救ったのは、僕1人だけだった。

狂酔 文架

第1話

 耳に響く打撃音と、悲鳴すら上げることができない少年の声。いじめというやつは、助けなかったという罪を、傍観者に感じさせる。

 ならば俺は加害者なのだろう、どれだけの善行を重ねようと、この罪からは、逃れられないのだろう。




「大丈夫?」


  学校の帰り道の中、大丈夫じゃないことなんて嫌なほど知ってるのに、俺は裕にそう声をかけた。

 

「ありがと、僕はもう大丈夫だから、気にしないで」


 夕日に照らされながら俺の方に振り向いてそう吐く。

 ほっぺたとおでこを赤くして、唇を少し切って、まだ鼻の下は赤いのに、そういって無理に、裕は笑う。


 柏木 裕、今クラスでいじめられている張本人だ。


「大丈夫って言って、まだ痛むんじゃない?」


 俺がそう言うと、スッと風が路地を通り抜ける。

 裕の顔の傷たちは、風に当てられて痛み出したのか、裕は顔を手で覆った。


 拭き止んだ風に誘われたかのように手おどけた裕は、俺に対して苦笑いをする。


「手、貸せよ。」


 俺が右腕を差し出してそう言うと、裕はおもむろに手を隠す。


「大丈夫だって、僕は……痛くないから」


 そう言いながらも、裕の傷口にはまだ少し赤い血が滲んでいる。

 

「見てるだけなのも、辛いんだよ」


 俺が笑いながらそう言うと、裕は恐る恐る手を握る。


 これは、俺がやるべきことなのだ。救える手がここにあるのだから、俺がこれは、引き受けるべきなのだ。


 裕が握ってくれた手を、俺は強く握り返した。

 そして引き受けた、裕がこれから感じるべき”痛み”を。


 傷口が痛いや、殴られた場所が痛いなんかじゃない、心に、魂に響く痛み。それを僕は、自分の体に移した。

 握り合った手を渡って、僕の内側へと流れる痛みは、鋭いような感覚でありながら、わたるすべてに鈍痛を響かせる。


 響く痛みに耐えかねた身体は、なんとか我慢しようにも、その悲鳴をさらけ出させる。

 額に染み出した汗と、ざわめきたつ鳥肌に、裕が気づかないはずがなかった。


「ほら、やっぱり僕に返して!? 僕は大丈夫だからさ!!」


 痛みがなくなっても傷がなくなるわけじゃない、まだ赤く腫れた傷を夕日に照らされながら裕が痛みに耐えかねる俺に声をかけてくれる。


「だ、大丈夫だからさ、俺は。お前ももう帰れよ、疲れてるだろ?」


 息を荒くしながら、俺はそう言って、走ってその場から逃げた。


 これでいいんだ。あいつを救えるなら……少しでも楽になれるなら、俺が痛みを引き受けて、あいつの心のよりどころに少しでもなってやれるなら……


 家のドアを勢いよく開け、俺は玄関に倒れ込んだ。今日はいつもより痛みが増している。

 流れる痛みが身体中を、心をボロボロにしていく。

 あいつはこんな痛みを、毎日毎日受けているのだろうか……しかもこれを与えたのが同じ同級生だなんて、考えたくない話だ。


 同じ学校、同じ年齢、同じ人、僕と同じ人間と呼ばれる存在がここまでの痛みを寄ってたかって一人の人間に与える……


「いじめ……か」


 口から言葉を漏らしながら、心の中で少しだけ自分が標的にならなくてよかったと思ってしまうのが悔しかった。


 裕は、別に幼稚園の頃少し仲が良くて、小中学生の頃は、廊下ですれ違えば挨拶をするくらいだった。たまたま高校が同じになっただけで、その関係が変わることはない……そう思っていた。


