百合作家の彼女

おおきたつぐみ

百合作家の彼女

 はじめは小さな違和感だった。

 私たちの部屋に、少しずつ「ピンク色」が増えてきている――。私も、同棲している恋人の結花ゆかもピンク色は好きではない。部屋は落ち着いた北欧風のブルーを基調としているし、結花の服装は女性らしいシルエットのものが多いけれど、選ぶ色は寒色系かモノトーンばかりだ。

 それなのに、ある日結花のスマホに小さなピンクのアクセサリーが付いたのを皮切りに、ピンクのセーターを購入し、ピンクのピアスを着けるようになり、年が変わって新しくなった手帳はピンクの花模様。ふと見えるスマホの画面にちらつくピンクの衣装の群舞。そしてとうとう今日、結花のゾーンの壁に「彼女」のポストカードが飾られた。


 彼女が結花の推し――いや「贔屓ひいき」か。

 結花がシャワーを浴びている間に私は苦々しい思いで「彼女」の写真を眺めた。目鼻立ちがくっきりして大きく、舞台用のメイクが映え、華々しいピンクの燕尾服がよく似合っている。まっすぐに当てられたスポットライトに負けることなく、光を放つように眩しい笑顔の美しい男役。大きな羽を背負う彼女は、女性だけで構成された「神楽塚かぐらづか歌劇団」の頂点に立つトップスター。

 またか、と思った。また私は男役に負けるのか。苦い思い出が蘇りかけ、私は慌てて目をつぶってポストカードから視線を外す。結花に限ってそんなことはない。単なる趣味の世界だ。私が百合作品を書いたり読んだりすることが好きなのと一緒だ。

 ああでも、結花が壁に何か飾ったことが今まであった? 一人暮らしをしていた部屋も殺風景すぎるからと、私がふたりで写っている写真を貼り付けただけでも、なんだか照れるなんて言っていたのに。


 ぼんやり立ち尽くしていると、お風呂から出た結花が慌てて私と壁の間に入った。頬が上気しているのはシャワーのせいか、それとも。

「あのね、このポストカード、会社の須藤さんにもらって……」

「この人、神楽塚のトップスターでしょう?」

「あ、万智まちも知ってるの……?」

 なんと言うことだろう。上目遣いに私を見上げる結花の瞳はすでに恋する乙女の輝きだ。濡れ髪をタオルで巻き、冬用のもこもこパジャマを着た姿は反則と言いたいほどに可愛いのに、私以外に恋をしてしまったのか。

「この人を詳しく知っているわけじゃないけれど、神楽塚の人だってことくらいは見たらわかる。結花の贔屓なの?」

「贔屓って言うなんて、万智ももしかして神楽塚のファンだったの?」

 嬉しそうに身を乗り出す結花が可愛くてイライラする。それをどうにか表情に出さないように気をつけながら私は話を続けた。

「ううん、昔知り合いがファンだったのを横で見てたから薄く知ってるだけだよ。結花がポストカードを飾るなんて相当入れ込んでるよね。今まで神楽塚なんて興味なかったのに、一体どうして急に?」

「須藤さんが神楽塚・櫻組の古参ファンで、前々から話は聞いていたんだけれど、忘年会の二次会で女子だけで須藤さん家で飲んだ時、櫻組公演のDVDを流してね、そこにいた全員が氷雅ひょうがジオン様に堕ちたの」

「ひょうがじおん……」

「そう、ジオン様。ダンスが超絶キレッキレだし、歌声も朗々と響くし、なんといってもこの美しいビジュアルがもはや生まれ持っての才能でしょ。まるで内側から光を放つみたいだと思わない? 不穏な世界を照らすために降臨した太陽神かな?」

 結花がうっとりと語る内容は大げさな表現ではあるものの、私も同意する部分はあった。それにこの表情、言い回し。真璃杏まりあんというペンネームでアニメ「闇の姫」に出てくる双子の超能力者、「月子と星子」の百合二次創作にはまっていることを結花に打ち明けた時の自分を見るようだ。結花が「闇の姫」にも、百合作品にも、そもそも小説にも興味がないのをわかっていながらもどうにか理解して欲しくて説明しているうちに、いい気持ちになってしまったあの時の私も陶然とした顔をしていただろう。結花も真顔で聞きながらこんな重苦しい気分だったのだろうか。


