第三章

 「義烈空挺隊」のことを隊員たちは「愚劣食放題ぐれつくいほうだい」と自嘲していた。

 サイパン島、硫黄島奪還の出撃命令が中止となり、今のところ先行きの見通は立っていなかった。

 特に隊員たちはきびしい訓練に明け暮れてはいるものの、出撃もしないで食事を食べるだけの自分たちを恥じていた。

 「国民に顔向けできない」と。


 「特攻」を命じられ、死を覚悟している隊員たちにとって、特攻がお預け状態となり、「まだ死なせてくれないのか」と奥山に訴える隊員も出てきていた。


 時折、奥山が見せる苦悶の表情に桜子は気づいていた。隊員たちには気づかれないように、一人になったときに見せるその表情。桜子は自分が何もできないことがもどかしかった。


「桜子ちゃん」

 諏訪部が声をかけた。

「はい」

 玄関掃除や風呂掃除を終えた桜子は諏訪部のもとへ行った。

「今、大丈夫? 郵便局へ行って来てほしいんだ」

「はい、わかりました」

「悪いんだけど、奥山さんを連れ出してほしい」

「奥山隊長とですか」

「うん、奥山さん、夜もあまり寝れてないみたいだし、今うちもいろいろとあるから、気分転換にでもなればと思って」

「諏訪部隊長、おやさしいんですね」

「いや奧山さんほどじゃないよ」

 諏訪部の言葉が謙遜によるものか、真実なのか桜子には判断できなかった。


「奥山さんに勘づかれないように慎重に頼む」

と諏訪部。

「はい」

と密偵、桜子。そこへ何も知らない奥山がやって来た。

「おい桜子。郵便局までお使いを頼む。この郵便を速達で東京へ出してきてくれ」

「はい」

 うっかり素直に返事をしてしまう桜子。あわてて諏訪部が口を出す。

「天気もいいし、二人で散歩でもしてきたら」

「えー、俺は昨日も遅かったし、今から昼寝でもしようかと」

「じゃあ、俺が桜子ちゃんと散歩でも行こうかな」

 諏訪部が桜子に意味深に目くばせをする。

「うーん、気が変わった。散歩にでもでかけてくる」

 奥山の気が変わったので、諏訪部と桜子は後ろを向いて、ホッとため息をついていた。


 空が青すぎる。透明な木漏れ日がきらきらしている。何もかもがさわやかに輝いていた。

「本当にいいお天気。洗たく物が乾いてうれしい」

「そうだな」

 桜子は奥山のとなりを歩いているだけで胸の中がほっこりとあたたかくなるような気がしていた。

「奥山隊長とお出かけするのははじめてですね」

「そうか、そう言えばそうだな」

「今日はぽかぽかしていてお昼寝日和びよりですね」

「そうだな、いつも訓練や打ち合わせと部屋に籠ってばかりだしな」

「身体壊しますよ」

「いいさ、特攻へ行けば跡形もなくなってしまうのだから」

「奥山隊長」

 桜子がにらむ。

「ごめんごめん」

 しばらく2人とも黙ったまま歩いていた。先に口を開いたのは奥山だった。

「桜子と2人になったらいろんなことを話しをしようと楽しみにしていたのに。いざ2人っきりになるとだめだな。何も会話の糸口が見つからない」

「私もです」

「でも桜子がうちに来たのはつい最近なのに何となくなつかしい気がする。ずっとずっと前から知っていたような」

「私もみなさんが明るくていつもにこにこ笑っていらっしゃるのが、とてもふしぎなんです。訓練もきびしいし、つらいことも多いだろうと思うのですけど。やはり隊長さんがやさしいし、しっかり隊員さん一人一人を見守っていらっしゃるからでしょうか」

「隊員たちのことを考えると気持ちがわかるだけにつらい部分はあるかな」

愚劣食放題ぐれつくいほうだいですか」

「聞いていたのか、まあそれもある」

「特攻以外の人がすいとんやさつまいもを食べてて、うちの部隊が白ごはんを食べているだけで、どうして気兼ねしなければならないんですか。お肉だって、お魚だってほとんどないし、おかずは菜っぱの炊いたのと漬け物ばかり。あのきびしい訓練でそんなものばかり食べたって全然ぜいたくじゃないのに」

