Day.9『ぱちぱち』

 いつもなら紅茶の用意がされているローテーブルに、本が一冊置かれてあった。


 不思議な緑色をした天鵞絨びろうど張りで、見る角度によって色が変わって見える。エキゾチックな模様もようが、細かなビーズやレースが金や銀の刺繍糸で施されていて、見とれてしまうくらい美しい装丁そうていをしていた。


「綺麗……」


「それ、『千夜一夜物語アラビアンナイト』なんですよ」


 後ろで声がした。ちょうど来夢が、ティーセットを持って戻ってきたところだった。


「そうなんですか! とっても綺麗な装丁ですね」

「ありがとうございます。今日のお茶を飲んだら、きっと読みたくなると思って用意しておいたんですよ」


 そう言いながら、来夢は丁寧にティーセットを並べていく。今日は綺麗なターコイズブルーのティーカップに、銀の絵の具で細やかなアラベスク模様が絵付されている。ぱっと見ただけで異国情緒いこくじょうちょあふれ、見た目も涼し気な雰囲気のカップだ。


「『アラビアンナイト』を読みたくなるような紅茶、ですか?」

「ミントグリーンティーと書いてありました。名前は『シェラザード』」

「あ、だから『アラビアンナイト』!」


 そうです、と来夢も目を細めて微笑み返した。


 シェラザードは、『アラビアンナイト』の語り手である女性の名前だ。若い娘と結婚しては翌朝には処刑していたペルシャの王・シャフリヤールに嫁ぎ、毎晩不思議な物語を聞かせては「続きはまた明日」と言って王の興味をき、千夜にわたって物語を聞かせ続けた。


 もし自分がシェラザードの立場だったらと思うとぞっとする。要するに話が面白くなかったら殺されてしまう。そのプレッシャーは計り知れない。それを千夜と一夜、つまり二年半近くも続けるなんて、話を作る創作者である愛衣には、到底できない。というか、無理だ。

 話を読んでくれるのが来夢でよかった、と愛衣はほっと胸をなで下ろした。


 綺麗な薄黄色のお茶を注いで、どうぞ、と来夢が差し出したカップを受け取ると、ミントと柑橘系のすっとした香りがした。カップはひんやりと冷たかった。普段、来夢はカップを使うときは温めているはずだ。


「今回はレモンピールとペパーミントがブレンドされた緑茶だったので、冷たくしてみたんです。カップは、その、シェラザードの雰囲気で選びました」


 ミントとレモンピールがブレンドされた緑茶は、すっきりとした爽やかな味わいで、身体の中に溜まった暑さが一気に押し流されていくようだった。


「冷たい緑茶もいいものですね。紅茶とは違って、少し苦味があるけどなんだかほっとします」


「来夢くんは、緑茶あんまり飲まないんですか」

「そうですね。出されるのがいつも紅茶だったので、緑茶を飲む機会はなかったです。蛍さんも紅茶好きですし」


 確かに、外国のお城みたいな洋館に緑茶は似合わないな。緑茶は日本家屋の縁側が一番似合う。


「愛衣ちゃんは、『千夜一夜物語』の中で、好きなお話はどれですか?」

「どれ、と言っても、有名どころしか知らないので……やっぱり『アラジンと魔法のランプ』ですかね。来夢くんはどのお話が好きなんですか?」


 んー、と来夢は思い出すように目を閉じた。


「そうですねぇ。好き、というよりは、ぜひ愛衣ちゃんに読んでいただきたいお話があって」


 音もなくカップを置いた来夢は『アラビアンナイト』を手に取った。ぱらぱらとページをめくっていくのを隣で覗き込む。色とりどりの挿絵が挟まれたページを通り越して、あるページで来夢は手を止めた。


「『千夜一夜物語』の中でラストを飾る物語で『ジャスミン王子とアーモンド姫』というお話で」

「ジャスミンって、お姫様の名前じゃなかったですか?」

「それは映画の『アラジン』ですね」

「どんなお話なんですか?……あ、ちょっと待ってくださいっ」


 話し始めようとする来夢の口を手で塞いだ。


「やっぱり、自分で読みたいので……」


 すると来夢はなにか思いついたように、そっと愛衣の手を取って顔から離した。


「じゃあ、愛衣ちゃん読み聞かせてください」

「へっ?!」

「僕にとってのシェラザードは貴女ですから」


 ね? と微笑まれ、愛衣の心臓がぎゅっと掴まれる音が聞こえた気がした。顔立ちの良い来夢に至近距離で微笑まれたら、心臓がいくらあっても足りない。


「わ、分かりました……今回だけですからね?」


 やった、と来夢は子どものように小さくぱちぱちと手を叩いた。



 本日の紅茶【シェラザード】

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