 私の百合創作の趣味も、「闇の姫」の活動用に結花に内緒で作った真璃杏アカウントも受け入れてくれたけれど、せっかく同棲しているのに夜も週末もパソコンに向かう私に不満が募っていたのだろう。張り切って感想を伝えてくれた時も、誤字や脱字、そして結花なりの指摘が私には辛くて気まずくなってしまった。

 だからお詫びの気持ちも込めて、付き合って四年目の記念日旅行を計画したら本当に喜んでくれたけれど、急な原稿依頼を断れずにキャンセルを決めた私に怒り、予約していたホテルにひとりで泊まりに行ってしまった。

 あの時は密かに記念日に合わせて書いていた小説「相違相愛」を送ったことがきっかけでようやく仲直りできた。勝手ばかりした私を受け入れてくれた結花が始めた推し活を、否定などできるわけがない。でも……面白くない。


「よくわかんないけれど、結花がその氷雅さんに夢中なのはよくわかったよ。公演も見に行くつもりなの?」

「須藤さんがチケット取れたら回してくれるかも知れない。でも他の子たちも行きたがるだろうし、そもそもジオン様の人気が凄いから今は友の会の会員でも櫻組のチケットがなかなか取れないんだって」

「そっか。行けたらいいね。それじゃ、そろそろ髪を乾かしておいでよ、風邪引くよ。私も小説書かないといけないから」

 リビングのローテーブルに置いてあるノートパソコンを開きながら言うと、結花は後ろから画面を覗き込んだ。 

「今は何を書いているの?」

「闇姫のリレー小説だよ。日曜に公開なのにまだ序盤だから焦ってるの」

「ふうん。最近、『相違相愛』は書いていないよね」

「ああ、うん……。もちろん書きたいんだけれどちょっとリレーが忙しいし、またアンソロの締め切りも迫ってきているから、その後かな」

 言葉を濁した私を見て、結花はちょっと寂しげに頷いた。

「そっか。リレー小説も楽しみにしているから。頑張ってね」


 結花が「相違相愛」の続きを待っているのはよくわかっていた。結花と私をモデルにした、私にとって初めての創作百合小説。発表と同時に私は彼女がいることと、彼女のために書いた小説だということも公表した。交流している百合作家さんや読者さんたちにどう受け取られるか心配もあったけれど、思いがけなく好意的に受け止められ、続編のリクエストも多くいただいて、私も早速書き始めた。


 でも、それからまもなくリレー小説のお誘いが来て、私はそちらにかかりきりになった。

 記念旅行の直前に急な原稿依頼をしてきた、憧れの百合二次創作作家のそらこさんは無事に原稿を提出した私に恩義を感じてくれてSNS上でよく話す仲になり、次第にそらこさんの周囲の作家さんたちとも親しくなった。すると、同じく百合二次創作をしている大学生作家、夢坂ゆめさかるるさんが「そらこさんと真璃杏さんと三人で闇姫百合リレー小説を書いてみたい」と言いだしたのだ。るるさんも人気の物書きさんでもともとファンだったから、信じられないほど光栄で嬉しかった。そらこさんも乗り気になり、あれよあれよという間に企画が進み、毎週日曜夜に交代で三千字程度で発表することになった。内容に関して事前打ち合わせはなし。三週に一度の発表だからなんとかなると思っていたけれど、実際は前の人が公開した小説を読んでからスタートして一週間で書き上げなくてはならない。

 そらこさんはアマチュアといえども同人誌発行と会員制ファンサイトの運営で生活しているベテラン作家だし、大学生のるるさん共々、時間の融通が利く上に執筆も早い。お遊びだから楽しんで書こうと言われたけれど、私はまだ初心者だから構想を練るにも書くにも時間がかかるのに、朝から晩まで会社員として働いているからそもそも時間が足りない。巧みで美しい文章を書くふたりの足を引っ張ることなく一週間で書き上げるのはかなりのプレッシャーだ。


