方舟の未来

藍染 迅

ノアの末裔

 雨は四十日と四十夜降りつづいた。空は闇に包まれ、ときおりひらめく稲妻以外に光はなかった。

 大地は水に覆われ、すべてのものが押し流された。


 生き延びたのはノアとその家族、そして彼が方舟に乗せた生き物たちだけだった。


「すべては神のお告げ通りだった」


 ようやく晴れた空の下、一面の洪水を見下ろしてノアはいった。


「水が引くのを待とう。船に乗せた食料を分かち合って生きよう」


 神に許された生き物たちの間に争いはない。限りある食料を分け合いながら、彼らは方舟の中で水が引くのを待った。


 百五十日後、船はようやく大地に底をつけた。


「ようやく船を降りる時が来た。神に感謝を」


 しかし、洪水にすべてを奪われた大地には生命が存在しなかった。植物さえ死に絶えた不毛の土地が見渡す限り広がっていた。


「生き物たちを放ち、野に種をまこう」


 ノアは方舟に納めていた生物を地上に解放した。地に生きるものは地に。空を飛ぶものは空に。水に生きるものは水に。


「お父さん、わたしたちは何を食べればいいの?」


 子の一人が声を震わせていった。方舟の食料は既に尽きていたのだ。

 生き残りの生物、まいたばかりの種を食べることはできない。それでは神の意志で生かされた尊い命を奪うことになる。

 

「ああ、われら家族は何を食べて生きれば良いのか?」


 ノアとその家族は食べ物を求めて大地をさまよい、空を見上げて涙した。神に救いを求めてひたすら祈った。


「神よ、われらに糧を与えたまえ!」

 

 何日たっても神の答はなく、食料となるものは現れなかった。

 それでも彼らは歩き続け、やがて水のほとりに来た。


 最早、足を踏み出す力が残っておらず、がくりと水辺に膝をついた。女も子供もやせ細り、目は焦点を失って宙を見つめていた。

 一族の様子を見て、ノアは悲しんだ。

 

「いっそわれらは水から上がらねば良かったのか?」


 飢えた家族をいたわりながら、ノアは涙をこぼした。涙はしずくとなって水面に落ちる。

 その波紋の広がりに、靄のように漂うものがあった。


 ミドリムシだった。


 光合成により養分を創り出し、体内に蓄えることができるミドリムシは、光と水があれば生きられる。

 そして細胞壁を持たないミドリムシは、ヒトの体内で簡単に消化吸収できる理想的な栄養源だ。


「おお、神はわれらに糧をお与えになった。われらはこれを食して生きよう」


 ノアたちは海辺に居を定め、ミドリムシを食べて生き延びた。

 時が流れ、やがて地上に命が満ちあふれた。


 ◇

 

 大洪水から百万年が過ぎた。


 われらノアの末裔は、神の糧であるミドリムシを食べて繁栄した。母なる海はわれらを慈しむように命の糧を与え続けている。


「神と先祖ノアに感謝を!」


 わたしは日々の恵みに対して祈りを捧げながら、ゆるりとした海流に身をゆだねる。


 われらが海に生きるようになって以来、地上の様子には疎くなった。ときおり岸に近づいた仲間が、地上の生き物を見かけることがある。その数は長い年月の間に大きく増えたようだ。


 近頃は、かつてのわれらのように二本足で歩き回る生き物を見かけるという話を聞いた。進化というものは似通った道を進むことがあるらしい。


 とはいえ、地上の彼らが海に帰るにはさらに百万年の時を必要とするだろう。それは新たな大洪水の訪れを伴うものになるのだろうか?


 わたしは取りとめのない考えを打ち捨てて、溜息をひとつついた。


 ぷしゅうと頭上の鼻孔から息が白く吹き上がった。代わりに清浄な大気を胸いっぱいに吸い込む。

 フジツボがついた体をゆらりとくねらせ、力強く尾ひれを動かせば、わたしの体はぐんぐんと水中深く沈んでいく。


「ああ、わたしは満ち足りている。そして自由だ」


 地上の生き物たちはこの充足を知っているのだろうか? 彼らも神の許しを得られるのか?


 わたしの想いは深い深い闇に溶けて、消えていった。


 ◇


「クジラってのんびりしていて、幸せそうね」


 百万年後の地球で、生活に疲れたヒトが船に揺られていた。

 働いても働いても賃金は上がらず、残業をするなといわれて会社全体の生産性が伸び悩む。限られた資源を奪い合う社会の歪みが、彼女の身心を疲れさせた。


 限られた糧を奪い合うがために誰もが苦しむのだ。しかし、ヒトはそれに気づかない。

 

「会社も苦しいんだって言われても、わたしだって苦しいわよ」


 上司や同僚との間柄も近頃はぎすぎすしてきた。つまらないことで口論となる機会が増えている。


「あ~あ、今の職場も変わり時かなぁ」


 無理やり消化させられた有給休暇。三日間の休みを利用して彼女は海にやってきた。

 ぼんやりと置いた視線の先で、クジラが一頭水面で潮を吹いた。


「ここまで来るのが大変だけど、ホエールウォッチングっていやされるわ。たまにはぼんやりするのもいいわねぇ」


 カチカチ、カチカチ、キーボードをたたいて終わる彼女の一日に比べて、波に漂うクジラの姿は自由で幸福に見える。


「クジラは良いわねぇ。何にも悩みがなくて」

 

 デッキから海面を見下ろす彼女の首筋に、ぽたりとしずくが落ちた。


「帰ったら何食べよう。がっつり二郎系かな。 うん? 波しぶき? それとも雨かしら?」


 見上げれば、空に黒雲が広がるところだった。


「やあねえ。せっかくの休暇が台無しじゃない。それにしても最近雨が多いわね。世界中で――」


 雨粒が海面に波紋を広げていた。波間に靄のように揺らぐものがあったが、彼女の目にミドリムシの存在は映らなかった。


(完)

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