第八章

 諏訪部は迷っていた。自分が今やろうとしていることは正しいことではない。でもまちがっているとは一概には言えない。今は無理でも一ヵ月後、一年後ならわかってくれるのではないか。義烈空挺隊は「特攻のための特攻」およそ帰還する望みは1%もない。それならそれで仕方のないことだが、全員が突撃することはない。もちろんみんな覚悟はしている。でも諏訪部はどうしても死なせたくない人間が一人いる。奥山である。奥山は隊長だから行かないわけにはいかない。それでもあえて、それだからこそ、奥山を生かしたい。戦争が終われば、奥山は日本の戦後に必要不可欠な人間である。むざむざとむだ死にさせたくない。


 それにもうひとつ。奥山が死ねば、桜子がどれだけ哀しむか。桜子の涙はこれまでにも何度も見てきたが、それとこれとは話しが違う。せめて自分が残って慰さめることができればいいが、それは許されない。奥山を残すことで俺が行く。それができれば桜子と奥山が結ばれて幸せになれる。簡単な方程式である。しかし、俺の気持ちは永久に報われることはない。誰にも知られることはなく、もちろん桜子にも奥山にも知られることはない。それでも桜子が幸せなら。


 もし来世生まれ変わって、そして君に出逢えたら、その時は振られてもいいから、絶対に言うから、きっと君の目を見て、

「君が好きだ」と。

 今は何も言わないで行く臆病な俺を許してほしい。

「いいさ、片思いのまま黙ったまま行くのも男の美学かもしれない」

 諏訪部はそう決めると、人込みの中心で話しをしている奥山を「ちょっと」と言って呼び出した。

「どうした」と奥山。

「大事な話がある。地下の武器弾薬倉庫室まで来てくれ」

 それだけ言うと足早にその場を立ち去った。

 諏訪部は武器弾薬倉庫室の中でやきもきしていた。自分はまちがっているかもしれない。でもそれを言うならこの戦争自体まちがっている。戦争で戦うものは下っぱばかり。飛行機がない、爆弾がない、じゃあ特攻しろなんて無茶苦茶である。特攻に行くために生まれてきたわけじゃない。

 いつか戦争が終わり、日本が平和になったとき、それはじかにこの眼で見ることはないけれど、その時誰かが思い出してほしい。たくさんの名もなき兵士たちの想いを。死にたくて死んでいくわけではない。皆、愛する人がいて、愛する家族がいたのだということ。その愛する人たちを守るために生命を賭けて日本という国を守ったということを。平和な時代を生きて、ふつうに好きな人と結婚してあたたかい家庭を作りたかった。

「ふっ」と桜子の面影が浮かんだ。

「せめて君の面影を胸に抱いていく。それぐらいは許してくれるだろ」


 ああでもない、こうでもないと考えると、自分の心の中まで支離滅裂になりそうである。その時奥山が部屋に入ってきた。


「どうした? 何かあったか?」

「どこからどう切り出したものか」

「何があった」

「今のところ、何もない。そして今から何かあるかもしれない。奥山さん、何があっても俺の奥山さんへの友情は変わらない。これだけは信じてくれ」

「うん、いつも俺のわがままにつきあってくれて申し訳ないと思っている。諏訪部は親友だと思っている」

「じゃあ、今はわからなくてもいつか俺を許してくれるな」


 諏訪部はそう言うと、あっけにとられている奥山を残し、部屋を出た。そしてすかさず部屋の鍵をかけた。

「諏訪部どうした? 俺が出られないじゃないか」

「奥山さんは残れ。俺がもし戻れたらその時は軍法会議でも営倉送りでも好きにしてくれ」

「冗談はよせ。もうすぐ出撃じゃないか」

「誰かに聞かれたら、諏訪部が勲章欲しさに奥山さんに毒をもって出撃を遅らせたとでも言ってくれ」

「諏訪部」

「奥山さん、生きろ。いつか戦争も終わる。そのとき必要なのは奥山さんだから。石にかじりついても生きてくれ」

 諏訪部は声がふるえそうなのを必死で押さえた。

「今まで本当にありがとう」

「諏訪部!」

 諏訪部は振り返ることもなく武器弾薬倉庫室を後にした。


 諏訪部にとって奥山との厚い友情は変わらない。だからこそ、武士道とは死ぬこととみつけたりなんて誰が言ったか知らないがちゃんちゃらおかしい。選択肢はたくさんあるべきだ。


 諏訪部は桜子を探していた。桜子は諏訪部を探していた。廊下の端と端で探す相手を見つけた。思わずかけよる2人。

「諏訪部隊長」

 桜子が叫んだ。

 諏訪部は桜子の言いかけた言葉をさえぎり、

「隊長の諏訪部から桜子隊員に任務がある。大事な任務だから間違いなく勤めるように」

「はい」

 桜子はわけもわからず、諏訪部の勢いに押されて出かかった言葉を飲み込んだ。

「今から我々が出撃した3時間あとに武器弾薬倉庫室の扉を開けるように。決して途中で開けてはならない。きっかり3時間後だ。中途で開けると、爆発する恐れがある。わかったね」