 くやし涙を流す桜子がいじらしくて、奥山は桜子の頭をポンポンと叩いた。

「桜子、ありがとう。誰か一人でもわかってくれる人がいてくれるだけでうれしいよ」


「そうだ、聞きたいことがあったんだ」

 奥山が急に立ち止まった。

「何ですか」

 いぶかしげに桜子がたずねる。

 奥山は少し口ごもった。

「桜子は、俺と諏訪部とどっちが好きだ?」

「奥山隊長と諏訪部隊長、限定ですか?まだ他の人のこと好きかもしれないじゃないですか」

「そうなのか」

 奥山は桜子の顔をのぞきこむ。

 桜子は言葉を探していた。いつのまにかいつもの土手を歩いていた。兵舎はもうすぐである。

「座りますか?」

 桜子が誘うと、奥山がとなりにどかっと座った。

「空はいいなあ、どこまでも広がっていて、ちっぽけな人間のちっぼけな心なんて比べものにならない。

 青い空にぽっかり白い雲が浮かんでいるのを見てると、どこまでもどこまでも行けそうな気がしてくる。

 本当は俺は飛行機乗りになりたかったんだ」

「そうなんですか?」

「でも飛行機は目が悪いとダメなんだ。飛行隊に配属になって、どこまでもどこまでも行ってみたかった」

「いいですね」

「飛行機はいいけど、落ちたらほとんど助からん」


 奥山は足元に視線を落とすと淋しそうに笑った。桜子は奥山の肩ごしに奥山の孤独を感じとっていた。隊長ゆえに部下たちをまとめあげ、受け止め、見守っている苦労は並大抵なことではあるまい。いつも笑顔を絶やさず、上官からの無理難題を一身で受け止めて、部下たちの前ではイヤな顔ひとつしない。


「俺は空が好きだ。特に青空が大好きだ」

「私も青空が大好きです」


「で、桜子はやっぱり諏訪部の方が好きなのか?」

「そう思いますか」

「もしかして…俺か?」

 子供のようにしどろもどろになっている奥山を桜子はかわいいと思った。

「諏訪部隊長、墨絵の観音像がお得意なんですよね」

「うん。彫刻も上手い。横笛も上手い」

「奥山隊長はすごく達筆でいらっしゃるし」

 奥山は桜子の一言、一言に翻弄ほんろうされていた。

「で、どっちなんだ」

 奥山はしびれをきらした。

 桜子はにやりと笑うと、

「私の『重大秘密事項』です」

 もったいぶって言った。

「さあ帰りましょうか。諏訪部隊長が首を長くしてお待ちかねです」

「桜子、〝手がかり〟をくれ。せめて〝手がかり〟でいいから」

 奥山が子供のように駄々をこねる。


「桜子は諏諏部隊長が大好きです」

「そうか、諏訪部はいい男だからな。俺から見ても裏表のない男の中の男だ」

 がっくりして奥山が言った。

「でも桜子は奥山隊長も大好きです」

「俺か? 桜子は俺のことも好きでいてくれるのか?

 で、本命はどっちだ?」

「それは『重大秘密事項』です。2人のすてきな男性の心をもて遊ぶ魔性の女、桜子」

「ただいま帰りました」

 にっこり笑うと楽しそうに玄関に入って行った。

「おーい、桜子、待ってくれ」

 奥山が桜子のあとを追う。玄関に迎えに出て来た諏訪部が、

「奥山さん、元気そうじゃないか」

と声をかけてきた。

「はい、もうすっかり」

 桜子がうれしそうに答える。

「でも魔性の女って何のことだ?」

「さあ、何でしょう」

 桜子は、すっとぼけてみせた。


 翌日、

「お芋ふかして来ました」

 いつもと変わらない明るい元気な声で桜子はざるに山盛りにしたお芋をうれしそうに持ってきた。

 湯気をあげたお芋はおいしそうだった。

 桜子の声に隊員たちは歓声をあげた。

「ありがとうございます」

「ごちそうさまです」

 口々にうれしそうな声がこだましている。奥山は、

「よくこんなにたくさんの芋、調達できたな」

と、桜子の方を心配そうに見つめている。

桜子は

「ないしょです」

と、笑っている。

「桜子さんはいいお嫁さんになるね」

と誰かの声がする。

「お嫁さんにもらっちゃる」

 今度はこちらの方で声がした。

「ダメです。私は隊長さんのお嫁さんにもらってもらいます」

「えっ?」

 桜子はうれしそうにほほえんでいた。

「『隊長』って、どっちだ? 諏訪部隊長だろ」

「いや、もしかして奥山隊長か? まさか」

「昨日奥山隊長と使いに出ていたぞ」

 芋にかぶりついていた奥山は桜子の言葉に芋がのどにつまり、胸をたたいている。諏訪部はそれを笑いながら見ていたが、気持ちは複雑だった。

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