呆れて事も言えぬゆかりなき地の言の葉の
松井田
第1話 洋行
君は先非を悔いただろうか。人間的の懺悔と動物的な恐怖との狭間で、何時までも何時までも泣き叫んだあの日の所業を、今でも悔いているだろうか。
船暈にも似通うたその違和感に、はなはだ惑わされる。我ここにありと叫んで、事がどうなるとも知れず、ただただその不快さがどこか遠くへ打ち出てゆくのを期待して、また、我ここにありと再び願うばかりである。
奇なる青年の、最も秀でた所は食指鮮やかに動く事であった。決して秀でた語り部ではなかったが、野暮な重苦しい音楽を押し付ける事もなかった。そうしたオウルラウンダな側面が彼を平凡にさへさせてしまう事に、私は自分だけが真実であるという煌々とした笑みを浮かべていたのである。偶然にもそれに気づいたのは彼の弾くトルコ曲。あれは私がピアノではなく、打鍵楽器である事を思い出させた。まるで、まだ地面を舐めて遊んでいた子供の頃、コンクリイトに石灰石を砕き書き込んだ丸四角三角を、飛んで、跳ねて、体の軸を失うを楽しんでいた頃に似ていた。私は彼にそうした、勝手な故郷のような温かさを感じては孤高を楽しんでいたはずの、誇り高き漆黒の木面を、艶やかに色めかせるのであった。
その彼が、さも当然の如く便りを無くし、かの遠方の地へ行ったかと思わせる歳月を持って、洋行から帰りそれこそ私のもとに帰郷を果たした時。私は心配や、遠く置き去いた憤慨をも忘れ、まさに第六感に触れ鋭く胸に突き刺さったものがあった。
その酷く健康を害した顔色からは、甚だ理解し難い音が出た。それは終ぞ、自己から出づる音と言う事をも忘れてしまうほどに美しい音の調べであった。併しこれまで鮮やかに動いた食指は罪深き罪人の懺悔に重々しく、けれども私を愛撫するように触れたのである。その音に、私は然る健全な想いを募らせざるを得なかった。
きっと、彼は何かを失うたのだ。
押し当てた指がなす術なく地を這い、その行方見失った時、どこからともなく滴った雫に鍵が「あ」と言いかけて口を紡いだ。一間隔おいてポタポタと降り出した小夜雨に、私との記憶も忘れ縋るように潜った背から見てとるに。
「君、どうしたのか」
と、そう言える口があれば、この何にも言い難し胸の支えは取れただろうか。私はどうしたって、される身の造りをしていたから、そうして離れゆく手を掴むように鍵は出来ていないのである。私が彼に出来る事は、彼からしか齎(もたら)されないという現実に、酷く胸が痛み、これを気圧のせいにして体を押し縮めるに致し方なかった。
そうして、彼は机に伏した。
翌朝、その異変を”私のみ”が感じ取れたのは、私がその青年を心配に、心配に、見守っていたからであろう。
私は、そのあまりに唐突な衝撃的なトラウマに、生前にまみえ、触れ合えた身であるからにして、私こそが気のつかぬ間に彼を殺めてしまったようなそんな感覚に陥らせた。私の存在は彼を引き止める所か、死神の鎌となり、彼の喉元掻っ切ってしまったのである。私は相対する現実に、慟哭にも似た発狂音を出さざるを得なかった。白鍵黒鍵の間をギリギリとすり合わせてまるで、ササクレを作るように。あぁ、友を死なせてしまった。許しておくれ、許しておくれ、親愛なるクリストフォリよ…
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