 爆発するのは爆弾ではなく、奥山の怒りなのだが、今、桜子にそれを言うわけにはいかない。

「3時間経ったら武器弾薬倉庫室に行ってもいいが、それまでは武器弾薬倉庫室の半径5m以内に近よってもならない。わかったか」

「はい」

 桜子は素直にうなずいた。


 そのまま立ち去ろうとする諏訪部の背中に桜子は声をかけた。

「奥山隊長がいらっしゃらないのですが、諏訪部隊長は見かけられませんでしたか?」

「またへぼ碁でもしているんじゃないか?」

 諏訪部はすっとぼけた。


 桜子は迷っていた。諏訪部の言うことはいつも正しい。冷静沈着、真面目、竹を割ったような性格である。しかし今回だけは違和感がある。何かが違う。いつもなら桜子の眼を真っすぐ見つめるのに、すこし眼をそらしていた。ふだんの快活さがなかったような気がした。

 奥山を探して隊員たちは建物の中をくまなく探した。足を延ばして飛行隊の兵舎も探したという。それが影も形も見つからない。あれだけの体格で隠れるのはかなりむずかしい。

 あと探していないところはただひとつ。それが武器弾薬倉庫室。何らかの事情でそこに隠れているのか、閉じこめられているのか。病気、ケガ、事故。桜子なりにありとあらゆる可能性を考えてみる。


 諏訪部は3時間は行くなという。爆弾が爆発するという。では半径5m立ち入り禁止であるなら半径5m50㎝ではどうか。武器弾薬倉庫室へ行ったのではなく、たまたま奥山を探していたら、武器弾薬倉庫室近くに足を踏み入れたということにして。

 諏訪部への言い訳を胸に、ポケットには諏訪部から預かった鍵をしっかり握りしめて武器弾薬倉庫室に向かった。一歩、また一歩、桜子は爆発の恐怖と闘いながら。

 地下へと続く階段はうす暗く無気味に静まりかえっていた。

 桜子は泣き出したい気持ちを押さえながら暗い階段をゆっくりと一歩一歩、歩みを進めていた。


 奥山の身に危険が迫ってるのなら一刻も早く駆けつけなければならない。でも桜子が行くことで奥山をさらなる危険にさらしてしまうことだけは絶対に避けなければならない。桜子は泣き出したい気持ちと失敗しないように慎重になりつつ、ついに武器弾薬倉庫室の前に立った。

 静かである。想像していたのとは違う。声を出していいのだろうか? 大きな声に反応する爆弾があるとは桜子は聞いたことがない。

 桜子は恐る恐る、

「奥山隊長、いらっしゃいますか?」

と小さな声で囁いた。

「桜子か、ここを開けてくれ!」

 今までさんざん、叫んでわめいて声を出しつくし、疲れきった奥山の声が聞こえてきた。

「奥山隊長、どうして? なぜここに」

 奥山はこれまでの経緯を詳しく語りたいところだが、諏訪部を今、軍法会議にかけるわけにはいかない。

「出撃から帰ってきたら話してやる。それよりこの部屋の鍵を誰かに借りてこい」

「鍵は、私が持っています」

「桜子が、なんで? いいから早く開けてくれ」

「開けます。開けますが、ひとつ条件があります」


 その頃には桜子の中に落ちつきが戻っていた。何かわからないが、諏訪部と奥山とのあいだに行き違いがあり、たぶんいさかいが生まれ、あろうことか桜子まで巻き込んで、事件が勃発した。名探偵桜子の推理である。多少の誤差はあるであろう。


 桜子は自分にまでとばっちりが飛んだことも腹立たしかった。だいたい今日は出撃の日である。桜子はしおらしく別れの感傷にふけっていたのに、諏訪部と奥山のせいで台無しである。

「条件とは何だ?」

 奥山は疲れ切っていた。この窮地から脱出できるなら何でも聞いてやると大盤振舞おおばんぶるまいでも振る舞う気持ちで桜子の次の言葉を待った。


「奥山隊長」

 桜子は一呼吸、置いた。

「鍵を開けるかわりに、最後に私に口付けをして下さい」

「な、なにを! バカなことを言うな。桜子はそんな破廉恥なことを言う奴じゃないだろ。だいたい嫁入り前の娘がとんでもない、お母上が聞いたらどんなに嘆かれることか。あばずれとまちがわれたら、どうする」

 奥山は怒りと興奮でしどろもどろになっている。

「構いません、奥山隊長以外の人に、破廉恥と言われようと、あばずれと後ろ指を指されようと。奥山隊長がご無事で帰られたら、桜子は奥山隊長のもとに嫁ぎます。もしもし万一のことがあれば、桜子は誰にも嫁ぎません。一生奥山隊長を弔って生涯を終えます」

