Day.18『蚊取り線香』

 星空図書館の学習スペース。


 午後六時を過ぎたこの時間帯は、他の来館者はおらず愛衣しか使わない。

 中学三年生の夏休みの宿題は、受験に向けての復習だったり応用プリントだったり高校入試の過去問だったりが多くなる。

 はずなのだが、愛衣はとある国語の宿題に頭を悩ませていた。


「ん〜……」


 A4サイズの用紙に乱雑らんざつに単語を書き散らし、机の両端には国語辞典が積まれて高い壁を作っている。他にも付箋ふせんやマーカーが散らばっているが、頭が混乱していて片付ける気にもならない。


「あ〜ムズい〜! 絶対に先生の趣味でしょうこの宿題ッ!」


 思わず口に出してしまうくらいに難しい……いや、面倒くさい宿題だった。

 国語担当は、愛衣が所属する文芸部の顧問でもある神無月かんなづき祈夜きよという女の先生なのだが、この先生がちょっとばかりクセのある人で。



『【夏】の単語を用いて、あいうえお作文のように、言葉辞典を作れ。自分なりの意味も書くこと』



 要するに、夏を連想させる単語を考え、自分なりの意味を持たせなきゃいけない。それを日本語四十六文字全部となると、文芸部で多少なりとも語彙力がある愛衣でもお手上げだ。

 そもそも中学三年生の受験生に出す宿題じゃない。


「難しい宿題やってるんですね」

「そうなんですよ〜……って、わっ! 来夢くんいつの間に?!」


 アイスティーが乗った銀トレイを持って、来夢覗き込んでいた。 昨日もそうだったけれど、本当にいつの間にか後ろまで来ているんだから毎回驚いてしまう。


「おつかれさまです。アイスティーで一息つきませんか?」


 ◆


「美味しい〜 あま〜い〜」


 ほろ苦いオレンジがしっかりと香っていて、とっても甘い。図書館に来てから一時間くらいフル稼働で使っていた脳の細胞ひとつひとつに糖分がじわじわと染み渡っていく。

 持ってきてくれたアイスティーは、上から下にかけてオレンジから淡いブラウンのグラデーションができていて、ゆっくりと沈んでいく夏の夕暮れのような色をしていた。シンプルなグラスにはくし切りにしたオレンジが飾られ、とてもオシャレだった。

 アイスティーは『琥珀こはくオレンジ』という名で、前に飲んだ『黄玉おうぎょくアプフェル』と同じ、宝石フルーツと同じお店のブレンドティーだと教えてくれた。


「その宿題、終わりそうですか?」

「いや、多分今日は終わらないですね」


 どんな宿題なんですか? とたずねながら、別の勉強机から椅子を持ってきて愛衣の隣に座った。


「自分専用の言葉辞典です。例えば『た』だと『七夕』とか『滝涼たきすずし』、『ふ』なら『風鈴』、『か』は『蚊取り線香』、みたいな感じですかね」


 簡単に説明すると、来夢はなるほどと呟いて宿題のプリントに目を通す。それから不思議そうに首を傾げた。


「愛衣ちゃん、こういうの得意かと思ってました」

「いや、個人的に作るのは好きなんですけどね……その、なんというか……」


 歯切れ悪く言葉を切る。


「学校に提出するものとなると、あまり他の人とかぶらない単語を使いたくて、難しい単語とか季語とかいろいろ調べてたの………文芸部の意地というか、教科担任が部活の顧問だし」


 言い訳をこぼしてシャーペンをくるくる回す。意地とかプライドとか、普段なら恥ずかしくて言えたものじゃないけれど。


 眼鏡の奥で月夜の湖色をした目がきょとんと見開かれた。すぐにくすくすと小さく笑いを零す。


「愛衣ちゃん、意地っ張りなとこありますもんね」

「そ、そうですか?」


 えぇ、と来夢は微笑んで頷いた。


「その宿題、僕でよければ手伝います」

「え、でも……いいんですか? 時間かかりますよ?」

「構いません。愛衣ちゃんのお役に立ちたいんです」


 来夢の言葉にこもった熱が、そのまま耳から流れ込んでくるようだ。アイスティーで少し冷えた体を、温かくしてくれる。

 来夢が手伝ってくれるのなら、とても心強い。愛衣よりもたくさん本を読んで、言葉を知っている来夢なら、もしかしたらこの図書館に所蔵されているどの辞典よりも頼りになるだろう。


「それじゃあ……お願いします」

「任せてください」


 そう言って微笑んだ来夢の横顔を、窓から入ってきたオレンジ色の夕陽が照らし、金色に縁取ふちどった。



 今日の紅茶【琥珀オレンジ】

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