Day.28『ヘッドフォン』
ぎらつく夏の太陽が、傾いて空が
最後まで残っていた子どもたちが図書館を出たのを見送ってから、愛衣は絵本や児童文学のコーナーに戻った。置きっ放しになった本をしまい、バラバラになったシリーズ本の順番を直す。
ふと見ると、誰かの忘れ物だろうか、ソファーに白色のヘッドフォンが置きっ放しになっていた。耳を
ワイヤレスイヤホンが普及して数年経つけれど、それにつれてけっこう忘れていく人が多い。イヤホンだったら片方だけ転がっていたり、今日みたいにヘッドフォンが忘れられていったり。
自分もワイヤレスのイヤホンを使うから気をつけなきゃな。
「来夢くん、終わりましたよ。これ、落とし物のヘッドフォンなんですけど……来夢くん?」
貸し出しカウンターの中にいた来夢を見かけて声をかけた。けれど、聞こえていなかったみたいで返事をしなかった。
もう一度声をかけたところで、はっと目が覚めたように瞬きをして愛衣の方を見たのだった。
「え、あぁ……いえ、もう全部戻したので、大丈夫ですよ」
歯切れの悪い返事だ。なにかあったのだろうか。けれど彼は、愛衣に
◆
「今日の紅茶はソレイユ。フランス語で太陽、または
「ありがとうございます!」
お礼を言ってカップを受け取る。チョコレートブラウンに金の
紅茶をひとくち飲みながら、こっそりと横顔を盗み見る。どことなく暗いというか、考え込んでいて心ここにあらずというように見えたのだ。
「あの、来夢くん。体調悪いんですか?」
「……」
「来夢くん?」
「……え?」
「どうしたの?」
「あぁ、すみません。なんでもないんです」
「なんでもなくないでしょう」
少し考えてから勉強机の引き出しから、一枚のクリアファイルを出して渡してきた。A4の用紙が入っていて、これまで飲んだ紅茶の名前が順番に書き出してある。
「これって……」
「今まで飲んだ三十一個の紅茶なんですが、頭文字をひとつずつ抜き出して読んでみてください」
来夢の言うとおりに、紅茶の
「『よもすがら ちきりしことを わすれすは こいひぬ なみだのいろそ』……これ、和歌ですか?」
「えぇ。おそらくは、これに『ゆかしき』と続くので、当てはまる紅茶があと四つあるでしょう」
来夢の言うとおり、ブック型の箱には残り四つのパッケージが入っている。それをつなぎ合わせると、こんな言葉ができあがる。
『夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひぬ 涙の色ぞゆかしき』
この句は
ひと月は三十日か三十一日。七月は三十一日。
それらを重ね合わせたのか。
和歌は学校で習ったことがあるけれど、これは覚えがなかった。だからいつの時代の、誰が
頭文字に文章を当てるこの技法は、
愛衣が
「これって、
「そうとしか考えられません。偶然にしては出来過ぎています」
「じゃあ……来夢くんの叔父様は、この和歌を作るためにこれだけの紅茶を用意したってことですか?」
和歌を伝えるのなら、
そうまでして、なんのために?
「来夢くん、この和歌って、誰かが詠んだものですか?」
まず、意味が分からなければ始まらない。
来夢は「えぇ」と頷く。紅茶で喉を潤すと淡々と話し始めた。
「この和歌が詠まれたのは平安時代。
「
「そんな堅苦しいものではありませんよ。死を意識せずとも、生涯最後になってしまった句も、そう呼ばれることが多いです」
「これって、どんな意味の和歌なんですか?」
そうですね、と一呼吸置いてから、来夢は思い出すように目を閉じて、静かに現代語訳を唱えた。
「『夜通し私と過ごしたことを忘れないでいてくださるなら、私の死んだ後、貴方は泣いてくれるのでしょう。その涙の色が見たいものです』」
そこで言葉をいったん区切って、眼鏡を指でそっと押し上げる。
「一条天皇と定子は、この時代に珍しく、とても仲睦まじい夫婦だったと言われているんです。一条天皇への深い愛情と、自分の死後もその愛が続くように、と願いが込められた和歌と解釈されてています」
生涯最後に詠まれる和歌。そんな歌を、自分に渡される意味が分からない。
それだけじゃない。
来夢の叔父様は、それを来夢ではなく愛衣に渡してきた。愛衣も念を押して「来夢くんに渡すのではなくて?」と確認している。彼ははっきり「愛衣さんに」と言っていたのも覚えている。
この和歌にでなければ伝わらないこと。
愛衣にしか渡せないもの。
どれだけ頭を
考えてもわからないのなら、と、花の香りと一緒に飲み干した。
本日の紅茶【ソレイユ】
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