第2話 追憶

その時の青年は二十、二十一ほど。黒スーツに身を包んだ青年は傍から見れば分限者に見えなくもなかったであろうが、その中身は内省の深い人の慚羞を帯びて、猫のようなしゃなりとした背格好をしていたが故に、街ゆく人はきっと彼自身が分限者なのではなく彼の家が彼にそれを与えているのだろうと思ったに違いない。まあ実のところ、彼は彼の相棒とするところの”音楽”の為に、否、真実は恋焦がれてやまぬ人の為にそれに身を包んでいるわけなのだが。





そうやって都会の人混みの中を、時に気恥ずかしく、時に尊大な気持ちで、しかしながら結局、早々に帰りたいなどと低徊した歩調で歩いていた時だ。突然ドッ!と肩と背に、衝撃と重みとがのしかかった。そこから何が起きたのかと考えたのはものの数秒で、視界の端に垂れ下がった腕あり、半身に重圧ありを感ずれば、事はすぐに結びついたように思う。青年は自分の肩のあたりにあるであろう顔に向き、蔑みの視線を送った。このような突拍子もない事をしでかす人間は、私の知る限り1人である。


そこにある顔は青年が思い描いた通り、血色のよい美男。しかし青年よりも遥かに体格の良い(そして調子の良い)友人の姿。

「やぁやぁ!良い朝だな、君の歩みも愉快と見える。それに…」

ここまでを快活に話した友人は、青年の肩を離れ一歩後ろにさがった。全身をなぞるようにして見て青年の不機嫌な顔へ行き着くと「ふむ」と顎に手を当てた。

「君、案外似合うじゃないか」

そう言って、その男の手近な際立った性質である愉快な調子がその時だけ抜け落ちたのを見るに、青年は何だか悪くない気分にもなったが、しかしそんな言葉も素直に受け止められず、やはり気恥ずかしくてつまらない言葉しか出ないのである。

「誰が」

青年は自分の事を分限者とも、自分の相棒とする所の”音楽”が為でも無く、真実は彼の恋焦がれる人の為にあると知っている彼、なお言えばこの黒服を貸し与えた正真正銘の”富限者”の目を真っ向から見た。彼は落ち着き払ってにこりと笑っているが、青年は彼の余裕の半ばほども無い。叶わぬ敵と決め込み、目の前に差し掛かった橋を足早に渡る。

青年の足早に及ぶ逃亡も虚しく、友人は容易く隣に並んだ。

「今日はヴァイオリンの日だそうだよ」 

たわいもないこの会話の出だしを青年は心底五月蝿いと思った。何故なら彼の言ったヴァイオリンという単語は、今青年の頭を一瞬だけ破綻させる能力を得ていた。何を言おう青年の恋焦がれる人はヴァイオリン弾きなのである。青年はそういう意地の悪い事を言っては嬉しそうに破顔するこの友人を憎くも思うし、別な所では心強くも思っていた。実際彼の存在無くして彼女を知る機会も得なかったのが論より証拠。故に青年は押し黙るより他に手がない。そうして彼は青年の情緒を楽しむ。互いが少なからず相互利益を得たわけであった。





「そういえば君に頼みたい事があった」

彼は青年の隣で同じように橋を渡りながら、持っていた抱鞄の中、無造作に譜面の束を取り出し手渡した。渡し時、一瞬風に舞いかけた譜面を青年は慌ただしく受け取ったが、本人は悠長に事の説明をし始める。彼は大まかに言えば次のような事を言った。ーこれは私のもうじき期限の迫りつつある課題であるが、これが1人の評価を得るだけには納得できず、なるたけ色々な人の目を通ったうえの芸術品でありたいー。青年はこれを聞き、一時はこれが風に預かりかけたのだぞ…と冷ややかな視線を送りながらも、見るに眠気を噛み殺している友人をどこか羨ましくも思うのであった。

この友人の名を川村と言う。出会いは、今より一年前、青年がピアノの練習に借りた部屋の次の予約が彼にあたった。彼は青年が音楽の時を過ごしている最中バンッと無作法にその扉を開けると初対面、開口一番で物申した。

「今の曲はとんと聞いた事がないが何の曲だ」

そしてずかずかとピアノの前の譜面を勝手に取り上げた。青年の心は高く鳴る。青年は彼に覚えがないが、彼はさも青年を知っているように窺えた。青年は人付き合いの余り好くない質であったので、この人は同学科かさもなくば知人だっただろうかと心を暗くし、それは遂に名前を思い出せない自己嫌悪に陥るに至った時、彼はふと感嘆の声を洩らしたのである。

「君の曲かい?」

そこから友情が始まった。

この彼と青年が心安くなったのは音楽が仲立ちをしたのである。今こうして隣を歩くも、”音楽”を前にすれば親しげに物を言い合えたからであった。

こんな風で、言葉を交わすようになったが一年前。彼が青年の恋路を知ったのが1か月ほど前。そして彼女に関する報知を得たとまたもや無作法に扉を開けたが1週間前。「容姿はその持ち主を何人にも推薦する」と黒服を貸し与えたのがつい一昨日。こうして彼は彼の相棒とする所の”音楽”と、恋焦がれる人との両方を得るべく、彼女が出演する演奏会に彼と共に足を運ぶのであった。

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呆れて事も言えぬゆかりなき地の言の葉の 松井田 @Matsuida

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