 でも、いざ幼稚園の頃の知り合いがいじめられている現場を見てしまうと、それを見過ごしてしまう自分が怖かった。

 もしかしたら、『俺じゃなくてよかった』と思う考えを、少しでも助けて覆い隠したいだけなのかもしれない、だからなのか、俺は気が付けば彼の手を握っていた。


 痛みを俺に流れ込ませる。この力は、その時俺が欲した力だ。まるでいじめっ子にバレずに裕を助けるためのみじめな力。それでも、俺は助けられることがうれしかった。


 でも、そろそろこれにも限界が来る。

 俺がいくら痛みを引き受けようが、別に裕に対するいじめはなくならない。いくら俺に痛みを流れ込ませても、次の日学校で耳にするのはいじめっ子の声と、声にもならない裕の鳴き声だ。


 まるで割れた花瓶が出す悲鳴に、俺は『なんで助けてくれないの』と言われてるような気がしている。


 もし本当に裕が割れた花瓶なら、俺にはそれを直すことができない。

 できるのは、これ以上割れないようにするだけだ。でもそれも、俺ができるのは花瓶の痛みをなくすだけで、中の花まで直せやしない。


 俺に裕の心は……救えない。

 

 裕から流れてくる痛みが増すたびに、俺はそれを実感していた。


 それから数日間、裕から流れてくる痛みは、俺が耐え切れないほどに増していた。

 心に痛みが増す……その事実が頭に浮かぶと、考えたくなくてももう一つの考えが頭に出てくる。


 『自殺』、一番恐れていた事態が、頭に浮かぶ。

 頭の奥深くで、俺に呼びかけるように顔を出しながら、その言葉がぷかぷかと浮かぶ。


 俺が救ったのは……俺だけだ。

 裕の痛みを流し込んで、自分は目を逸らしていないと言い続ける。そんな行動が裕の助けになっていないなんて、流れてくる異端が増すたびに気づいていた。


 俺が今救っているのは、どこまで行っても俺一人なんだ。だから、裕も助けなきゃ……。




 また、教室中に音が響く、割れた花瓶の悲鳴と、いじめっ子たちの笑い声。

 いやでも流れてくるそのイタミは、着実に俺の体に染み渡る。


 裕から流れてくる痛みとは違う、まるで海のような雰囲気を感じさせる痛み、割れた花瓶の悲鳴が染み渡る教室に、俺は溺れかけていた。


 きっと裕はもう溺れてる、きっと俺じゃもう手の届かないところにいる……それでも、俺だけが助かるなんて、俺はごめんだ。


 水から顔をパッと上げた。聞こえる笑い声も、裕の鳴き声も、全部気にせずに、っただ裕の手を握って走った。


 いじめっ子たちの隙を見て、ひたすらに、裕を連れて走った。


 声は出せなかった。これが裕の救いになるのかなんて知らない、なんなら、明日からは俺も花瓶の仲間入りかもしれない。それでも、こして逃げて、少しでも裕が楽になるのなら俺はこの花を、手放したくなかった。




「なぁ、久しぶりに遊びに行こうぜ?」


 屋上の隅で、俺はそう呟いた。


「使うときが無くてさ、バイトの金……貯まってるんだ。

 これ使ってさ、ちょっと早い夏休みにどっか遠いところに行って、海入って泳ごうぜ」


 息を切らしながら、空を眺めて俺がそう言うと、裕は笑った。


 久々に目に入れた裕の笑顔は、太陽と重なって光り輝いていた。

 目にしたたる雨も、僕に流れ込んでくることはなく、逆に僕を吸い込むようにすら思えた。


 その顔を見ていると、やっと救えたのだと、僕は実感できた。

 割れた花瓶の中の花を、やっともう一度咲かせることができたのだと僕は分かった。


 風がスッと僕たちの間を通り抜けていく。まるで僕たちに手招きをしているように、心地の良い風が駆けていく。


「どこまで行くの?」


 

「遠くだよ。裕」



 


 



 


 



 




 




 

 

 


 


 


 


 

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救ったのは、僕1人だけだった。 狂酔 文架 @amenotori

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