Day.22『雨女』

 兄妹が多いから、一之瀬家の玄関先が騒がしいのはいつものこと。

 けれどこの日は別の騒々しさがあった。


「坊ちゃま、くれぐれも愛衣さんにご迷惑をおかけしないようにお願いしますね」

「わかってます」

「自分の家ではないということをお忘れにならないでくださいね」

「それもさっき聞きました」

ごうに入っては郷に従え、ですよ」

「もうわかってますって! 早く帰ってくださいっ」


 そんな一悶着ひともんちゃくを一之瀬家の玄関先繰り広げるのは、来夢と蛍さんだ。この日はあいにくの曇り空で、少し雨も降っていたため、蛍さんの車で運んでもらっていた。


 蛍さんは大きく息をついた後、愛衣に向かって深々と頭を下げた。


「愛衣さん、坊ちゃまのこと、どうぞよろしくお願いします」

「はい、任せてください」


 泊まりに来るとはいえ、来夢も一之瀬家に来るのは初めてのことじゃない。なんとかなるだろう。

 もう一度、軽く会釈するように頭を下げて、蛍さんは車に乗って帰って行った。


「もう……雨が降ってなかったら一人で来れたのに……雨女」

「蛍さんが雨女だったら、お洗濯物ぜんぜん片付かないでしょう」


 ◇


「そういえば、玄関の柵なんて、ありましたか?」

「あぁ、脱走防止柵です。猫が増えたので、一応取り付けたんですよ」

「増えた?」


 リビングのドアを開けると同時に、さっそくリンゴがごろんと転がっていた。来夢を見るなり、ちょっと顔をあげて身構えたが、すぐにまたごろりと体勢を変えて寝転がった。


「ほんとだ、増えてますね」

「二ヶ月くらい前に、雪彦さんが拾ってきたんです。リンゴって名前なんですけど、みんなリンちゃんって呼んでます」


 おなかの辺りを撫でると、嬉しそうにくねくねし始める。来夢にもうながして撫でてもらうと、可愛くにゃんと鳴いた。


 野良猫は人慣れに時間がかかるが、子猫だったからか、知らない人でもリンゴはすぐに懐いてくれる。これなら、来夢とも仲良くなれそうだ。ひとまず、ほっと胸をなで下ろした。


「そうだ。来夢くん。今日の紅茶は、予告しておいたとおり私が淹れますね」


 昨日、図書館から帰るとき、愛衣は明日の分のレモンの紅茶『ナツコイ』を預かっていた。


「実は今日飲む予定だった紅茶、アレンジしてみたんです」


 昨日の夜に水出ししたレモンティーと一緒に、マフィンが乗った皿を置くと、来夢は目を輝かせた。

 焼きたてのマフィンはあたたかなオレンジ色の中に、黒いつぶつぶが見え、白いアイシングがかかっている。小麦粉の焼けた匂いに混じって、ほのかにレモンの香りがする。


「いい匂いですね」

「焼きたてが一番いい匂いなんですよ」


 四つあるうちの一つを手に取って、来夢が頬張る。


「ん、これっ、茶葉が入ってるんですか? とっても美味しいです」

「よかったぁ」


 ひとまずほっとした。

 来夢の言うとおり、このマフィンには細かく砕いた『ナツコイ』の茶葉を生地に練り込んである。愛衣の自信作だ。


「あたたかくて、ほんのり甘いのに香りは甘酸っぱいですね。茶葉がカリカリしていて……なんだか不思議な食感です。またこれ作ってほしいです」

「また茶葉が手には入ったら、ですね。その時は来夢くんも手伝ってくださいよ」

「その時はお手柔らかにお願いします」


 そんな日が来るといいな、なんて思っていたら。


 カチャンッ


「え?」

「あーっ! こらリンゴ!」


 テーブルに飛び乗ったリンゴが、マフィンの皿を前足で叩いたのだ。


「こら、ダーメッ! これは来夢くんの! ちゃんと用意してあるから、すぐ出してあげるから」


 リンゴをテーブルから下ろして遠くにやって、冷ましておいた猫用のマフィンを用意し始める。

 桃子はさっきまで愛衣がいた場所にどかっと座り、吹雪も匂いにつられてのっそりとリビングに降りてきた。


 玄関でもリビングでも、一之瀬家はいつも騒がしい。

 図書館で過ごすみたいに、ゆったりまったりはできないみたいだ。

 


 本日の紅茶【ナツコイ】

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