怪物と悪夢

雨音鹿子

第1話

 「やあ、君はいったいどこからやってきたのかな?」


 開口一番、その青年は朗らかに笑ってそう問いかけた。どうもこうも……と小春は悲鳴をあげかけた口を閉じる。傾きかけた日が差し込む窓の外から、カラスの鳴き声が聞こえた。日曜の夕方、億劫でもそろそろ夕飯を作らなければ、このままでは餓死してしまうとやや大袈裟な気持ちで自分を奮い立たせたところだった。一人暮らしにはありふれたワンルームの部屋で、中断したゲームをそのままに立ち上がると、なぜか玄関に見知らぬ青年が尻餅をついて不思議そうに小春をみつめていた……。


 「あの……警察呼びます」

 「うん……?」


 そう言ってスマホに手をかけたものの、相手はとくにこちらに危害を加える気はなさそうで小春はわざわざ警察へ電話するのも面倒だなと躊躇した。もう一度青年の様子を見ると、自分の体の無事を確かめるように身なりを気にしているように見えた。もしかして酔っぱらって入る部屋を間違えたのだろうか?鍵は閉めているはずだったが、もしかしたらたまたま閉め忘れていたところに意図せず入ってきてしまったのかもしれない。


 「ここは……もしかして▲▲▲ではないのかな?」

 「……?なんて?」


 今度は小春が首を傾げる番だった。どうも聞きなれない単語だったが、その発音もどうも知らない国の言葉のように聞こえた。


 「困ったな、ええと、落ち着いて聞いてほしいんだけどね……僕はどうやら違う世界から転移してきちゃったみたいだ」


 まずい、やっぱり酔っぱらいみたいだ。小春はなんとか彼をこの部屋から追い出す方法を考えはじめた。気のせいか、カラスもいつもより不気味な鳴き声で夜の訪れを告げている。

 彼はついと顔を上げて窓の外へ目を向けた。そして、ほっとしたように胸を撫で下ろした。


 「ああ……いや、ちがうな、まだ『転移しきっていない』みたいだ。ちょっと待っておくれよ」


 ゾクリと小春の背を悪寒が襲う。なんだろう?いつもはうるさいくらいの電車の音が、今日ばかりは聞こえない。急くような気持ちでスマホを見る。<圏外>の文字にいよいよ体が強張った。


 「大丈夫、怖がらないでじっとしていて」


 青年は、尻餅をついた体制から少し身を起こすと、瞑想するかのように両手を広げて息を吸う。この夕暮れの都心の住宅街に、木々のざわめきが聞こえた。彼の様子とは裏腹に、小春は息苦しさを感じて両手で胸元を押さえる。怯えと、焦りと、『何かが起こる』未知への感覚に足がすくむ。


 「(ど……どうしよう)」


 『何か』知らない感覚が、自分の肌の上をするりと流れてくる気がした。生温い風のような、いや、生き物のように意思を持って流れている気がする。その『風』が、全身を包むような気配がすると、逃げ出したい衝動に駆られて小春は……――。


 「っ……」

 「……!ダメだ!今出たら――」


 この場を離れたい、その一心で彼が座り込んでいる横をすり抜けてドアを開ける。戻ることなど考えていなかった。ひとまず外に出さえすれば、走れるだけ走って、交番でも店でも駅でも、人がいる場所に……そう思っていたのに、一歩外に出た小春の眼前には真っ青な空が広がっていた。


 「……え…?」


 後ろから、青年が何か叫ぶ声が遠ざかっていく。地面がない。落下している。咄嗟に顔を向けると、あっという間に遠く離れていく青年の髪が一瞬エメラルドの輝きを放ったのが見えた。それから――小春は意識を手放した。

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怪物と悪夢 雨音鹿子 @AmanekoXX

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