前には目に涙をいっぱい溜めた桜子の姿があった。

「ありえない、こんなことはあるはずがない」

 桜子は何も気おくれする様子もなく、燃えさかる九七の中で悠然と立っている。

「諏訪部隊長、生きるんです」

「俺はもうダメだ。奥山さんは? 奥山さんを見てやってくれ」

「今、気を失っているようです」

「俺は君たちの足手まといにはなりたくない。生きて、俺の分も生きてくれ」

「諏訪部隊長」

「楽しかった。奥山さんと桜子ちゃんと過ごした日々はただ楽しかった。俺は、おれは」

 諏訪部は最後に一度息を止め、呼吸を整えたのか、あらんかぎりの力を込めて、

「奥山さん、力いっぱい生きてくれ、桜子ちゃんを頼む」

と絶叫すると、そのまま事切れた。


「諏訪部隊長、諏訪部隊長」

 桜子はそれが何かの呪文のように何度も何度もくり返した。せまり来る炎が桜子の近くまで来ていた。桜子ははっと我に返ると「奥山隊長」と叫んで奥山のもとにかけよった。桜子は奥山の身体中の爆弾や武器を外し、ベルトなどをゆるめた。


「奥山隊長、私にしっかりつかまっていてください」

「桜子、どうしてここに?」

 奥山は意識が朦朧としていたが、桜子の顔を見て元気が出たのか、何とか立ち上がろうとする。

「ここはどこだ!」

「九七の中です」

「桜子なぜ、おまえがここにいる!」

「詳しい状況説明は後でします。このままここにいたら爆発して2人とも木端微塵こっぱみじんになってしまいます」

 桜子に腕を取られ、少しずつ歩き始める。身体中の筋肉が痛む。骨が折れているのかもしれない。全身の皮膚の表面が火傷でちりちりと痛む。

「隊長、こちらです」

 桜子は燃えさかる火の海の中を進もうとしている。

「桜子、そっちは危険だ。いつ爆発するかわからないのだぞ」

「大丈夫です。隊長、私を信じてください。絶対に救けます」

 いつも泣きべそをかいてばかりいる桜子のどこにそんな強さがあったのか、奥山を正しい道へと迷わずに誘導する。奥山は流れ出る血と汗でもう目を開けていることもできず、桜子の成すがまま、ただ歩かされていた。歩くというより、引っぱられるだけで、足をずるずると引きずっていた。

「隊長行きますよ」

 桜子は奥山を抱きかかえようとしたが、大きめで少し太めの奥山を抱きかかえることなど、到底できず、桜子が奥山という大木にぶらさがっているような状態だったが、お互いしっかり捕まっていた。奥山は身体がふわっと浮き上がったような気がした。だが次の瞬間、強風にさらされ逆巻く嵐の中を激しく叩きつけられた。右に左に上や下に、ありとあらゆる方向から風が雨が雪が打ちつける。息ができない。苦しい。ここは夢なのか、それともあの世とやらの地獄なのか。

「そうだ、桜子、桜子はどこにいる?」

 奥山は桜子を探そうとするが、目もろくに開けていられない状態で明かりもほとんどなく、手探りで桜子を探すべく手を伸ばす。

「桜子どこだ?」

「奥山隊長…」

 桜子ははあはあと肩で息をしている。

「私は奥山隊長の生命を救けるためにここまで来ました。なにがなんでも二人で帰るんです」

「桜子」

「いっしょに帰りましょう。奥山隊長が大好きな、あの青空の見える場所へ」

「そうだ、あの場所に帰ろう」

「信じてください。絶対帰るのだと、何があっても」

「うん、わかった。桜子と一緒に帰るんだ」

「それではしっかり目をつぶってください。私がいいと言うまで決して目を開けてはいけませんよ」

「それは危ない所なのか」

「百鬼夜行、魑魅魍魎ちみもうりょう、血の池地獄、それが幻だとしても現実だとしても、恐怖心を持てば悪霊に取りつかれます。もし私が何か言ったとしても、悲鳴を上げたとしても、決して目を開けてはいけませんよ」

「わかった」

 桜子が奥山の腕を取って歩き始める。血なまぐさいにおい、物の腐ったようなにおい、たくさんの動物がひしめきあっているようなにおい。

 うめき声、呪いのような声、動物の鳴き声、轟音ごうおん騒音、地面を這いつくばる音、ぴちゃぴちゃと何かをめ回す音、あらゆる方向から音が反響し、共鳴し、正気ではいられなくなる。

 すると突然、奥山の腕を掴んでいた桜子の手が爪を立てた。「うっ」と声を押し殺し、のけぞるような様子。

「桜子大丈夫か?」

 奧山はあわてて反対側の手で桜子の手を掴んだ。

「奥山隊長、絶対に目を開けないで下さい。目を開けたら私たちはもう二度と会えなくなります」

 桜子の声があえぎ声になっている。

「もう少しの辛抱です。奥山隊長…」

「どうした、桜子。俺はどうしたらいい? どっちの方へ進めばいい? 俺にできることを言ってくれ」


 しばらく間があって桜子はゆっくりと口を開いた。

「奥山隊長」

「何だ」

「奥山隊長」

「だから何だ」

「奥山隊長、好きです。大好きです」

「桜子」

「今、断崖絶壁です。これを飛び下りたら終点です。行きます」

 桜子は奥山の腕を取って飛び下りた。いつまでもいつまでも、どこまでもどこまでも落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る