第五章
義烈空挺隊には陸軍中野学校を卒業した者が10名いた。中野学校とは成績優秀で諜報要員として適性ある者を選抜し、教育していた。諜報活動やゲリラ戦に必要なことを教えていた。しかし最も重視したのは精神面である。
一人になっても誰も見ていなくても最後まで戦い、名も残さず、死んでゆける兵士を養成すること。
中野学校出身の10人が奥山隊に合流したとき、奥山は
「貴様らは何ができるのだ」
とたずねた。
「何も、大したことはできません」
と中野学校の辻岡少尉が代表して答えた。
「そうか、忍術でも使えるのかと思ったが、駄目か。ハッハッハッ」
と、奥山は大声で笑っていた。特攻隊という悲壮感が全く見受けられない。「名もなく死ぬ」という中野学校独特の死生観を抱いて来たものの、落下傘兵の方は、そんなむずかしいことは少しも考えていなかった。奥山は言う。
「早く当隊の一員になれ」
辻岡少尉は、
「奥山隊と一緒にB―29の爆破をやってから謀報員の仕事に移ります」
と言う。奥山は
「それは後で決めよう。それよりも貴様らも奥山隊の一員であることを忘れるな」
と言っていた。
桜子は少しにがてな隊員がいる。じろりと
「悪い人ではない」のだが、「恐い」。他の隊員たちに聞くと、「ああ、あの人は中野だから」と言う。「中野」が名前なのか、地名なのか、わからない。名札を見ると「原田」とある
しばらくすると「中野」は学校であることと、「原田」はその学校の出身であることはわかった。
「お疲れさまです。今日はぜんざいを作ってきました」
わあと隊員たちの歓声があがった。
「おもちも砂糖も少なめですけど」
例えおもちも砂糖も少なかろうと、いやいっそ入ってなかろうと、甘いものに飢えていた隊員たちにとって、御馳走であることに変わりない。
「よくこの物資不足の中、砂糖やおもちや小豆が手に入ったな」
奥山は桜子に不思議そうにたずねる。
「母の形見の着物を質に入れてきました」
桜子は元気よく答えた。
「ばか、大事な嫁入り道具じゃないか」
「桜子は嫁に行きません。それとも奥山隊長がお嫁さんにもらってくれますか?」
「わけのわからないことを言うんじゃない。俺たちは日本を守るために戦争をしているんだからな」
「じゃあ奥山隊長が私を守って下さい」
「そんなわけにいくか」
桜子の理屈ではない、言わば屁理屈に奥山はたじろいだ。
「さっ、皆さん熱いうちにどうぞ。奥山隊長もどうぞ。甘い物は大丈夫ですか?」
「うん」
「桜子さん、俺も食べていいかな」
振り向くと、いつも
「どうぞ、どうぞ」
と勧めると、うれしそうにぜんざいを受け取った。
「おいしそうだ」
「はい、たまには甘い物も。疲れがふき飛びます」
「あんたはよく働くし、よく気がつくし、奥山隊長のいいお嫁さんになりそうだ」
「原田さんもそう思います?」
桜子はうれしそうに笑っている。となりで奥山がにが虫をかみつぶしたような顔をしている。
おもちも砂糖も少なめとは言っていたが、充分入っていた。久しぶりの甘い物に隊員たちは舌鼓を打っている。特にきびしい訓練のあとである。心にも身体にもぜんざいは
隊員たちの笑顔を桜子はうれしそうに見ていた。
後片付けを終えると外はすっかり薄暗くなっていた。入り口の所で奥山が何をするでもなく、手持ち無沙汰でうろうろしている。
「奥山隊長、どうしたんですか?今日はいつもの下手の横好きの碁の時間じゃないんですか?」
桜子が冷やかすと奥山はあわてて
「もう暗いからな、一応桜子も女の子だから、とりあえず、俺が送っていってやろうかと思って...」
とつぶやいた。
「大丈夫ですよ、まだそんなにまっ暗でもないし、いつもの道だから」
「桜子ちゃん」
横から諏訪部が顔を出す。
「奥山さんが桜子ちゃんを送っていきたいのだから、送らせてあげてくれないか。迷惑だろうけど」
「諏訪部!」
奥山が諏訪部をにらみつけた。
他の隊員数名も加わり、みんなに見送られながら桜子と奥山は宿舎を後にした。しばらく黙ったまま歩いていたが、奥山が唐突に
「桜子」