 前回のるるさんの小説をもう一度読み、仕事中に付箋にざっくりと手書きしていたプロットに目を走らせ、メモを付け足しながら創作の世界へと意識を飛ばす。私にとって小説を書くのは自分の夢想でしか見られない世界を言葉に置き換えて世界へと届けることだ。「闇の姫」はとっくに終わってしまったアニメだから、どれだけ現実を忘れて私にしか見えない世界に心を飛ばせるかが重要だった。創作小説の「相違相愛」を書いている時も同じで、結花との実際の思い出がベースになっているものの、物語に昇華させるにはやはり夢想の世界に飛び、そこで登場人物たちが自由に動くのが映像で見えるほどにディティールを突き詰めなくてはならない。

 

「それじゃ、私先に寝るね、頑張ってね。おやすみ」

 声に振り向くと、髪を綺麗に乾かした結花がそっと顔を寄せてキスしてくれた。歯磨きしたばかりの爽やかな吐息が私の唇に残される。結花が持っているスマホの画面にピンクの衣装が踊っているのがチラリと見えた。氷雅ジオンの動画を見ながら眠るつもりなのだろう。

 おやすみ、と言ってまたパソコンに向き直り、画面に表示されている書きかけの小説の続きにカーソルを合わせ、キーボードを叩き始めた……が、すぐに指が止まってしまった。

 寝室の引き戸を開けると案の定、暗がりの中でベッドに横になった結花がスマホを見ていた。近づいて画面を見るとやはり氷雅ジオンが踊っている。無言で隣に潜り込み、スマホを取るとベッドの下にぽとりと落とした。

「どうしたの?」

 びっくりしている結花の唇を唇で塞いで黙らせた。

「ねえ、したい。だめ?」

 結花が目を細めて私を見つめる。結花がその気になった時のしぐさだ。そのゾクゾクするような視線だけで私は濡れてしまう。

「……だめじゃない。でも、小説はいいの?」

「したあと頑張る。それか明日頑張る。今はすごくしたいの」

「百合作家の彼女も大変だなあ」

 呟きながら結花が腕を私の首に回し、強い力で私を引き寄せた。


 お互い夢中で求め合った後、私は額ににじむ汗を拭いながら結花の横に倒れ込んだ。結花は息を弾ませながら私の目を覗き込む。

「万智……もしかしてジオン様にやきもち妬いてる?」

 私は何も言えなかった。そうだ、私は氷雅ジオンに嫉妬している。だから小説を書くために必要不可欠な夢想ができなかったのだ。

 私が黙りこくる時は肯定なのだとよくわかっている結花はクスクスと笑った。胸元の汗がカーテンの隙間から漏れる月明かりを受け、まるで宝石を散らしたように光っている。

「そりゃあジオン様はすごく素敵だけれど、万智が百合の世界を尊く思うのと一緒だよ。私もジオン様がただ尊いの」

「そりゃそうだろうけれどさ。本気になられたら私だって困るし。ただ、今まで結花が何かに夢中になることってあんまりなかったから心配で」


 結花はあまり感情を顔に出さない。大学時代もミステリアスな人として周囲からもちょっと浮いていた。講義での発表は理論的で、課題レポートはよく教授に優秀なものとして挙げられていたけれど、飲み会の誘いなどは断り、一人で行動して授業が終わるやいなや大学を出てアルバイトをかけもちしていた。学食でたまに見かけるといつも一人で激辛カレーを黙々と食べていたので、辛いものが苦手な私は密かに尊敬し、外見も好みだったから一度話してみたいと思っていた。けれどその頃、私には付き合っている彼女がいたから、結花は同じ学部の学生のひとりとして遠くから眺めているだけだった。


「まあ、確かに私は今までたいした趣味もなかったからびっくりさせたよね。でも神楽塚ファンなんて結構いるんだよ。特別なことじゃないよ」

 そう言いながら私の額を撫でていた結花は、はっとした顔になって再び私の目を覗き込んだ。

「もしかして何か嫌な思い出でもあるんじゃない? さっき、知り合いが神楽塚のファンだったって言ったよね? どんな知り合いなの?」

 結花は鋭い。私がごまかそうとしても嘘をついてもすぐに見破る。何度かの喧嘩を経て、こういう時は正直になるのが一番だと学んでいた。

「……昔、片思いしていた子。もともと友だちだったんだけど、その子は神楽塚の藤組トップスターのファンだった。最初はライトなファンだったけれど、一度公演に行ったらもう夢中で、ずっとそのスターの話ばかりで、公演期間中は時間とお金があれば観劇で遊んでくれなくなって。私が嫉妬したら、友だちなのに趣味語りもできないなんて窮屈だ、ファン仲間といたほうが楽しいって告白もしないうちにフラれたの」