「桜子」

 奥山は桜子のいじらしさに胸がしめつけられるようであった。しかし今はそれどころではない。大騒ぎになる前に早く出陣式の現場に戻らなければならない。


「桜子、おでこでいいか?」

「ダメです。ちゃんとロびるにお願いします」

 できれば次の機会にお預けにしてほしいところだが、とにかく奥山には時間がない。桜子は鬼の首を取ったかのように喜んでいる。

「もう私は行きますよ。どうしますか?」

「桜子ちゃん、桜子殿、頼む、許してくれ」

「時間がありません。誰か来たらどうするんですか」

 あまりにも強気の桜子である。奥山は渋々、桜子の要求を飲むしかなかった。


 カチャリ、桜子が扉の鍵を回した。

「いいのか? 気は変わらないのか?」

「はい、お願いします」

 奥山は口に出して想いを伝えることはなかったが、自分の大好きな桜子が目の前に立っている。目をつぶって奥山を待っている桜子はいつもよりかわいらしく見えた。気をつけて見ると、小刻みに震えている。今までの出来事が脳裏を走馬灯のように流れる。ぜんざいを作って来てくれた。うれしそうにあふれる笑顔がこぼれていた。タヌキと言ったら泣きべそをかいた。いつも笑っていた。「奥山隊長のバカ」と言って俺の胸を叩いていた。明日からはもう桜子に会うことはできない。戦時下において、どれだけ毎日桜子の笑顔に支えられてきたことか。


 奥山は桜子の口びるに自分の口びるをやさしくかさねた。そして次にゆっくりともう一度想いをこめて、やさしくふれた。


 奥山が出陣式の現場に戻ると、諏訪部がさわやかな笑顔で近づいてきた。

「どちらにいらしたのですか? みんな探していましたよ」

「おまえなあ」

 言いかけて、奥山はため息をひとつついた。諏訪部はやっぱりきつねだと思った。

「口に口紅がついていますよ」

「何?」

 奥山はあわててこぶしで口をぬぐった

「やっぱり…うそですよ。奥山さんはわかりやすいんだから」

 奥山は諏訪部にだけはかなわないと思った。


 昼食後二時間の昼寝の時間があった。奥山はこれが見納めになるかと部下の寝顔を見に各部屋を廻る。


 二時間の昼寝から醒めて装備の搬出が終ったとき、はや日が陰っていた。搭乗前の寸刻、隊員たちはめいめいの故郷の方に向かって別れを告げた。

「どうか長生きをなさって下さい。自分は立派に任務をやり遂げます」


 特攻機突入を成功させるための特攻に臨む勇士達の姿であった。


 補給食として、のり巻すし10個、いなりずし2個、力餅、生卵2個、梅干し、大根漬、その他ヨウカン、キャラメル各1個が配給された。

 だが隊員たちは「もう必要ないから」と世話になった整備兵たちに惜しげもなく配っていた。


 奥山は遺書にこう書いている。

「此の度、義烈空挺隊長を拝命御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します。絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります。只々感謝感激の外ありません。(中略)道郎は喜び勇んで征きます。(略)

    御毌上様

                           道郎」


 午後五時少し前、健軍飛行場に着く。三角兵舎の一隅幹部部屋、奥山と渡部が碁を囲んでいる。平常と何等変わりない打方が調和のとれた音になって響いていた。

 一方、諏訪部は出撃の暫く前まで、有合せの木片を材料にして、小刀で観音菩薩を刻んでいた。この観音像は梶原がもらい受けて、首に下げて飛行機に乗り込んでいる。


 十七時格納庫の前に集合、軍司令官の激励の辞があり、次に乾盃、万歳三唱、飛行機に乗り込んだ。


 奥山と諏訪部は搭乗機の側に来たとき、向い合って握手した。カメラマンの注文によるものであった。

 カメラマンが写し損った。

「すみませんがもう一度お願いします」

「千両役者は忙しいなあ」

 千両の笑みを見送りの人に残して、もう一度諏訪部と向い会った。


 全員搭乗完了。奥山と諏訪部は操縦席の天蓋を開けて上半身を出し、出発の合図をする。


 夕陽は金峰山に没し、阿蘇は紫色に映えていた。


 義烈空挺隊との連絡は隊長機の無線で針路を変える変針時、本島到着時、只今突入の三回だけ報告することになっていた。

 粗末な臨時の作戦室に通信所から引き込んだスピーカーが備付けられ、天井から裸電球がぶら下っている。


 皆じりじりと連絡がくるのを固唾を飲んで待っていた。

 予定の変針時は過ぎても連絡は来ない。二二〇〇突入の時刻も過ぎてゆく。


 俄然「オクオクオクツイタツイタツイタ」

「二二一一只今突入」

 これが義烈空挺隊の最初にして最後の只一回の連絡であった。五月二十四日午後十時十一分。

 義烈空挺隊の胴体着陸が成功したのである。

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