Day.『摩天楼』

「あ〜、美味しい〜!」


 グラスに差したストローをかき回すと、氷がカラカラと涼し気な音を立てた。

翡翠ひすいレモン』という名のレモンティーは、緑地とジャスミンがブレンドされているそうで、爽やかですっきりした口当たり。後からジャスミンの上品な香りが広がっていく。今日みたいに蒸し暑い日に飲みたい一品だった。


「今日も暑そうですもんね」

「暑そうじゃなくて、暑いんだよ」

「あはは、これは失礼しました」


 お昼休みに来夢の自室で、こうしてティータイムを過ごすのもこの夏の恒例になっていた。来夢の叔父様がくれた紅茶は、温かくて甘い紅茶の日もあれば、今日みたいにきりっと冷たいアイスティーの日もある。この素敵な時間がずっと続けばいいのに、と毎日思ってしまうくらいだ。


「愛衣ちゃんは、この夏どこか出かけるんですか?」

「いいえまったく」


 考えてはみたものの、これといった予定はない。あるとしたら星空図書館に来ることくらいだろうか。クラスや部活の仲間たちは国内外に旅行に行っているらしく、昨日の夜から沖縄の海や伊勢いせ神宮じんぐう、ニューヨークの摩天楼まてんろうやフランスの凱旋門がいせんもんと、友人たちから写真が次々と送られてきた。


「私はここに来られれば、それで充分です」

「それは僥倖ぎょうこうです」


 その時、何日か前に兄に言われたことを思い出した。


「あの、一応聞いておきますが、来夢くんはこの夏のご予定って」


 すると彼はふふっと小さく笑いながら、同じようにグラスの中で、ストローをカラカラと回した。


「図書館の運営と八月の夏祭り参加、それだけですよ。どこに行っても混んでるでしょうし」


 それに、といったん言葉を切った。


「僕も愛衣ちゃんと一緒に居られるのなら、それで構いません」

 滅多に外に出ることがない上、学校との取り決めである『長期休暇、イベント時期の図書館運営』があるため、夏休みもなにもないのかもしれない。


「それじゃあ……明後日なんですけれど、二日ほどうちに泊まりに来ますか?」


「…………え?」


「あ、ええっと、来夢くんが嫌でなければ、なんですけど!」


 つまんで説明すると、来夢はグラスをコースターに戻して考え込むように顎を指で摘んだ。


「うーん……お泊まりですか」

「はい。あ、でも猫たちいますし、図書館のこともあるなら無理しなくても」

「え、あぁ、いえ。何度かお邪魔してますし、猫ちゃんたちのことは問題ありませんよ。図書館のことなら留宇に頼めばなんとかなりますからね」


 ですが……と来夢は低い声で言葉を詰まらせる。


「本当に大樹さんや雪彦さんが許可してくれたんですか……?」

「むしろ兄からの発案なんです」

「そうですか……なんというか……危機感がない……」

「や、やっぱりそう思いますよね」


 ◇


わたくしは特に問題ないと思いますよ」


 少し強いハーブの香りが漂うキッチンで作業していた蛍さんに相談すると、まるで世間話の一端のようにさらりと流された。あっさりとした蛍さんの反応に、そろって「えぇ」と肩から力が抜けてしまった。


「そもそも、このお屋敷やしきに関しても同じようなものではありませんか」


 蛍さんはローズマリーをはじめイタリアンパセリやローリエなどのハーブを束ねていた手を止める。


「よくお考えになってくださいませ。来館者がいるとはいえ、それはお昼間のことで、図書館の閉館後は、実質お二人きりなのは変わりありませんでしょう。その時間帯はわたくしもお食事を呼ぶ以外、ほとんどお部屋を訪れることはございませんし」


 蛍さんの言ったことに、確かに、と納得してしまった。図書館という施設があるから忘れがちだが、ここは来夢の『家』なのだ。


「ところで坊っちゃま」


 蛍さんは視線を来夢に戻した。


「お泊まりは三日ほどのご予定でしたね」

「えぇ、一応……二泊三日を考えてますが」


「図書館を空けるということでしたら、お得意先の業者様方にご連絡なさいませんと」


「そんなことする必要あります?」


「なにかのついでに立ち寄ることもありましょう。いくらご友人が引き受けてくれるとはいえ、坊っちゃまの承認が必要な場合もあるかもしれません。お仕事上の関係だからこそです」

「えぇ……わ、ちょ、蛍さんっ!」


 しぶる来夢の肩を押しながら「さぁ、行った行った」とキッチンから追い出してしまった。


「わかった、わかったやってきますから! 愛衣ちゃん、少しお待ちくださいね」

「え、あ、はいっ、行ってらっしゃい」


 名残惜しそうに来夢が出ていくとキッチンはまた静かになった。ローズマリーの華やかな香りがいっそう強く漂う。


「蛍さん、お泊まりの件、本当にいいんですか?」


 恐る恐る聞いてみたが、蛍さんは「一般家庭を知る良い機会です」とくすくすと小さく笑った。まるで小さい子どもの成長を楽しみにする母親みたいだった。



「ところで愛衣さん。本日のお夕食は、召し上がっていかれますか?」

「……ちなみに今日のメニューは……」

「鶏肉とローズマリーソテーと夏野菜のマリネ、コンソメスープと、デザートにイチジクのコンポートでございます」

「〜〜〜っ、いただきますっ」

「ふふっ、かしこまりました」



 本日の紅茶【翡翠レモン】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る