「何それ……」

 結花は吹き出したが、私が暗い顔をしていたのだろう、すぐに笑いを引っ込めた。

「なるほどね。だけど、心配することないよ。一番大切なのはもちろん万智だから、聞きたくないならジオン様のことは話さないし、ポストカードだって外すよ」

「いいよ、私だって趣味で百合小説書いているし、百合作家さんや読者さんと交流もしているもん。結花が我慢して応援してくれているのわかってるのに、私が結花に我慢してなんて言えるわけないよ」

「うん、確かに他の人たちとSNSで仲良くしているのは見ていて面白くない時はある。私は小説の感想を伝えるのが下手だし、リレー小説を始める辺りから、そらこさんや夢坂さんとしょっちゅうやり取りしているから、私よりも彼女たちといるほうが万智も楽しいかなと思ったりするし」

「やっぱりそうだよね……でもみんな、私に大好きな彼女がいるってことは知っているからね。そらこさんにも彼女がいるし、るるさんの本体は恋愛しない人だしね。『相違相愛』が良かったからリレー小説を一緒に書きたくなったんだって。だから仲間意識みたいなものだよ」

「わかっているけれど、私はひっくり返っても小説なんて書けないし、いい読者にもなれないから、入れない世界をただ見ているしかできないでしょ。つまんないものはつまんないよ。唯一、誰よりも私が理解できる『相違相愛』もさっぱり書いてくれないしさ。でもジオン様のお芝居やダンスを見て、圧倒的な煌めきを浴びると全身が浄化されて、小さなことは気にならなくなったんだよね。ジオン様のおかげで万智にも優しくできていると思うもん」

「確かに、最近私がリプの応酬していてもちくちく言わないね」

「そうでしょう? だから私がジオン様のファンになったのは、万智にもいいことだと思うんだよね」

 結花が身を起こして力説するのに合わせて、乳房がふるふると震えた。

「そうかなあ。単に、私からジオン様に関心が移ったからじゃない?」

 その柔らかでしっとりした胸を指先でもてあそびながら言うと、結花は少し眉根を寄せた。

「もう。そんなこと絶対思えないように身体に叩き込んであげる」

 あっという間に組み敷かれ、私はあわあわと結花を見上げた。

「結花さん、あの、今日はまだ火曜日ですよ? 週の前半ですよ? もう一時近いのに、まだするの?」

「仕方ないでしょ。火を点けたのは万智なんだから、責任とってよ」

 ああ、いつから結花はこんなに魅力的な女の顔をするようになったのだろう。大学時代、ただの知り合いだった頃から可愛い顔をしていると思っていたけれど、今はまるで美しく気高い女豹のようだ。結花になら、喜んでこの身を捧げたい。

 結花に散々愛を叩き込まれた私はそのままベッドの海に沈んだが、吹っ切れたのか翌日からものすごい勢いで書けて、日曜には無事に小説を公開できたのだった。


 結花が櫻組公演を観劇できることになったと大喜びで帰ってきたのはそれから一週間ほど経った日のことだった。会社の須藤さんが友の会の抽選に数公演当たり、なかでも貴重な千秋楽に結花を誘ってくれたらしい。

「千秋楽なんてすごいじゃない。なんで結花をご指名なの?」

 ジオン様だけではなく、ただの会社の先輩としか聞いていなかった須藤さんにまでやきもちを妬いてしまう。

「この間、須藤さんと行った営業コンペ、私のプレゼンで勝ち取れたからご褒美だって!」

「よかったね、おめでとう……」

 私は力なく呟いた。


 それからの結花の浮かれっぷりはすごかった。公演には櫻組のイメージカラーであるピンクを身につけて行くのがファンのお約束らしく、ピンクの小物や洋服がどんどん増えていった。たった一公演しか行かないのにと言うと、いつの間にか友の会に入会したらしく、今後の観劇のためにも必要だと言う。公式ショップに行って氷雅ジオン監修の観劇バッグを買って、別売りのキラキラチャームでデコレーション。毎日のお風呂上がりにはシートパックを欠かさず、美容院ではいつもより高いトリートメントを選んで、肌も髪もツヤツヤに仕上がった。