と呼んだ。桜子はびっくりした。
「俺が死んでもたまにでいいから思い出してくれ。ばかでわがままでガンコだったなあ、とか『太っちょめがね』だったなあとかでいいから」
「はい」
桜子は返事につまった。奥山が桜子の顔を覗き込もうとすると桜子は
「見ないで下さい」
と身を
「奥山隊長はいつもそうやって私をいじめる」
桜子は鼻をすすっている。
「いじめてなんかいないだろ」
奥山はあわてて桜子をなだめた。
「私が奥山隊長のこと忘れるはずないじゃあ、ありませんか」
「うん」
奥山が今度は黙り込む。
「人は亡くなってもその人のことを覚えている人が1人でも生きている限り、その人は死なないんです。その人の家族や友人や恋人の心の中でずっとずっと生き続けるんです。そしてその家族や友人や恋人が亡くなって、最後の1人が亡くなったときはじめて、その人の本当の死が訪れるんです」
「桜子はずっと俺のことを覚えておいてくれるのか?」
「あたり前です」
と桜子は鼻をすすりながら言った。
「その代わり、毎晩私の夢の中に出て来て下さい。夢の中で毎日会えると思ったら楽しみです」
「桜子」
後ろから大きく鼻をすする音がした。
「あっ、ばか」
と、こづく音。振り返ると4、5人の集団がこちらを覗いている。
「あいつら」
奥山が
「隊長殿、すみません」
「感動的でした」
大声であれやこれやと叫びながら三三五五に散らばって行った。
「仕様がない連中だ」
奥山はあきれていた。
桜子を送って奥山が宿舎に戻ると、諏訪部がにが笑いをしていた。
「私は止めたんですけどね」
「困った奴らだ」
「彼らは彼らなりに奥山さんのことを心配しているんですよ」
「心配? 心配されることなどない」
「そうでもないでしょう。私たちは一蓮托生、運命共同体です。限られた時間を生きるだけ。彼らはその限られた時間の中で精一杯生きることの意義を探しているんです。それが奥山さんの幸せだとしても。自分たちが大好きな奥山さんと桜子ちゃんが結ばれる。それだけで彼らがどんなに喜んでいることか。つらい現実を目の当たりにして唯一の心の
「諏訪部、おまえは俺より大人だな」
「奥山さんと同じ26歳ですけどね。その分
「頭の前の方が俺より苦労が
「奥山さんだって人のことは言えんでしょう」
「50歩100歩っていうところかな?」
「どんぐりの背くらべって奴ですかね」
奥山と諏訪部は性格が正反対である。
「ところで桜子ちゃんはどこから通っているんですか」
と諏訪部。
「俺はバス停のところまでしか送っていってないが」
と奥山。
「それにしてもあのぜんざいの量、砂糖と小豆ともち。この物のない時代にどうやって調達してくるのか」
「母親の形見の着物を質入れしたとか言っていたが」
「どんなに立派な着物でも今の
「そうだな」
「どこでどうしているのか」
「考えてみたら不思議な話だ」
2人で頭を
「奥山さん、どこかできつねかたぬきを
「それは桜子がきつねかたぬきだとでも言いたいのか?」
「どちらかと言えばきつねと言うよりはたぬきでしょう」
「じゃあ、あれか。さっきのぜんざいは今頃、みんなの腹の中で葉っぱになっているとでも」
「そうですね」
奥山と諏訪部は大笑いしていた。
諏訪部は墨絵の観音像を得意としていた。その日も休憩時間に描きかけの観音像を描こうとして絵筆を取った。
そのときバタバタと足音がした。顔を上げると息を切らした桜子の姿があった。
「諏訪部隊長、助けてください」
「どうした?」
厨房に虫かネズミでも出たのかと思って半分腰を上げる。
「奥山隊長が」
「奥山さんがどうした?」
「『桜子はたぬきだから尻尾を見せろ』と」
「また奥山さんも子供なんだから」
言っているそばからドスドスと奥山らしき足音が聞こえてくる。
「とりあえず、この机の下に隠れて」
「はい」
桜子が机の下に隠れた途端、奥山が現れた。
「諏訪部ここにたぬきが来なかったか?」
「奥山さん、桜子ちゃんをいじめるともう来なくなりますよ。いいんですか?」
「それは因る。困るが、いじめるとすぐ顔に出るから面白いんだ」
