Day.8 『雷雨』

 図書館の外で、ザッと大きな音がした。


 窓の外に駆け寄って見ると、さっきまで晴れていた空は真っ黒な雲で覆われ、大粒の雨がばちばちと音を立てて、屋根や地面で跳ねていた。


「着いた途端に降り出すなんて……」


 隣で外を覗いた来夢が、部屋の温度を少し下げた。


「本当に……運がよかっ……」


 そのとき、一瞬外がパッと明るくなった。次にビシャンッと轟音が鳴り響く。


「きゃぁぁっ!?」


 反射的に悲鳴を上げた。


「愛衣ちゃんっ、雷、苦手なんですか?」

「いえ、その……っ、えっと……」


 答えたいけれど、地鳴りのようにゴロゴロと鳴る雷にまた身体が震え、思ったように声が出ない。

 雷は嫌い、じゃないけど苦手ではある。殊更こんな近くで、あんな大きな音がしたら、この世の終わりかとも思ってしまうくらいには。


「大丈夫ですよ。遠くでゴロゴロ鳴ってるだけだから……ね?」

「は、はい……」


 深呼吸をして動揺した心臓を落ち着かせる。けれどまた、愛衣は自分が何をしでかしたのか自覚して、またさらに心臓を縮こませた。


「わっ、あ、ご、ごめんなさいっ!!」


 咄嗟とっさのこととはいえ、来夢に抱きつくような形でしがみついていた。


「すみませんっ、あの、つい……うわぁぁ、ごめんなさいごめんなさいっ! どさくさに紛れて失礼なことを……!!」


 急いで来夢から離れてソファーの隅っこに逃げる。その間、また大きく雷が鳴って、声にならない悲鳴をあげてしまう。


 ふわり、と頭にやわらかい布がかかる。

 雷の音と雨から守ってくれるようにかけられたのは、タータンチェックのブランケットだった。


「大丈夫ですよ、夕立ですからすぐに止みます。雲も雷も、すぐにどこかに行ってしまいます」


 柔らかい手触りのブランケットと来夢の優しい声に、ドキドキしていた心臓と身体が少しずつ落ち着いてくる。


 来夢は住居用のドアから出ていくと、すぐに戻ってきて、背もたれ側に立った。


「紅茶を淹れてきますね。ちょっとだけ、クリスと一緒に待っていてくれますか?」


 来夢の声に続いて、ばさばさと翼が擦れる音が聞こえた。そっとブランケットを上げて見ると、ソファーの肘掛けに真っ白なシロフクロウ……クリスが首を傾げて留まっていた。新愛を込めているのだろうか、金色の綺麗な目を細めて愛衣のことをじっと見据えている。


「クリス、愛衣ちゃんのこと頼みますね」



 来夢が部屋を出ていき、五分くらいが経った。


 まだばちばちと降り続く雨の音に耳を立てながら、愛衣はクリスの眉間の辺りを指で撫でた。気持ち良さげに目を閉じるクリスに、少しずつ余裕を取り戻してきた。生き物ってすごい。


 それにしても、情けないところを見せてしまった。来夢が戻ってきたとしても、羞恥でブランケットから顔を出せないな。


 扉が開く音と来夢の声がブランケット越しに聞こえ、びくっと肩が跳ねる。


「今日は、リンデンっていうハーブティーですよ。ホットティーにしてきました。あたたかいうちに一緒に飲みましょう」


 カチャカチャと陶器がぶつかる音がして、蜂蜜のような甘い香りがしてくる。 


「リンデン? 初めて聞きました」


 来夢は本棚の前にしゃがみ、一番下の段から分厚い本を持って戻ってきた。五センチくらいの厚さで、重厚感があり、表紙は綺麗なオリーブ色の布張りでできている。背表紙に英字の題名と、蔦模様つたもようが金箔押しで施されていた。


「すっごい綺麗な本ですね」

「植物図鑑ですよ」


 ざらりとした布の手触りをした表紙を開いて、目次をひと目見てから、ぱらぱらとページを捲った。


「えーっと…………あ、ありました」


 植物図鑑をテーブルに置いて、二人でそのページをのぞき込む。

 質のいい紙に印字された写真には、クリーム色の小さな花が下向きにたくさん咲いていた。葉は大きなハート型で鋸状のギザギザで縁取られている。


「リンデンは、日本では西洋菩提樹せいようぼだいじゅと呼ばれる植物ですが、ハーブで使われているリンデンはまた違う品種みたいですね」


 南フランスの都市・カルパントラがその産地とされていて、最盛期にはリンデンのディーラーが集まる市がたつほどと書かれている。また、ハチたちが蜂蜜を集める木としても大切にされているそうだ。


 …………だから蜂蜜のような香りがするんだ。


 蜂蜜に似たほんのりと甘い香りが、ほっと心を落ち着かせてくれる。


「いい香り……ずっと嗅いでいたいですね」


 水色は少しくすんだ黄色のように見え、派手な色でない分、優しい色合いをしている。味も、蜂蜜を溶かしたような甘みがあって、ハーブティー特有の苦味が全くない。じんわりとお腹の中で身体の中に解けていくのがよくわかる。


「……落ち着きましたか?」

「はい……」


「リンデンは、寝る前に飲むナイトティーとしても使われるくらいリラックスさせる効果がある、優秀なハーブなんですよ」

「そうなんですね……とっても美味しいです」


 リンデンのハーブティーとクリスのおかげで、ようやく平常心を取り戻すことができた。


「あの……ごめんなさい、お見苦しいところを見せてしまって……」


 すると来夢は、なぜか嬉しそうに微笑んでいた。


「謝らないでください。むしろ、嬉しかったです。だって、愛衣ちゃんの方から抱きついてくれたんですから」

「なっ……!」

「あなたの彼氏なんです。これくらいのこと、当然ですよ」 


 そう言って、ブランケットの上から腕を回して抱き寄せてくれる。

 ハーブとはまた違う、古い本のような落ち着いた香りが漂う。こういうことをさらりとやってしまう彼氏に、別の意味でまた心臓が高鳴るのだった。



 本日の紅茶【リンデンティー】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る