第一章

 桜子は土手に座り、空を見ていた。澄みきった青空。心のもやもやを消し去ってくれるようである。

今は戦争中であるということがうそのようである。

 なぜ人間は戦争をするのであろう。話し合いでなぜ解決できないのだろう。言葉があるではないか。言葉が通じなくてもお互い言葉を理解するところからはじめて少しずつ相手の気持ちを理解するべきである。


 争いは損得勘定で相手より得をしたい、儲けたいということもあるだろう。宗教の違いもあるだろう。人種の違いもあるだろう。

 なぜ少しでも相手を思いやって互いの足りない部分を補って仲良く暮らせないのか。「欲しい欲しい」では何も得ることはできない。「これは本当はこうなんだけどそんなやり方もある」「いっしょにやってみよう」と、みんながやさしくなれば争いなんて必要ないはずなのに。


 いつか、そんな世界になればいい。いつかはそんなに遠くないはず。でももう時間がない。私に何ができるのだろう。私はただ空回りしているしかないのだろうか。


 もう時間である。ほっと吐息をひとつして立ち上がった。

 おしりの枯葉や土をパンパンとはたいて、ついでに頬を叩いて気合いを入れる。

「今の自分に出来ることを出来る限りする」

 桜子は歩き出した。きっと大丈夫。うまくいく。もしもうまくいかなかったとしても、私はそれを受け入れる。必ず。

 日差しもあたたかく、吹く風もさわやかで心地好い。


 ふと何気なく空を見上げると、白い布のようなものがひらひらと風になびいている。洗たく物か。風向きからみてたぶん兵舎の方から風に吹かれて木の枝にひっかかったのか。


 桜子は背伸びをして白い布を木の枝からはずすと、ていねいに折りたたんで、ポケットにしまった。


 そして目的地に到着した。


「義烈空挺隊」

 建物にはそんな看板がかかっていた。


「こんにちは」

 桜子は玄関で声をかける。誰もいないのか、返事がない。

「こんにちは」

 桜子はどんどん声のトーンが大きくなっていく。


 奥山は頭を抱えていた。来週の作戦会議に上層部を納得させる作戦を考えていた。上は上で下の者たちのことを考えずに無理難題を押しつけてくるだろう。いかに上のお偉方をうまく納得させながらこちらの考えに誘導させるかがむずかしい。


 玄関の方で声がする。隊員たちは訓練の真っ最中。

 俺しかいないのか。一分一秒を要する、忙しい身なのに。


 奥山は仕方なしにぶつぶつ言いながら玄関に向かった。


 桜子は何度声をかけても誰の返事もないので、帰りかけていた。


 奥山は頭半分作戦会議の作戦を考え中である。頭をぼりぼりかきながら玄関に出た。どうせ近所のじいさんかばあさんが畑で採れた野菜でも持って来てくれたのであろうと、気軽に考えていた。

 しかしそこにいたのはかわいい若い女性であった。

 想像とあまりに掛け離れていたので、奥山はあっけにとられてしまった。


 桜子は何度も声をかけてようやく誰か出てきたと思ったら〝クマ〟だった。

 大きくてメガネをかけていて見るからに大声で怒鳴られそうである。

「もう絶対むり。明日からこんな所にお手伝いに通うなんて」

 桜子は恐くておどおどしてしまった。


 奥山は奥山で、このあたりは田舎で、若い女の子などついぞ見かけたこともなく、何と声をかければいいのかわからなかった。

「あのう」

「あのう」

 奥山と桜子が同時に口を開いた。

「あっ、どうぞ」

 桜子が奥山を促した。

「どのようなご用件でしょうか」

 奥山はしどろもどろで桜子にたずねた。

「あ、山本さんの紹介で明日からおそうじや洗たくのお手伝いに伺うことになっている深山みやま桜子と申します」

「あっ、あなたでしたか。もう少し年配のおばさんがいらっしゃると思っていたので」

「あっそれなら断っていただいても」

 桜子はこれ幸いと来なくてもいいのかと内心ほっとしていた。

「いやそんなことはありません。お仕事をしていただけると大変助かります。男ばかりでむさ苦しいところですが、よろしくお願いします」

 少し間があって、奥山は付け足した。

「それに、たぶんもう長い期間、お世話になることはないかと思います」

 桜子はそれはもう出撃まで時間がないと言うことなのだろうと思った。〝クマ〟が最初の印象より紳士的だったので桜子は少しホッとした。


 桜子はふと来る途中、枝にひっかかっていた〝洗たく物〟を思い出した。

「あの、来る途中、木の枝にひっかかっていたのですが、こちらの洗たく物ではありませんか?」

 桜子が渡すと、奥山はそれを広げて、

「ああ、これはたぶん僚友の諏訪部の物だと思います。わざわざありがとうございました」

と、さりげなく言った。


 そこへ、

「奥山さん、お客さんですか」

 と、やさしそうな温好で理知的で物静かな感じの人が、奥から出て来た。

「あっ諏訪部、明日からそうじや洗たくの手伝いに来て下さる深山桜子さんだ」

「深山桜子です。よろしくお願いします。この方が諏訪部さんですか?あの洗たく物は諏訪部さんのでよろしかったですか」

 諏訪部は奥山の手から例の洗たく物を手に取りしげしげと見ると、

「奥山さん、これはあなたのでしょう。私は自分のふんどしにはちゃんと名前を書いてあります」

「え? ふんどしですか」

桜子が悲鳴をあげた。

「私、大切にたたんでポケットに入れて来たんですけど。この方がお友達の諏訪部さんのだろうと言われたので」

「奥山さん、自分の褌を人になすりつけないで下さい。ましてや、こんなにうら若き、お嬢さんに失礼じゃないですか」

「だって、俺も忙しくて来週からの上層部との作戦会議を丁々発止ちょうちょうはっしどう切り抜けようかと」

「それと奥山さんの褌とどんな因果関係があると言うんですか」

「諏訪部おまえちょっと冷たいんじゃないか。いくらそっちが飛行隊でうちが空挺隊とはいえ、戦場に行く時はいっしょ、死ぬ時もいっしょだったはずだろ」

「奥山さん、桜子さんがあきれて見てますよ。明日から来てもらえなくなってもいいんですか」

「それは困る。しかし俺の褌と作戦会議の作戦と俺はもう手いっぱいだ」

「作戦会議の件は後でいっしょに考えましょう。褌の方は桜子さんにあやまってもらって。本当は私の方もあやまってほしいくらいですけど、で。まあそれはそれとしてひとつ貸しにしておきますから」

「桜子さん、大変失礼いたしました」

 奥山は素直にあやまった。


 その姿はいたずらっ子がいたずらを見つかってしょげているように見えて桜子は思わず、笑ってしまった。

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