「奥山さんが桜子ちゃんをいじめるんなら、私が桜子ちゃんをもらっちゃいますよ」
奥山「えっ?」
桜子も机の下で小さく「えっ?」
諏訪部も思わず本音が出てしまって自分自身おどろきの「えっ?」
奥山もしどろもどろになる。
「それは困る。諏訪部は俺と違ってスマートだし、温厚でやさしいし、女性にもてる。俺みたいな太めの外見では逆立ちしてもかなわん」
机の下に隠れていた桜子は吹き出した。諏訪部も
「本人もああ言っているから桜子ちゃんも今回は許してあげてくれないか?」
もそもそと桜子が机の下から出てくる。奥山はびっくりして
「こんな所にいたのか」
と叫んでいた。
「二人して何だ。桜子がたぬきなら諏訪部はきつねじゃないか。二人して俺をだましやがって」
「だましてなんかいませんよ」
と桜子。
奥山はぷりぷりしながらその場をあとにする。その奥山の後ろ姿に向かって諏訪部が
「我々がたぬきときつねなら奥山さんも負けてないですよ。大きな古だぬきですから」
「諏訪部!」
奥山は振り返って何か一言言おうとしたが、
「口では諏訪部にはかなわないのだった」
と、残念そうに帰っていった。
桜子は諏訪部に「ありがとうございます」とお礼を言って戻っていった。諏訪部は桜子の後ろ姿を少し切ない気持ちで見送っていた。
その日は夕方から雨が降り出した。しとしとと物静かに降る雨に気づく者は少なかった。
奥山はいつものように碁でも打とうかと碁の相手の渡部を探していた。諏訪部は奥山を見つけると、
「雨です」
と言った。
「そうか、明日の訓練のことか?」
「いいえ、違います。今、雨が降り出しました」
「それがどうした、雨が降るのはいつものことだろう」
「桜子ちゃんはさっき帰りましたよ。今日は天気が良かったので、桜子ちゃん傘持っていませんよ。今なら途中で追いつくのではないですか」
「諏訪部、俺が桜子をいつもいつも送っていくと思ったら大まちがいだ」
「やさしい奥山さんならずぶぬれの桜子ちゃんは見たくないんじゃないかと」
諏訪部は心の中でニヤリと笑うと、
「奥山さんはお忙しいし、日中の訓練のお疲れもあるでしょうから、奥山さんに代わって、代役がいてもいいとは思いますけど」
とダメ押しをする。
奥山は仕方ないと言わんばかりに、
「ちょっと出てくる」
と、ぶっきらぼうに言って、番傘を持って走り出した。
「本当に二人とも世話がやけるんだから」
諏訪部は少し複雑な気持ちを押さえながら、奥山の後ろ姿を見送っていた。
奥山が5、6分行くと、木陰で雨やどりをしている桜子を見つけた。
「おおい、桜子。傘を持ってきた」
「奥山隊長」
「今日は家まで送っていってやる」
「いいです」
「何を怒っているんだ?」
「私はたぬきではありません。しっぽもありません」
「悪かった、つい調子に乗ってしまった」
「奥山隊長を化かすならもっと簡単な方法があります」
「うん? どうやるんだ」
「お酒をいっぱい飲ませます。いっぱい酔わせて、裸にひんむいて、そこら辺にけっ転がします」
「桜子にしては荒っぽいな。まあ俺が桜子にやさしくなかったから当たり前だよな」
「やさしくないどころか、みなさんに喜んでもらおうと張り切ってぜんざい作っていけば『桜子はたぬきだ、しっぽを見せろ』なんて言われるし、あんまりです」
「悪かった。反省してます。諏訪部にまであんなこと言われるなんて思わなかった」
「え? 何のことですか?」
「お昼、『桜子ちゃんをいじめるんなら、私が桜子ちゃんをもらっちゃいます』なんて言われてしまうし」
「ただの冗談でしょ」
「いやあいつはめったに冗談は言わない。今も『雨が降っているから送っていってやれ』とかうるさくてかなわん」
「諏訪部隊長はおやさしいから」
「どうせ俺はやさしくないし、女心はわからんし、太ってるし…」
「奥山隊長は奥山隊長でおやさしいですよ」
「そうか」
奥山は少し照れた。
「それに本当のことを言うともうあまり時間がないんだ」
「この前の上層部との会議のことですか」
