Day.28『ヘッドフォン』

 ぎらつく夏の太陽が、傾いて空がだいだいと紺に彩られ始めた頃。

 最後まで残っていた子どもたちが図書館を出たのを見送ってから、愛衣は絵本や児童文学のコーナーに戻った。置きっ放しになった本をしまい、バラバラになったシリーズ本の順番を直す。


 ふと見ると、誰かの忘れ物だろうか、ソファーに白色のヘッドフォンが置きっ放しになっていた。耳をおおう部分に鮮やかなひまわりのシールが貼られている。

 ワイヤレスイヤホンが普及して数年経つけれど、それにつれてけっこう忘れていく人が多い。イヤホンだったら片方だけ転がっていたり、今日みたいにヘッドフォンが忘れられていったり。

 自分もワイヤレスのイヤホンを使うから気をつけなきゃな。


「来夢くん、終わりましたよ。これ、落とし物のヘッドフォンなんですけど……来夢くん?」


 貸し出しカウンターの中にいた来夢を見かけて声をかけた。けれど、聞こえていなかったみたいで返事をしなかった。

 もう一度声をかけたところで、はっと目が覚めたように瞬きをして愛衣の方を見たのだった。


「え、あぁ……いえ、もう全部戻したので、大丈夫ですよ」


 歯切れの悪い返事だ。なにかあったのだろうか。けれど彼は、愛衣にねぎらいの言葉をかけると部屋へと促した。


 

「今日の紅茶はソレイユ。フランス語で太陽、または向日葵ひまわりを意味します」

「ありがとうございます!」


 お礼を言ってカップを受け取る。チョコレートブラウンに金の縁取ふちどりのあるティーカップには、オレンジ色の紅茶が注がれていて、薔薇ばらとは違うけれど、ふんわりとフローラルな香りを漂わせていた。


 紅茶をひとくち飲みながら、こっそりと横顔を盗み見る。どことなく暗いというか、考え込んでいて心ここにあらずというように見えたのだ。


「あの、来夢くん。体調悪いんですか?」

「……」

「来夢くん?」

「……え?」

「どうしたの?」

「あぁ、すみません。なんでもないんです」

「なんでもなくないでしょう」


 少し考えてから勉強机の引き出しから、一枚のクリアファイルを出して渡してきた。A4の用紙が入っていて、これまで飲んだ紅茶の名前が順番に書き出してある。


「これって……」

「今まで飲んだ三十一個の紅茶なんですが、頭文字をひとつずつ抜き出して読んでみてください」


 来夢の言うとおりに、紅茶の頭文字かしらもじを指で追ってみる。少し読んだところで、来夢が言わんとしていることがわかった。


「『よもすがら ちきりしことを わすれすは こいひぬ なみだのいろそ』……これ、和歌ですか?」


「えぇ。おそらくは、これに『ゆかしき』と続くので、当てはまる紅茶があと四つあるでしょう」


 来夢の言うとおり、ブック型の箱には残り四つのパッケージが入っている。それをつなぎ合わせると、こんな言葉ができあがる。


『夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひぬ 涙の色ぞゆかしき』


 この句は字余じあまりで一文字多いけれど、和歌は基本的に三十一文字。

 ひと月は三十日か三十一日。七月は三十一日。

 それらを重ね合わせたのか。


 和歌は学校で習ったことがあるけれど、これは覚えがなかった。だからいつの時代の、誰がんだものか、込められた意味も、すぐにはわからない。


 頭文字に文章を当てるこの技法は、折句おりくだと来夢は教えてくれた。

愛衣が苦悶くもんしていた『言葉辞典』作成の宿題を手伝ったときに、偶然ぐうぜん気づいたのだという。


「これって、意図いとしてやったことですか?」

「そうとしか考えられません。偶然にしては出来過ぎています」

「じゃあ……来夢くんの叔父様は、この和歌を作るためにこれだけの紅茶を用意したってことですか?」


 和歌を伝えるのなら、口頭こうとうなり手紙なりとやり方はあるはず。こんな方法だと、手間も時間もお金もかかるんじゃないか。

 そうまでして、なんのために?


「来夢くん、この和歌って、誰かが詠んだものですか?」


 まず、意味が分からなければ始まらない。

 来夢は「えぇ」と頷く。紅茶で喉を潤すと淡々と話し始めた。


「この和歌が詠まれたのは平安時代。一条いちじょう天皇の后、藤原定子ふじわらていし辞世じせいの句と言われています。『辞世』とは、この世に別れを告げることを意味します。遠からぬ死を見据みすえ、この世に書き残した最後の句が、『辞世の句』と呼ばれています」

遺言ゆいごんみたいなものですか?」

「そんな堅苦しいものではありませんよ。死を意識せずとも、生涯最後になってしまった句も、そう呼ばれることが多いです」


「これって、どんな意味の和歌なんですか?」


 そうですね、と一呼吸置いてから、来夢は思い出すように目を閉じて、静かに現代語訳を唱えた。


「『夜通し私と過ごしたことを忘れないでいてくださるなら、私の死んだ後、貴方は泣いてくれるのでしょう。その涙の色が見たいものです』」


 そこで言葉をいったん区切って、眼鏡を指でそっと押し上げる。


「一条天皇と定子は、この時代に珍しく、とても仲睦まじい夫婦だったと言われているんです。一条天皇への深い愛情と、自分の死後もその愛が続くように、と願いが込められた和歌と解釈されてています」


 生涯最後に詠まれる和歌。そんな歌を、自分に渡される意味が分からない。

 それだけじゃない。

 来夢の叔父様は、それを来夢ではなく愛衣に渡してきた。愛衣も念を押して「来夢くんに渡すのではなくて?」と確認している。彼ははっきり「愛衣さんに」と言っていたのも覚えている。


 この和歌にでなければ伝わらないこと。

 愛衣にしか渡せないもの。


 どれだけ頭をひねっても謎は深まるばかりだ。

 考えてもわからないのなら、と、花の香りと一緒に飲み干した。



 本日の紅茶【ソレイユ】

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