 私とのデートでここまで準備をしたことがあっただろうか、いや、ない。もちろん面白くはないけれど、ここで何か言って昔の彼女の二の舞にはなりたくない。私だって大人になったのだ。私の武器を使って歩み寄ることだってできる。

 公演前日、バッグと共に買っていたというパンフレットを再度読んで公演の勉強をしている結花の肩をちょんちょんと私はつついた。

「結花、あのさ、私、ジオン様の二次創――」

「あ、そういうの私求めない」

 振り向きざまにあっさりと言われ、私は動揺した。

「そういうのって……」

「ジオン様をモチーフにした二次創作百合小説を書こうかって言いたいんでしょう? 申し訳ないけれど、正直いらないわ」

「えっ……」

 やはり結花にはお見通しだった。頭の中でなんとなく思い描き始めていたプロットをぐしゃりと握りつぶす。

「神楽塚って公式からの供給が潤沢で、公演中もグッズや舞台写真がどんどん発売されるし、先々の公演についても順次ビジュアルや配役が発表されるし、毎月雑誌も出る。さらに過去の公演DVDもたくさんある。全てをチェックするには時間が足りないくらい。ジオン様は演目によって声もしぐさも変わるし、ショーも実は過去の作品のオマージュが隠れていたり、観るたびに発見があるの。きっと何度見てもジオン様が散りばめた全ての細工に気づくことなんてできない。それにどんなすごいプロの作家だって、ジオン様の美しさ、気高さ、舞台のきらめきや荘厳さは書き表せないと思う。絶対がっかりする。だから、わざわざ素人が書いた二次創作を読みたいとは思えないんだよね……たとえ万智が書いたものでも」

 よどみなく放たれる結花の言葉が心臓に無数に突き刺さる。

 素人が書いた二次創作――悪気がないのはわかっている。でも今、小説は私にとって最大の武器だった。終了したアニメの二次創作小説はまるで公式の作品のように出すたびに喜ばれるから、ジャンルが違ってもきっと喜ばれると思ってしまった私の浅はかさが恨めしい。

 あるいは、少しずつ読者が増え、人気作家のそらこさんやるるさんに仲良くしてもらっていい気になっていた私のおごりを結花は的確に突いたのだろう。恥ずかしさしかない。

「所詮、二次は二次……公式には勝てるはずもないよね、わかってる」

 私は敗北を認めるしかなかった。

 言い過ぎたと思ったのか、結花はごめんごめんと謝りながら私の髪を撫でた。

「だって今だって忙しすぎて『相違相愛』も書けていないのに、ジオン様の小説まで書けるわけないでしょ? じゃあ書いてって言われたら逆に困るんじゃない?」

「まあ、それはそうだけれど……。でも、結花はジオン様が大好きじゃない。もし付き合えたら、とかこんなデートしてみたい! とか想像したことはないの? そういうの文字で読みたくない?」

 それもまた私の心配していたことだったけれど、結花はふふっと笑って首を振った。

「ジオン様は私にとってイエス・キリストとかゴータマ・シッダールタみたいに次元が違う神々しい存在だから、庶民の私が付き合いたいなんて余りに恐れ多くて考えたこともないよ。ただあの輝くような笑顔で怪我なく元気に舞台に出て欲しい、それだけ。同じ時代に生きられただけで幸運だとしか……」

「そういうものかねえ」

「じゃあ、万智は月子や星子と付き合いたいって思っているの?」

 結花の目が探るような鋭さを帯びる。私は慌てて両手を振った。

「まさか。私は彼女たちの愛のストーリーを見ていたいだけ。超能力も使えない凡人の自分なんてあの世界観にそぐわないもの。敵に殺されるモブがせいぜい。そこら辺はわきまえているつもりだよ」

「同じ同じ。アンソロの締め切りまであと一週間だし、万智も私がここにいるより執筆に集中できていいんじゃない? 明日は観劇前に劇場のカフェでランチを食べるから、早くに出かけるの。だから存分に書いてね」

 確かに結花が不在や、寝ている時のほうが夢想の世界に入りやすくて小説に集中できる。

「わかった。アンソロ早く仕上げて、結花が帰るまでに『相違相愛』の続きも書いて見せるから!」

「嬉しい! さすが真璃杏先生!」

 おだてられた私はさっそくプロットを再考し始めた。


 翌日。喜びと緊張で頬を紅潮させた結花を見送った後、静かな部屋で黙々とパソコンに向き合った。テーブルの上には何枚ものメモが書かれた付箋。アンソロの小説に行き詰まると「相違相愛」の原稿ファイルを開き、疲れるとアンソロ小説に戻った。