「近いうちに出撃しなければならないかもしれん」
「奥山隊長、死なないで」
桜子はその瞳に涙をいっぱい溜めて奥山を見つめていた。
「無理だよ。俺たちは特攻のための特攻、敵地の中につっ込んで1人5機やっつけてこなくちゃならないんだから。その上それが成功したとしてもその後現地のゲリラ戦が待っている。身体がいくつあっても足りない。不死身にでも鬼神にでもならなければ、到底生き残ることなんて絶対無理に決まっている」
「じゃあ、不死身になって、鬼神になって、私のために絶対絶対無事に帰ってきて。とにかく死なないで」
桜子のたたみかけて言う剣幕に押され、奥山はたじたじになる。作戦司令本部の会議では上司に対して一歩も引かず、自分の正しいと信じた意見をどんどん押し出す奥山にとって、桜子の理屈ではない純粋さにはとても勝てそうにない。
「わかった、わかった、とりあえず善処してみるよ。でも桜子も『死なないで』なんて言ったら〝非国民〟と言われてどんなひどい目に合うかわからないんだから『死なないで』だけはやめてくれ」
「私は大丈夫だから」
桜子は少し口をすぼめて言う。
「俺の元気の源は桜子なんだから、桜子がケガしたり病気になったりしたら困る」
奥山は言ってしまってから「しまった」と思った。桜子には甘い言葉などかけたことのない奥山にとって、この言葉は桜子に「好きだ」と告白しているようなものである。桜子も言葉の意味をかみしめたのか、少し恥じらう様子が見える。それを隠すかのように
「じゃあ『死なないで』は言わない。『死』も縁起悪いから『死』を取って『ななないで』にする。『ななないで』だったら他の人にはわからないから」
桜子は自分の思いつきを自慢気に言った。
むさくるしい男だらけの軍隊でこれまで生きてきた奥山にとって泣いたり怒ったり笑ったりとくるくる表情が変わる桜子の存在は妹から恋人へと想いが変化していることに奥山自身まだ気づいていなかった。
「雨上がりましたね。ありがとうございます。もう大丈夫です」
桜子はそう言うと小走りに走って行く。
「あっ、待て」
奥山は追いかけようか一瞬迷ったが、くるりと
次の日。
桜子が洗濯物を干していると若い隊員たちがぱらぱらとやってきた。
「桜子さん、お手伝いすることがあれば何でも言って下さい」
「もう訓練は終わったんですか?」
「はい、雲行きが怪しいので、今日は早めに切り上げていいとのことでしたので」
「隊長さんもおやさしいことで」
桜子が皮肉を込めて言うと、
「はい、奥山隊長は誰よりもおやさしいです」
と、若い隊員たちは口を揃える。
「我々が腕時計もろくに持っていないのを知ると、司令部に言って、全員に腕時計を支給してもらってくださいました。それもここだけの話、かなり高い品物だったそうです」
桜子は奥山らしいと思った。自分の身の回りのことについてはあきれるほど無頓着なくせに、部下たちに対しては限りなくやさしい。
「桜子さんは隊長にたぬきと言われたとか」
「ひどいでしょ。うら若き乙女に向かって、それはないよね」
「それは隊長の照れ隠しです」
「そうだそうだ、我々とか司令部とかには遠慮なく好きなことをぽんぽん言うくせに桜子さんには言いたいことの半分も言えないんですよ」
「ああ見えて恥ずかしがり屋なんです」
「大きい図体のわりには」
「今頃、反省してますから、許してやってください」
「たぶん女性に対する扱い方がわからないんですよ」
「ずっと、陸軍幼年学校から陸軍士官学校と軍人ばたけを歩いてきたから」
みんな口々に奥山をかばっているのか、けなしているのかわからないが、とりあえずは部下に慕われていることだけはわかった。
「聞いた話ですが、奥山隊長は以前仲間の落下傘兵を乗せた輸送機が墜落したとき、友人たちの名前を呼びながら涙を流し、肉片の一つ一つまで拾い集めていたそうです」
「奥山隊長らしいですね」
と言い、その場にいた全員がもらい泣きしていた。
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