 空腹を感じて時計を見るともうすぐ十三時だった。カップラーメンを用意しながら今頃結花は、と思う。劇場前で十一時に須藤さんと待ち合わせ、まずは公式ショップに行って追加で発売された舞台写真を購入。それから劇場に入り、カフェで公演記念の特別デザート付きランチを食べ、十三時からの公演を観劇。もう席についてわくわくしているだろう。

 結花のSNSを見てみると、劇場の写真や公演ポスター、公演デザートの写真が順に公開されていた。結花の胸の高鳴りまで手に取るように伝わる。「初観劇おめでとうございます!」とか、「見つけたらご挨拶しますね」などのリプライが付いている。神楽塚関連のフォロワーも増え、私の知らない結花の世界がどんどん広がっていく。

 中世の皇太子のような格好をした氷雅ジオンと豪華なドレス姿のトップ娘役が悲壮な表情で抱き締め合う公演ポスターを拡大して眺める。男性とも女性とも違う、神秘的な美しさは確かに魅力的だ。私がどうあがいたところでジオン様には敵わないし、結花本人も言うように尊いと崇拝しているだけだろう。

 でも今朝、普段感情をあまり顔に出さない結花が初観劇の喜びで頬を染めている様子は本当に可愛かった。贔屓をいざ実際に目にして、どんなに胸をときめかせているだろう。そんな結花を、一番近くで見ているのがなぜ須藤さんやSNSのフォロワーなの? どんな結花だって私が一番近くで見ていたい。

 ――だって結花は私の彼女なのだから。

 一度そう思うといても立ってもいられなかった。指は完全にキーボードから離れ、スマホで劇場への行き方を検索し、十分後には家を出ていた。


 劇場から上気した顔で須藤さんと話しながら出てきた結花は、ピンクのイルミネーションで飾られた街路樹にもたれて待っていた私に気づき、驚いた様子で走ってきた。

「万智! どうしたの? こんなところまで来て」

「ごめんね、家で待っていられなくて……」

 仕方ないなあ、と言いながらも結花の目は優しく、私を須藤さんの元へと連れて行ってくれた。

「須藤さん、この子がルームシェアしている万智です。近くまで来たから待っていたみたいで……だからこの後のお茶の予定、パスさせてください。すみません」

「あら、あなたが万智さんなのね。結花ちゃんからよく話は聞いています。じゃあ私はもう一度ショップに寄っちゃおうかな。今度は万智さんも一緒に観劇できたらいいわね。今日のジオンくん、本当に素晴らしかったわよ」

 職場の優しいお母さんという様子の須藤さんを見て、ほっとしながら挨拶をした。

 その場で須藤さんと別れ、駅へと歩きながら結花は私に尋ねた。

「アンソロ小説は書けたの?」

「十三時頃まではアンソロも『相違相愛』も順調だったよ。だけど……今頃結花はジオン様にときめいているんだなと思ったら、ジオン様にやきもちというより、そんな結花の横に私がいたいと思ったの。ときめいている結花はとっても可愛いからね」

「じゃあ、私も友の会に入ったことだし、次の公演は万智の分もチケット申し込んでみる?」

 うん、と頷きながら私は結花にピンク色の袋を渡した。結花を待つ間に公式ショップで選んだ、氷雅ジオンが二番手の頃の公演DVDだった。

「まだそのDVD持っていなかったよね? 一緒に観ようと思って」

「嬉しい! 家に帰ったらすぐに観てもいい? あ、でも執筆の邪魔か」

「ううん、大丈夫。たぶんもう今の私は、結花が横でニコニコしている方が書けると思う。それに……」

 私は結花の耳元に口を寄せた。

「行き詰まっても、また直接身体に愛を叩き込んでもらえば、バリバリ書けるようになるってわかったから」

 もう、と私を叩くふりをした結花が、「百合作家の彼女はほんと大変だわ」と呟くのが聞こえた。

                      (終)

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百合作家の彼女 おおきたつぐみ @okitatsugumi

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